私は賢い犬である
いつもの薄暗い時間に目が覚める、私の体内時計は一度も狂ったことはない。
起き上がり伸びをしてベットを確認するとご主人はまだ眠っている。
賢い私はご主人が起きるまで5分でも10分でも『お座り』という姿勢で待ち続ける。
だけどこの日は待てども待てども煩わしいあの音が聞こえてこない。
どうやら今日はご主人がずっと家に居る日のようだ。
これでは待っていても仕方がない、そうと分かれば早速行動に移る。
賢い私はご主人に向かって吠えたり噛み付いたりなんて野蛮な事はしない。
それならどうするか、これは私が編み出した秘策だ。
ドアに両方の前足を掛けた後、一心不乱に上下に動かす。
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ
ベットの方で布団の動く気配がした、もう一押だけど私の空腹も限界に近い。
賢い私でも空腹に耐えかねると自分が抑えられなうなりイタズラをしてしまう。
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ
あろうことかご主人が顔を布団に隠した。
私が自分を抑えてるうちに起きてもらわないと結局私が怒られることになる。
もう奥の手を使うしか無い、これも私が偶然発見することが出来た秘策だ。
「ワンッ!ワンッ!」
吠えてるじゃないかって?当然ご主人には吠えることなんてしない。
だからドアに向かって吠えることにした。
賢い私はご主人が寝てる時にドアに向かって吠えても怒られないことに気づいた。
何も無いのに吠えると怒られるけど、この時だけは無礼講となる。
「ワンッ!ワンッ!」
主人が起き上がると尻尾を振りながら主人とドアの間を走り回る。
賢い私でもご主人が起きた嬉しさとご飯を食べれる嬉しさでパニック状態だ。
ドアの前に立つご主人から『お座り』というコマンドが聞こえた、それに従って『お座り』の姿勢になる。
その次に『待て』というコマンドが聞こえた、それに従って不動を貫くと扉がガチャリと音を立てて開いた。
なんとか興奮状態を抑えて冷静になる、ここで動けばドアは閉じて最初からやり直しだからだ。
数秒の時間が流れて『よしっ』というコマンドが聞こえた、急いでドアをすり抜けてご飯の器が置いてある部屋に向かう。
賢い私はご主人がご飯を準備してる間は大人しくすることを覚えた、私がガッツクと準備が遅れるのだ。
ご飯の準備が終わって『伏せ』のコマンドが聞こえた、それに従って『伏せ』の姿勢になる。
ご主人とご飯を交互に見ながら待つ間にも秘策がある。
賢い私は涎を垂らすと『よしっ』が早くなる事に気づいた。
ここで勘違いしないで欲しいのは、自然に出てるんじゃなくて意図的に出してるという事だ。
『よしっ』のコマンドが聞こえて一目散にご飯を食べる、時間を無駄にしたくないから噛まずに飲み込む。
床を拭いてるご主人が見えたけど気にしない。
ご飯を即座に食べ終わるとご主人の横に座って上目遣いをする。
賢い私はこの仕草をすると追加でご主人の食べてるご飯が貰えることに気づいた。
それでも今日はご主人のご飯が中々貰えないが、ご主人の食べるご飯は美味しいから私も簡単には引けない。
「クゥーン、クゥーン」
鼻を鳴らすようにして声を出しながら前足をご主人の太腿の上に乗せる、これが私の必殺技だ。
ご主人がパンの欠片をくれた、やっぱり美味しい。
ご飯を食べ終えたご主人が立ち上がる、この時点で私のテンションは高い。
ご主人が壁に掛けてある紐に手を伸ばすと嬉しさで部屋の中を走り回る、もう動かずにはいられない。
体に硬い紐をつけるとご主人を連れて外に出る、家を出ると一層テションが上がる。
「キャンッ!キャンッ!ワンワンワンワンッ!」
道の反対側から小さな犬共が吠えているが私は気にしない。
弱いものほどよく吠えるのだ、私の行動でご主人に恥を欠かせるわけにはいかない。
鳥が前を横切り、猫が車の下から覗いていても私には興味が無い。
早く家に戻れば楽しいことがあるのだ。
散歩が終わって家に帰ると玄関でご主人は私の足を拭く、慣れているから動じることはない。
足を拭き終わると体に巻き付いていた紐が外れた、開放感から全身を震わせる。
玩具箱に頭を入れてお気に入りを取り出すと、咥えて椅子に座ったご主人の足に押し付ける。
賢い私は自分から動くことで遊んでもらえることに気づいた。
投げられた玩具を拾ってきてはご主人に渡す、この時間はご飯を食べている時と同じくらい幸せを感じる。
ご主人か私が疲れたらこの遊びはお終いだ、ボールを片付けて窓際に行って日向で眠ることにする。
食べて遊んで寝て、こんな幸せな日がずっとずっと続くんだと思ってた。
あれから沢山の時間が経って、私の体は思うように動くなっていた。
遊びたいのに満足に立ち上がる事も出来ない。
そんな時はご主人が気づいてお気に入りのボールを顔の横に持って来てくれる。
嬉しくて尻尾を動かすけど噛む力も弱くなってボールを咥えても口から零れ落ちる。
それでもご主人が何度も何度もボールを口の横に置いてくれる。
こんな姿になった私でも構ってくれるご主人が大好きだ。
最近はご主人の泣く声が聴こえる。
賢い私は気づいてた、もう一緒には居られないと。
随分前からご主人の顔が見えなくて、声も小さくて聞こえにくい。
それでもご主人は私の頭を撫でて、足を掴んで近くに居るんだと教えてくれる。
私はご主人と出会えて幸せ者だった、沢山迷惑をかけていっぱい怒られたけど最後まで私を大切にしてくれた。
賢い私はその日の夜に自分の最後を悟った、だから最後の力を振り絞ってご主人に伝えた。
【今までありがとう】
薄れゆく意識の中、駆け寄ったご主人が私を抱きしめてくれてるのを感じた。
沢山幸せを貰ったのに最後にご主人を悲しませる私は不幸者だった。
それでも一緒に居られて嬉しかった、だから後悔はしない。
私は眠るように意識を手放した。
毎日ガラスケースの中にいる私を沢山の人が見る。
どんなに手を振られても声を掛けられても私は反応しなかった。
私のご主人はたった1人で他の誰にもなびかない。
ある日、私の世話をしている人が男の人に犬を勧めていた。
いつもの様に不愛想に、ガラスケースの奥で丸くなる。
でも、その男の人が発した声は絶対に忘れるはずがないものだった。
私は直ぐに起き上がり、力の限り鳴いた、全身を動かして気を引こうと暴れた。
「凄いですね、この子は愛想が無くて、大きくなっても家族が見つからなかったんですよ」
「もう犬は飼わないって決めてたんですけど、こうして見ちゃうと決心が揺らぎますね」
「これも何かの縁かもしれないですし、どうでしょうか?」
「お前、家に来るか?」
懐かしいあの場所に帰れる、その嬉しさで私を抱いたご主人の顔を舐め続けた。
こうして私は再び我が家に戻ってきた、ご飯の器も玩具も全部そのままだった。
「お古でごめんな、どうしても捨てることができなくてさ」
「ワンッ!ワンッ!」
相変わらずご主人の言葉は理解できないけど、この家の全てが懐かしい。
また最初から思い出を作り直したいと思った、楽しかったあの頃みたいに。
「あっ、それは噛んじゃだめだぞ」
「ワンッ!ワンッ!」
だから、その時が来るまで賢い私は馬鹿な犬を演じる事にした。