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二人の兄

 翌朝の月曜日。

 俺はみさきの家の前にいた。

 チャイムを鳴らすと、すぐにインターホンから返事が返ってきた。

「どちら様ですか」

 満の声だろう。両親がこの時間仕事で外出していることは、昨日みさきから聞いている。

「若葉小学校の卒業生なんですが、満君に伝えたいことがあって」

 そう言うと、しばらくの沈黙の後家の扉がゆっくりと開かれて中から男の子が姿を現した。

 六年生にしては背が高い。みさきによく似た意志の強そうな大きい目に、若干の警戒心が浮かんでいる。

「おれに伝えたいことって、何ですか」

「うん。実は若葉ファイターズの監督に頼まれてね。ぜひチームに復帰してほしいって」

 その言葉を聞くなり、満君はまたか、という顔をして踵を返しながら言った。

「おれはもう野球はやりません。何度も言いましたけど。そんな資格、ないですから」

 家に戻ろうとする彼を遮るように声をかける。

「自分のせいで、妹が死んでしまったと思っているからか?」

 まるで電流が通ったかのように満の肩が跳ねる。

「みさきはそんな風に思ってなんかいない。それどころか、お兄ちゃんが野球をやらなくなったのは自分のせいだって言って、逆に自分を責めているんだぞ?」

 後ろを向いたまま彼が言う。掠れるような声で。

「なんですか、それ。まるで、みさきがまだ生きてるみたいに……。みさきはおれのせいで死んだんだ! やっとチームの四番バッターになれたのが嬉しくて。あいつが体調を崩していたのに気付けないで、絶対応援に来いよ! おれの活躍を見てろ、なんて……。俺のせいで、みさきは」

 背中を震わせながら、絞り出すような声で呟く。

 違う、そうじゃない! お互いがお互いを想い合うばかりに、逆に自分と相手を縛りつけてしまっている二人。その鎖を断ち切れるのは、俺しかいない。

「違う。お前は妹が死んだ責任を誰かに取らせたかったんだ。だから自分を悪者にして、自分を責めることでその悲しみから逃れようとした。そんなことで、みさきが浮かばれるとでも思ったのか?」

「あ、あんたなんかに、おれたちの何が分かるっていうんだ!」

 俺の顔を睨みつけながらそう叫ぶ満に言ってやる。

 いたずらっぽく微笑むみさきを想像して口元を緩めながら――二人を繋ぐ、魔法の言葉を。


「第三のちくび」


 時間が止まったかに見えた。口を半開きにしたまま呆然と目を見開いていた満だが、たちまちみさきに似た端正な顔を羞恥の赤で耳まで染め上げる。

「なっ、何でそれを知って……」

 昨日、みさきと兄しか知らない秘密を教えてほしいと言った俺に、悪戯っぽく微笑みながらみさきが教えてくれたこと。

 なんでも、満の左右の乳首のちょうど真ん中に、盛り上がって少し赤みがさしたほくろがあるらしい。

 二人で風呂に入っている時に、みさきが見つけて命名したそうだ。

 それ以来、その単語はみさきの切り札であると同時に、満にとっては最大の隠しごとになった。万が一にも同級生に知られたら、恰好のからかいの種にされることは目に見えているからだ。

 だから、満のちくびのことを知っているのは本人を除けばたった一人だけ。そのことは、誰よりも満自身が一番よく分かっていた。

「み、みさきはまだ生きてるのか!?」

 すがりつくような眼差しでそう聞いてくる満に対して、俺は小さく首を振る。

「生きてはいない。でも、まだあの野球グラウンドに存在していることは確かだ」

「それだっていいさ! みさきにもう一度会えるなら、何だって……」

 さっきまでとは打って変わって、喜びで顔中を満たしている彼に残酷な言葉を告げる。

「残念だけど、それは出来ないらしいんだ」

 呆然とする彼に、昨晩みさきから聞いたことをそのまま話した。

「そんなの、やってみなけりゃ分かんないだろ! もしかしたら話せるかもしれないじゃないか! 日曜ならいいんだろ? なら来週まで待って……」

 昨日の俺と同じセリフだ。だが、今の俺なら分かる。それは悪戯に彼女の心を傷つけるだけに終わる。

「駄目だ」

「何でだよ! どうせ兄ちゃんには分かんないよ、死んでも会いたい人なんていないんだろ! だけどおれは、」

「黙れッ! お前、そうやって兄貴面してるがあいつの気持ちを考えてみたか!? 目の前に大好きな兄貴がいるのに、触れることも喋ることも出来ないあいつの気持ちを、少しでも考えてみたのか!?」

 満が俺の言葉に、はっとして目を見開いた。

「……そっか、そうだよな。逆の立場だったらおれだって嫌だ、そんなの」

 足元の視線を落として、小さな拳をきつく握りしめる。

「みさきが話せないって言うならきっとそれが正しいんだよな」

 頷く俺に、満は肩を落とす。

「ちくしょう……」

 そう言って目を伏せる満。玄関先のアスファルトにぽつぽつと水滴が落ちる。だがそれ以上取り乱すことなく、彼は言葉を続けた。

「でも、兄ちゃんは話せるんだろう? 教えてくれよ、みさきがどんなことを言ってたのか。なんでまだこの世に留まっているのかを」

 満に家の中に入れてもらってから、俺はこれまであったことを全て話した。なるべく鮮明に彼がその光景を思い浮かべられるよう、丁寧に、丁寧に。

 ランのことを話すくだりになると、満は身を固くして頭を下げた。

「おれの代わりに、毎週エサをあげてくれてたんだな……ありがとう、みさき」


 全て話し終えた後、満は涙で濡れた目を乱暴に袖で擦りながら言った。

「おれがうじうじと悩んでいたせいで、みさきを苦しめてたんだな……こんなんじゃ、兄貴失格だぜ」

「そんなことない。お前は世の中の妹全てが羨むような理想の兄貴だよ。あのベンチがいい例だ」

 そう言う俺に、満は照れて頭を掻きながら答える。

「まさか、みさきがあのベンチにそこまで入れ込んでたなんて……おれは思いつきで行動しただけなんだけどなぁ」

 戸惑った風に呟くのがおかしくて、つい俺も苦笑してしまう。

「でも、兄ちゃんはおれを買い被ってるよ。おれは昔からみさきを可愛がってたわけじゃないんだ……」

 満が当時を後悔するように語ってくれた話に、俺は黙って耳を傾けた。


「みさきは生まれた時から体が弱かったんだ。だから、両親もおれのことなんかそっちのけで、いっつもみさきの面倒ばっか見てた」

 昔を思い出しているのだろう、遠くを見つめながら話す。

「おれはそれが気に入らなかった。妹に両親を取られたような気がしてさ。だから、二人の気を引こうと悪戯ばかりしてたし、みさきのことだっていじめてた」

 膝に置かれた満の手が微かに震えている。

「あれは、みさきが小学校にあがったばかりの頃だったかな。川の浅瀬で遊んでいる時にいつものいじめがエスカレートして、おれはあいつを突き飛ばしたんだ。みさきは全身水浸しになった。今でもはっきりと覚えてる……赤くなった膝でびっこを引いて、わんわん泣きながら母親の元に帰っていくあいつの姿を」

 当時のおれがここにいたら、そいつを思いっきりぶん殴ってやる。そう吐き捨ててから続きを語る。

「おれはびくびくしながらみさきが母親に駆け寄るのを見てた。みさきから転んだ理由を聞いて、いつおれを叱り飛ばすのかって身構えてたんだ。でも、いつまで経っても母親の怒鳴り声は聞こえてこなかった。それどころか、怒られていたのはみさきの方だったんだ」

 なんでだと思う? そう問いかける満に、俺は分からないと首を振る。

「あいつはおれを庇ったんだ。後から母親に聞いて愕然としたよ。みさきは、もっとお母さんに心配してもらいたくてわざと転んだんだ、ってそう言ってたんだ」

 俺は目を見開く。

「その言葉を聞いて、おれは急に自分が恥ずかしくなった。思えば、みさきがおれにいじめられたのを親にチクったことなんて一度もなかった。みさきはずっと負い目を持ってたんだ。自分が両親を独り占めしていることに」

 自分の拳を睨んでいた目を前に向ける。

「それからは、みさきを守るのはおれの役目になった。過保護に育てすぎたと言って、前ほど両親がみさきを構わなくなった代わりに、本当の兄になってあいつを守るって誓ったんだ」

 そこまで話して、ふー、と、長い溜息を吐く。

「みさきの兄としてまだ出来ることがあるなら、おれは何だってする。兄ちゃん、おれ、若葉ファイターズに戻るよ」

 そう毅然とした態度で言う満はみさきと同じく、とても大人っぽく見えた。

 その言葉を待ってたとばかりに、監督からの伝言を伝える。

「あの日の試合は、他校との練習試合だったんだろ? 事故が起ったから中止になってしまったそうだけど。監督、満がチームに戻るまで試合は待ってくれないかって、先方のコーチに頼んでいたそうだぞ」

 満が目を見開く。

「……そっか。監督、待っててくれたんだ。おれのこと」

 その目に、再び涙がにじんでいた。

「日曜日だったら、昼間でもみさきはおれたちのこと見れるんだろ? おれ、絶対試合に出て活躍してみせるから! 絶対見に来いって、あいつに伝えといて!」

「ああ。任せろ。だけどその前に、もう一つだけやっておきたいことがあるんだ。手伝ってくれるか?」

 監督の家に電話する満を待ってから、俺たちはグラウンドに向かった。


 新しいペンキに、ニス、軍手、補強材に木材と、工具一式。その他もろもろ。

 昨日監督の話を聞いた帰りに、ホームセンターで家にないものを買い揃えておいた。それをみさきのベンチの前にずらーと並べる。

「お前が今日ここに来たって証拠に、二人でこのベンチを修理しよう」

「うんっ!」

 元気に頷く満の声を合図に、俺たちは作業を開始した。

 まずは古くなった部分、壊れかけている背もたれの修繕だ。俺は昔父親に教わったことを思い出しながら、一つ一つ丁寧に組み上げていく。日曜大工が趣味だった父親に、この時ばかりは感謝した。

 ようやくペンキを塗る段階になる頃には二時間以上が経過していた。

 ふと、刷毛を動かしていた手を止める。ちょうど俺の定位置、ベンチの一番端の背もたれの後ろに小さく書き込みがされていた。

『みさき』

 おそらく、コンパスの針か何かで掘ったのだろう。司がよくそれで小学校の壁に消えない落書きをしていたっけ。今でも三階の男子トイレ一番奥の個室には、俺たちの名前が刻まれているはずだ。

 そんなことを思い出して微笑みながら、満を呼ぶ。

「おーい、満、ちょっとこっち来いよ」

 ベンチのぐらつきを直す為にしていた作業を一時中断し、満がこちらに近づいてくる。

 例の名前を見せると、嬉しそうに笑って言った。

「ああ、これはみさきの字だ。あいつってば……」

 じっと名前を見つめたまま動かない満に、俺は名案とばかりにあることを囁いた。


「終わったー!」

 乾いたグラウンドに大の字で寝そべる満にならって、俺も倒れ込む。二人とも汗だくだ。

 気が付けば周りはすっかり夕焼けに包まれていて、カナカナカナ、とひぐらしが疲れきった俺達を労わるように鳴いていた。

 寝そべったまま、二人して視線を横に向ける。

 そこには、俺たちの手によってまるで新品のように輝きを取り戻したベンチがあった。

 どちらからともなく、拳を合わせる。そのまましばらくの間、二人でそのベンチを眺めていた。

 泥だらけの満を見送ってから(俺も似たような状態だが)帰路につく。今夜のみさきの驚いた顔を思い浮かべるだけで、自然と笑みがこぼれた。



「勇誠が直してくれたの……?」

 ピカピカのベンチを前にして、みさきが呆然と呟く。

 その予想通りの反応に笑いながら言ってやる。

「昨日言っただろ? 絶対にいつか驚かせてやるって。俺の勝ちだな」

 そう勝ち誇ったように言う俺が気に障ったのか、みさきはそっぽを向いて、

「ふ、ふんっ。別に驚いてなんか……」

 なんて言ってとぼけてみせた。

 ならば、とそんなみさきに俺は追い打ちをかける。

「実はな、こいつを直したのは俺一人じゃないんだ。こっち来てみろ」

 俺が案内したのはベンチの裏側、その一番端。

 そこに一ヶ所だけ、新しいペンキの塗られていない所があった。その場所に刻まれた名前を見て、みさきは今度こそ驚きで大きく目を見開く。

『みつる』

 みさきの署名の隣に、まるで寄り添うように書かれたもう一つの名前。

 日曜日以外の昼間の様子が分からない彼女に残せる、唯一の証拠。

「満が一緒に手伝ってくれたんだ。会えないならせめてみさきのために出来ることをやりたい、ってはりきってたんだぞ?」

 自身の体と同じ透明の涙をこぼしながら、愛しそうにその名前を撫でる。

 昨日とは違う、温かな涙を流すみさきの顔がとても綺麗に見えて。俺はじっと彼女の横顔を見つめていた。


「……してやられたわ。わたしの完敗よ」

 ペンキ塗りたての張り紙がしてあるベンチに座って、みさきが殊勝なことを言った。

「初めてお前から一本取れた気がするな」

 隣のベンチに腰かけた俺が満足げに頷くと、みさきはふくれっ面をしながらも言い返す言葉が思いつかないのか、代わりに足をぷらぷら揺らし始めた。

 しかし、ふいにその足を止めたかと思うと、真夏のひまわりのような見ているこちらが眩しくなる笑顔で俺に向き直る。

「ありがとう、勇誠。本当にうれしかった」

「ど、どういたしまして」 

 不覚にもドキッとしたのを隠すように、ややしどろもどろになりながらみさきに今日の出来事を話して聞かせた。


「満のやつすっかり元気になって、一ヶ月のブランクを取り戻すために明日から猛練習する、なんて宣言してたぞ」

「……そっか。お兄ちゃん、チームに戻るんだね。よかったぁ」

 そう言って小さくしゃくりあげるみさきにちょっと動転する。

 俺が慌てているのが目に入ったのか、くすくすと笑いながら、

「大丈夫。もう泣かないから。勇誠の前で泣き顔ばっかり見せてたら恥ずかしいもん」

 そんなことを言うみさきの頭を、こつん、とげんこつで叩く。手ごたえは感じられないけれど。

「いったーい! 何するのよ」

 叩かれたところを押さえながら抗議の視線を向けるみさきに俺は言ってやった。

「お前は少し落ち込んでるくらいが可愛げがあっていいと思うぞ」

「あ~、ひっどーい! それがレディに対して言う言葉なの?」

「誰がレディだ、誰が。お前みたいにひねくれたお嬢様なんかいないぜ」

 ぽかぽかと俺を殴るみさきを軽くいなしながら言う。

 いつの間にか俺たちの間には楽しげな笑みが広がっていた。


 その後はいろいろな事を話した。俺のこと、みさきのこと。兄の自慢話。

 学校での生活がどんなに面白かったか、また、みさきたち兄妹がどれだけ仲が良かったのか。会話からまるでその情景が浮かんでくるようだった。

 みさきが特に興味を持ったのは、俺と司の小学生時代のエピソードだった。二人でした数えきれないほどの悪戯話を、みさきはおなかを抱えて笑いながら聞いていた。

 夜が更けてきた頃。そろそろ休まなきゃ、と、ひどく名残惜しそうに呟くみさきにまた来週の土曜日に会うことを約束してから二人同時に帰路についた。


 それからの一週間はあっという間だった。補習を前にして自暴自棄になった司にあちこち連れ回され、試験やらなんやらで休みがちだったバイトにも復帰した。

 満に家を知られてからというもの(修理工具を取る時に寄った)、俺の家とグラウンドが近いのをいいことにほとんど毎日顔を見せるようになった。

 俺が野球をろくにやったことがないことを話すと、まるでお化けを見るような目で見た後(大きなお世話だ)、一から俺に指導しようとした。

 ……こういう小生意気な所はみさきにそっくりだ。

 たまりかねた俺は司を満に引き合わせ、元若葉ファイターズのキャプテンだと紹介してやった。これが効果てきめんで、二人はすぐに仲良しになり今や野球の話や練習内容で俺には入り込めない世界を作り上げている。



「いよいよ明日だな」

「うん」

「ずっと待ってたんだもんな。楽しみだろ?」

 土曜日の夜、真新しいベンチに二人で腰かけながらの会話。

「そりゃあ、すっごく楽しみだよ……でも」

 うつむいたまま足をもじもじさせるみさきにやさしく問いかける。

「でも、どうした?」

 つま先で地面に何度も何度も丸を掻きながら言う。

「たぶん、明日の夜が最後。試合が終われば、わたしの未練は晴れるから。そしたら……」

「旅立つのが、怖い?」

 みさきの言葉の語尾を付け足すように言う。俺の言葉にパッと顔をあげ、しかし小さく首を振る。

「そりゃあ、少しは不安だけど。でも、前ほど怖くない。そんなことより……勇誠と、もう会えなくなっちゃう」

 最後は聞き取りにくいほど小さい声だった。

 俺は若干びっくりしながらも、心の中に温かいものが広がっていくのを感じていた。

「はははっ。それは光栄だな。なんだったら、ベンチの次は俺に取り憑いてみるか?」

「あっ、それいいかも! だって勇誠、お兄ちゃんと違ってどこか危なっかしいんだもん。夜にこんな所に来る時点で他の人とは違うし」

「余計なお世話だ! 幽霊のお前に変わってるとか言われたくない」

「あー、またそんなこと言う。でも実際出来るかもしれないよ? そしたらさ、」

 半ば必死になって、俺に取り憑くことを提案するみさき。俺だって悪い気はしない。それどころか、むしろ嬉しい。だけど……。

「みさき」

 出来るだけやさしい声で、彼女の話を遮る。

「それは出来ないよ。みさきだって本当は分かってるんだろう?」

「……うん。そうだね」

「俺だって、出来ることならみさきともっと一緒にいたい。でも俺たちはもう違う存在なんだ。だから……」

「本当にそう思ってくれてる?」

 みさきが拗ねるような口調で呟く。

「もちろん」

「……勇誠は、感情があんまり顔に出ないからわかりにくい」

 俺は頬を掻きながらそっぽを向いた。

「よく言われる」

 自分ではそんなつもりはなくても、昔から俺は感情を表に出すのが苦手だった。

「じゃあ、約束して。明日の夜、必ずわたしにお別れを言いに来るって」

 真剣な眼差しで小指を差し出すみさきに頷きを返す。

「ああ、約束する。俺が約束を破ったことがあったか?」

 そう言って透明なみさきの指に小指を絡めて断言すると、ようやく安心したのかいつもの笑顔に戻ってくれた。



 試合当日。

 天気もこの試合を歓迎しているかのように、一点の雲りもない快晴だった。

 司と一緒にいつものベンチに腰かけて試合を観戦する。一か月の延期を経て開催されただけに、応援客も結構な賑わいだった。

「監督、勇に感謝してたぞ。どうやったか知らないが前より元気になって戻ってきた、なんて言ってな」

 照りつける日差しに目を細めながら言う。後から満によって付け足されたこのベンチには日陰を作る傘がない。

「よかった。なんだかんだで、あの監督も満のことかなり心配してたからな」

 試合は始まったばかり。若葉ファイターズは現在守備についている。

「それはそうと、満の調子はどうなんだ? お前、練習見てやってたんだろう?」

 心配そうに聞く俺に対して、司の答えは楽観的だった。

「ああ、あいつは大丈夫だろ。さすが四番に選ばれるだけのことはある。すぐにカンを取り戻してたからな」


 その司の言葉はすぐに証明されることになる。

 ――ッキーーン!!

 いい当たりだ! 思わず司と一緒になって白球の後を視線で追う。

 バッターボックスに入った満が渾身の力で打ち返した球はやすやすとネットを越え、ちょうどランの小屋があるあたりの林の中に落下した。

 それと同時に観客席が爆発した。ダイヤモンドを一周して帰ってきた満の背中をチームメイトたちがばんばんと叩く。

 頭をもみくちゃにされながらも満面の笑顔のまま俺たちの方を向き、ぐっと親指を突き立てて見せた。

 俺と司も同じように返してやる。そのまま満はチームメイトに囲まれて見えなくなってしまった。

 妹の死を乗り越えて一か月ぶりに復帰したムードメーカーが放った、鮮やかなホームラン。それが若葉ファイターズの選手にとってはこの上ないカンフル剤となり、その勢いは最後まで衰えることがなかった。

 結果は若葉ファイターズの圧勝。

 次々と帰っていく応援客たちを見送りながら、俺たちに向かって駆けてくる満を笑顔で出迎えた。

「やった、やったよ兄ちゃん! おれたちが勝った! みさき、見ててくれたかなっ?」

「ああ、絶対見てたさ。きっと今頃そこらで大喜びしてるんじゃないか?」

 そう言ってベンチの回りを見渡す。つられるように辺りをキョロキョロしていた満が、ふいに悲しそうな声で言った。

「でも、今日が最後なんだろ? もう本当にいなくなっちゃうんだよな……」

 肩を落としている満を元気付けるように明るい声で言う。

「ほらっ、兄貴がそんなんでどうする。みさきが悔いなく旅立てるように、気持ち良く見送ってやれよ」

 背中を押す俺の声に応えるように、満がベンチの少し上を見ながら語り出す。

「みさき、そこにいるのか? 見ててくれたか? お兄ちゃん勝ったぞ。ずっとみさきに心配かけててごめんな……お前を守ってやれなくて、ホントにごめんな……」

 涙を流しながら、それでも毅然と前を向いて。

「おれ、もう絶対落ち込んだりしないから。お前がいなくても、立派な兄貴になってみせるから。だから、だからっ……」

 嗚咽を漏らしながらも、視線だけは決して俯けずに、前を見据えて。

「みさきも元気でな。たくさんの思い出をありがとう。……またな」

 それが満が妹に送った、最後の言葉だった。



「お兄ちゃん、ホントに格好よかったよね! ねっ、勇誠もそう思うでしょ?」

 興奮して、今にもベンチから滑り落ちそうなみさきに苦笑しながら答える。

「ああ、格好よかったさ。俺もあんな兄貴が欲しくなるくらいにな」

 羨ましいだろ~、なんて言って胸を張るみさきを横目で見ながら、俺はバッグからあるものを取り出して見せてやる。

「これなーんだ?」

 俺が手に持っているのは野球のボールだ。

「まさか……お兄ちゃんが打ったホームランボール!?」

「当たり。ランの小屋のそばにあったから、拾って来たんだ。ほれ」

 みさきにボールを投げる。それをお手玉みたいにしてキャッチしながら、

「うわーありがとう! わたしの夢だったんだ……いっつも他の子に取られるか、川に落ちちゃってもらえなかったから」

 そう言って、みさきの手には大きすぎるボールをぎゅっと握る。

「ねぇ……前から聞きたかったことがあるんだけど、聞いてもいい?」

「なんだよ」

 いつもズケズケと言いたいことを言うみさきにしては珍しい。

「あ~その顔! 何考えてるかわかるわよ。もうっ、失礼しちゃう」

 そんな前置きを入れた後、遠慮がちに聞いてきた。

「どうして、わたしにここまで優しくしてくれるの?」

 ……しばらくぼんやりと月を眺めていたが、辛抱強く俺の顔から目を離さずにいるみさきに負けて口を開く。

「小学六年のときの道徳の授業でな、ある宿題が出たんだ」

 その課題とはこんなものだった。


 ――自分や兄弟の生まれてきた時の状況、名前の由来について親に手紙を書いてきてもらうこと。

 学校の先生の言葉を母親にそのまま伝えると、母さんはひどく悩んでいるような顔をしていたっけ。

 それから数日後にもらった手紙は、学校指定の小さい封筒に入っていたけれど、中身がとても膨らんでいた。

 この課題には一つだけルールがあった。それは、次の授業まで手紙を読まないこと。みんなで一斉に封を開けて、その感想を書くのが次の道徳の授業の課題だった。

 みんなが興奮でわいわい騒ぐ中で、俺も同じように少し緊張していた。どんなことが書かれているんだろうって。

 先生の合図と同時に封筒を破って、食い入るように読んだ。みんなが読み終わって感想をしゃべりまくっている時も、俺はずっと手紙から目を離せなかった。それだけ長い手紙だったし、内容が一回ではとても頭に入らなくて、何回も読み返していたから。


「なんて書かれていたの?」

 みさきが俺の話に呑まれたように続きを促す。俺は絞り出すような声で答えた。

「……俺には、妹がいるはずだったんだ、って。そう書いてあった」

 みさきが息を飲む音が聞こえた気がした。


 今でも忘れない。あの時の衝撃は。

 みんなが感想文を書いている中、いつまでも手紙を握り締めていた。

 家に帰ってからも、母親には何も言わなかった。不自然に明るい声で、今日の夕飯なに? なんてどうでもいいことを聞いて。

 それから今に至るまで、その話題は口にしないようにしてきた。思えばそのしこりが積もり積もって今の家族の不仲を形成してしまったのかもしれない。


「でもな、やっぱり時々考えるんだ。優香が今ここにいたらどんな風だろう、どんな顔で笑ってくれたんだろうって」

 いつかとは逆に、うつむいてうなだれる俺の手にみさきが手を重ねてくれた。

「そっか、その人が優香……勇誠の未練の元なんだね」

「ああ、そうだな。今なら認められる。俺はずっと優香に会いたかったんだ」

 だからみさきの話を聞いた時、他人事とは思えなかった。

「そっか。勇誠はわたしを生まれてこられなかった妹さんと重ねてたんだ。だから……」

 俺の手を握ってくれているみさきの手が、震えている。その目からは、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。

「違う! 俺はお前を優香の代わりにしたんじゃない。兄貴として果たせなかったことをお前にしてやりたかったんだ」

「えっ!?」

 そう言って驚くみさきに伝える。その悲しい誤解を解くために。

「俺はみさきを一度だって誰かに重ねたことなんかない。お前は初めから上草みさき。ちょっと生意気だけど可愛い俺の妹分だ」

 そう断言する俺に、よかったぁ……と心から安堵の溜息を洩らすみさき。

「それにな、俺の妹である優香が、お前みたいな生意気娘でたまるかってんだ」

「なっ、なんですって!」

 怒りの声をあげながら、俺の膝の上に飛び乗って頭をぽかぽかと殴る。今日はちょっとだけ痛い。

「取り消しなさいよ! それになーにが妹分だ、よ。恋人候補だ、ぐらい言ってほしいもんだわ」

 想像もしなかったその一言に、俺は慌てる。

「こ、恋人候補だって!? 俺はロリコンじゃないぞ……」

 そう言いながらも、声が若干うわずっているのは隠しようがない。

「ふんっ! そう言っていられるのは今のうちよ。ぜったいに将来は美人になって、勇誠のこと見返してやるんだから」

 確かに、みさきがこのまま成長したら将来は引く手数多の美女になったことだろう。それを思うと、少しだけ切なくなった。

 そんなことを考えていたからか、いきなりみさきが俺の首に手を回して抱きついてきた時、思わず心臓が飛び跳ねてしまった。

「お、おい、ちょっと……」

 どぎまぎしている俺にみさきが答える。

「もうちょっとだけ……」

 みさきのさらさらの髪からは夏の日向の匂いがした。彼女の小さな肩に手を回して抱き返してやる。すると、みさきの背中の震えが伝わってきた。それでも俺に涙は見せまいと、目の届かない所で涙をぬぐっているのが腕を通して伝わってくる。

 再び目を合わせた時、充血した彼女の目とは裏腹にその頬はもう涙に濡れてはいなかった。

「もう、お別れなんだね……」

 胸を締め付けるようなその声に、俺も目が潤んでくるのを感じていた。

「ああ。そうだな……」

「ねえ、勇誠、マジック持ってない?」

 突然の場違いな単語に一瞬何のことか分からなかったが、バッグの中から筆記用具を取り出してみさきに渡してやる。

「それでどうするんだ?」

 ふふ~ん、と鼻を鳴らして、みさきは俺の膝の上に乗っかったまま手元にあるボールに何かを書き始めた。

「できたっ!」

 そう満足げに言うみさきに見せてもらったボールには、相合傘を挟んで、俺たちの名前が書き込まれていた。

 ただし、傘の上のハートはキャラクターもののネコに変わっている。きっとランを描いたつもりなんだろう。

 そのボールをもう一度眺めた後、俺に向かって差し出す。

「はいっ、勇誠にあげる!」

「いいのか?」

「うん。わたしは持って行けないから。それに勇誠には、何か形に残るものを持っていてほしいって思ってたんだ。わたしを思い出せるように」

 ボールを受け取って、笑いながら言った。

「そんなものなくても、お前のことは一生忘れないよ。でも、ありがとう」

 満が打ったホームランボールに俺とみさきとランが描かれてている。

 俺たちが、この時確かに此処にいた証。

「えへへっ。どういたしまして」

 顔中に喜びを表して笑うみさきの笑顔をもう見れなくなるかと思うと、とたんに胸が詰まるような思いに囚われた。

「それじゃあ、わたしはそろそろ行かないと」

 俺の膝をぴょんと飛び下りて、なるべく陽気に聞こえるようにみさきが告げる。

「ああ……そうだな」

 どうしても声のトーンが下がってしまうのを抑えられない。

「もうっ! 勇誠ったら、もっとシャッキっとしてよね。お兄ちゃんを見習いなさい」

 本当に、みさきの言う通りだ。俯いていた顔を上げる。

 ふいにみさきが近づいて来たかと思うと、俺の頬に湿っぽい感触を残してあっという間に離れていった。

 俺は呆然としながら、みさきにキスされた所を撫でる。

「い、今のはこれまでのお礼なんだからねっ! 勘違いしないでよね」

 なんて、耳まで真っ赤になって言う。

 結局最後までみさきに一本取られる形になってしまった。

「ありがとう、みさき。楽しかったぜ」

 最高の笑顔で見送ってやらなきゃな。

「……それは、こっちのセリフよ。わたしもすごく楽しかった。助けてくれてありがとう。勇誠に出会えて、本当によかった」

 妖精のような澄んだ笑みを湛えながら。

 初めて出会った時のように、月を背後に背負うみさきの姿がだんだんとぼやけていく。

 最後にばいばい、と小さく手を振って。

 みさきの姿は、幻のように月の光に溶けていった。

「……さよなら、みさき」

 涙が頬を伝うのを感じながら、それでも前を向いて。

 いつの間にか戻ってきた夜の蝉の声を聞きながら、片手にみさきが残していってくれたボールをしっかりと握って。

 俺は歩き出した。



 その後のことを少しだけ語ろう。

 司は今や、補習と野球部の練習に日々を忙殺されている。哀れに思わないでもないが、俺にしてやれることは何もない。

 みさきが成仏したことを告げた時は、『よかった』と一言だけ呟き、『お前は大丈夫か?』なんて逆にいらぬ心配をされてしまった。


 満も毎週チームの練習に参加している。

 俺の家に入り浸るようになったのも相変わらずで、司とはもはや師匠と弟子の間柄らしい。そんな満に少しずつ野球の何たるかを聞かされるうちに、だんだんと俺も興味が沸いてきたところだ。

 ついでに言うと、日曜日の練習が終わった後にランに餌をやるのは俺たちの役目になった。


 一番変わったことは何かといえば、両親との関係だろう。

 みさきたち兄妹に家族の大切さを教わったような気がする俺は、一度両親と真正面から向き合ってみた。

 すると分かったのは意外な事実だった。

 なんでも、俺が毎夜外をぶらつく原因が自分たちにあると知った両親は、お互いに歩み寄る努力をしていたらしい。

 まだ会話はぎこちないものの、一家に談笑が戻る日も近いと俺は思っている。

 ずっと触れずに避けていた話題、優香についての話も両親とした。

 さすがに勇気が要ったし、母親も面喰らったようだが、おかげで長年ひっかかっていた胸のつかえがとれたような気がする。きっとそれは両親も同じだったのだろう。


 今でもたまに夜の読書に行く。

 家を出る理由はなくなったけれど、あの場所は俺にとってのお気に入りスポットなのだから、簡単に手放すのは惜しい。

 もう、あの凛としたよく通る声が聞こえてくることはないけれど。

 彼女が残していったボールを眺めるたびに、いつだって思い浮かべることが出来る。

 みさきの声も、笑顔も。あの鈴を転がすような笑い声さえ。


 だから、今日も俺は声を張り上げて応援する。彼女がいつも座っていたベンチで、彼女の自慢の兄を。

 ――それが、あの夜みさきとした、もう一つの約束だから。




読了感謝です!

この作品、実は処女作だったりします。ほんの少しだけ手を入れはしましたが、基本そのままなので今読み返すと粗が目立って恥ずかしいです……。


これまで20以上の作品を仕上げてきた中に思い入れの強い作品ってのは少数ながらあるわけで。

出来はともかく、この一作は俺のお気に入りだったりするのです。

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