雨が伝える安堵感
「なんでよ、転移者だけが恩恵を持つんじゃないの?」
言って始めて自分で気が付く。
そうだ、世界中の常識を変えるような恩恵を、当の世界の住人が持っていてもおかしくない。
それを与えるのは女神なのだから、そいつのお眼鏡に叶う人物であれば何も不思議なことは起きない。
咲はリンネが答えるよりも早く、次の問を被せていた。
「いつ?」
「二日前ですよ。ビーチュさんが私が襲われた、と今朝言っていたでしょ?」
「恩恵の作用規模から、リンネを襲ったのは女神で、女神はその記憶を消したって話よね?」
王城での出来事だ。
思い出そうとすれば意識は霧散し、捉える事が難しい。
事実、現場でビーチュからその証言を受けた時はすぐに意識が削がれて気にも留めなかった。
「果たして女神が消した記憶は、『私を襲った』という事柄だけなんでしょうか?」
「...襲い掛かる動機、ね。」
「そうです、なぜ転移者の前にしか姿を現していない女神が、一エルフの私を標的としたのか。」
答えあぐねてしまった。
リンネへの攻撃理由が思い付かないからだ。
考えていると、外の天候が変わってシンシンと雨が降り注いでいる。
この辺りはは気象が移ろい易いのだろう。
意識が一瞬別の方向に移ったために、一つ思い付いたことが咲にはあった。
「リンネへの攻撃じゃ...無かった?」
ならその対象は、という話は至極簡単だ。
その場に居たのはあと一人しかいない、そして、そいつを目当てに女神が訪れた動機も明瞭だ。
「女神は咲さんに会いに来たんですよ。転移者でありながら恩恵を持っていないあなたに。」
それが一番わかりやすい。
もしそれでなければ...考えたくもない。
「そして、恩恵を渡す手段が...そうですね、仮に一見すると暴力的であったなら。」
「主人を守るために奴隷が身を呈しても、おかしくないですよね?」
つまり、本来咲の手に渡るはずだった恩恵は、偶然にもリンネの身に授かれた、という推測なのだろう。
だが
「恩恵をリンネが持ってるってのは流石に飛躍しすぎじゃない? なんで五年も音信不通だった癖に、突然王城で恩恵を私に授けるのよ。」
そもそも女神が恩恵を授けに来た、という事に疑いがあった。
「今になって咲さんに恩恵を授ける意図は不明ですが、私が恩恵を持っているっていう事は確かです。」
彼女はその問いを予測していたようで、特に動揺は確認出来なかった。
リンネは部屋を真っ白に染め上げる光球を作り上げる。
「眩しっ!!やめっ」
「はい。」
その直後には恒星は消え失せていた。
「リースさん曰く、サガミさんの光球のサイズも恐らく同じでしょう。」
「今の魔術は別段力を込めた訳では無くて、いつも通りの出力なんです。」
「炭鉱で出した時は驚きましたよ...まさかこの大きさだなんて思いませんから。」
恩恵による作用が越常の能力だとして、副次的な効果が一つある。
身体能力の爆発的な増大だ。
咲はそれを身を以て経験しているのだ。
エレナという女性から、死の間際に追い詰められた事を思い出す。
リンネはそれを恩恵保持の根拠としたのではないだろうか。
「私の能力がペルメテリアでトップレベルというのもお墨付きをもらってますからね。」
「ステータス表か。そうだ、王城で何故か渡されたわね。」
メイドの言葉によって天文学的な数値の確率が起こり得た、と思っていた。
根拠もなにもない、ただ筋道だけの妄想が頭に描かれる。
「恩恵の譲渡手段は、直接測定式だった?」
「眼球に差し込むみたいだし。何も言われずに目を狙われたら、誰でも闇討ちかなんかだと思うでしょ。」
「私のステータス表は、意味の無い偶然なんかではなく意図のあった必然だった。」
「意味の無い...ええ、特に証拠とかないけれどね。」
ホワイトノイズの掛かった映像が、脳裏に鮮烈に描かれていく。
見ていた夢を思い出す事が難しいように、そのイメージも詳細を掴む事が出来なかった。
意味の無い、という言葉がキーワードだったように思う。
「私の恩恵...いえ、咲さんの恩恵は一体どんな効果何でしょう。」
「さあね。まあ、でも、いつか思い出すわよ。」
「例え...女神だろうと転移者だろうが記憶を消しても、一度印字されたら痕跡は残るんだから。」
一頻りリンネは考えた後、結局恩恵の効果がわからないようで布団に潜り混んだ。
備え付けの紅茶を濾していた咲は暫く気が付かず、彼女が完全に眠りに入った後に揺さぶったが、エルフがベッドを明け渡す事は無かった。
まだ微かに湯気の昇るカップを口許に近づけると、頭の中にリディニアでの出来事が次々と連結して頭に浮かび上がる。
まだ一週間も経っていないのだから不思議ではない。
その中の一つ、バベルの塔から逃げるワンシーンに思考を預けた。
未だに残る若干の柔らかい身体、エレナを背負って逃げる際に彼女は言った。
恩恵は身体の一部に込められる、と。
まだ視力の残った側の眼球が潰された事で、エレナの敗北は決した。
そして、その結果 人間 に戻った事で死亡したと誤認された彼女は静かな日々を過ごしている事だろう。
気まぐれに入れた紅茶、残り一杯の冷めた残滓に喉を鳴らす。
シーツを肩まで被るエルフの寝顔に一瞥を交わす。
現在リンネの左目には自身の恩恵である”月の涙”が宿っているのだ。
直前まで妄想過ぎなかったそれは、今を以て眼中に納めた事情に変わっていた。
「私の人生を表するに最も適した恩恵か...。」
彼女の記憶修復に手を貸したのは今も降り続く雨模様だった。
無意識ではあったが女神が現れた際も雨が降っていたことを記憶している。
リンネ強襲の場面の環境を思い出す事で、既に咲は記憶を取り戻すに至っていた。
リンネに伝えなかった理由はよくわからない。
何でも持っているお姫様への嫉妬、が一番しっくりくるかもしれない。
塵芥の記憶が戻った事で、ぶっ倒れてたリンネが思い出す事もないと知って余裕も持った。
そして、大きな事をもう一つ知ることができた。
仮称『記憶漂白』の恩恵の脅威は、忘れた事すら忘れさせる事であり弱点でもあることだ。
一度不自然な漂白に目が止まれば、あとは連結する時間毎の記憶が、輪郭から浮かび上がらせて行く。
誰しもが持つ人生という歴史が今追う転移者への武器となるのだ。
簡素な木製の引き出しを開くと、一冊の手帳が置いてあった。
まだどのページも白紙で清らかな香りを散らす。
西洋風なデザインの筆ペンを持つと彼女は自身の記憶に思いを馳せる。
誰しもが寝静まった初夏の心地よい雨音が尾を引く深夜の事だった。




