十五話
「……いた! ニンゲンだ!」
臭いをたどって捜してると、前を行くオトコが急に声を上げて足を速めた。どうやら姿を見つけたらしい。臭いも濃くなってるし、間違いなさそうだ。ワタシも後を追おうかと思ったけど、肉を食べたばっかりでまだお腹が重い。正直走りたくないな。あいつのことはあんまり信用できないけど、今はこんな状態だ。獲物を捕まえるのは任せておこうかな。裏切ったりしないって真面目に言ってもいたし――ワタシはオトコを追うのをやめて、ゆっくり臭いをたどって進むことにした。
それにしても、獲物の逃げ癖にはほとほと困ったもんだ。いい加減諦めて、静かにしてればいいのに。食べ物だってあげて、汚れれば水浴びもさせてあげてるのに、他に何が不満なんだろうか。こっちは大事にしようとしてるのに――大事? 貴重な獲物だから、大事? でも何だかちょっと違うような……これまで捕った獲物を、こんなふうに大事なんて思ったことないな。生きるための食べ物としてはもちろん大事だけど、それとはまた違う気持ちのような気がする。前にも思ったけど、これは一体何なんだろう。獲物なのに、食べる気が起こらない不思議な気持ち……。
ガサガサと大きな音がワタシの思考を断ち切った。視線を上げると、進む先のほうで木が揺れて枝葉が派手に音を出してた。その下では小さな姿のオトコが駆け回ってるのが見える。獲物を追ってるらしい。ちゃんと捕まえられたかな――ワタシは駆けて行くオトコを追って進んだ。
追い付いたところでオトコを見ると、岩壁の前でなぜか行ったり来たり、ウロウロしてた。
「何してるの? ワタシの獲物は?」
聞くと、オトコは苛立った目付きでこっちをいちべつする。
「ここに逃げ込まれちまった……」
視線が示した先を見ると、岩壁に縦長の穴があった。穴は奥のほうまで続いてるようだ。
「どうしたもんかな。入りたいけど、この穴、ちょっと小さいよな……」
オトコは穴に顔を近付けては、その大きさを何度も測る。
「アナタには確かに小さそうだね……しょうがない。あとはワタシがどうにかするから、もういいよ」
オトコより小さいワタシなら、どうにか入れるかもと思って穴に近付こうとしたら、その前をオトコがさえぎってきた。
「……ちょっと、何?」
「ニンゲンをここに逃げ込ませたのはオレだ。だからその責任は果たすよ」
「責任ったって、入れないんじゃ捕まえられないじゃん」
「入れないかどうかは、やってみなきゃわからないってね……」
そう言うとオトコは穴に無理矢理入り込んだ。首辺りまではすんなり入ったけど、問題はその先だ。前足は窮屈ながらもどうにか入って、次は胴体部分……。
「ウギギギ……やべぇ、挟まった、かも」
苦しそうな声で男は呟いて、ジタバタともがき始める。後ろ足とお尻だけが突き出た姿は何とも間抜けな光景だけど、このまま放っておくのもどうかと思って声をかけた。
「助けたほうがいい?」
「いや……大丈夫だ。もう少し頑張れば通れそうな手応えがある……」
前足を使って懸命に進もうとしてるのか、穴のむこうからガリガリと引っかくような音が響いてくる。外から見てる限りはそんな手応えはちっとも感じられないけど、まあ、自分でそう言うならそうなんだろう。
「じゃあ、助けないけど……本当に大丈夫?」
「ああ……そこで待っててよ……ウギギ……」
ちょっと苦しそうな声が言う。これ、時間かかりそうだな――待てと言われたけど、ワタシは穴から離れて周囲を見て歩くことにした。他にも穴がないだろうかと岩壁に沿って進んでみる。……うーん、そう都合よくあるわけ――
「……ん?」
ゆっくり歩いてると、どこからかかすかに、獲物の臭いが漂ってきた。どういうことだ? 穴からは離れてるし、その入り口はオトコの身体が塞いでるから臭いが流れて来ることはないはずだけど……でも間違いなくこれは獲物の臭いだ。それってつまり――ワタシはさらに進んでみる。
「……臭いが、はっきりしてきたな……」
空中を流れる臭いをたどって、その出所を探す。と、生い茂る草の向こう……岩壁の表面にぽっかりと大きな穴が開いてるのに気付いた。……穴、あった。臭いはあそこから流れて来てるみたいだ。ということは、向こうの穴とつながってるってことで、獲物も中にいる……なら自分で捕まえるか。こっちの穴のほうが大きくて通りやすそうだし。まさか本当に都合よく別の穴があるなんてね――静かに向かおうとした時だった。
バタバタと慌てたような音が響いてきたと思ったら、穴から二つの影が飛び出して来た。……あっ、ニンゲンとワタシの獲物! 早く捕まえなきゃまた逃げられちゃう。でもいきなり行ったら驚いて怖がらせちゃうかな。ここはそっと近付いて――ワタシは走らず、急がずに、静かに歩いて草むらを抜ける。見れば向こうはすでにこっちに気付いてて、緊張した様子でその場に立ち止まってた。
二匹の目の前まで来たワタシは、怯えた目を見つめながら、とりあえず話しかけてみる。
「さあ、ワタシの寝床へ戻ろうよ。まだ食べる気ないから。怖がらなくていいよ」
なるべく優しい口調で言ってみた。でも二匹とも緊張した様子のままだ。特に貰ったニンゲンのほうは獲物にすがり付いてかなり怖がってる感じだ。返事となる反応を待ってみるけど、二匹は顔を寄せ合って何やらヒソヒソと言葉を交わしてる。まだ逃げるつもりなんだろうか。困ったな……。
強引にくわえて連れ帰ろうかと考えてると、獲物が背後を気にしながらソワソワし始めてた。……後ろには穴しかないけど、まさか引き返すつもりなのか? もうこれ以上手間をかけさせないでほしいな――なんて思ってると、その穴の奥から怒りに満ちた声が聞こえて来た。
「――ざけんな! オレを馬鹿にしやがって!」
ドスドスと足音を鳴らしながら声が近付いて来る。そして狭い道を窮屈そうに這いずってオトコが出て来た。
「許さねえぞ! てめえら、すぐに食ってやる!」
なぜか興奮して叫び散らしてるオトコに、ワタシはすかさず話しかけた。
「待って。待ってよ。これはワタシのものなんだから、勝手に食べないでよ」
「いいや、食べてやらないと、この怒りは収まらないんだよ!」
「何をそんなに怒ってるわけ? 穴に引っかかってどこか痛めでもしたの?」
「脇腹はちょっと擦り剥けたけど、そんな程度のことじゃねえ! こいつら、オレを罠にはめやがったんだよ!」
吠えるオトコを見上げて、二匹は完全に足をすくませてる。
「罠って……何?」
「知らねえのか? ニンゲンはこざかしいから、道具を使って罠を作るんだ。こう、輪っかのとか、木からぶら下がってるのとか、いろいろ……」
「その罠に、アナタははまったの?」
「そうだ! オレの身体に縄を巻き付けて動けなくさせようとしやがったんだ! こんな罠、いつもなら簡単に見つけてるのに……かかっちまった自分にも腹が立つ!」
「自分がうっかりしてただけのことで、ワタシの獲物を食べようとしないでよ」
「じゃあこの怒りはどうすりゃいいってんだよ! 俺をはめたニンゲンを食って腹に納めるしかないだろ! グルル、絶対に許さねえ……!」
オトコは頭に血が上って、私の獲物を食べることしか考えられないみたいだ。独り占めしないって言った言葉もすっかり忘れてるな。でもそんなの、ワタシが許さない。獲物はワタシのものなんだから。
「食い物の分際で……骨まで噛み砕いてやる!」
オトコが獲物目がけて飛びかかろうと動く――予想できてたワタシは、その前に素早く躍り出た。
「っ! 何だよ! 邪魔するな!」
「そっちこそ、ワタシの獲物に触れないでよね」
「そんなの関係ねえよ! 馬鹿にされて何もしないでいられるか!」
激怒しながらオトコは前足でワタシを押し退けてきた。その強い力によろめいたけど、どうにか踏ん張ってオトコに追いすがる。
「アナタが馬鹿にされたとか、それこそこっちには関係ないことだし。獲物に近付かないでよ!」
ワタシは前足を伸ばしてオトコをつかみにかかる。
「放しやがれ……離れろ!」
ガツンと顎に衝撃が走って頭がのけ反った。……こいつ、後ろ足で蹴りを入れてきた! ワタシの獲物を横取りしようとする上に、攻撃までするなんて……もう容赦しないからな!
「待てえええっ……!」
顎の痛みを後回しにして、ワタシはオトコの背中に勢いよく飛び付いて、そこに爪を思いっ切り立ててやった。
「い、痛ってえ! 何すんだ! どけ!」
全身を振り回すようにオトコは身体を左右に激しく揺らしてくる。でもワタシはさらに爪を立てて背中にしがみ付き続けた。
「爪が刺さってんだよ! そこから離れろ!」
「離れるのはアナタのほうが先だから! 獲物に近付くな!」
「うるせえ! オレはこいつら食うんだよ! 食わなきゃ気が済まねえんだ!」
がっちり爪を立ててたつもりが、一際大きく揺らされた勢いでワタシの身体は横へ転がるように飛ばされてしまった。くう、しまった――すぐに顔を上げると、オトコはこっちをいちべつしてから獲物に目を戻す。その獲物達は至近距離で恐怖に身を固まらせて突っ立ってた。駄目だ。あいつに捕まる――
「……逃げて!」
咄嗟に叫ぶと、獲物が反応してこっちを見た。だから続けざまに叫んだ。
「逃げて! 早く!」
その時、オトコの前足が獲物に飛びかかった。ハッと息を呑んだけど、寸前、獲物はもう一匹のニンゲンを抱えて後ろへ飛び退いた。そのせいで二匹とも尻もちをついてしまった。それを見てオトコの前足がまた動く――触れさせるか!
ワタシは走ってオトコの横っ腹に体当たりをするように噛み付いた。
「ウギャアッ……!」
痛かったのかオトコが甲高い悲鳴を上げて倒れる。押し倒した身体を押さえ込みながら、ワタシは獲物のほうへ目をやった。二匹は支え合いながら立ち上がるところだった。
「……今のうちに、行って!」
そう言うと、獲物がちらとこっちを見る。
「こいつを押さえられてる、今のうちに!」
怯えて動転したような目が見つめてくる。通じて……ワタシの言葉……!
「逃げるの!」
大声で叫んだ瞬間、二匹は背を向けて猛然と駆け出した。草むらを越えて、木々の間を縫い、森の奥へ……二匹の影は消えて行った――よかった。通じてくれたみたい。
「……ごちそうを逃がすなんて、どういうつもりなんだよ!」
不満な声がワタシの下から聞いてきた。
「アナタに食べられるよりは、逃がしたほうがましだからそうしたの」
「まし? オレはニンゲンを捕って来てやって、アンタに優しくしてやってた。それなのにこんな仕打ちをするのかよ……アンタも、オレのことを馬鹿にしてるのか!」
「はあ? 何でそうなるのさ」
「許さねえぞ……オレを馬鹿にするやつは、全員許さねえ!」
激しく暴れ始めたオトコの力は、ワタシじゃもう押さえ切れない。お腹を蹴り飛ばされて身体が吹っ飛ばされた。……こいつ、怒り過ぎてまともな思考もできてない。放って獲物を追いたいけど、付いて来られたら横取りされるのは間違いない……ここで興奮を治めてやるしかないか。
痛む身体を立ち上がらせると、正面からオトコが突っ込んで来た。
「オレの、邪魔すんな!」
振り上げられた前足が視界を覆う。くっ、避けられない――ガツッと顔に痛みを感じて、ワタシの頭は弾かれた。この一撃を与えてもオトコの動きは止まらない。そのまま取っ組み合うように顔を寄せてくると、怯んでるワタシの首に噛み付こうとしてくる。
「いい加減に、しろってば!」
ワタシは押し離そうと懸命にあらがう。
「うるせえ! オレのが上だってわからせてやるよ!」
爪がワタシの肩や足に食い込む。そこに体重をかけて押し倒そうとしてくる……こ、こらえきれない。こんな大きいやつの力、どうにもできないよ――抵抗もむなしく、ワタシは地面に倒された。仰向けになった上からオトコがのしかかり、胸や腹を足で押さえ込んで牙をむいてくる。
「グルルル……覚悟しやがれ!」
「アナタは、ワタシと仲良くしようとしてたじゃん! こんなことされたら、それもできないよ!」
「そっちがオレを馬鹿にするからだろ! アンタが悪いんだ!」
「それなら……そう思うなら、謝るから! 前のニヤニヤしたアナタに戻ってよ!」
「謝って済むと思ってんのか? そうはいかねえよ……!」
「許さなくてもいいから、とにかく冷静に話を――」
オトコの牙が降って来て、ワタシの首に深く噛み付いた。その衝撃と痛みと驚きに、今まで出たこともない悲鳴が口から飛び出した。全部の足を暴れさせてもがいても、オトコの身体はびくともしない。食い込んだ牙はもがくほどに奥へ沈んで行く感覚がする……あ、これ、まずいな。ワタシ、このまま死ぬかもしれない――そう感じたけど、心は不思議と穏やかだった。だんだん目の前がクラクラし始める中に、ニンゲンの獲物を初めて捕った喜びや、その獲物がワタシに寄り添って眠る姿、採って来た食料を食べてる光景なんかが思い浮かんだ。アレは、やっぱり食べる気になれないや。だって思い出すだけで、こんなに胸がポカポカになるんだもん。こんな心地いい感覚、食べて消しちゃうのはもったいない……。
「……もう、いいよ……」
獲物はちゃんと逃げられたかな――
「こんなこと、もう……やめようよ……」
咄嗟に逃げてなんて言ったけど、間違いじゃなかったよね――
「アナタは、乗りは軽い、けど……馬鹿じゃないって……知ってる……から……」
視界がかすむ。それでも懸命に両目を開けて見つめる。すると首にかかってた重さがなくなって、口元にワタシの血を付けた顔が見下ろしてきた。
「……アンタに噛み付いたのに……何で優しいこと言ってくれるんだよ」
「だって、ワタシと……仲良く、したいんでしょう……?」
「この先も、仲良く、してくれるのか?」
「この痛みが、消えるまでは……駄目」
フンッと鼻を鳴らすと、真似するように男も鳴らした。
「……強く噛み過ぎた。ごめん……」
そう言って男は自分で付けた噛み傷をペロペロと舐めてくれる。同族の血の味で冷静さを取り戻したんだろう。怒りが消えて、いつもの様子に戻ってくれたみたいだ。よかった――胸を撫で下ろして、ワタシは静かに目を閉じた。




