七話
寝床で休もうかとあくびをした時、ふと鼻をかすめる臭いがあった。クンと吸って確かめて、ああ、またかと思った。最近になって、この臭いがよく流れて来る。獲物と同じような臭い……多分、仲間の臭いだ。
川へ獲物を連れて水浴びに行ってから、この臭いをよく嗅ぐようになってた。どれもまだ薄い臭いだから、近くにはいないっぽいけど、でも森の中にいることは確かだろう。ここにいて、こんなにこの臭いがするのは初めてのことだ。今までは何十日に一度、嗅ぐか嗅がないかだったのに、一日置きだったり、連続して流れて来ることもざらになってる。やっぱり、獲物のことを捜してるんだろうか。たくさんの仲間達で――それを想像して、ワタシは舌舐めずりした。
それはつまり、美味しい肉が今、この森の中にわんさかいるってことで、正直な気持ちを言えば、ワタシは狩りに行きたかった。だってこんなにたくさん森にいることなんて滅多にないんだ。美味しい肉が食べ放題とか、もう夢のようでウキウキしてくる。その美味しい肉はすでに捕ってあるけど、アレはどうも、まだ食べる気にはなれない。何というか、愛着が湧いたっていうか、ワタシにくっ付いて眠るあの姿を見ちゃうと、ガブッと行く気が削がれちゃうんだよね。だから代わりに森に来てる仲間を狩って、先にそっちを味わおうかと思ったんだけど、お母さんの言い付けを思い出して、自分を思いとどまらせた。
アレは一匹でも凶暴だけど、多く集まるともっと凶暴になって殺されるかもしれないから、狩る時は十分注意すること――そんな話をされたことがある。だからワタシは狩りに慣れても積極的にアレを探すことはしなかった。肉の美味しさはずっと忘れなかったけど、食べたい気持ちよりも殺される危険のほうを取ってきた。そんなふうに言い付けを守ったご褒美なのか、偶然にもアレを狩ることに成功しちゃったけど、それは本当に偶然だ。ワタシが近付くまで、アレが全然こっちに気付かなかったから上手くいっただけで、また同じようにできるとは限らない。今度はたくさんの仲間がいるんだ。他の仲間に気付かれれば、ワタシは取り囲まれて殺されちゃうかもしれない……それは嫌だ。だからここは我慢して、お母さんの言い付けを守り続けることにした。食べたいけど……グッと我慢するんだ。
変わったことはもう一つある。貯蔵庫にいる獲物の様子だ。わざと開けてる入り口の隙間からのぞくと、いつもならこっちを気にしたりすることは少ないのに、最近はのぞくたびにワタシのほうをちらちら見てくる。小さな変化だけど、そんな獲物が何だかソワソワしてるようにも見える。理由は一つしかない。森に来てる仲間の存在だろう。川へ行った時、声を上げて呼んでたのを見ると、獲物は仲間の元へ戻りたいのかもしれない。ワタシには一緒に暮らす仲間ってものがいないからよくわからないけど、群れで暮らすアレは、やっぱり離れた仲間が恋しいんだろうか。でもワタシが狩った獲物なんだ。一かじりもしないで帰すなんてあり得ない。もうアレはワタシのものなんだから、獲物がどう思ってようと関係ない。ただ、獲物は貯蔵庫に入れておけばいいけど、森で捜してる仲間が臭いを嗅ぎ付けて奪いに来る可能性もあるだろう。そこだけは気を付けておかないと。
休み終えたワタシは貯蔵庫へ向かい、隙間から中をのぞいてみる。すると入り口すぐ手前に座ってた獲物の顔がパッとこっちに向いた。その視線は怯えや警戒よりも、ワタシの様子をうかがってる感じが強い。やっと怖がらなくなってくれたのかな。食べ物を上げて、水浴びにも連れてって、寒い時は一緒に寝てあげて……そんなワタシの気持ちが通じたのかもしれない。ちょっと嬉しいな。じゃあ、そんなコレのために、今日も食べ物を採って来てあげるか――踵を返して、ワタシは森の奥へ食べ物探しに向かった。
寝床の近場のものはたくさん採っちゃったから、もう少し離れた場所まで行ってみる。すると、あちこち探さずとも大量のキノコや木の実を見つけた。うん、次からはこの辺りで採ろう――そう決めて、ワタシはとりあえず、くわえられるだけのキノコを採って貯蔵庫へ引き返す。と、鼻がまたあの臭いを感じ取った。ふわりと流れて来た独特の臭い……ずっと森の中を探してるんだろうか。そろそろ諦めて帰ってくれないかな。この臭いを嗅ぐたびに何だか不安になる。あの獲物は渡さないんだから。
捜しに来てる仲間の気配を探りつつ、てくてくと貯蔵庫に帰り着いたワタシは、入り口の石をどけて中に入った。そして採って来たキノコを置いて、さあ召し上がれと獲物の姿を探す。……あれ? どこだ? 右も左も、奥も見ても、さっきまでいたはずの獲物の姿がない。さらに奥まで入って臭いを嗅ぎながら隅々を見てみる。壁のどこにも異常はない。穴を掘って逃げたわけじゃなさそうだ。そんなことができるなら、もうとっくにやってたはずだ。残ってる臭いも、アレの臭いしかしない。もしかして仲間が奪いに来たのかと一瞬よぎったけど、それらしい臭いは何もない。あるのはアレの臭いだけ……。
「また、逃げ出した……?」
そう言えば前にもあったなと思い出す。まったく、懲りないな――貯蔵庫から出たワタシは、辟易した気分で地面に残るアレの臭いを探す。……ふむ、こっちのほうだな――方向が定まってワタシは早速臭いをたどって行く。
クンクンしながらどんどん進む。前の時は早めに見つかったけど、今回はそれよりも大分長く歩いてる。どこまで行っちゃったんだろう――臭いは木々の間を縫いながら、森を徐々に下って行く。獲物の姿が見えないかと頭を上げると、知らないうちに辺りは薄暗くなってた。もうすぐ夜になりそうだ。夜になると獲物を奪うやつらが増えてしまう。アレの仲間がいるだけでも面倒なのに、それ以外も増えたら厄介だ。他のやつらに見つかる前に獲物を確保しないと――少し急ぎながら臭いをたどり続けると、ようやくその姿を見つけた。
片足を引きずりながら木をたどるように、ちょこちょこ歩いてる後ろ姿がある。頭は前だけを向いて、まだこっちには気付いてない。ワタシは一安心した。それにしても随分と遠くまで逃げたもんだ。まあ、ここまで動けるのはちゃんと元気になった証拠でもあるけど。姿勢を低くして、ワタシは足音を立てないようにしながらそっと獲物に近付く。そして――
「……ッ!」
直前で振り返った獲物は驚いた顔でこっちを見た。その隙にワタシはいつものように獲物の腰をくわえて捕まえる。こうすればコレはもう抵抗しなくなる。ふう、それじゃあ帰るか――来た道を引き返そうとした時だった。
ふわり、とあの臭いを感じた。しかもちょっと濃い臭い……仲間がすぐ近くにいる? それはまずいなとワタシは急ぎ足でその場を去る。囲まれてコレを奪われるわけにはいかない。……もしかして、コレは仲間の臭いを感じて逃げ出したんだろうか。そうだとすると困ったな。だって寝床の近くでも臭いが流れて来たんだ。また臭いを感じれば、コレは逃げ出して仲間の元へ行こうとしちゃうかもしれない。そのたびに連れ戻すのはかなり面倒だ。それでワタシが仲間の群れと出くわして襲われるなんてことになったら最悪もいいところだ。もうあの寝床は、ゆっくり安心できる場所じゃなくなったのか……居心地よかったんだけどな……。
寝床へ戻るつもりだったけど、ワタシは目的地を変えて進んだ。森の斜面をズンズン上って、寝床を通り越して、さらに奥の方まで進む。こっちのほうはあんまり来ないから、ちょっと不安ではあるけど、でも臭いを避けるにはこれぐらい奥まで来たほうがいいだろう。
茂みをかき分けて、深く濃くなってく緑の中を突き進んでると、少し開けた場所を見つけた。木がそんなに密集してなくて、地面には大量の雑草が生えてる。あれを押し潰して寝床にすればフカフカになりそうだ……よし、ここに決めた。ここをワタシの新しい寝床にしよう! そうとなれば早速始めなきゃ。
と、その前に、くわえてるコレはどうしようか。そこいらに置いておいたらまた逃げそうだし、ここにはまだ貯蔵庫はないし……喉を噛み切って殺す? いやでも、せっかくここまで新鮮な状態で生かしてきたのに、殺しちゃうのはもったいないし、そんな気持ちにもなれない。じゃあどうするか――ワタシは考えながら辺りを見回してみる。
視線を上に向けた時、ピンと閃いた。コレが逃げないようにするには、地面を歩けないようにすればいいのでは? 足をもぐとか、そんな痛いことはしない。それで元気がなくなるのは困るし。ワタシが目を付けたのは、頭上の枝だ。あそこに引っかけておけば、コレはぶら下がるだけで歩けなくなる。その間に新しい寝床と貯蔵庫を作ってしまおう。うん、我ながらいい方法だ。
木に近付いたワタシは、折れなさそうな、なるべく太い枝を選び、ふんと気合いを入れてから後ろ足二本で立ち上がった。木の幹に前足を付いて姿勢を保ちつつ、枝に獲物を引っかけようと頭を動かす。すると珍しく獲物がもがき始めた。いつもはしないワタシの動きに慌ててるようだ。頼むから、今だけ、大人しくしてて。枝に上手く、引っかからないから……。
なかなか上手くいかないと思ってたら、もがいてた獲物がいつの間にか枝にしがみ付いてた。ワタシが思ってた感じじゃないなと、枝から引き離してやり直そうとするけど、がっちりしがみ付く獲物は全然足を離してくれない。強引に引っ張ろうと思ったけど、それで身体がちぎれても嫌だ。あれだけ強くしがみ付いてれば、風に吹かれても簡単には落ちて来ないだろうと考えて、ワタシは獲物から口を離して地面に足を戻した。見上げてしばらく様子を見てみる。獲物は最初、枝にぶら下がるようにしがみ付いてたけど、後ろ足も使って枝の上によじ登ると、そのままうつ伏せの姿勢で固まったように動かなくなってしまった。見えた顔には緊張を感じる。高い場所が怖いのかもしれない。普段は地面しか歩かない獲物にとっては、こういう高所は慣れないんだろう。でも怖がって動けないのは都合がいい。これで簡単には逃げることができないはずだ。さあ、今のうちに作ってしまおう。
まずは寝床作りだ。ボーボーに生えた雑草の中に入って、自分が寝る場所を粗方決めてから、足で踏み潰して平らにならしていく。時々枝にいる獲物の様子を見てみるけど、特に変わった感じはなく、うつ伏せでしがみ付いたまま、こっちを眺めてるだけだった。逃げそうにないな。安心して作業が続けられる――そう思って寝床作りに集中して励んでた時だった。
ふと気配を感じてワタシは動きを止める。顔を上げて、辺りに意識を向ける。どこだ? 確かに、何かがいるのは間違いない。じっと耳を澄まして気配の位置を探る。すると立てた耳にかすかな物音が届く。と同時に、甘く痺れるような、でも不快感もある、何とも言えない匂いが流れて来た。ワタシは反射的にその方向へ目をやった。暗い森の奥、その中から影になった身体がゆっくり現れた。ワタシよりも大きな身体……わずかに差し込む夜空の光を、全身を覆う銀色の体毛がキラキラ反射させてた。




