プイプイ、モグモグ。
レヴィン博士は長年の研究の末、ついにタイムトラベルが可能な装置の開発に成功していた。
「これで、あの日、あの場所へ行って、現在をすべて変えることができる!」
彼の目的は、死ぬ運命にある美女を救うことでも、大当たりがわかっている宝くじを買って億万長者になることでも、他人の偉大な功績を奪い取ることでもなかった。
彼の明確な目的。それは、この世界をすべて無に帰すことであった。
もちろん、そんな狂気を周囲に明かすはずもない。彼はIQ200を超える稀代の天才として、すでに莫大な富も名誉も築いていた。この世に彼の知らない知識など存在しなかったし、仮に未知の概念が現れても、数秒で自らの脳内に取り込み反映させることができた。いわば「人間の皮を被ったスーパーコンピューター」である。
それほど全能の彼が、なぜ「世界の終わり」を望んだのか。理由は単純だった。
『人類とは違う種が支配した、未知の地球を見てみたい』
彼の突き抜けた知識欲の彼方には、もう人類の存在など塵以下の価値しか残っていなかったのだ。
彼の脳内コンピューターは、冷徹な確率計算を弾き出していた。
『超高度文明の宇宙人が地球に飛来して、僕の未知の知識欲を満たしてくれる確率はゼロに等しい。未来へタイムスリップすれば未知の知識があるかもしれないが、今の人類を見る限り、10年後か20年後には核の冬が来て勝手に絶滅している確率の方が高い。……ならば、過去へ遡って進化の歴史をリセットし、別の種をアセンション(超進化)させる方が、圧倒的にパーセンテージが高いな』
タイムトラベルを実現すべく、彼は約5年間、大豪邸の地下ラボに籠もり、信頼できるアシスタントロボットと共に研究に没頭した。そしてようやく、初実験の瞬間を迎えた。
無機物での実験は完璧だった。ポータルの中央に置いた物質は宙に浮き、激しいスパークと共に虚空へと消え去った。
続いて、生物を使った有機物の転送実験を行う。
「さぁ、頼むぞ」
設定は一年前。座標は、ラボの隅にある布の被った水槽。水槽の中にはホルマリンが満たされており、そこに送り込まれたモルモットは一年前の過去で即座に「漬物」になる――という寸法だった。
レヴィン博士が起動スイッチを入れると、凄まじい電撃のスパークが肉眼見えるほど走り、ポータルへ通電された。
だが、ポータルの中央にいるモルモットには、目に見える変化は何も起きなかった。その場にポツンと取り残されている。
「有機物をそのまま飛ばすには、まだ出力が足りないのか……?」
思考に耽る博士に、アシスタントロボが抑揚のない声で告げた。
「博士、見てください。モルモットが動きません。実験前まであんなに元気だったのに」
「電力サージによるショック死か?」
「いえ、その可能性も検証しましたが、微弱な生体反応はあります。ただ……スキャンの結果、脳の神経データが丸ごと消失していることが判明しました」
その言葉を聞いた博士は目を見開き、背後にあるホルマリン水槽へと勢いよく振り向いた。
布を剥ぎ取り、水槽のログを確認する。そこには、小さなネズミの脳みその形状をした「精神データ」が、確かに一年前の時間軸に定着していた。タイムパラドックスを避けるための物質遮断(布の効果)は完璧だったのだ。
タイムトラベルの成功に打ち震えたが、同時に大きな課題も残った。肉体をそのまま過去へ送ることはできない。ただ、ラボには実験用のモルモットがいくらでもいた。
それから、さらに5年の歳月が流れた。
博士は実験の指針を完全に切り替えた。「肉体」を過去に飛ばすのではなく、脳の「精神データ」だけを時間を超えて送り込む。実験の過程で、ラボにいた無数のモルモットたちの精神は、すべて様々な過去の時間軸へと撃ち込まれていった。
ある日、博士は因果律への影響を確かめるため、人類の歴史に残る「奇妙な精神医学の症例」をデータベースで検索した。
【症例A:ネズミのようになった男】
ある日突然、家族の目の前で人間の言葉を失い、「プイプイ」「キーキー」という鳴き声しか発することができなくなった男の記録。
【症例B:ネズミのようになった女】
オフィスでの勤務中、突意として四足歩行を始め、奇声を上げて近づいた同僚に噛みついた女性の記録。
【症例C:ネズミのようになった子供】
3歳になろうとしても人間の言葉を喋らず、変な鳴き声しか出さない子供。数年間通院するうちに症状は緩和され、次第に普通に喋れるようになっていったという記録。
博士は妙な違和感を覚えながらも、さらに古い文献を調べた。しかし、見つかるのは成長とともに自然治癒した「子供の症例」のような、一時的なバグばかりだった。
「ふむ。やはり、過去の人間に精神を上書きする実験は、時間軸の復元力に阻まれて失敗しているのか……?」
その後、実験に使用したモルモットの肉体はすべて廃棄処分され、研究はまた別のベクトルへと進められた。
さらに数年が経ったが、目覚ましい進歩はなかった。
変わったことと言えば、博士自身がここ数年で、肉を一切拒絶する「完全なヴィーガン」へと食生活が切り替わったことくらいだった。あまりに研究に没頭するあまり、世俗とかけ離れた生活が続いていたある日、博士はもう一度モルモットを使って原点からデータを集め直そうと考え、アシスタントロボに購入を命じた。
「近くのペットショップで、新しいモルモットを数匹、買い出しに行ってくれ」
すると、ロボットは首を傾げ、電子音声で静かに問い返した。
「……モルモット、とは一体何のことでしょうか、博士?」
博士の脳内のスーパーコンピューターが、激しくショートした。「モルモット」という単語の定義が、ひどく曖昧になっているように感じたのだ。
「ちょっと待ちたまえ、補聴器をつける」
年老いて弱った耳に補聴器をかけると、博士はもう一度、同じオーダーを繰り返した。だが、返ってきたロボットの返事は、常軌を逸していた。
「プイプイ。キーキーキー」
いや、違う。壊れたのはロボットではない。補聴器でもない。
博士の超天才の脳波が、ある恐るべき計算結果を導き出し、全身の血の気が一瞬で引いた。
レヴィン博士は、実験の途中で気まぐれを起こしていた。過去の「人間」にモルモットの精神を飛ばしても拒絶されるため、彼は「今から七百万年前の、まだ言葉も文明も持たない人類の祖先(類人猿)」の脳へ、無数のモルモットの精神を容赦なく撃ち込み続けていたのだ。
七百万年前の、真っ白な類人猿の脳に埋め込まれた、モルモットの精神データ。
――それが汚染の始まりではなかった。
あの時、モルモットの精神を植え付けられた類人猿こそが、長い年月をかけて知性を持ち、文明を築き、高度な科学を発展させ、この現代を生きる「人類」になったのだ。
つまり、地球におけるホモ・サピエンスの正体とは、未来の自分が過去へと送り込んだ「モルモットの精神」が超進化した姿、そのものだった。
歴史のデータベースにあった症例の数々。幼少期に「プイプイ」と鳴いていた子供たちが、成長するにつれて人間の言葉を喋るようになっていた理由。あれはバグなどではない。モルモットとして生まれた精神が、成長とともに「人間の言語」という後付けのプログラムを学習していく、人類共通のプロセス(発達の過程)だったのだ。博士自身が、成長するにつれて肉を拒絶し、ヴィーガンになったのも当然だった。最初から草食動物の遺伝子だったのだから。
そして今、博士が「過去へモルモットの精神を送り届ける」というすべての実験プロセスを完了した。
原因と結果が結びつき、ウロボロスの輪が完全に閉じた。
空腹を感じたレヴィン博士は、一旦考えるのを止めキッチンへ向かうと、棚から真空パックされたチモシーを取り出し、一心不乱にモグモグと咀嚼を始めた。




