兄妹
司に乗せられた形になったのはいまいち気に食わない。それでも、確かめずにはいられなかった。
しかし……
「いないじゃん」
街灯に浮かび上がったベンチにみさきの姿はない。
何となくだが予想はしていた。これまで日曜以外は毎日この場所を訪れていた俺でさえ、姿を見たのは昨日が初めてなのだ。恐らく来週の日曜までは姿を現さないだろう。
そこまで考えて、ついこの間まで信じようともしていなかった霊の存在を殆ど確信している自分に苦笑した。
いつも通り零時近くになるまで一人読書を続けたが、結局この日俺が聞いたのは今を昼だと勘違いしている蝉の鳴き声だけだった。
翌朝司にそのことを話しても、「まあそうだろうよ」などと気のない返事を残してそのまま机に突っ伏してしまった。その後授業が始まってもぴくりとも動かない。
七月も下旬に差し掛かり、冷房のない教室は茹だるような暑さだ。やる気のない生徒のオーラが教室中を満たす中、心なしか教師の声までがどこか気だるげに聞こえてくる……。
こうして何の変化もないまま金曜日も終わり、学校は夏休みに突入した。
俺は相変わらず毎夜あの場所に顔を出していたが、大人びた少女の面影は見当たらず。彼女の言っていたことが本当なら明日にでもひょっこり現れるだろう、そう思っていつもの習慣で本を取り出そうとした時にいきなり後ろから声をかけられた。
「ようやく幽霊の存在を信じる気になったのね。感心感心」
「ぅわっ!」
思わず尻を浮かせるほど驚いてから、やられた、と思ったが既に遅い。きっと振り返れば彼女が勝ち誇った顔でこちらを見ているだろう。
はたして、暴れ回る心臓をなだめながら背後を見ると、そこには両手を腰に当てて悪戯っぽく笑っているみさきの姿があった。
ただ、前回会った時と決定的に違っている点が一つある。……これを何て表現すればいいんだ?
透けてる。そう、体が透けて向こう側の景色が歪んで見えるのだ。ちょうど水の入ったグラス越しに景色を見た感じ、と言えば分かりやすいだろうか。
先週に比べ、断然こっちの方が幽霊っぽい。
「何で透けてんだよ、お前……」
目を見開いたままそんなことを言う俺がおかしかったのか、みさきはけらけらと笑いながらさも当然であるかのように言ってのけた。
「だってわたし、幽霊だもん」
恐る恐る彼女の肩に手を置こうとすると、まるで靄を掴もうとするかのように手が体を通り抜けてしまう。
ことここに至っては、もはや認めるしかない。みさきは紛れもなく本物の幽霊だ。
そう思った瞬間、俺の気のせいかもしれないが彼女の体の濃度が若干増したような気がした。
「まさかまた来るとは思ってなかったわ。自分の見たものが信じられずに、二度とここには寄り付かないかと思ってた」
二人でいつものベンチに腰かける。
「あいにく俺は自分を誤魔化すのが嫌いでね。目の前に事実を突きつけられて、それを否定することが出来ない以上は受け入れるしかないだろ」
「ふーん。意外と大人なんだ、勇誠って。ちょっとびっくり」
足をぷらぷらさせながらそんなことを呟くみさきに何か言い返してやろうかと思ったがやめておく。それこそ子供っぽいし、彼女が本物の幽霊である以上他に聞きたいことが山ほどある。
「で、何で今日はスケスケなんだ? あの世ってのはホントにあるのか? なんで幽霊を信じてない俺の前に現れることが出来たんだ?」
と、矢継ぎ早に質問する俺にみさきがストップをかける。
「ちょっと待って待って! そんな急にいろいろ聞かれても答えられないわ。順番に答えるから……」
しばらく思案顔で手をどこかの子供探偵がするような形にして顎に当てていたが、考えがまとまったのだろう。はっきりとした口調で喋り始めた。
「えと、まずわたしがこんな姿なのは今日が土曜日だからよ。明日になればまた普通、ってのも変だけど……とにかく先週と同じになると思うわ。多分、いくら幽霊を信じているといっても普通の人にわたしの姿や声が聞こえるのは、土・日・月曜の三日間だけでしょうね」
なるほど。みさきの死んだ日、未練の大元である日曜を起点に、一日ずつずれた日まで彼女を知覚出来るって訳か。
淀みなく答えていたみさきの顔がそこでふと曇る。
「あの世の存在ははっきり言ってよく分からないわ。わたしはまだこっちに留まっているから。宙ぶらりんの状態なの。だから、ここから完全いなくなった後どこに行くのかは全く分からない。……正直言って、少し怖い」
そう言って、自分の肩を抱いて震えているみさきに触れられないのが何とももどかしい。
気丈に振る舞ってはいるが、彼女はまだ小学生なのだ。
「最後の質問は簡単よ。それはね、勇誠がランに驚いたから」
さっきまで震えていたのが嘘のように、悪戯っぽい光を瞳に湛えたまま俺を見上げる。
「ランってなんだよ。まさか天使とか言うんじゃないだろうな」
これ以上の奇天烈な真実にはさすがの俺の頭も正常な機能を失いかねない。
「あははっ。ランはただの子猫よ。天使みたいに可愛いのは事実だけど。どんぐり山で最近生まれた子なの。この前芝生を横切るランをちらっと見た時、勇誠は、もしかしたら幽霊かも、って思ったんでしょう?」
ああ、あの時の影か……。本当に猫だったんだな。いつだって人間を最も怖がらせてきたのは自分自身の想像力だ。これには苦笑するしかない。
「それで、俺の心に生まれた一瞬の隙を突いたってわけか」
「そうよ。でも、それだけがきっかけではないと思うけど。ほら、あの時勇誠が蚊取り線香を缶からはみ出して置いていたでしょう? 灰が落ちてベンチが焦げちゃうと思ったわたしは、思わず叫んだの。多分、相手に気付かせたいと願う感情も大切な要素なんだと思う」
そうか。いろんな偶然が重なって俺とみさきを引き合わせたんだな。だとしたら、そこに何かしらの意味はあるのだろうか?
「ちょっと見に行ってみない? 今日は本当はエサをあげない日なんだけど」
そう言ってどんぐり山の方へ歩いて行くみさきに俺はちょっと驚く。
「みさきって自縛霊じゃないのか? このベンチから離れられないとばかり思ってたんだけど」
「さあ? わたしもよくは分からないんだけど。とりあえず、このグラウンドの回りとどんぐり山までなら自由に動けるわよ。それ以上先に進もうとすると……なんか、嫌な感じがするから行ったことはないけれど」
そう言いながらくるくると踊るようにどんぐり山の方へと進んでいく。俺はそんなみさきに歩幅を合わせながら一緒に進む。
美少女の幽霊と夜の行進。一週間前の俺が見たら卒倒もんの光景だろう。
そんなことを考えながら歩いているうちに、自然と俺の足も軽くなっていった。
「いつもここらにいるんだけど……ほらっ!」
みさきが指し示す先にあったのは、どんぐり山の中腹近くにある粗末な犬小屋だった。恐らく、廃材になっていたものを修繕したのだろう。彼女が不器用な手で一生懸命小屋を組み立てている様子が目に浮かぶようだった。
そして、その犬小屋の入り口からひょっこり顔を出している真っ白い子猫がいた。みさきは生まれたばかりだと言っていたが、生後半年くらいは経っているだろう。
俺は猫の種類には詳しくないから何とも言えないが、混ざりっけのない純白の毛はどこ
か気品を漂わせている。
俺が抱き上げると、「うにゃん」と可愛らしい声で鳴いた。
「ねっ、すっごく可愛いでしょう!」
みさきが、自分も撫でたくてしかたがない、というように透明な指をわしゃわしゃと動かしながらそんなことを言う。
悔しいが今回ばかりは彼女に賛成だ。
と、俺の腕の中のランが、じーっときれいなブルーグレイの瞳でみさきの顔を見つめているのに気が付いた。
「こいつ、お前が見えるみたいだな」
「うん。わたしも最近気付いたの。動物は人間より霊感が鋭いって言うじゃない? きっとこの子にはわたしたちには見えないいろんなものを見ているのよ」
いろんなものってなんだ、とはこの際聞かないでおこう……。
何気なく覗き込んだ犬小屋の中に、猫用の缶詰が数個置かれているのが目に入る。
「いつもこれをあげてるのか?」
猫缶を一つ取り出しながら尋ねる。
「そうよ。普段からいろんな人にエサもらったり、林に捨てられたゴミをあさったりしているみたいだけど。日曜日はわたしがあげる番なの。お兄ちゃんの応援が終わった後に、二人で」
猫缶を手に持つ俺に、それちょーだい! と言わんばかりにランが足にまとわりついて、ニャーニャー鳴いている。
みさきに顔を向けて、彼女が頷くのを確認してから猫缶の蓋を開ける。
子猫用に加工されたご飯を一心不乱に食べるランをしゃがんで見つめるみさき。その背中がひどく小さく見えた。
若干のためらいを含んだまま問いかける。
「なあ、聞きたいことがあるんだ」
「……なあに?」
彼女の後姿を見つめながら問う。
「みさきが死んだのは、いつだ?」
「勇誠に会う、三週間前の日曜日よ」
意外としっかりとした声に内心俺の方が動揺しながらも、次の質問をぶつける。
「それは、どうして?」
「……」
今度の沈黙は長かった。ここからでは彼女の表情までは窺い知れない。
まだ聞くには早すぎたか? 今夜も蝉の声は聞こえない。静寂が、胸に刺さる。
聞いたことを後悔するくらいの時間が経った後、ふいにみさきがこちらを振り向いた。
「それは、明日教えてあげる。今日はいっぱい話したから疲れちゃった」
まるで悲しみに沈んだ子猫のような、見ているこちらが切なくなる表情で言う。そんなみさきに返せる言葉は今の俺には一つしかなかった。
「そうか。わかったよ」
二人一緒に立ち上がると、あのベンチに向かって歩き出す。
突然、みさきが小走りに俺の前を駆け抜ける。そして、振り返って言うのだ。
「ねぇー! 明日も来てくれるよね?」
俺も負けじと少し声を大きくして答える。
「ああ! 絶対に行くぜ!」
その言葉を聞いて安心したのか、もう一度楽しげにくるっ、とターンしてスキップで俺の前を行く。
その姿が、だんだんとぼやけていって……。
ベンチにたどり着く前に見えなくなってしまった。
さて、夏休みに入って最初の日曜日の正しい過ごし方とは何だろう?
運動部の連中はこのクソ暑い中校庭を走り回っているだろうし、補習組は補修が開始されるまでの一週間を死に物狂いで遊び倒そうとするだろう。
俺はといえば、赤点なしの帰宅部であるのをいいことに、普段なら昼過ぎまで夢の中だ。
だが今日の俺は違った。朝っぱらから自転車を回し、ちょうど俺の家から若葉小学校までとは反対方向にある若葉中学の方に向かう。
そのまま進めば校舎に突き当たる、という一本道を一つ逸れた所にあるのが司の家だ。
朝の十時前だというのに遠慮なくチャイムを押す。俺を迎えてくれたのは、昔から比べて少しふくよかになった司のお母さんだった。
「あらー、勇くんじゃないの! 午前中に来るなんて珍しいわね」
と、人のよさそうな顔をにこにこさせながら家に入れてくれた。十年来の知り合いともなると気安いものだ。俺にとっても柚木家のみんなは第二の家族といってもいいほどの存在だった。
いや、ろくに話もしない俺の家族よりも気が許せる相手かもしれない。
「朝早くからすいません。ちょっと司に用事があって」
階段を昇りながら言う俺に対し、おばちゃんはあっからかんとした口調で話す。
「いーのいーの。どうせ司はほっときゃいつまでだって寝てるんだから、ちょうどいいわよ」
俺の耳にも痛いセリフを平然と言ってのけると、司の部屋を豪快に開け、「つかさー! 勇君来たわよー」と言うなり扉に背を向けた。
「それじゃあ、ゆっくりしていってね」
そう言い残して去っていくおばさんの温かな背中を、若干の羨ましさと共に見送ってから司の部屋に入った。
「うぃーっす」
おばちゃんの言葉通り、学校のジャージを着た司はまだベットの上の枕に顔を埋めていた。
眠そうな半眼を俺と時計、交互に向ける。
「んだよー。まだ九時半じゃねえか……もう少し寝かせてくれ……」
「お前、この一週間は補修のことを忘れるくらい遊びまくるんだー、とか力んでなかったか? こんなんじゃ、あっという間に一日が終わっちまうぞ」
「やめろー! その言葉を口にするんじゃねぇ……」
などとぶつぶつ言いながら、布団を足で蹴飛ばしている。まるで小学生だ。
「せっかく俺がノート全て貸してやったのに、それを一夜漬けで乗り切ろうとするお前が悪い。落としたの、数学と英語と世界史だろ? よりにもよって一番めんどくさいのを狙って赤取るなんて、ウケ狙いとしか思えねーよ」
俺の言葉が胸にザクザクと刺さる音が聞こえるようだ。まあ今日はこの辺にしてやろう。こいつに頼みごとをしに来たのに、ついいつものノリで返してしまった。
「昨日、みさきに会ったぞ」
その言葉を聞くなり、司は布団をはねのけて俺と向き直った。
「マジか! それで、どうだった!?」
げんきんな奴め……。
「うーむ……要するに、肝心なことはまだ何も分かってないんだな」
司が自分の部屋に備え付きの簡易冷蔵庫から、ペットボトルを取り出しながら言う。
「そうなるな。だが、はっきりしてるのはみさきが死んだのが今からちょうど一月前の日曜日ってことだ」
「そうとは限らんぜ」
手に持ったペットポトルを俺に放る。
「どういうことだ?」
それをありがたく受け取りながら聞いた。
「根拠なんて何もないけどな。よく映画とかにあるだろ? 死んだ直後の記憶が曖昧で、実はとっくの昔に寿命で死んでいる恋人を待ち続けている悲しい霊の話とか」
などと救いようのない話をする。こいつと俺はこれでも映画好きなのだ。
「俺はそこまで考えちゃいなかったけどさ。司に協力して欲しいんだよ」
「何を」
「お前、小学生の頃は若葉ファイターズのキャプテンだっただろ? そん時の繋がりを生かして、監督に話聞けないかと思ってさ」
司がジャージを脱いでラフな普段着に着替え始める。どうやら眠気は覚めたようだ。
「なるほどな。確かに今日は日曜だし、練習試合が終わった後なら聞けるだろう。だが、どうやって? 『みさきちゃんの幽霊に会ったので、お兄さんを探しています』なんて言ったら、ぶん殴られるのは俺なんだぜ?」
鏡に映った自分の髪を撫でつけながら、過去に監督にどつかれた時のことでも思い出しているのだろう、若干しかめっ面になっている。
「そこは任せとけって。お前は肉体派、俺は頭脳派。十年前から決まってることだろ?」
そう不敵に笑ってみせた。
俺がみさきの話を元に考えた作り話はこうだ。
『司の友達(つまり俺)には小学校三年生になる弟がいる(もちろん架空の)。
その弟君が最近野球に興味を持ち始めて頻繁に見学に来るようになったのだが、いつも見ていた男の子の姿が最近見当たらない。
彼の活躍を楽しみにしていた弟君は、心配になって兄に相談した』
という設定だ。
五年生のみさきの兄で少年野球チームの所属なら当然六年生だろうし、そんな上級生ならそこそこ経験もあるだろう。低学年の男子が憧れていたとしても不自然ではない。
我ながら完璧な出来! と満足する俺に、司は複雑な顔だった
「お前、やっぱりまだ……」
「なんだよ?」
「いや、何でもない」
「お前には考え付かない言い訳だろ? 少しは褒めろよ」
そう言うと、司も苦笑しながら頷いてくれた。
「まったく。こんな話をよく短時間でひねり出せるもんだよな……おまえ、詐欺師にでもなれば?」
少年野球チームの練習は、前半基礎連・後半がチーム内での練習試合に分けられていて、間にお昼休憩をはさむ。片付けも含めて全て終了するのは大体二時くらいだ。
久々に司のおばさんの手料理をご馳走になり、練習試合が始まる頃を見計らって家を出た。
二人で自転車を濃いで向かう先が野球グラウンドなんて、それこそ何年ぶりかだ。
司は何だかんだと言いつつも、懐かしい若葉ファイターズの後輩たちの試合を楽しみにしているようだった。
夏の青空に心地よい音が木霊する。青い海の中を舞う白球を追いかけるように、数羽の鳥が飛びまわる。
時折流れてくる白い波を避けるように、ゆらゆらと……。
「……ゅう、ゆう、おい勇! 起きろ。そろそろ試合終わるぞ」
司に肩を揺さぶられて目を覚ます。どうやら木陰に寝そべったまま夢の世界に行っていたらしい。
何気なく見渡した視線に、あのベンチが重なる。
今はたくさんの応援客に座られて、古いベンチは軋みを上げているように見えた。
「あれが例のベンチか? ずいぶん古いんだな。塗装なんか剥げかけじゃねえか」
俺の視線を辿って、その先に位置する古いベンチを捉えた司が言う。
ふと思案している間に、いつの間にか試合は終わっていた。
『あざっしたぁ!』
と、元気のいい球児たちの掛け声と共に、応援客たちも席を立ち始める。
監督が今日の試合についてのコメントを終えたのを確認してから、俺たちは同時に歩み寄って行った。
「すいませーん!」
「こんなことって、あるんだな……」
しみじみと司が呟く。俺はいつもの定位置に座りながらもその視線を上げることが出来なかった。
結論から言って、みさきの言葉に嘘はなかった。一か月前の日曜日、みさきはここのすぐ近くで命を落としたのだ。
死因は事故死。
熱気に当てられたのか、道路の真ん中でふらついていたみさき。
大急ぎで仕事を片付け、息子の試合を見る為に急いでいた球児の父親。
踏み遅れたブレーキ。
その全てが、あまりと言えばあんまりな偶然だった。
みさきの兄の名前も分かった。上草満、小学六年生。チームのムードメーカーで、人一倍頑張り屋の子だったという。
……監督の言葉がよみがえる。
『あの子は努力家でねぇ。いっつも応援に来てた妹に「いい所を見せるんだ」ってはりきってたよ。上戸君の弟さんも聞いたことがあると思うなぁ。満がヒットを打つたびに飛び上がって喜んで、「お兄ちゃーん」ってそりゃあもう大騒ぎ!』
監督はその時の様子を思い出しているのだろう、口元に笑みが浮かんでいる。
『当然相手チームにとっては面白くないわな。妹さんに、ブラコンとかなんとか言って、いじめようとしてたっけ』
監督の笑みがますます広がる。
『ところが、彼女は小学生にしては驚くほどしたたかな子でね。上級生でさえ、彼女の口にかかると丸め込まれてしまうんだよ』
現在身を持って体験している俺としては一緒に笑うしかない。
……だんだんと、監督の声に悲痛な響きが混ざり始める。
『それが、あんなことになって……。満にとってはひどいショックだったろう。「俺のせいだ」って、涙も流さずに唇をぎゅっと結んで……正直、見ていられなかったよ。それからぱったりと練習にも来なくなって』
すんっ、すんっと、監督が鼻を啜る。
『あの車の運転手だって、いい父親なんだ。本当に。俺はよぉーく知ってる。球児たちの親御さんとはよく話すからな。どこにも悪者なんかいねぇ。いねぇんだ……』
「あの監督、いい人だよな」
俯いたまま言う俺に司がすぐに答える。
「ああ。昔さんざん迷惑かけたのが申し訳なくなるぜ……」
監督は当然のことのように司を覚えていた。
『おめぇみたいなやんちゃなキャプテンは、後にも先にもいやしねぇ。高校生になって少しくらい変わったかと思えば、その顔つきじゃあ今でも懲りずに悪ふざけしてるんだろう』
そう言ってひとしきり笑った後、かつての悪ガキの前で涙を見せたことを恥ずかしがるように頬を掻くと、
『たまには顔見せに来いよ』
そう言って去っていった。
「だけど、満まで自分を責めていた、ってのは気になるよな」
司の言葉に俺も同意する。
「ああ。みさきについては分かる。自分が死んだことで兄貴が落ち込んで、野球をずっと休んでるんだからな。もちろん彼女に責任なんてないんだが……」
自分のことを応援しに来る途中で事故に遭ったからか? いや、どうもそれだけじゃない気がする。
監督もそこだけは分からないと言っていた。何にせよ、今集められる情報はこんな所だろう。
無意識に傷んだベンチの背を撫でていた手を止める。
「それで司、お前今日はどうする? 夜になればみさきに会えると思うが」
「そうだな、会ってみたい気持ちはあるんだが……その子、まさか呪ったりはしないだろうな?」
「いやー分からんぞ? あいつは気が強そうだからな。不用意な発言するとひょっとして……」
「まっ、お前が大丈夫なら俺は問題ないか」
よっこらせ、と立ち上がりながら司があっけらかんと言う。それはどういう意味だ。
「それじゃあ十時に勇ん家の前にいるから、一緒に行こうぜ。紹介は任せた」
「了解」
数時間後、今回は手ぶらで家を出ると玄関の先に自転車に跨った司の姿があった。用心の為か、手にはお守りを持っている。
「お前、そりゃ一体何のつもりだ?」
司が握りしめている小さなお守り袋を指して言う。
「何ってそりゃ、一応念のためにさ」
「それにしたって、合格祈願のお守りに幽霊を払う効果はないと思うが……。それに司、前その中に何入ってんだ? とか言って散々いじくり回してたじゃねぇか」
とてもじゃないがこいつに手を貸す神様がいるとは思えない。
「まあ細かいことは気にするな。どうせ気休めだ。行こうぜ」
こいつは、どこまでが本気なのかたまに分からなくなる。そんな馬鹿話をしてる間に気が付けばグラウンドのすぐ前まで来ていた。
「おい、どうすんだ?」
さすがに少しは緊張しているのだろう、司が俺に問いかける口調はいつもより小さい。
「この辺でちょっと待ってろ。一応みさきにも聞いてみるからさ」
オーケーと小声で呟く司を背に、ベンチへと歩み寄って行った。
「ん?」
どうやら今回は、みさきの方が先に来ていたようだ。
ベンチに腰かけているみさきに背後から近寄る形になった俺は、昨日の仕返しとばかりに慎重に歩み寄る。しかし……。
「バレバレよ、勇誠」
そうあっけなく見破られてしまった。今日は実体として見える彼女の隣に腰かける。
「やっぱり幽霊を驚かそうなんて無理があったか。でもいつか必ずお前を驚かせてやるからな」
「……なによ、それ」
声にいつもの張りがない。
「どうした? 今日はやけに大人しいんだな」
「そ、そんなことないよ!? 勇誠こそ何か言いたそうな顔してるけど、わたしにお願いごとでもあるの?」
どこか無理しているのかと思ったが、俺の様子を看破したところを見ると考えすぎかもしれない。
「えっとな、実はその……みさきに会いたいって奴がいてさ。俺の友達なんだけど」
「ふーん、なるほど。わたしを珍しい見世物か何かだと思ってるのね、勇誠は。それなら、いっそのこと……」
ここで一緒に呪ってあげるわ!! と身を乗り出して大声を出すみさきに俺は思わず後ずさってしまう。
「ち、違う! 俺も司もお前を助けたいと思ってる。本当だ、信じてくれ!」
本当に幽霊そのものの恨めしい顔で迫ってくるみさきに思わず声が上ずる。すると、突然彼女は頬を緩ませたかと思うと、盛大に吹き出した。
「ぷっ、あははははっ! 勇誠ったら本気で怖がってるーおっかしいの!」
みさきの態度の豹変に唖然としながらも、からかわれたと気付くや途端に顔が赤くなるのを感じた。
「お、お前なぁ! よくも脅かしやがったな!」
「ふーんだ。わたしを脅かそうなんて百年早いってこれで分かったでしょ」
お、おのれ……何も言い返せないのが悔しい。
「そ、それでどうなんだよ?」
若干びくつきながらも、気丈な態度を装って再度問いかけた。
「あー司君だっけ? わたしに会いたいって人。別にいいわよ。どうせ無駄だろうし」
「は? 無駄ってどういうことだ?」
「きっと彼にはわたしの姿は見えないだろう、ってことよ」
「まるで司を知ってるみたいに言うんだな。そんなの会ってみなけりゃ分かんないだろう?」
「それなら連れてくればいいじゃない。大丈夫、呪ったりなんかしないから」
どうにもみさきに主導権を握られている気がするが、ここは彼女の好意に甘えることにした。
小走りに司を連れて戻ってくると、みさきは所在無げにベンチの上に座って足をぷらぷらさせていた。
「お待たせ。こいつが司、俺の友人だ」
みさきの正面に回って司を紹介する。しかし、彼女は下を向いたまま俺たちに視線を向けようとはしなかった。
「おいみさき? 下向いてないでこっち見ろって。人が話してる時は相手の顔見ろって教わ……」
最後まで言い終わらないうちに、突然司に遮られた。
「おい勇。お前さっきから一人で何言ってんだ?」
「え?」
「ここにそのみさきちゃん、ってのがいるのか? 俺にはさっぱり見えないんだが」
「う、嘘だろう? 目の前にいるじゃないか! こんなにはっきり見えるのに!」
みさきの隣に座ってその頭に手を乗せる。
「ほら、触れることだって出来る!」
すると司が歩み寄ってきて俺の手のすぐ横に恐る恐る指先を伸ばす。……しかしそれは彼女の体をあっさりと通り抜けてしまった。
やっぱり駄目だったでしょう? そう言わんばかりの表情でみさきが俺を見上げた。その瞳が寂しそうに見えたのは、きっと気のせいなんかじゃない。
「何でだ!? おい司、お前幽霊を否定してるんじゃないのか?」
「いや、そんなことは……」
「違うんだよ、勇誠」
司の声に被さるようにみさきが語りかける。
「彼が特別なんじゃない、勇誠が特別なの。今日やっと分かった。なんで勇誠にだけわたしの姿が見えたのか」
「それって、だから曜日の関係と幽霊を信じてるかどうかだろう? 司は二つとも……」
「もう一つあったのよ。それはね、空気」
「空気? 波長ってことか? 自分と合う合わないっていう感覚の」
「そう、それ。……ねぇ、勇誠」
「なんだよ」
みさきは夜空に浮かぶ月を見上げながら、囁くようにつぶやいた。
「勇誠は大切な人を失ったことが、あるよね?」
「……っ!!」
みさきが悲しげに微笑んだ。
「それはね、未練だよ。勇誠の中にあったその思いがわたしと通じ合ったんだ」
「ち、違う! 優香は大切な人なんかじゃ……」
それまで黙っていた司が俺の一言に反応して声をかけてきた。
「勇誠、お前……なるほどな」
「何一人で納得してんだよ」
「いや、大体分かったからよ。どうして俺には見えないのか。どうやら俺はお役御免らしいな」
「おいおい、ちょっと待てって!」
「いーや、待たないね。出来れば手伝ってやりたかったが、これはお前がやるべきことなんだ」
そう言い残してただ茫然としている俺をよそに司は去って行った。「頑張れよ」などと無責任な助言を残して。
「……ごめんね。言いたくないなら別にいいの。わたしは話し相手が出来ただけで十分嬉しかったから」
再び俯いてしまったみさきが小さな声でそう言った。また独りぼっちになるのを恐れるかのように。その姿がたまらなく寂しそうで思わず声をかけようとしたが、彼女がそれを遮るように言葉を紡ぐ。
「今日の昼間の勇誠たちの会話。聞こえちゃった」
「えっ!?」
「驚いた? 夜にしか行動できないって思ってたんでしょ? これでも日曜日なら周りの様子くらい分かるのよ」
顔を上げて、こちらを見つめる。
「今日教えてあげるって言ったのに、勇誠ったらせっかちなんだから。だから司君のことも知ってた。いい人だってこともね。それでこの人とも話してみたいな、って思ったんだけど……きっと駄目だって何でか分かっちゃってさ」
ベンチに座ったまま投げ出していた足を抱えて、膝の間に顔を埋める。
「まさかお兄ちゃんが自分を責めてるなんて、思わなかった……」
ぽつぽつと、みさきが語り出す。
「お兄ちゃんは何にも悪くないのに。わたしが、体調崩していたのを無理に隠して応援しに行ったから。それで立ち眩みをおこして、車の陰から飛び出して……全部、全部わたしのせいなのに!」
小さな拳をぎゅっ、と握り締める。その華奢な手を上から優しく包み込んだ。
「それは違う。監督だって言っていただろう? 誰も悪くなんかない。ただ単に、運が悪かったんだ」
「……ひっく、っ、ぇぐっ」
みさきは嗚咽を漏らしながら、涙に濡れた目を俺に向けて訴える。
「このまま自分を責め続けたら、お兄ちゃんきっといつかわたしのこと嫌いになるっ! みさきが無理に応援になんか来なければ、って。わたしが、お兄ちゃんから大好きな野球を奪ったんだって!」
俺の手を握り締めながら、大きな目から大粒の涙をこぼす。
「お兄ちゃん、もうチームに戻ってこないのかなっ? もう、あのやさしい笑顔で笑ってくれないのかなぁ?」
ついに堪え切れなくなったのか、大声で泣きじゃくりながら俺の胸に飛び込んできた。普段のみさきとはかけ離れた、でも本当のみさきの想い。それは聞いている者の胸が掻き毟られるほどの痛みを伴う慟哭だった。
彼女の肩にそっと手を回す。そして昔母がそうしてくれたように、優しく背中を叩く。大丈夫、きっと大丈夫。そんな思いを込めながら。
今までみさきは、どんな気持ちで夜のグラウンドに一人佇んでいたのだろう。
突然の悲劇に見舞われて、一瞬のうちに愛する者たちから引き離されて。悲しくなかったはずがない。寂しくなかったはずがない。
昨日のみさきの言葉。
『明日になったら教えてあげる』
それは自分の死を語る時に誰かに触れていてほしかったから。その時の彼女の気持ちが、俺の背中を必死に掴んでいる細い腕から伝わってくる。俺は、こんな簡単なことにさえ気が付けなかった。
「大丈夫だ、みさき。お前の兄貴は絶対にチームに戻ってくる。いや、俺が必ず引き戻してやる」
兄貴ってのは妹を泣かせるためにあるんじゃない。守るためにあるもんだ。それを分からせてやる。
いつになく真剣な俺の声に、みさきが俺の胸に埋めていた顔を上げる。涙を湛えながらも澄み切った大きな瞳にしっかりと目線を合わせて、もう一度約束した。
「俺がお前の兄貴を若葉ファイターズに連れ戻す」
……しばらく呆然と俺を見上げていたみさきが口をパクパクさせながら訪ねる。
「で、でもどうやって?」
みさきの目じりに残る涙を親指でぬぐってやりながら答えた。
「お前の存在を満に認めさせる。それで、お互いに相手を想い合っていることを伝えるんだ。そもそも、満をここに連れてくることが出来れば簡単なんだが……」
「それは、出来ないよ……」
悲しそうに目を伏せるみさきの姿に動揺しながらも理由を尋ねる。
「どうしてだ? 六年生くらいの子だったらまだ幽霊だって信じているだろう? それに司と違って満なら……」
「そういう問題じゃないの。たぶん、わたしはお兄ちゃんとは話せない。だって、お兄ちゃんはわたしの未練そのものだもん」
いまいち釈然としない面持ちの俺に、続けて説明する。
「わたしは、生きてる時に果たせなかった未練があるからここにいるの。それは、お兄ちゃんの試合を見ること。その願いを自分自身で叶えてしまったら、わたしがわたしの存在を自分で消すことになってしまう。それは許されないことなの」
「許されないって、誰にだよ」
「分からないけど、分かるのよ。このグラウンドの外側には出られないっていうことが理解できるのと同じ。司君とは話せないって分かったのと同じ。ううん、もっと確信出来るの。それが何でかは上手く説明出来ないんだけれど」
「そっか……。要するに、第三者の助けがいるってことだろ? それなら俺に任せろって! 大丈夫。何もみさき本人と会わせなくったって幽霊を信じさせる方法はある」
そう自信満々に答える俺に対し、みさきはこう言ったのだ。
「うんっ! 頼りにしてるよ! もう一人のお兄ちゃん」
その言葉は、遠い昔に塞いだはずの心の傷跡を疼かせた。
次回で完結です。
12月8日投稿予定。