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狩りのあとさき  作者: 柏木椎菜


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四話

 腹が、減った――そう思ってから、一体どれだけの日数が経ってるのか。俺は洞窟の奥で地面に寝転がりながら、薄暗い天井を見上げてぼーっと考えてた。あいつが最後にここをのぞいてから、随分時間が経ってるはずだ。でなきゃこんなに腹が減るわけがない。何か食べたい。でもここには土と落ち葉、小石ぐらいしかない。今ほど自分がミミズだったらと想像することもないだろう。ミミズなら見渡す限りの土を食べられるし、地中にもぐって外へ出ることもできる。はあ、何で俺は今、人間として生きてるんだ――そんなどうでもいい考えばかり長時間続けてる。多分、身も心も限界なんだろう。まともな思考すら上手くできない。

 でも限界状態であっても、生きようとする本能は勝手に働いてしまう。数時間前か数日前か知らないが、外では雨が降ったらしい。その雨が洞窟の天井から浸み出して、ポタポタ雫となって落ちてきてた。ここの地面が常に湿ってるのはこれが理由なんだろう。空腹と共に喉も乾いてた俺は、飛び付くようにその雫の下に行って口を開けた。じわり、じわりと渇きは癒されて、俺は結果生き伸びる選択をしてしまったと飲み終えた後に気付いた。

 それまでは、何度も死ぬ覚悟をしてた。狩猟用の毒を飲んで、さっさと楽になるか、あいつに毒を飲ませて一矢報いてから死ぬか、その二つの道で悩み続けてた。そして俺は一つに決めた。次にあいつがここへ入って来た時に、俺は食べられる前に毒を飲んで死ぬことにした。今すぐ飲んでも変わらないことだが、いろいろ考えながらだと飲む勇気がなかなか出ない。だから恐怖に煽られれば、急かされる勢いで一気に飲めると思ったんだ。そう心に決めて俺は毒の小瓶片手にその時を待った。

 でもやつは全然来なかった。待てども待てども入り口を塞ぐ石は動かなかった。俺を食べるんじゃなかったのか? 何のために生きたままここに閉じ込めたのか。こんなのもはや虐待にしか思えない。自分でも身体が弱っていくのがわかった。座る姿勢がだんだん保てず、地面に横たわった。それでも小瓶はしっかりと握ってたけど、それもやがてできなくなった。手のひらからコロコロ転がり落ちる小瓶を目で追うだけで、それ以上の動きが取れない。今は小瓶がどこにあるかも見えない。あいつが来たら飲まなきゃいけないのに、それができそうにない状態になってしまった。

 そんな弱った身体に拍車をかけるように、真っ暗な夜の時間帯になると、洞窟の中はひどく寒くなった。季節は秋だ。村ならまだ冷え込みは弱いだろうが、こんな森の奥だとまた環境は変わって気温は冬に近付く。特に寒いのは流れて来る風だ。入り口に隙間があるせいで、そこから隙間風が入り込んで俺に吹き当たってくるのだ。それに耐えられず、一度這いずって場所を移動したけど、寒風は洞窟の中を巡るのか、今も顔を撫でるように吹き付けてきて、結局無駄な体力を使っただけに終わった。丸めた身体を両手で抱き込み、どうにか体温を保とうとしてるけど、そうしてることも、もう辛い。頭の栄養を使い果たして思考停止しかけてると、心のほうも停止して無の状態になろうとしてる。もうどうなったっていい。どうせ死ぬんだから――目を閉じて、そんな言葉ばっかりを唱える。そうして空腹から意識をそらすしかなかった。

 どれだけの日数が過ぎたのか。すでに身体を動かすのも辛く、見据えた先に死が迫るのを感じて眠ってた時だった。今まで風の音しかとらえてなかった耳が、ズズッと重い音を聞き取った。何だろうと俺は心の中じゃ反応したが、顔を向けることまではできなかった。無になった心が、どうせ幻聴だと俺の興味を引き止める。じっと動かずに再び眠ろうとしたが、背中辺りが何となく温かい気がして、そこで俺はさすがに動いた。

「……あ……うぅ……」

 錆び付いた人形のような動きで顔を振り向けると、途端に眩しい光が俺の目を射ってきた。目を細めてその奥をよく見てみれば、入り口の石がどけられて、そこに黒く大きな影がたたずんでる――何でだ。何で今になって、俺を食べに来たんだ。毒が手元にない今になって……。

 獣はのし、のしとこっちに近付いて来る。俺は目だけで小瓶を探したけど、近くには見当たらなかった。目の前まで迫られて、俺は獣を見上げた。この時を俺はずっと待ってたのに……やっぱり自然に生きるものはままならない。苦しまずに死ぬなんて不可能だったか――せり上がってきた恐怖に全身が縛られて、俺は獣の口がグワッと開くのをただ見つめてた。そしてその口は横たわる俺の背中に噛み付いて――持ち上げた……?

 既視感のある状況だった。俺の身体はうつ伏せの状態でくわえられて、手足をブラブラさせながら獣に運ばれて行く。洞窟を出て、光が降り注ぐ森の中を進む。牙の当たる腰の辺りが痛いけど、別に深く刺さってるわけじゃない。食べずに、運ばれてる……わけがわからない。こいつに限っては、普通の獣にする予測がほとんど当てはまらない。やっぱり幻の獣と呼ばれるだけのことはある。行動がまるで読めない。ここでは食べずに、わざわざ別の場所へ移動して食べるつもりなんだろうか。そう言えばここに隠してた肉の塊を持ち出してたよな……死は目前みたいだ。

 獣の足が止まって、俺は地面に下ろされる。……ここ、見たことがあるぞ。雑草が重なって押し潰された地面……こいつの巣と思われる場所だ。骨とかの残骸が散らばってるのを見ると、食事はここでするって決めてるのかもしれない。俺も、ついに骨にされるのか――頭をわずかに動かして獣を見上げてみる。側に立ってる獣もこっちをじっと見下ろしてた。何を考えてるんだろうか。こいつまだ生きてるなとか、どこから食べようかとか思ってそうだな。でも多分違うんだろう。こいつは俺の予測を裏切る獣だ。どんな思考回路をしてるのか、それがわからないことが今は怖い……。

「グルロロ、グオオン」

 視線を外せずに見つめてたら、獣の喉が岩を転がしたような低い音を鳴らした。驚いた俺はただ身体を固まらせた。今のは、鳴き声か? 巨体に似合った迫力のある声だが、想像通り可愛げのない声でもある。まさか威嚇でもされたんだろうか。よく知らない相手じゃそれも判断できない。怒ってたり苛立ってるなら、刺激しないようじっとしてたほうがいい……。

 獣に見下ろされて数分が経った頃、俺に向けてた視線をふっと外したかと思うと、獣は急に踵を返して巣から離れて行ってしまった。……また、食べない? しかも今度は運びもしないのか? 本当にわからないし思考が読めない。あいつは俺をどうしたいんだろうか。本当に食べ物だと認識してるのか、疑いたくもなってくる。……いや、まだ巣を離れただけのことじゃないか。用足しに行きたくなっただけかもしれない。捕って、しかも生かしてる俺を残して遠出するなんてないだろう。少し経てば戻って来るに違いない――そう思って俺は地面にうずくまって動かなかった。獣が消えた森の先を見続けて〝死神〟が戻るのを待つつもりだった。

 だが五分経っても、十分経っても、獣が戻って来る気配がない。空気も風も変わらず寒かったけど、差し込んで来る太陽の光が首元に当たって温められて、その熱が停止しかけてた頭を少しだけ正常に動かしてくれたのかもしれない。だからこんな状況にこんな考えが浮かんだ。今こそ、逃げる絶好の機会じゃないか……?

 死の土壇場になって、まさか最大の希望が訪れるとは。アリーンや母さんに、また会える――その希望は俺の身体に大きな力を与えてくれる。飢えと寒さで力の入らなかった手足が、地面を懸命につかみ、蹴った。自分にまだこれだけの力が残ってたことに驚きつつ、俺は震える身体を立ち上がらせようと試みたが、折れた足に激痛が走って断念した。今の状態じゃ足をかばって歩くのは不可能だ。立ち上がれたとしても、すぐに転んで動けなくなるのが目に見える。そんなことに、なけなしの体力は使いたくない。それならこのまま、這ってでも逃げたほうがいい――そう決めた俺は、地面に腹をこすりながら両手を動かして獣の巣を離れた。

 静かな森の中に、ズリ、ズリと俺の這う音が響く。やけにうるさく感じて、獣に気付かれるんじゃないかと焦りを覚える。でも後ろを確認する余裕はなくて、ただひたすらにほふくして進む。……ここまで無我夢中で逃げて来たけど、方向はこっちで大丈夫なんだろうか。今さらそんなことが気になってしまった。村と逆方向には行きたくないが……まあ、今はそれよりもあいつから逃れるほうが先決だ。斜面を下って行けば、じきに森から出られるだろうし。心配なのは、それまで体力が持つかどうかだ。正直、土まみれの両手はもう限界だ――切れそうな息を吐き出して、俺は希望を目指して逃げ続けた。だが間もなくしてそれは聞こえた。

 地面を這う音に混じって、ガサ、と落ち葉を踏み締める音がした。気のせいだと俺は無視して進んだけど、その音は次第に大きく、はっきりと聞こえてくる。そしてとうとう背後に不穏な気配を感じ取って、俺は止まらざるを得なかった。逃げ切れなかった――見ずともわかってたが、振り向いて確認してみる。すぐ後ろには銀色の毛むくじゃらの巨獣が、無表情でこっちを見てる姿があった。希望がまたしても消えた。俺はがっくりうなだれた。

 そんな俺の気持ちなど知る由もないだろう獣は、お構いなしに腰部分をくわえると、いそいそと巣へ引き返して行く。気力も体力も失った俺はされるがまま死へ直行させられる。

 雑草が敷かれた巣に下ろされる。戻って来た。ここで食べられるんだな――恐怖から湧く震えを押さえるように、身体を丸めて手元を見下ろす。……頼む。長く苦しませないでくれ。ここまで飢えで十分苦しんでるんだ。もうさっさと終わらせてくれ――俺は両手を握り合わせて、心の中でそう叫んだ。

 側で獣の動く気配がする。それが近付いて来て、俺の心臓は暴れ回る。痛みが、来る。それをじっと身構える。だが次の瞬間、来たのは痛みでも死でもなく、赤みがかった魚だった。俺の手元のすぐ前に、獣がドサッと置いた。光が反射して表面の鱗がテカテカ光る。生魚だ。まだ新鮮らしく、濁りのない黒い目と視線が合った。これは、川で捕れるマスか? 腹には大きな傷痕がある。細長く、引っかいたような痕……こいつの爪痕なら、この魚は獣が捕ったものなんだろうか。だとしたら、この状況をどう理解したらいいのか……。

 そっと獣のほうへ目をやる。側にたたずむ獣は俺の様子を見てるようだった。魚に対する反応を見てるのか? もう一度魚を見る。すでに死んで動かない魚だ。ビチビチ跳ねでもすれば反応のしようもあるけど、ただ横たわる魚を見せられて、一体何をすればいいっていうのか。再び獣へ目をやる。変わらず俺のほうを見てる。心なしか、その眼差しは何か期待してる感じを受ける。こいつの思考はやっぱりわからない。

 魚に目を戻して考える。これは獣の食料じゃないんだろうか。こいつが肉以外に何を食べるか知らないけど、わざわざ川に入って捕ったのなら、それは食べるためだと思うが……しかし、これが生じゃなければな。焼かれてたり干されてれば、すぐにでも飛び付くのに。魚を生で食べるのは、さすがにためらわれる。この漂う生臭さも……顔が勝手にしかめっ面になってしまう。

 俺がそうして魚に戸惑ってると、獣はまた巣から離れて行った。その姿を呆気にとられながら俺は見送る。……あいつは、何をしてるんだ? 逃げる機会をわざと与えてるのか? だとしても俺にはもうそんな体力はない。逃げたくても逃げられないんだ。それをわかって俺を一人にしてるのかどうか――地面でぐったりしながら獣の後ろ姿を目で追った。木々を縫って獣はどんどん遠くへ行く……が、時折こっちに視線をやるような仕草も見せる。どうやら逃げる機会を与えてるわけじゃないらしい。森の中をうろつきながらも、俺の視界から消えるほど遠くまで行く気はないようだ。じゃあ一体何をしてるのか……。

 ウロウロ動く獣を遠目に眺めてると、やがてその姿が巣へ引き返して来た。散歩してただけにしか見えなかったけど……ん、口元が不自然にちょっと開いてるような……何かくわえてる? ――そう気になった俺の前に、獣はそのくわえてたものをポトリと落とした。

「ひっ……!」

 思わず短い悲鳴が出て、俺はそれから身体をのけぞらせた。地面に転がったのは茶褐色の鼠だった。身体は潰れてるが、まあまあな大きさがある。村で見る鼠とは違うから、これは野鼠だろう。狩人として生き物には慣れてるつもりだけど、いきなり潰れた鼠を置かれたら、さすがに俺だって驚いてしまう。

 しかし、魚の次は鼠って、こいつは本当に何がしたいんだ――獣に目を向け、様子をうかがう。獣は何をすることなく、さっきと同じように俺の反応を見てるようだった。……まさか、驚かせようとしてるわけじゃないよな。獣がいたずらなんて考えつくわけないし、生きるために不要な行動をわざわざ取るとも思えない。きっと気付いてない意味があるはずだ。少し考えてみるか――極限まで鈍くなってる頭を強引に働かせて、俺は理由を考えた。

 いたずらのような遊びでも、いじめのような嫌がらせでもないはずなんだ。何せ俺はこいつの食料なんだから。その証拠に俺は食料庫に入れられてた。だからこいつはそのうち俺を食べるだろう。でもそこで疑問なのが、なぜ生かしたままにしてるかだ。食料庫にあった肉は、肉の塊として置かれてたのに、俺の場合はそうしてない。こいつにとっては、俺を生かしておきたい理由があるんだろう。その理由も知りたいけど、今はそれは重要じゃない。大事なのは、こいつが俺を生かしてるっていう事実だ。生きててほしい、生かしておきたい……少なくとも獣はそう思ってる。だから俺は今も生きてる。そういう気持ちを持ちながら魚と鼠を俺の前に置くっていう、その真意は――

 俺は地面の鼠を見下ろした。……もしかして、食べろってことなのか? 俺に生きててもらいたいから、これを食べて、もう少し生きろっていう、そういう意図なのか? そう自分で考えながらも首をひねる。いや、だけどこいつは俺を食料だと見てるはずなんだ。食料に食料を与えるって、それはもはや家畜じゃないか。獣が飼育なんて意識を持ってるとは思えない。だけど……俺はまだ生きてる。なぜか生かされてる。こいつが俺を生かしておきたいのは確かなんだ。そのためには何か食べさせてやらないと死んでしまうってわかってるなら、この魚と鼠はやっぱり、そういう意味なんだろう。俺のための食料……なら、もう少しまともなものを願いたいが。

 予想の答えを出したところで、獣がのそりと動き出した。また巣を離れて森の中へ入って行った。俺の視界から外れない距離を歩き回ってる。次の食料を探してるんだろうか。だとしたらあんまり期待はできないな。あいつとは食の趣味が違い過ぎる――俺は目の前の魚と鼠を見下ろす。生臭さと潰れた見た目……このまま側に置いておくもんじゃない。俺は懸命に伸ばした手で近くに転がってた骨を握ると、それで魚と鼠を突いて巣の外へどかした。できれば遠くまで放り投げたいけど、今できるのはここまでだ。

 ガサガサと騒がしい音に俺は視線を向ける。見れば獣が葉の付いたままの長い枝をくわえて戻って来てた。……今度は葉っぱか? 確かに人間は植物も食べるけど、何でもいいってわけじゃない。あんな硬そうな葉っぱは絶対無理だ。

 枝を引きずって持って来た獣は、俺の意思なんか考えもせずに、俺の前に枝を置いた。視界が一気に森に覆われる。濃くて新鮮な緑の香り……満足なのはそれだけだ。こんなものを持って来られても、他にすべきことがない。ちらりと獣を見るが、やっぱり俺を見て反応を待ってる。どうしたものか。これは食べられないとわからせるために、身体の下に敷いて見せようか――そう思いながら、枝に手をかけて俺は気付く。

 たくさんの葉の間に、いくつも丸い実がなってる。黒っぽいから気付かなかった。これは確か、ムルイの実だ。酒造りに使ったり、煮詰めてジャムにしたり、村でもよく採ってた果実だけど、旬は夏だ。それを過ぎると実は黒ずんで硬くなり、甘さもなくなってしまうから、秋になると見向きもされなくなる。そして今がまさにその秋……黒い見た目は、とうに旬を過ぎてることを伝えてる。これが夏なら、この実全部を食べられたのに。すごく残念だ……。

 と思って、俺はハッとして獣を見やった。……こいつは葉っぱを食べさせようとしたんじゃなく、実のほうを食べてもらおうとして持って来たのか? 好むだろう食の思考ができたっていうのか。だとしたら驚きだ。人間に対してそこまで思い至るなんて。こいつ、実はすごく賢かったりするんだろうか?

「俺が、食べられそうなものを考えて、持って来たのか?」

 気付いたら獣に話しかけてた。力の入らない自分の声を聞いて、何て意味のないことをしてるんだと思ったけど、こいつの不思議な行動に聞かずにはいられなかった。見下ろしてくる目をじっと見つめ返したが、もちろん返事なんてあるはずが――

「グオォ、グフォン」

 鼻息を出しながら獣が控え目な声で鳴いた。俺は驚いて何度も瞬きを繰り返した。返事、なのか? 今のは怒りや威嚇の類の声じゃなかった。穏やかな調子で、俺の声に反応したかのような鳴き方だった。獣が人間の言葉を理解してるとは思えないけど……何か答えようとしてくれたんだろうか。もう一度鳴かないかと期待して、しばらく獣を見つめて待ってみたが、しっかり閉じられた口から声が出ることはもうなかった。単なる偶然だったか――手元の枝に目を戻した俺は、ムルイの実を見下ろす。黒ずんだ丸い実。中にはしおれて縮んでるものもある。明らかに不味そうだ。でも食べられる実で、さっきの魚や鼠よりは何十倍もましなものだ。飢えてる身で、不味そうだからと除ける選択肢はない。この苦しみから抜け出すには食べる一択だけだ。どうせこいつに食べられる運命でも、今はとにかく飢えの苦しみから解放されたい――枝になった実を一つもぎ取り、顔に近付けて匂いを確かめる。旬の時期は甘い香りが漂うけど、今はそんな匂いが消え失せて無臭になってる。味まで消えてたらどうしようと思いつつ、俺は恐る恐る実をかじってみた。

 ……正直に言えば、やっぱり不味い。実は木を噛んでるみたいに硬いし、甘さは遥か遠くにあるし、水分はかすかに感じる程度しか残ってない。旬を過ぎるとこんなにも味が落ちるのかと驚く。だけどまったく食べられないものでもない。いや、普段ならまったく食べられないものに入るだろう。こんなものすぐ捨てられる。でも今の俺にはとにかく食べ物が必要なんだ。極限まで研ぎ澄まされた舌は、普通は感じないような甘ささえ感じ取り、久々の栄養だと取り込もうとする。ゆっくり噛み砕きながらゴクリと飲み込み、またかじる。それを無心で繰り返してると、不味くてもまあまあ食べ慣れてくるから不思議なもんだ。

 食べてる視界の隅で獣が動いたと思うと、のそりと歩き出してまたしても巣から離れて行った。もっと採って来るつもりか? ありがたくはあるけど、ムルイの実ばっかり出されても、いくら飢え状態だからって食べ続けるのはちょっと辛い。いや、こんな命が懸かってる時にわがままなんて言ってる場合じゃないのはわかってるが、甘くもないカラカラな実が命綱になるのは本当に辛くて苦痛だ。だって食感は木で、味はほぼないんだ。仮に栄養満点だと言われても、日に一つか二つ食べるのが限界だろう。でも今の俺はこれにすがるしかないんだろう。食べたくないけど、食べないといけない――味気ない実をカリカリかじりながら、俺は獣がうろつく様子を横目で眺めた。

 ほどなくしてその獣が戻って来た。さっきより早いな、と思いながら口元に注目するが、そこに枝はなかった。でも何かをくわえてはいる。また別のものを採って来たのか? 獣は実のなった枝の横で頭を下げると、くわえてたものをポトリと落とした。何だか茶色くて小さいな。また鼠を持って来たわけじゃないだろうな――俺は食べる手を止めて、その小さな物体を凝視する。

 丸みを帯びた独特な形ですぐにわかった。これはキノコだ。笠が開き切ってない小ぶりなキノコが二つ……俺はまた驚いた。木の実の次はキノコと来たか。こいつ、すごいな。どれだけ人間のことを知ってるのか。それとも偶然なのか。

 獣は踵を返し、すぐに巣を離れた。そして森をうろついて戻って来ると、くわえたキノコを俺の前に置いて、また採りに行く――それを何度か繰り返して、俺の前にキノコの小山を築き上げた。仕事を終えて側でたたずむ獣を俺は見上げる。その顔が何だか、俺を食べようとしてる野蛮で怖いものだけに見えなくなってた。今は身も心も弱り過ぎてるから、些細なことでも気持ちがぐらつきやすくなってるんだろう。だけどそれでも、俺が美味しく食べられるであろうキノコを採って来てくれたことが、小躍りしたくなるほど嬉しく思えた。

 俺はキノコの小山に手を伸ばして、獣が持って来たものを確認する。人間なら誰しもが知ってる通り、キノコには毒を持つものもある。森で生計を立てる俺も、小さい頃から両親に毒キノコの見分け方を教わり、その違いを身に付けてる。獣に毒キノコという概念があるかわからないけど、手当たり次第採って来たものなら、食べる前に一つずつ確認しないといけないだろう――順番に手に取って、俺は大丈夫なキノコかを確かめていった。だがそんなことが必要ないぐらいに、置かれた中に毒キノコは混ざってなかった。これはさすがに偶然じゃないだろう。こいつはおそらく、毒のあるものを嗅ぎ分けてるんだ。それを採らずに持って来たってことは、こいつも普段キノコを食べてるのかもしれない……そうか。別に俺の好みを予想してたわけじゃなく、自分も食べるものを持って来てくれてたわけか。でもそれだって驚くことだ。獲物で食料でしかない俺に、餌付けみたいな真似をしてるんだから。普通の動物じゃ考えられない。子でもない相手に自分の食料を分け与えるなんて。本当にこいつは何を考えてるのか……。

 まあ、今は獣の頭の中身を知るより、飢えから抜け出すほうが先だ。こいつが下心を持ってこんなことをしてるとしても、俺はありがたく食べさせてもらうだけだ――一つキノコを取って、付いた土を払ってから俺はかじり付いた。ほどよい柔らかさ、瞬間、鼻を通る香り、噛めば噛むほど滲み出る旨み……キノコってこんなに美味かったのか。家の料理じゃさほど味わって食べてなかったけど、そんな自分を後悔するほど美味しい。ああ、俄然食欲が湧いてきた。これならいくらでもいけるぞ――それから俺は夢中でキノコを頬張った。一気に食べると胃が悲鳴を上げそうだから、そこは少し抑えつつ、でも止まらない食欲のままにキノコの小山を崩していく。その途中で獣も隣で何か食べてたみたいだけど、俺にそんなことを気にする余裕はなかった。とにかくキノコが美味し過ぎる。これでどうにかまだ、生きられる――腹が満たされるまで、俺はひたすらキノコを食べ続けた。

「ふぅ……食べたな……」

 満足した俺はゆっくり身体を起こす。あれだけあったキノコをほとんど食べて、少し手足に力が戻ったようだった。このまま体力も戻ったら、すぐにここから逃げないと。でもそうするにはもう少し時間が要りそうだ。飢えのダメージは結構大きい。焦って逃げたってヨロヨロじゃすぐに捕まるんだ。じっと体力の回復を待ったほうがいい。

 見上げると、枝葉の間から差し込む光の角度が傾いてた。そろそろ夕暮れらしい。その中を吹き抜けて来た風が俺の全身に容赦なく当たる。服の隙間に入り込んだ寒風に思わずブルッと震えた。さ、寒い……こんな風にさらされ続けたら、せっかく腹を満たしても凍え死にそうだ。何もさえぎる物がない場所より、石で塞がれてもあの洞窟の中にいたほうがまだましに思える。こんなことを願うのも何だけど、そろそろ俺をあの中へ戻してくれないだろうか――腕をさすって寒さを紛らわせながら、俺は側にいる獣に目をやった。

 てっきりこっちを見張ってるものと思ってたが、巣の隅に伏せた姿勢でいた獣の両目はしっかり閉じられてた。まさか、寝てるのか? 俺は顔を傾けてのぞいてみる。薄く短い毛に覆われた瞼はぴったりくっついてる。呼吸も一定の間隔で繰り返され、実に安らいでる。やっぱり寝てるな。俺を放って寝込むなんて油断もいいところだ。でも動物はわずかな物音でも敏感に察知するものだ。今は倒れてる三角の耳も、俺の足音を聞けば瞬時に立ち上がるかもしれない。安易に逃げるのは危険だろう。

 それにしても、と俺は獣を見つめる。光を反射する銀色の体毛……まじまじと眺めると、その艶と輝きを放つ美しさには自然と見惚れてしまう。この毛皮なら一年、いや、三年は遊んで暮らせるだけの値がつきそうだ。他を探したって、こんな色の、ここまで艶やかな毛皮はないだろう。やっぱり幻の獣だけある。持ってるものも幻級だ。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、触れて確かめたい――飢えから解放されて、心に少し余裕ができたのかもしれない。そんな危険な欲求が湧いて、俺は小さく息を呑んでから獣にゆっくり手を伸ばした。

 人差し指で、獣の首辺りに触れる。表面は砂埃なんかでざらついてるけど、長い毛の下に入ると、スベスベした感触が伝わってくる。その肌触りのよさに、なかなか獣から手が離せない。すごい。この心地よさは今までにないものだ。ずっと触れていられるなめらかさ……これに包まれたら、どれほど気持ちいいか――俺は重なる毛の奥へさらに手を差し入れる。肌に近い部分はもっとなめらかで柔らかい。まるで絹織物に触れてるようだ。そして温かい。冷え切ってた手に温もりが巡る。何だか、生き返る心地だ。俺はもう一方の手も毛の下に差し込む。焚き火に当たるより温かい。ああ、何て気持ちいいんだ……!

 気付けば俺は獣の腹の辺りに身を寄せて、毛の中に埋もれてた。恐怖よりも寒さから逃れたい気持ちのほうが勝ってた。でも何より、銀色の体毛の感触に魅了されたんだと思う。これに触れながら寝たら、一体どれだけ幸せか。獣が目を覚まさないのをいいことに、俺はそんな欲望を試した。その結果、二分後には意識を手放してた。すぐに熟睡して、夢の世界に飛んだ。こいつの毛皮は本当にすごい。狩人の心を確実に燃え上がらせる。絶対に狩りたい。でも残念ながら今はそんな状況じゃない。俺は食べられる運命へ歩かされてる。目が覚めて、こいつと目が合った瞬間に、それを自覚するしかなかった。

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