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狩りのあとさき  作者: 柏木椎菜


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十六話

「……み、見て! あれ、村よね……?」

 支えてたアリーンが前を指差して言った。山の斜面を下り続けてほとんど体力をなくした状態で、息も絶え絶えで頭を動かすのも億劫だったけど、村と聞いて俺は視線を上げた。

「……村だ……見覚えのある屋根がいくつも見える……!」

 立ち並ぶ木々の向こう、鬱蒼とした緑越しに、板葺きの三角屋根が並んでるのがはっきり見えた。しかもどれも知ってる屋根だ……間違いない。俺達は自分の村に、コルミナ村に戻れたんだ……!

 俺はアリーンと顔を見合わせて一緒に駆け出した。疲れ切って体力がないのも忘れて、ただ一直線に駆け抜ける。足がもつれそうになっても止まったりしない。そんな時間も惜しむほど俺達は早く村にたどり着きたかった。遠かった屋根がだんだん近付いて来て、背の高い木々でさえぎられると、村の入り口はもう目の前に現れる。

「……帰って、来た……!」

 俺はアリーンの手を握って、並んで村に入った。目の前には見慣れた家々に畑や家畜、その中を動き回る多くの村人達の姿――何てことないよく知った生活の光景だけど、それを見てるだけで俺は深く感動した。

「……あん? お前……ま、まさか、マノラさんとこのリヴィオか?」

 水の入ったバケツを片手に通りすがった男性が、ふと足を止めて瞠目しながら聞いてきた。

「ああ、そうだ。俺はここの狩人のリヴィオだ。アリーンも一緒にいる。悪いけど伝え――」

 俺が最後まで言い切る前に、男性はバケツを揺らしながら村の奥へ走って行った。

「おーい! 大変だ! 死んだはずのリヴィオが戻って来たぞ!」

 周りに向けて叫ぶ男性の声に、近くにいた者達は怪訝な表情をしながら近付いて来る。

「死んだはずって言い方はないだろう……苦労して戻って来たってのに」

 ぼそりと呟くと、隣でアリーンがくすりと笑った。

「……本当なの? あなた、リヴィオなの?」

「信じらんねえ……今までどうしてたんだよ」

「アリーンもいるわよ! 二人とも無事だわ!」

 俺達を見つけた住人は一様に驚きを見せながら、ちゃんと確認しようとぞくぞくと集まって来る。一分も経たないうちに俺達は周囲を取り囲まれ、質問攻めを受ける。

「熊に襲われたもんだと思ってたが、違ったのか?」

「何十日も、一体どこでどうやって過ごしてたの?」

「もしかしてアリーン、あなたが彼のことを見つけたの?」

 四方からの質問に首を振ったり頷いたりするけど……これじゃらちが明きそうにないな。横を見るとアリーンも疲れた顔の上に困った様子を浮かべてた。まずは彼女を休ませないと。

「……質問には、また後で答えるから。それよりアリーンを休ませてあげてくれ。背中を怪我してるんだよ」

 それを聞いた女性が傷を確認して、あら本当と驚くと、数人の女性でアリーンを支えて、早く治療しましょうと連れて行った。

「リヴィオ、お前は怪我してないのか?」

「右足を少し……折れてるかもしれない」

「折った足で戻って来たのかよ。なかなか根性あるな。……おい、リヴィオを家まで運ぶぞ」

「大丈夫だ。一人で歩けるから」

「そうか? やせ我慢するなよ? そういやマノラさんはどこに――」

「……リヴィオ!」

 感極まった呼び声に顔を向けると、その先には会いたかったもう一人の姿――俺の母さんが立ってた。

「母さん……ただいま」

 何も変わってない……いや、ちょっとだけ痩せたか? 俺が心配させちまったせいかな。でも涙もろいのはそのままだ――目に涙をいっぱい溜めて、唇を震わせながら、母さんは両手を伸ばして駆けて来る。それを俺は笑顔で迎えて両腕の中に受け止めた。

「このっ、親不孝者! 長いこと帰って来ないで……私がどれだけ心配してたと思ってるの! 出かける時は、ちゃんと行き先を言いなさいって昔から言ってるでしょう!」

「いや、森へ行くって言ったと思うんだけど……。でもこんなに帰れなくなったのは自分でも予定外だったんだよ。本当にごめん。母さん……」

「まったく……とうとう一人になったかと……毎日、毎日、父さんにお願いして、リヴィオの無事を祈ってたのよ。だから、助けてくれたかもしれない父さんにも、感謝しなさい」

「わかったよ。しっかりそうしとく」

 いつ殺されても不思議じゃない状況の中で、たびたび運のいいことが起こったのが父さんのおかげだったとしたら、供え物持って墓参りに行かないとな。

「マノラさん、リヴィオは足を折っちまったみたいなんだよ。早いとこ診てやったほうがいい」

 男性の指摘に母さんの目が俺の足を見る。

「骨折してるの? 痛みは強い?」

「痛かったのは最初の頃だけで、今はそうでもない」

「そう……ここまで歩けたなら、ひどい状態じゃなさそうね。私の手当てで様子を見ましょう」

 ここは小さい村だから医者なんていない。だから大半の住人は独学ながら、自分達で治す術を備えてる。さすがに大怪我過ぎれば手に負えないから、町まで運ぶしかないけど、そうじゃなければ家族や知り合いが治すのがここでの常識だ。母さんも、狩人だった父さんの怪我をよく手当てしてたから、こんなことには手慣れてる。

 人だかりから抜けて俺は母さんと久しぶりの家へ帰った。一歩中へ入ると、少し埃っぽい空気に混じって洗濯に使う石鹸の匂いや、母さんが毎日かかさず飾ってる花の香りが顔をかすめた。たったそれだけのことでも俺の心は安心感に包まれる。

「……俺がいない間、大丈夫だったか?」

 食卓の椅子に座りながら聞いた。

「別に平気よ。蓄えは十分にあったし。それにご近所の皆もよくしてくれたから。あなたが落ち着いたら、お礼を言いに行きなさい」

「ああ。そうだね」

「じゃあ、足を見せて……引きずってたのは右?」

 足の前にしゃがんだ母さんに、俺は右のズボンの裾をまくり上げて見せた。

「んー……確かに、ここが少し腫れてる感じね……」

 そう言いながら母さんは腫れた箇所を手で押し始める。

「これ、痛い?」

「ちょっとだけ……でもそうでもない」

「押してもそんなに痛くないなら、多分骨折はしてないと思うわ。してたら泣くほど痛いはずだから。ここまで歩いて来たのも証拠になる」

「じゃあ、この痛みの原因は?」

「折れてはないけど、ひびは入ってるのかもしれないわね。それで時間が経って、少し治りかけてるんでしょう」

 なるほど。だから当初より痛みが小さくなったわけか。ぽっきり折れてると思ったけど、勘違いでよかった。

「もう必要ないかもしれないけど、一応添え木はしておきましょう。あと痛みと腫れに効く薬も要るわね」

 母さんは部屋の奥へ一旦消えると、言った物を持って戻って来る。そしててきぱきと患部に治療を施していく。子供の頃は、頼りになるのは父さんだけだと思って、大人になった今は自分が頼られる存在になったもんだと思ってたけど、こうして見ると、母さんだって同じぐらい頼れる存在なんだと、今さら気付かされたな。やっぱり親っていうのは、どれだけ時間が経っても大きな存在だな……。

「……これでいいかな」

 薬を塗って添え木をして、そこに包帯をグルグル巻きにしてズボンを戻すと、母さんは一息吐いて笑う。

「ありがとう」

「どういたしまして。他に怪我がなくてよかったわ。何より、生きて帰って来てくれたことが嬉しい……それだけで神様に感謝ね」

 薬を片手に立ち上がった母さんは、伸ばした腰をポンポンと叩きながら言う。

「リヴィオも疲れたでしょう。自分の部屋で休んだら? その間に食事の用意をしておくから。……あ、その前に、身体大分汚れてるから洗って着替えなさい。ちょっと臭うわよ」

「……そうするよ」

 森にいた時はそうでもなかったけど、ここに戻ったら自分の臭さを自覚できた。これ、よく耐えてたな。寄り添ってたアリーンも内心嫌がってたかもしれない。何だか申し訳ないことしたな……。

「マジかよ! 本当にリヴィオがいるぞ!」

 野太い大声がして見ると、開けっ放しだった玄関に二人の顔見知りの男が立ってた。

「……ダグ、ハーマン、仕事さぼって俺の見舞いか?」

 狩人仲間の二人は無事な俺を見て笑い声を上げると、すぐに歩み寄って挨拶代わりに俺を抱き締める。

「さぼってなんかいねえよ。ついさっき終えて村に戻ったら、カミさんにお前のこと聞いてよ」

「それで俺達、獲物の処理も後回しにして来たんだよ。……しっかし、生きてたなんて驚きだぜ。とっくに熊か狼の腹に納まってると思ってたのに」

「何だよ、仲間なのに誰も生きてるって信じてくれてなかったのか?」

「そりゃそうだろう。道具だけ残して何十日、遺体も見つからないんだぞ。腹空かした動物に綺麗に食われたと思うのが普通だろう」

「二人とも、その節は息子を捜してくれてありがとうね。今お茶でも用意するから」

 俺から離れかけてた母さんが二人に言う。

「あ、マノラさん、お構いなく。俺達はこいつに話聞いたら、すぐ行くんで」

「あらそう? じゃあごゆっくりね」

 笑顔を残して母さんは家の奥へ消えた。それを見送ると二人は側の椅子を引き寄せて俺の前に座る。

「……で? 森で一体何があったんだよ」

 ダグが険しい表情になって聞いてくる。

「足を怪我してるってことは、やっぱ獲物に襲われたのか?」

「まあな……実はさ、俺、ナフォカに襲われたんだよ」

 事実をそのまま言うと、二人は一瞬固まったけど、すぐに揃って眉をひそめた。

「……ナフォカって、あの、幻の獣って言われてるやつのことか?」

「ああ。そのナフォカ」

 顔を見合わせると、二人は呆れたような、今にも笑いそうな微妙な表情を浮かべる。……やっぱりこういう反応になるか。想像はしてたけども。

「信じられないよな。でも本当なんだよ。俺はやつに襲われて、巣まで運ばれて、貯蔵庫の穴に長いこと閉じ込められてたんだ」

 正直に言えば言うほど、二人の顔には疑いの色が広がっていく。だからって作り話をしてもしょうがない。これが本当の話なんだから。

「……ナフォカに捕まってたって言うのかよ」

「捕まってたんだよ、本当に。しかも食べ物を与えられたり、水浴びに連れ出されたり、世話までされてた」

 ここまで言うと、もう二人は呆気にとられてた。もし逆の立場なら、俺もこんな感じになるんだろう。こいつらの気持ちはよくわかる。だって自分でもよくわからない話なんだから。獣に世話されるなんて、理解に苦しむことだろう。

「嘘じゃねえんだよな……?」

 半笑いの顔でダグが聞いてくる。

「断じて嘘じゃない。全部、俺の身に起こったことだ。まあ、話してる自分でさえも信じられないようなことばっかりだ。こいつ、山で遭難して頭がいかれちまったって思っても構わないよ。それでも俺は見て体験したことを話すだけだ」

「べ、別にお前が嘘言ってるとか、頭がいかれたなんて思っちゃいないけどよ……あまりに、話が突飛過ぎて、どう受け取ればいいのか……」

「どう受け取ったっていいよ。こんなの、真剣に受け取れっていうほうが難しいし」

「お前の話が事実なら、お前は穴に閉じ込められてたんだろう? そこからどうやって抜け出したんだよ」

 ハーマンが疑いの目を見せながら聞いてきた。

「それは、引っ越した先の穴で、ナフォカが偶然穴を塞ぎ忘れてくれたんだよ。それでアリーンと一緒に逃げ出せたんだ」

「ま、待て。……アリーンもお前と一緒に閉じ込められてたのか?」

「ああ。もう一頭のナフォカがアリーンを捕まえて連れて来て――」

「もう一頭? ナフォカは、二頭もいたのか?」

「そうそう。オスとメスの二頭がいたんだ。別につがいって感じじゃなくて、オスのほうがメスを見つけ――」

「そんなことはいいんだよ! 幻の獣が、二頭も、お前の前にいたってのか?」

「ああ。これは証人もいる。アリーンも一緒に見たからね。彼女に聞けば俺と同じ話をするはずだ」

 二人は少し押し黙り、顔を見合って瞬きをする。アリーンも見てると聞いて、ちょっとは疑いが薄れたのかもしれない。

「……お前、ナフォカ二頭を前にして、よく生きて戻れたな。ナフォカって人間を食うはずだろ? アリーンも食われずに済んだし……二人で食われないように、何かしてたのか?」

「何かしたことはないけど、食われる恐怖は常にあったよ。そういう素振りもあったし。でも最終的には二頭が、逃げた俺達を奪い合うような形で喧嘩を始めてさ。その隙に――」

 そう言いながら俺の頭に、あの時の光景がよぎる。メスの獣がオスを押さえ込みながら、立ちすくんでた俺達に何度も吠えてた。あれは何だったのか。オスに襲われてた俺達に威嚇するわけもないし、逃げるんじゃない、とでも怒ってたんだろうか。だけどその後、メスは追って来ることはなかった。オスがいたからそれどころじゃなかったのかもしれないけど。喧嘩の隙に逃げたって言うよりは、あいつが俺達を逃がしてくれた感じもする……いや、それはさすがに考え過ぎか。捕まえた獲物を逃がそうだなんて、獣が思うはずない。

「おい、リヴィオ、どうした?」

 ダグに呼ばれて俺は我に返った。

「あ、悪い。ちょっとぼーっとしてた。……で、二頭が喧嘩してる隙に逃げることができたってわけだよ」

「ナフォカ同士の喧嘩ねえ……想像もできねえな。そういやナフォカの毛皮は銀色で綺麗だって話だよな。実際見てみてどうだったんだ?」

「話通りで本当に綺麗だったよ。手触りも最高だった」

「お、お前、ナフォカに触ったのか? ど、どうやって――」

「ダグ、そろそろ行こう。獲物の処理もあるし」

 おもむろにハーマンが腰を上げた。

「え? まだ話の途中だ」

「そうだけど、リヴィオのことも考えてやれ。戻って来たばかりで疲れてるんだ。ちっとは休ませてやらねえと」

「俺を気遣ってくれるなんて、見ない間に優しくなったな」

 からかうとハーマンはフンッと鼻を鳴らす。

「お前の目は節穴か? 俺は生まれた時から優しい男なんだよ。……行くぞダグ。続きの話はまたいつでも聞けるだろう」

「むう、しょうがねえな……調子が戻ったら、ナフォカのこと詳しく聞かせろよ」

「ああ。じゃあ、またな」

 帰って行く二人を玄関から見送って、俺は再び椅子に腰を下ろす。……はあ、確かに、全身に疲れが溜まってるな。気が緩んだらズシッと重みが増した。でもベッドで休む前に身体は洗わないと。臭いまま寝たら、あの貯蔵庫に入れられてる悪夢でも見そうだ――残ってる力を振り絞って、俺は風呂の準備に向かった。

 その後、俺は足の怪我も治って、前と同じ生活に戻れた。落ちた体力を徐々に取り戻しつつ、近場での狩りも再開させた。ずっと留守にして稼げなかった分を取り返さないといけない。それに仲間からは、迷惑料として何かおごれとも言われてる。もちろんそれは冗談だってわかってるけど、でも捜してくれた礼ぐらいはするべきだろう。そのうち酒でもおごってやるつもりだ。

 ちなみにアリーンのほうも、背中の傷はちゃんと治った。だけどうっすらと傷痕が残ってて、本人はそれを気にしてたけど、こんなところの傷なんて俺しか見ないって言ったら、それもそうかと笑ってくれた。俺としては背中の傷より、心の傷のほうが気になってたんだけど、何せ巨大な獣に襲われて、危うく食べられるところだったんだ。トラウマになっててもおかしくない目に遭ったわけで、気持ちが不安定になってないかと時間を見ては彼女の顔を見に行ったけど、幸いそんな様子はなかった。いつも通り動き回って、いつも通りの笑顔を浮かべてた。そこにはもう、獣に襲われた恐怖も傷痕が残った悲しさも感じてない、前向きな視線だけがあった。無理に忘れようとしてる感じもなく、ただ先へ進もうとしてるんだろう。そしてその先には、俺と作る将来がある。アリーンも、はっきりとは口に出さないけど、同じ気持ちを持って期待してくれてるのは伝わってた。だからその二ヶ月後、俺は彼女にプロポーズした。返事はもちろん、はいだった。

 正直、金は予定ほど溜まってなかったけど、これ以上アリーンを待たせたくなくて、ご近所さんや仲間達に手伝ってもらって質素な式を挙げた。理想とは違っただろうに、それでも嬉し泣きして微笑んでくれた彼女と、俺は晴れて夫婦となった。

 その一年後、アリーンに小さな命が宿った。俺達はもうすぐ親になる。その準備のためにさあ頑張ろうと今まで以上に仕事に精を出してた時だった。仲間の一人がある日、珍しいものを拾ったと俺にそれを見せてくれた。

「山のちょっと奥で見つけたんだけどよ、これ、何だと思う?」

 机に広げられたのは、一見ボロボロの黒い毛布のようだったけど、毛足が長くて、形もいびつなことから、動物の毛皮だとわかった。仲間が聞いてるのは何の動物かってことで、指で確かめながら考えるけど、この長さと手触りから、熊や狼、鹿でもないのは確かだった。

「どういう状態であったんだ?」

「地面にあったんだよ。落ち葉に埋もれて」

 なるほど。だから草や土で汚れてるのか。だけどな――

「……こんな体毛の動物、あの山にいたか?」

 俺は首をかしげながら毛皮を見つめる。

「だよな。俺もいろいろ考えたけど、当てはまるやつがいないんだよな。だけど、もしかしたらってやつがいたんだよ」

「え? いるか? そんなの」

「いるじゃねえか。お前がよく知ってる、人間食う動物だよ」

 言われて思わずハッとした。そしてすぐに毛皮を確かめ直す。長い毛足を指先で割って奥まで観察してみる。……表面は土で汚れて黒くなってるけど、毛の奥は白っぽい。見ようによっては銀色にも――まさか、あいつ、なのか?

「……どうだリヴィオ、幻の獣の毛皮か?」

「はっきりとは言えないけど……可能性はあるかもな。汚れを取って綺麗にしてみるか?」

「それなんだよな。拾ってきたはいいけど、よく見ると結構痛んでるんだよな。金にならなきゃ洗う必要もねえし、幻の獣だったとしても、さすがにこれじゃ買い取ってくれるやつもいないだろう。せいぜい服とか日用品の修理材料にするぐらいしか使い道なさそうだからな」

「まあ、そうだな……」

「もしこれが本当にナフォカだったら、意外に村の近くまで下って来てるとも考えられるよな。念のため皆に注意しろって言っておくか……じゃあ行くよ。ありがとな。時間取らせて悪かった」

 毛皮片手に帰って行く仲間の背中を見送りながら、俺はなぜだか落ち着かない気分だった。あのボロボロな毛皮、ああなって時間が結構経ってる感じだった。少なくとも最近のものじゃない。俺の頭に浮かんだのは、最後に見たあいつらの姿だ。二頭が取っ組み合って喧嘩する光景……もしかしたら、あの二頭のどっちかのものだったりしないだろうか。あんな派手な喧嘩をしてたんだ。怪我を負って、それが原因で弱って、野垂れ死んだとか……なくはない話だとは思う。その場合、致命傷を負う可能性が高いのは、身体の小さいメスのほうって考えるのが普通だろう。一年前の喧嘩と、時間が経ったボロい毛皮――時期的にも違和感はない。あいつ、なんだろうか。俺を狩っておきながら食べなかったあの獣は、もう、森にも山にもいないんだろうか……?

 そんなことを真剣に考えてる自分に気付いて、俺はフッと息を吐き出した。何であいつのことを心配してるんだか。ナフォカは人間を食べる恐ろしい獣なんだ。死んだならそれは喜ぶべきことで、俺も含めて皆が安心できるじゃないか――頭の中じゃ、そう自分に説明できたのに、なぜか心にまではそれが届かない。納得しようとしても、モヤモヤした感情が漂い続ける。これは……喪失感? 俺はあいつが死んで、悲しんでるのか? 何でだ? 何で悲しいんだろうか。自分でもよくわからない――玄関の扉を閉めて、俺は理由のわからない悲しみを覚えて部屋に戻った。そんな感情をしばらく抱え続けてたけど、数日も過ぎればすっかり忘れてしまって、また普段通りの生活を送ってた。

 それからさらに一年が経った。アリーンにそっくりな息子も無事生まれて、俺は父親になった。家族が一人増え、金が必要なことも増えた。だから狩りに行く時間も少し増やした。空振りで終わる日をできるだけ減らそうと、一家の長として気合いを入れて、今日も森の中へ分け入って行く。

 朝から狩りに出て、昼休憩を挟んで、今は午後だ。午前中は兎二羽しか捕れなかったから、今度は鹿一頭ぐらいは捕っておきたいところだ。待ち伏せは諦めて、今日は森の奥のほうまで行ってみるか――俺は茂みを抜けてさらに先へ進んだ。

 普段の狩りじゃこんな奥まではあまり来ない。来たとしても仲間が一緒の時だけだ。地形が険しいから何かあった場合に、すぐ助けを呼べるようにしておかないと危険だからだ。地形の他にも、奥地は大型動物の縄張りが多い。大物を狙うにはいいけど、その分、命懸けの危険も伴う。だから一人で来ることはいつもなら避けてるんだけど……とにかく何かしら獲物を捕って帰りたい。調子に乗って奥へ行き過ぎなきゃ、まあ、いきなり危険な目に遭うことはないだろう。

 慎重に進みながら辺りに目をやる。鳥のさえずりが響き渡る中を、緩く冷たい風が吹き通って行く。山の上のほうは日が出てても、やっぱり肌寒い。上着を着て来なかったから、あんまり長居はできないな。風邪なんかひいてアリーンに迷惑はかけられない。さっさと獲物を見つけないと。

 少しずつ進みながら緑の景色を眺めてると、どうもそれらに既視感を覚えてしまう。あの木の並び、地面の凹凸、朽ち木の倒れた様……どこも見たことがあるように思えてならない。二年前の、あの頃に。確信はないけど、多分この辺りを俺は通ったことがあるんじゃないだろうか。どういう状況の時かわからないが、そんな気がする。でもきっと気のせいなんだろう。山奥まで来たことで、あいつに捕まった記憶と勝手に結び付いただけかもしれない。俺にとっては、あの出来事はどんなに時間が経とうと忘れられないものになってる。似た景色を目にするだけで、そう感じる頭になってるのかもしれない。俺はそんな頭を振って笑った。心だけはまだ、あいつに捕まってるみたいだな……。

 ガサリと草を揺らす音が聞こえて、俺は反射的に身をかがめた。音は近かった。どこだ――側の木の陰に身を寄せて前方に意識を集中させる。そして弓矢を持ち直して狙うべき対象を目と耳で探す。息をひそめてしばらくすると、またガサリと聞こえた。今度は出所がわかった。正面の先にある草むらだ。音と同時に葉が揺れたのが見えた。俺はそっと弓矢を構える。その矢尻を草むらに定めた。何がいるのかわからないけど、とりあえず飛び出して来た瞬間に仕留めようと思った。両手に力を入れてその時を待つ。その数秒後――

 黒い塊が跳ねるように飛び出した。俺は瞬時に狙いを定めて弦を引き絞る。獲物が止まった隙に矢を放とうとした――が、思わず手を離すのをためらった。

「……何だ、あれ……」

 自然と呟いてた。飛び出した黒い塊は、俺の視線の先の地面で転がり回ったり、草にじゃれ付いてた。四、五歳の子供ぐらいの大きさで、パッと見た感じは小熊にも見えたけど、どこか違った。体毛の色も体形も、小熊っぽいけどちょっと違う。熊じゃなきゃ、あれは何だ? 初めて見る動物に俺は釘付けになりながら弓矢を下ろしてた。

 大きさと無邪気な動きから、まだ幼獣なのは違いないだろう。だけどこんな子を持つ動物なんていたかな――考えながら動き回る姿を見つめて、俺はハッとした。

 偶然こっちを向いた顔に見覚えがあった。突き出た口元に、金色に輝く瞳――その顔はあいつを小さくすればまったく同じに見える。体毛が銀色なら、あいつの子供にしか見えないだろう。あいつの……ナフォカの幼獣、なのか?

 黒い塊はまるまるした身体で転がって独り遊びを続けてる。もう少しよく見たい――俺は低い姿勢を保ってじりじりと獣に近付いた。たどり着いた茂みに隠れながらそっと顔を出して観察する。体毛こそ真っ黒で全然違うけど、ピンと立った耳や歩き方なんかは、やっぱりあいつにそっくりだ。きっと間違いない。あれはナフォカの幼獣だ。しかし驚いたな。子供は真っ黒なんだな。多分敵に見つかりにくくするための色なんだろう。親と子の姿がまるで違うって話は他の動物でも聞いたことがある。貴重な姿を見られたな。ナフォカの子供を目にできるなんて。

 それにしても、近付いてわかったが、子供も見事な毛並みを持ってるな。黒い長毛は光が当たるとツヤツヤ輝いて、動くたびにフワフワ揺れてる。触らずともその柔らかさが伝わってくるようだ。子供だからまだ汚れも少ない。売ったらいい値段になるだろう――そんなことを考えながら、俺は茂みの間から弓矢を構えた。狙いを動き回る幼獣につける。ほんのちょっとだけ止まってくれ。親には悪いけど、こっちも生活ってもんがあるんだ。子を独りにさせたことは後悔してもらうしかない――そこで俺はふと気付く。子供がいるってことは、当然母親……メスのナフォカがいるはずだ。俺があいつに捕まってた時、メスはあいつしかいなかったし、現れたり気配を感じたこともなかった。唯一いたのはオスだけど、そいつとは喧嘩して、おそらくは死んでしまった。仲間が持って来たボロい毛皮がその根拠だったけど……そんな俺の予想は間違ってたんだろうか。

 この山にメスがいることは違いないんだ。それは新たなメスかもしれないし、俺の知るあいつかもしれない。ただ縄張りのことを考えれば、この辺りにそう何匹もメスが密集してるとも思えない。ナフォカの生態はわかってないけど、他の動物なら山の上から下まで広い範囲が縄張りなんてこともある。新参者がそう簡単に居着けるとは思えないけど……あいつがもし死んでるなら、あれから二年が経ってる。その間に別のメスが居着いた可能性はある。だけどそうタイミングよく空いた縄張りに現れるもんだろうか。その辺りがどうも引っかかる。だったらあいつが生きてるって考えたほうがまだしっくりくる気がする。あのボロい毛皮、あいつのじゃなかったのか? 最後に見た喧嘩で、あの二頭は傷付け合わずに仲直りしたんだろうか。そうだとしたら、今目の前にいる無邪気に遊ぶ子供は、あいつが産んだ子供って可能性もあるのか……?

 俺は弓矢を構えながら転がり遊ぶ幼獣を見据える。こんなの考え過ぎだ。何も根拠はないし、俺の想像でしかない。そんな気がするだけって理由で、高値になりそうな獲物を諦めるのはもったいない。この世界は弱肉強食。相手に隙や弱さを見せた時点で、そいつは狩られる運命なんだ。それは動物だろうと人間だろうと関係ない。皆同じ世界で生きてる限りは……。

 両手に力を込める。幼獣の動きを見極めて、ほんの一瞬立ち止まった時を狙い撃つ――だけど本当にあいつの子だったら? それでも俺は矢を放つのか?

 その時、幼獣が足を止めて鼻先を空へ向けると、何やらクンクンと匂いを嗅ぎ始めた。絶好の機会――俺は頭に狙いを定める。あとは矢を引いて放つだけ……なのに、引いた右手は矢から離れない。いや……離せないのか。まったく、狩人のくせに、俺は……。

 動物より人間が厄介なのは、あれこれと心で考えてしまうところだ。本能に従って動ければ楽だとわかってても、人間だとそうはいかない。損得を計算したり、同情したり、本音を隠したりしてしまう。俺は獲物を狩る者として無駄な感情を抑えなきゃいけないのに、あいつの子だったらなんていう可能性を想像してしまった。脳裏にはオスを押さえ込みながらこっちに吠えてくるあいつの姿がしつこく繰り返される。あの時の光景は幾度も思い出してきたけど、そのたびにやっぱりあれはと考える。あいつはやっぱり俺達を、逃がしてくれたんじゃないだろうか……。

 引いた矢を俺は、静かに元に戻した。その直後、幼獣は何かを見つけたかのように奥の草むらの中へ走り去って行った。

「稼ぎそびれたな……」

 俺は小さく息を吐いた。そして幼獣が消えた先を見つめる。今回は見逃してやろう。これで借りは返した――こんなの、自分の勝手な想像で思い込みだとわかってる。獣のあいつが人間を助けるなんてあるわけないんだから。喧嘩のあの時は、偶然そんなふうになっただけなんだろう。あいつに獲物でしかない人間に心を寄せる気持ちがあるはずない。だけど、あいつの本心とは違った形でも、俺とアリーンが命を助けられたことは事実なんだ。逃がして悔しがってるかもしれないけど、こっちには一方的ながら借りがあった。だから幼獣を見逃すことで、それを今返すんだ。

「これで、いいよな」

 そう自分に言い聞かせて俺は立ち上がり、踵を返した。やっぱり山奥は一人じゃ危険そうだ。今日は大物を狙うのは諦めて、大人しく小物を狩ってるか――手ぶらで引き返しながらも、気持ちは不思議と軽く感じてた。まるで引っかかってたものが取れたみたいな気分だ。

 その時、背後のほうでガサガサと枝葉の揺れる音がした。すぐに振り向いて視線をやった先に、ほんの一瞬、木と木の間を通り過ぎる影を見た。距離があってはっきり見えなかったけど、うごめく影は白っぽくも見えた。そう気付いた俺はヒヤリとしたものを感じた。人間でも動物でも幼い子を一人にすることはない。ここに幼獣がいたってことは、母親もどこか近くにいたはずで、もしかしたら俺のことを見てたのかも……。

 すると遠くから、グルルォウと地響きのような声が聞こえた。鼓膜と心臓を震わせる重い鳴き声……俺はこの声を知ってる気がする。怖がってもいいはずなのに、これは威嚇の声じゃないってわかってる自分がいる。……そうか。やっぱり見てたんだな。俺を狩ることもできたのに、そうしないで、離れたところから――これだけであいつの気持ちが理解できた。獣は人間を助けないと思ってたけど、何事も例外があるってことを今日は学べた。捕れた獲物は少なくても、そのことを知った俺は満足して山を下って行った。

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