「僕」 - 0
テスト3日前に書きなぐったこのお話のあらすじ、見開き一ページで終わってました。
例えるなら、そのときの僕は腹の中にたくさんばい菌を詰め込んだドブネズミだ。実際、腹の中にはパンくず一つも残ってやしない。最後に飯を食ったのはいつだったろう。
僕は乞食であった。
ゴミくさいロンドン郊外の路地の外灯の下で、一日に2、3人通るか通らないかの人にどうにかお恵みを頂戴しようと必死だった。その場所は昼でも暗く、英国の悪天候も相成っていたかもしれない。あの日もどんよりとした雲が空を覆っていた。
僕はいつものようにお決まりの場所で、錆びた空き缶を横に外灯の下にうずくまって微動だにしなかった。はたから見ればゾンビと見間違われてもおかしくはないが、前述のとおり、ここは人通りが少ない。人っ子ひとり見かけないうちに、廃墟と廃墟の連なる隙間から、オレンジの光が漏れ始めた。夜が来る。この場所が闇に飲まれ、また僕の塞いだ気持ちに覆いかぶさってくるのも時間の問題だった。
今日も何にもありつけなかった。
こうなることなら、ちゃんと家族と縁を切らずに独立すればよかった。おいおい話そうとは思うが、この何日が前までは本気でギター一本と歌で生計を立てるつもりだったのだ。
なんて僕はバカだったんだ!親の大反対をくらった僕は自ら勘当を申し入れ、着の身着のまま村を飛び出して、ロンドンへやって来た。それで、この有様である。僕のギターだったものは、既に底をついていた。
姉の焼いてくれるアップルパイ、何故僕はあの時、一斤残してしまったのか。ばあちゃんの得意なラスク、レモンジャムをたっぷりつけてから頬張り、ちょっとお高めのダージリンティーでそれを流し込む。喉が潤ったあとは、父の指よりも太くて長いつやつやした豚の腸詰めに手をつけて……。おそらく、ちょうどそんなような妄想に囚われていたように思える。
そこに、僕の運命を逆立ちさせた、あの日の夜が来てくれたのだ。
ちょうど僕が居座る反対側の路地に、一台の車が止まった。道にでも迷ったのか、エンストでもやったか、とにかく僕はこのチャンスを逃すまいと、力の入らない足腰を踏ん張って上体を起こした。
扉を開く音と共に、男性のダミ声が静寂にこだまする。そのあとに女性の声が続いた。何やら揉めているのだと汲んだ。あの状況では望みもないに等しいと諦めた僕は、いつの間にか自分を見下ろす人物がいることに気づいて、一瞬仰け反った。まだ僕に仰け反る体力があることにも驚嘆したが、さらに僕を驚かせたのは、その人物ーー僕の命の恩人であり、後の親友と奪い合う初恋の女性であるーーが今までに見たことのないほどの美しさをもっていたからだ。僕は目が離せなかった。
僕と同じぐらいか、それ以上の、しかし大人とは言い難い感じの少女が、僕を見下ろしていた。
彼女が僕に、れっきとした哀れみの目線を向けているとしても、それでもよかったし、それが当然だった。僕はどうしても彼女に触れたかった。灯りを真上に受けて狐色に光を放つ、柔らかくウェーブをえがいた髪に触れてみたかった。喪服のような裾から伸びた白い腕の先にある手は、握りしめて、もう離したくなかった。しかし、汚くて臭い社会の溢れ者の僕が到底許される行為ではない。
頭上の灯りが照らせる範囲だけ、時間が止まったようだった。僕たちはずっと見つめ合っていた。
「ビクトリア!」
突然闇の向こうから声がして、再び時は動き出した。彼女はたった今生き返ったように上半身を震わせて、声のする方へ戻って行った。しばらくしてエンジンがかかり、車の音は更に遠い暗闇にまぎれていく。僕は、まだ時間が止まっていた。
僕は彼女が好きだ。名前ーービクトリア、と呼ばれて走って行った彼女は、僕のいま人生最悪の状況に光をもたらした女神だった。
錆びた空き缶の中には、皺になった20ポンド札が、もうずいぶん前から入っていたように、そこにあった。
それから、こんな所で僕は何日もーーそれは何ヶ月も何年でもあったかもしれないがーーとにかく生にしがみ続けた。僕はあの札で食べ物を買った。そして仕事を探した。奴隷のような仕事だったが、どんな屈辱にでも耐えてみせたし、どれほど過酷な労働を強いられても悲観などしない、強靭な精神力と体力さえ身についた。
何故こんなにも僕が生に貪欲であり続けたか、賢い紳士淑女のみなさんにはもうお分かりだろう。
ビクトリア、あるいは僕の女神に、もう一度会ってお礼がいいたい。そして、胸を熱くするこの想いを伝えたい。
……ーーきれいに、立派になって。
そうして僕はプライドを捨てて、親に土下座して勘当を解除してもらった。ばあちゃんは、僕の見なりをみては卒倒しそうになっていた。
伸ばしっぱなしだった髪を切り、新たに働き先を探し出した。僕は風が吹けば飛んでゆくような店で遮二無二頑張った。どうにか自分の食費は己でまかなえるようになった頃には、父の友達を経由して、家庭教師や予備校の模試採点のアルバイトなどを積極的にやって、金を貯めた。余裕が出始めると、学問にも力を入れるようになった。仕事の合間を縫って、ユングやアダムスミスなどありとあらゆる本を読み漁った。
ろくに働かず、家庭も顧みなかった僕の変わりように、周囲は「貧困の世界を覗いたからだ」と囃し立てて笑ったが、もちろんそれだけが理由じゃない。
全ては、ビクトリアに会って想いを伝えるためだ……。
父は、僕がケンブリッヂを同級生より遅れてでも無事卒業できたことに泣いて、つい先日、眠るように息を引き取った。
そう、全てはビクトリアのため。悲しんでいる暇があれば、仕事、勉強、読書にスポーツをして自分を磨け。僕は霊柩車の中で、幾度も自分に言い聞かせた。
僕は、彼女に釣り合う存在にならなければ、いけないのだ。
そうそう、僕はギタリストより、生徒の前で教鞭を振るう方があっていたらしい。今では私立大学の哲学科で准教授をやっている。
最近、経済学にも興味が出てきたので、今読んでいる哲学書が終わったら一つ株でも買ってみようと思っている。
つづく
ここまで読んでくださった貴方に感謝!