恋から覚めたお姫様
咲は今扉の前で立っている。
ヤマモトのいる事務所ではなく、バベルの塔の裏手にひっそり佇む小屋の前に彼女は思案していた。
バベルの潜入から戻りその成果をビーチュをに報告した際に、公言する事は叶わなかったがエレナの恩恵について1つ思い当たる事があった。
五年で都市一つを掌握する事が可能な能力
洗脳である。
それはヤマモトが語った、フェティマ教はその多くが元マルテ教の信者だ、という事実からほぼ確信に変わった。
しかし洗脳といっても結果だけから得た知見であり、過程における推察はないに等しい。
ジギタリスの毒が心臓を止める事がわかっても、その作用機序はわからないように。
エレナの恩恵の理解には、おそらくその術中に嵌まったリンネの協力が必要不可欠であった。
月宮咲は朝焼けに照らされた森の中、小屋の扉を叩こうとしていた。
「すいません~。昨日預けた奴隷の主人ですけど~。」
「入りますね~。」
「いない...二階か...?」
小屋に人の気配は無い。
老婆と奴隷はまだ眠っているのだろうか。
ギシ、ギシと鳴る階段をゆっくりと昇る。
開けた部屋にはベッドが一つ。
エルフのお姫様は気持ち良さそうに眠っており、その傍らには一晩中添い続けただろう老婆が座ったまま眠っていた。
「あの!」
「はっ!?なにごとだい!!」
一つ大きく息を吸い込み力を込めて声をあげると老婆は驚嘆の声をあげて跳ね起きた。
「ああ...あんたかい...あたしは構わないけど、この子への配慮は微塵もないんだねえ。」
「エルフは早起きって聞いてたんだけどなあ...まだ起きないか。」
バベルの塔を出てすぐ、リンネは意識を失って倒れた。
再びリンネを小屋に運び込んだ時は老婆に叱責されたが、その後はリンネに治療を施してくれたようだ。
エレナの洗脳の話に戻ると咲もまた半ば術中にはまりつつあった事は間違いない。
エレナの情報開示の動機である闘争を回避するため、という言葉を一切の疑問も無く信じようとしていた。
しかし、リンネが術中に嵌まったと悟った瞬間に咲への洗脳は解けたようであった。
「リンネちゃ~ん朝ですよ~。起きてくださーい。」
狭い部屋には虚しい声だけが響く。
当のお姫様は気持ち良さそうな寝息をたててグッスリと眠っている。
「おらっ!起きろ!!御主人様より眠ってんじゃねえぞ!」
右手に空洞の棒切れを製造し、リンネの頭を叩く。
「ああああ!!痛い痛い痛い!!何!?何ですか!?」
激痛に苦しみながらリンネは起床した。
彼女にとって最悪な目覚め方だろう。
「お前さん本当に容赦がないんだねえ。軽蔑を通り越して驚きだよ。」
「目ぇ覚めたか?リンネ」
「うっぐぅ...覚めました...これ以上ないくらい目が覚めてます。」
「良かった...痛い所は無い...?凄い声だしてたわよ?」
横の老婆は路傍のゴミを見るような目で咲を見つめていたが彼女はひたすらリンネの容態を気にかけている。
「元に戻ってるのか確かめようが無いわね。お医者さんとしてリンネの容態はどうなの?」
「万全に近い状態さ。かけられた魔法は精神的な物だからね。」
「皮肉にもね、余程の事がなければ主従の紋章の効力が勝る魔法さ。」
「私が近くにいればその魔法は効かないって事?」
「そういうことだよ。体調不良に認識阻害ろくに立つ事すら叶わないけど、あんたが傍にいれば意識は保ったままでいられる。」
「それはおかしいわよ。ずっと一緒にいたのに倒れたのよ?」
「余程の事がなければって言っただろう?術者本人が手を加えたり、あんたが余計な事をすれば魔法はその真価を発揮するだろうね。」
「瞳孔は...開いてないわね...」
老婆の診察結果、もといエレナの能力の分析を聞き流しつつリンネの細部を確認する。
心拍数は平常、瞳孔の収縮などの代謝から確認出来る事項から彼女は完全な鎮静状態だとわかる。
「で、その魔法の真価って言うのは?」
「魅了の魔法だよ。掛けた相手を惚れさせるんだ。」
「はあ!?チャーム...?」
そういえばバベルの中でリンネはエレナにベッタリだった。
「私だって驚きだよ。チャームなんてのはサキュバスが食事の為だったり男女が交遊目的で使う、言うなれば玩具に近い魔法なんだよ。」
「エレナの能力がチャーム...?見方に依っては洗脳に近いけど...」
すぐには信じる事が出来なかった。
たかが惚れさせる能力が都市を壊滅させる猛威があるとは考えられない。
かつて傾国の美女と謳われた人物は確かに存在する。
しかし、彼女が惚れさせたのは野心を抱き、富と名声を欲する権力者であり、少数の人間だ。
だが、エレナは違う。
彼女はリディニアの全ての人間を蕩かしたことで陥落させたのだ。
「ねえ、本当にチャームなの?チャームに似た別の魔法って事はない?」
「その間違いはない。彼女に掛けられた魔法はチャームだよ。」
「どうしてわかるのよ?」
「チャームの魔法は特殊でね。術者が個人の対象を認知した上で魔法をかけるんだ。」
「だからこそ、チャームの効能は対象の深くまで発揮する。
何せ、その対象の好意の有無に関わらず術者へと向けさせてしまうんだからね。」
「チャームの魔法は術者の魔力の波を対象に伝播させるから、身体中にその痕跡が残るんだ。」
「あんたがリンネちゃんをここに運び込んできたとき、身体中にリンネちゃんの物じゃない魔力の波が見えた。」
「だからチャームの魔法が掛けられた、という結論に至ったんだ。」
「今の詳しく教えてくれない?その...魔力の波、とかなんとかの所。」
「魔術に関しては疎いのよ...この世界の事よく知らないから。」
老婆は魔術を知らない咲を見つめると、一つ息を吸って口を開く。
「仕方ないね。魔力ってのはわかるかい?」
「リンネとかが使う魔法の資源?」
「合ってる合ってる。魔力ってのは人の体内に宿っていてね、まあ、体力とかそういう物に近い。」
「人それぞれが持つ魔力は、量だったり適正だったりでそれぞれ違うんだ。」
「その差違で表れるのが魔力の波、ってこと。」
「チャームの魔法って言うのは、術者の魔力の波を伝播させて対象の波と一致させるんだ。」
「その結果、対象は術者から来る感覚を共有して惚れてしまうんだ。」
「魔力の波ってのを共有するんだったら、術者が対象に惚れちゃうって事もあるんじゃないの?」
「そこまで来るとチャームの専門領域に入るんだがね。あくまでもチャームは術者優位で、術者が対象に惚れる事はないんだよ。」
「なるほどね。魔力の波を一致させる...」
「あ!関係無いんだけど、私の魔力の波ってどうなってるの?波浪警報出る位唸ってる!?」
「...無いよ。」
「あ?」
「あんたには魔力の波どころか魔力が感じられない。だから波が無いよ。」
「え...じゃあリンネはどうなのよ?」
ベッドで毛布を被ったままのエルフへと視線を写す。
彼女は何を考えているのかよくわからない虚ろな目で虚空を見つめている。
「あんたがさっき言ったみたいにとてつもなく唸ってるよ。魔力の量もこの世界じゃトップクラスだね。」
絶句した。
エルフのお姫様で世界中の言葉に精通し武道にも通じて、加えて魔力はトップクラス。
「欲張りなお姫様だこと。」
「聞こえてるの?リンネ?」
一点を見つめて動かないリンネの眼前で手をかざす。
まだチャームにかかっているのだろうか?
「あ、すみません。どうかしましたか?」
「どうかしましたか、じゃないわよ。ずっとボーッとしてるけどどうしたの?」
「塔に潜入してから、ここで休憩させて頂いたまでの記憶を思い起こしていたんですけれど。」
「けれど?」
「なんだか飛び飛びなんですよね。意識が無い、みたいな。」
「どこまでの記憶ははっきりとしてるの?」
「フェティマ教の教祖に案内されて、丁度二杯目の良い香りの飲み物を飲み終えた所までです。」
「あれ...?塔で言ってた事と食い違うわね。」
「塔の中で、フェティマ側にまわるべきって言ったのは覚えてる?」
「私がそんなことを?...すみません、全く覚えがありません。」
「記憶の混濁か、チャームへの抗作用の一つだね。」
「主従の紋章がチャームに抗った結果、波が暴走して体に負荷を掛けたんだろうね。」
リンネの言葉を耳に老婆は語る。
「じゃあ、エレナはあの紅茶を基点にリンネをチャームを掛けたって事ね。」
「あんたは飲まなかったのかい?」
「いや、私も飲ん...」
盲点だった。
リンネの容態を気にかけすぎて見落としていた。
あの場所には咲も居たのだ。
咲もまた、エレナによるチャームの標的の一人であった事は確かだ。
「リンネは、エレナと会う前から動悸がするって言ってた。バベルの塔に入った時から様子がおかしかった。」
「私はそれを高山病の類いかと思ってたけど...もしそれが違うなら...」
「教祖はこの子に会うこと無くチャームを掛けたって事かい!?」
「リンネはエレナと会う前からチャームの抗作用が出てたって事に...」
「でも咲さんにはチャームにかかった様子は見えませんでしたよ?」
「私は魔力が無い。だから、チャームの起因である波も無意味だったって事かも。」
「エレナは明らかにチャームにかかった様に見えるリンネと、対照的に全くその兆候が無い私に紅茶を出した。」
「その紅茶が原因でリンネは完全にチャームにかけられて、私も魅了され掛けた。」
「エレナは闘争を回避するためなんて詭弁を垂れてたけど、チャームに掛ける事で私達を取り込む事が目的だったのかな。」
「でも、チャームを掛けるにしてもたかが紅茶一杯って言うのは少しリスクがあるような...?」
真偽の判断に関わらず情報開示を行っても、チャームを掛ければ敵に伝わる事はない。
しかし、チャームが掛かっていなければ筒抜けになるわけである。
チャームを掛けるタイミングが紅茶一杯というのは明らかに部が悪い賭けな気がした。
仮説は思い付いた。
しかし、エレナと老婆は同意しかねるという表情である。
「いや、やっぱり思い出しても今まで遠隔で見ず知らずの相手にチャームをかけるなんて前例がない。」
「エルフの伝承にもありません。私もフェティマの教祖とは今まで面識がありませんし。」
「あ、でも教祖は転移者なんですよね?ビーチュさん達がもらってるように恩恵ってことなら十分あり得ますね。」
恩恵だと断定すれば全ての仮説が受容されてしまう。
だが、リンネに掛けられたチャームが恐らく恩恵に関わっていることは確かだ。
もう少し、あとちょっとでエレナの能力がなんなのか解る気がする。
咲だけでは知ることのできない何かあと一つの要因が、その手掛かりなのかもしれない。
いつの間にか太陽は南へと傾き始めていた。
森林の開けた場所にたたずむ小屋は、ほのかな光包まれる。
そして一陣の風が光が射し込む窓を揺らした。
「台風...あの塔を中心にリディニア全体まで渦があるって言ってなかった?」
リンネは言っていた。
フェティマの信者が咲を認識できない理由の、摩訶不思議な効果の根拠として「渦がある」と。
「あ、そうか...その渦がチャームの原因なら...」
「チャームの基点が魔力の共振なら、その波を飛ばして届けることも出来る。」
「私にはわからないけど、リンネの感じるその渦がチャームを撒き散らす魔力の波なんだとしたら!」
「例え面識がなくても、リディニアに居ることで教祖のチャームに掛かる事になります!」
リンネもまたエレナの恩恵へとたどり着いたようである。
「魔力の波を飛ばす?そんな芸当がなせるのかい?」
老婆は未だに不信感を募らせている。
だが、魔力を電波だと置き換えた時にフェティマ教で生まれた道具が波を飛ばす芸当が可能だと示している。
「フェティマ教はリディニア全体を監視する包囲網があるそうなの。」
「それが、信者が必ずつけているブローチ。恐らく、教祖の波を共振させて信者の視覚をブローチを通して見ているんだと思う。」
「この世界に波を飛ばす、なんて発想が無かったんだとしたらその知識は別の世界の物になる。」
「つまり外の世界から来たエレナの恩恵は、自信の魔力の波を撒き散らして無差別に魅了の魔法を掛ける能力。」
「ここで言うのは二度目になるわね。でも、今度は馬鹿げた妄想じゃない...リディニアに蔓延り、マルテ教に罹患し、今もなおその猛威を奮う。」
「恋の病、ですね!!」
溜めに溜めて決めようとしたらこれである。
大事な所はエルフの姫に取られた。
「お前!!」
「あははは!前のお返しですよ!!」
「思い当たる節多すぎてどれだかわからない...」
彼女がいなければ恩恵の推測すら不可能だったのだ。
言葉には表さずとも心の中で感謝はしておこう。
一度病に伏した彼女であれば、きっとこのエピデミックのワクチンになることだろう。




