その2
銀行員
空の移動で雨森は気絶した。
彼は夢をみていた。もしくはパラノイヤに身をゆだねていた。とにかく、それは現実におこった事実ではないということだけは確かだった。隣には物忌みがいたし、神社にも見覚えがなかった。でも、本当にこれは現実ではないのだろうか、雨森は疑問に思った。どこかなつかしい感じがしたのだ。僕はこの場所を知っている。雨森はなぜか、そう確信していた。
彼は神社の境内にいた。
すでに月がまるまると空に浮かんでいた。出店が並んでいて、優しくも妖しい光が境内を照らし出していた。
どうやら夏祭りのようだ。
浴衣姿の人影があふれかえっている。夏のもやもやした水蒸気が雨森の肺を焼いた。ぞわぞわと、地面から流れてくる熱気に雨森はわくわくした。
彼は物忌みと手をつないでいた。なぜか小学生の姿になった雨森は、大きな物忌みに保護されるようだった。はぐれないでね、銀行員さん。物忌みが言った。はぐれちゃったら戻れなくなっちゃうからね。雨森は黙って彼女の手を強くにぎった。
物忌みは雨森を連れて拝殿のほうへと向かった。
出店ではいろいろなものが売られていた。リンゴ飴にアンズ飴、チョコバナナに一口ステーキ、カラアゲにわたあめ、たこ焼き、大判焼き、お好み焼き、アイスクリームにかき氷、射的や輪投げもある、クジだってあるし、はやりのアイドルやアニメのキャラクターのポスターをかざっている店には行列ができている。いいな、と雨森は思った。何か買いたかった。リンゴ飴を食べたかったし、射的をやってみたかった。しかし、それはできなかった。小学生の雨森は金をもっていなかったからだ。
ここだよ。物忌みが言った。銀行員さんに会わせたかった人がいるの。
そこは拝殿より奥にある本殿のそばだった。夏祭りの喧噪はどこか遠くから聞こえてくる。それはまるで二十億光年離れている所からチョロチョロもれてくる水の流れのようだった。
周囲は暗く、最初、目の前に人がいるのに気づかなかった。白いスーツを着た老人がそこにはいた。顔は見えなかったけれど、人好きのするようなウェットな笑みを浮かべているのだけは分かった。
「お初にお目にかかる、そういうことになるんだろうね」
白いスーツを着た老人が言った。
「わたしは未来貯金銀行の筆頭頭取をやっている者だ。未来という単位を貯金する特殊な銀行だよ。幻覚町の経済活動の基盤である幻覚銀行の頭取ではないから、そこは注意が必要だ。名前はいらないだろう。頭取と呼んでもらってけっこうだよ。みんながそう呼ぶし、誰もわたしの名前なんて覚えちゃいない。君だってそうだろう銀行員さん。君にだって名前はあるはずなのに、誰もその名で呼ばないだろう? 銀行員というのはそういうものだ。金銭というのは無名性にこそ最大の価値がある。ならば、それを扱う銀行員にも無名性が求められている。そういうことだろうとわたしは思うよ」
頭取はため息をつくことはなかった。ただニッコリと笑っただけだ。
「さて、いよいよピンチらしいね」
頭取が言った。
「起死回生をねらった株主総会でまさかの敗北をきしてしまった。大統領はその力を完全に残している。頼みの総会屋は逮捕されてしまい現在拘束中。これではどうすることもできない。アリが象に勝てないのと同じように、銀行員は大統領に勝てない。きみはそう思っているのではないかな」
図星をつかれて驚く雨森を見て、頭取はようやく一つ、ため息をついた。
「気づいていないようだね。そんなに力をもっているというのに、きみは戦う手段というのをまるで分かっちゃいないんだ。いいかい、金銭は暴力になりえるんだ」
頭取が続けた。
「たとえば野球のバットを想像してみてほしい。こいつをボールを打つために使えば暴力にはならない。しかし、人間の頭に振りおろせば暴力になる。それと同じさ。といっても、言葉で説明しても無駄だろうね。とくに、この場所では言葉は役にたたないからね。こういう時こそメタファーだ。いやはや、先人たちはとても便利な夢ツールを開発してくれたものだよ」
頭取はウェットな笑みを浮かべて言った。
「ここから見えるかな? あの小さな水の流れが」
頭取が指さした方角には、小川があった。
水たまりのオマケで流れがついているような小さな川だった。おそらく、ネズミだってこの小川で溺死することはないだろう。
「みての通り小さな川だ。しかし、流れがある。この流れは境内の池につながっていてね。その池からさらに地下を通ってどこかに流れていく。循環なんだな。水の循環だ。神社の森がはぐくんだわき水は、かようにして流れ流れて、その一部はわたしたちの生活に必要不可欠なものとなる」
なにが言いたいのだろう、雨森は疑問に思った。
「しかし、流れのない川は衰退する。流れのなくなってしまった川は死んでいるのと同じだからね。そこにはよくないものがたまっていく。よくないものの名前はなんでもいい。死やら不幸やら不運やら、そういうものがたまっていくんだ。流れを失った川はよくないものをため込み、そしてそのままだ。少しずつ水がよどみ、腐って、悪臭を発するようになる。わかったかな?」
もちろん雨森にはわからなかった。頭取は続けた。
「きみはすでに分かっているはずだ。あとは気づくだけなんだ。いや、それ以前の問題か。あとは覚悟するだけ。いいかい? 覚悟だよ。君のお兄さん風にいうなら、歩み寄るほうがリスクを負担する覚悟だ。ただそれだけなんだ」
そこで、雨森の意識は回復した。
目を覚ますと自分のベットの上だった。
雨森は、さきほどの夢をすべて覚えていた。
覚悟をすること。流れのない川は衰退する。雨森はその二つのことを考え続けた。
「あ、銀行員さん、起きたんだね」
部屋に入ってきた物忌みが言った。
彼女はなぜか木材を肩にしょっていた。よく見ると、雨森の部屋の窓にはベニヤ板がはりつけられている。
「なにこれ」
「見て分からないの? バリケードだよ」
「ばりけーど?」
「そう。大統領の手下に進入されないようにするの」
ふむ、と雨森は考えた。
流れていない川は衰退する。結論はすぐに決まった。
「てい」
雨森は窓にうちつけられているベニヤ板をひっぺがえした。驚いたのは物忌みだ。
「ちょっと銀行員さん、なにしているの?」
「流れをつくった」
「はい?」
「流れていない川は衰退するんだよ」
それから無言でバリケードを元に戻していく。
銀行員さんがおかしくなったー、と物忌みはどこかへ行ってしまった。




