謎の青年武士
「では、まいる」
十六夜は、もっていた防具袋を路傍に置いた。武士の顔に驚きのは表情が浮いた。まさか、十六夜は刀にかけても歯向かうとは思わなかったにちがいない。
「なっ、やる気か」
「そこもとが、その気なら」
十六夜も腰の刀に手をかけた。女の身だが、十六夜は北唇一刀流の達者だった。十六夜は、十一歳のおり、北唇一刀流の千葉周作の玄武館に入門した。この時代、玄武館は、桃井直雄の士学館、齋藤弥九郎の練兵館と並び、江戸の三大道場と称された名門である。
十六夜は玄武館で熱心に稽古に取り組み、剣の天稟もあったらしく、めきめきと頭角をあらわし、弱冠十六歳のころには役英と謳われたほどに腕を上げた。
「女とて容赦はせぬぞ」
丸顔の武士が抜刀した。十六夜も抜いて、切っ先を丸顔の武士にむけた。十六夜の双眸に強いひかりが宿っていた。剣客らしい凄みのある面貌である。
丸顔の武士は八相に構え、威嚇するように、両肘を張り刀身を高く上げて唸るような気合を発した。多小剣の心得はあるらしいか、敵の腕を見抜く目はないよいである。
対する十六夜は青眼に構えると、すぐに刀身を返した。斬る気はなかったのだ。
「おのれ!小馬鹿にしよって!」
武士の顔が憤怒にゆがんだ。十六夜が刀身を峰に返したのを見て、馬鹿にされたと思ったようだ。
「もさや生かす理由などない!」
怒声を上げ、丸顔の武士がすり足で間をつめてきた。
怒りと興奮とで、刀身がワナワナと震え、腰が浮いていた。気攻めも 制もない。我を失い、隙だらけである
タァッ!
突如、獣の咆哮のような気合を発して武士が八相から袈裟に斬り込んできた。力みだけで、鈍さのない斬撃である。
十六夜は体をひらいて敵の斬撃をかやしざま、刀身を横に薙ぎ払った。
ドスッ、というにぶい音がし、武士の上体が腹部で折れたように前にかしいだ。十六夜の峰打ちが、腹を強打したのだ。
武士はがっくりと両膝を折り、息のつまったような呻き声を上げた。すかさず、十六夜が武士の鼻先に切っ先を突き付け、
「娘ごを離して去れ」
と、重いひびきのある声で言った。
凛とした顔で、双眸が射るように武士を見すえている。娘の腕をつかんでいた痩身の武士は驚愕に目を剥き、娘から手を離した。十六夜がこれほどの遣い手とは思ってもみなかったのであろう。
「失せろ!命までは取りはせん」
十六夜が強い口調で言うと、痩身の武士がうずくまっている武士を助けおこし、
「くっ、おのれ」
そう言い残して、足早に一ッ橋の方へ逃げ去った。