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狩りのあとさき  作者: 柏木椎菜


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十二話

 信じたくない光景に、俺は手の震えが止まらなかった。視界が今にも歪みそうな、クラクラするめまいに襲われる。でも気を強く持って、俺は再度横たわる女性を凝視する。

 背中を真っ赤に染めた女性……うつ伏せに倒れた状態でまったく動かない。が、よく見ればかすかに背中が上下してるのが見て取れた。まだ息はあるようだ。顔はこっちを向いてるけど、目は閉じられてる。その表情は眉間にしわを寄せて、いかにも辛そうだ。傷が痛むのかもしれない。乱れた茶の髪が顔半分を隠してはいるけど、見れば見るほどその顔は恋人のアリーンにしか見えない……確かめないと。本当に彼女なのか。息はしてるが意識はあるだろうか。呼びかけたら反応してくれるだろうか――俺は木の隙間に顔を押し付けて、彼女に向けて声を出す。

「アリーンなのか……? そうなら、目を開けてくれ。それが無理なら指を動かすだけでも……」

 大声を出せばさすがに獣の気を引いてしまう。だから俺は囁くように、彼女へギリギリ届くだろう声量で呼びかけた。

「意識がないのか……? それとも、動けないのか……? 俺の声、聞こえるか?」

 彼女は微動だにしない。聞こえてないのかも――と思った時だった。

 閉じられてた目が、小刻みに震えながらゆっくり開き始めた。俺はさらに隙間に顔を押し付けて呼んだ。

「こっちだ……! アリーン……君なのか?」

 開いた瞳はしばらくさまようと、隙間からのぞく俺の顔を見つけて止まった。

「……誰……?」

 かき消えそうな声に俺は返す。

「リヴィオだ。コルミナ村の狩人の……君は、アリーンか?」

 これに彼女の目が見る見る見開かれた。

「リヴィオ……! 本当、なの?」

「俺はリヴィオだ。君はアリーンなんだろう? そうなら頷いてくれ」

 彼女を見つめると、こっちを見てる顔は一度だけ小さく頷いた――やっぱりそうだった。アリーンだったんだ。会いたくてたまらなかった彼女が、目の前にいる。傷を負った状態で……。嬉しいけど、悲しみと怒りも込み上げる。でもそれをぶつける手段もなければ、アリーンに寄り添うこともできない。俺はどうしたら……。

 その時、獣がアリーンに近付いて、その口を開けた。食べる気か――俺の心臓は止まりかけた。が、すんでのところで獣の動きが止まる。オスを見て何やら会話をしてる感じだけど、まさか二頭でアリーンを食べるなんてことを話し合ってるんじゃないだろうな。そんなことしたら、俺が命を懸けてもお前ら二頭を狩ってやるからな……!

 獣はなおもアリーンを気にしてたが、おもむろに口を開けたかと思うと、横たわる彼女にゆっくり噛み付いた――息ができず、思わず顔をそむけた。そんな……こんなに近くにいながら、彼女が食べられるのを見るしかできないなんて……。俺は全身から力が抜けて座り込んだ。あの獣……人間を食べたいなら俺を食べればいいだろう! アリーンにこんなむごい死に方をさせやがって! 絶対に許さない――胸の底で怒りを沸々と湧き上がらせてると、獣がこっちに近付いて来るのに気付いた。アリーンだけじゃ満足できず、とうとう俺のことも食べる気になったか……と思ったが、隙間から見える獣の口にはまだ、ぐったりしたアリーンがくわえられてた。しかも噛み付いたにしては、大量の血が滴ってもない。一体、どういうことだ……?

 俺が疑問を感じてるうちに、獣は入り口の木を動かして目の前に立った。こっちをいちべつすると、獣はくわえてたアリーンを足下に下ろした。

「……!」

 獣が側にいようと関係なく、俺はすかさずアリーンに近付いた。そしてその痛々しい身体を引き寄せる。

「アリーン! 何で、何でこんなことに……しっかりするんだ」

 顔にかかった髪をどけてのぞき込む。土で薄汚れた顔は少し青ざめてる。表情も相変わらず辛そうだ。それでも俺の呼びかけに両目はこっちを見上げてくれた。

「リヴィオ……よかった。生きてて……」

 口の端がわずかに笑った。それを見ただけで俺は泣きそうになった。

「ああ、俺は生きてるよ。君に会わずに死ねるもんか」

 ズズズッと物音がして顔を上げる。と、側にいた獣はいつの間にか外に出て、入り口を木で塞いでた。隙間から動きを見てると、寝床じゃなく、オスの元へ戻った獣は、そのまま二頭で森の奥へ姿を消してしまった。友達なのかパートナーなのか知らないけど、仲良くお出かけってところだろうか。しばらくはあいつらを気にする必要はなさそうだ。

「……アリーン、少し傷を見せてくれ。どんな具合か確認しないと……」

「ええ……お願い……」

 真っ赤な背中に俺は手を伸ばす。血で汚れたチュニックをつまむと、一部分が縦に大きく裂かれてた。その下を見ると、同じ形の傷が背中に刻まれてる。見てるだけでも痛々しい……でも血はそんなに流れておらず、傷も見た感じ、致命傷になるような深さには見えない。服に染み込んだ血も固まり始めてるから、思ったより出血は抑えられてるようだ。でも痛みはあるだろうし、動けばまた流れ出てくるだろう。今は安静にしておかないと――とりあえず止血だけはしておこうと、俺は自分の袖を破り取って、それを傷に押し当てた。水も薬もないから、今はこんなことしかしてやれない。

「……背中の他に、痛いところはある?」

「頭の、後ろが……」

 言われて後頭部を見てみる。長い髪をめくって痛みの原因を探ると、青みがかった膨らみがあった。これは――

「アリーン、頭を何かにぶつけたのか?」

「あの、大きな獣に、襲われた時……驚いて、足がもつれて、後ろ向きに転んだの……その時に、木の根に頭をぶつけて……多分、私、気を失ってた」

 そうだったのか。だから最初、俺の呼びかけにすぐ反応しなかったのかもしれない。

「傷、できてる?」

「傷はないよ。でも大きなコブができてる。これならじきに治ると思う」

「そう……なら、よかった」

 アリーンは小さく息を吐いて、地面に頬をペタリと付ける。

「……その体勢じゃ辛いだろう。俺の膝に頭を乗せて」

 俺は身体を寄り添わせて、横向きにさせたアリーンの頭を自分の足に乗せる。

「苦しくない?」

「大丈夫……ありがとう」

 薄く笑った顔に、俺もホッと息を吐く。

「……あいつは一体、何で君を襲ったんだ? まさか村に現れたわけじゃないよな」

 アリーンは緩く首を横に振る。

「違う……襲われたのは、森の中……」

「森で山菜でも採ってたのか?」

 これにもアリーンは首を横に振る。

「そうじゃない……あなたを、捜してたの」

 そう聞いて俺は以前のことを思い出す。

「ああ、村の皆が俺のことを捜してくれてたのは知ってるよ。かがり火や、声が聞こえたんだ。でも思い通りに逃げられなくて……そこに混じって、アリーンも捜してくれてたのか」

「ええ……最初は、狩人達が捜しに出てた。どっかで転んで動けなくなってるんだろうって、皆、あんまり深刻には考えてなかったの……だけど、何日経っても見つからなくて……皆も、私も、これはまずい状況なんじゃないかって、思い始めて……」

「それで、君も捜しに?」

「私だけじゃない。村で手の空いてる人全員で、森へ捜しに入ったの。今日は西へ、今日は東へって、毎日捜す場所を変えながら……でも、どれだけ捜しても、手掛かりが見つからなかった……唯一見つけたのは、あなたの狩りの道具だけで……」

 獣に襲われた時に、置いて行ったあれか……。

「その道具も、綺麗なままで……近くに血の跡があったり、動物に襲われた痕跡もなかったって……」

「まあ、そう見えたんだろうな。実際は俺、道具のあった場所で獣に襲われたんだ。ただ、弾き飛ばされて意識を失っただけで、出血するような傷は負わなかったから、争った跡を残すほどの時間もなかったんだよ」

「そう、だったの……あなたの行方が追えなくて、亡骸すらも見つからないから……皆、もうあなたは、熊か何かに襲われて、巣まで運ばれて食べられたんだって……諦める口振りの人が、増えてきて……そのうち、捜索も、打ち切られて……誰も、あなたが生きてることを、信じなくなってしまって……」

 アリーンは悔しげに唇を噛み締める。そんな仕草が愛おしくて、俺は彼女の髪を優しく撫でた。

「君だけは、生きてるって、信じてくれたんだな」

「だって、血の跡も、亡骸も見てないのに、死んだなんて信じられるわけないもの。この目で確かめなきゃ、そんなこと、到底信じられない……マノラさんも、同じ思いだった」

「母さんも……そうか」

「二人で、リヴィオは生きてるって、信じてた……だから、私は、まだ捜索隊が捜してなさそうな……森の奥のほうまで、捜しに行ったの」

「まさか、一人で?」

 アリーンはコクリと頷く。

「危険過ぎる。君も昔から知ってるだろう? ここには熊や狼が住んでるって」

「そうだけど、声をかけても、どうせ見つからないって……一緒に捜してくれる人が、いなかったの……もう、一人で行くしか、なくて……」

 俺は息を吐き、彼女の頬を撫でた。

「無茶し過ぎだ……俺のことより、自分の命を大事にしてくれ。幸い、傷だけで助かっちゃいるけど、獰猛な獣に襲われたら殺されるのが普通なんだ。アリーンは運がよかっただけのことだ。もうこんな無茶はしないでくれよ。……でも、信じて捜してくれた気持ちは、すごく嬉しいよ」

 頬を撫でる俺の手に、アリーンは自分の手を重ねてくる。

「こうしてなきゃ、私はあなたが生きてるって知れなかったし……会うこともできなかった。傷は負ったけど……全然、後悔なんてしてないから……」

 フッと笑った彼女に、俺は肩をすくめる。

「まったく……君は強いんだな」

 重ねた手で、お互い強くギュッと握り合う。それだけで気持ちは通じ合えた。

「……ところで、私を襲った獣……あれは何? 熊にも、狼にも見えなかった……あんなの、初めて見た……」

「だろうね。俺も襲われて初めて目にしたやつだ。幻の獣ナフォカ……村じゃ山の主、山の悪魔なんて呼んでるけど、聞いたことあるだろう?」

「幼い頃に、そんな話を聞いた気がする……ナフォカ……本当にいるなんて、思ってなかった……」

「見たっていう話は最近もあったんだ。でも実際目にすると、あの大きさにはやっぱりビビるよ。あんなのが狩られずに、今も森をのし歩いてるなんて、ちょっと現実とは思えないよな。幻の存在のままでよくいられたもんだ」

「リヴィオも、狩りの最中に、ナフォカに襲われたの……?」

 俺はポリポリと頭をかく。アリーンは俺が狩りに出た目的をまだ知らないんだよな……。

「まあ、そうだな。狩ろうとしてたやつに、逆に狩られたっていうか……」

「どういう、こと?」

「実はさ、あの日俺が狩ろうとしてたのって、ナフォカなんだよ」

 アリーンの驚いた目が何度も瞬きする。

「……幻の獣を、狩ろうとしてたの? 一体、どうして……?」

「話じゃ、やつの毛皮はものすごく綺麗で、売れば大金になるって言われてたんだ。俺は馬鹿だからさ、それを鵜呑みにしちまったんだ……そうしたら、この有様よ。大迷惑もいいところだよな」

「お金に、困ってたの? 言ってくれれば、私、できるだけのことはしたのに……」

 結婚資金のため、なんて正直に言ったら、アリーンのことだから必要以上に気を遣って、式は挙げなくていいとか言い出しかねない。だから俺はそれだけは伏せた。

「別に、困ってたわけじゃないんだ。その、幻の獣なんて、狩れたらすごいことだろう? だから、ちょっと、腕試しっていうか……」

 これにアリーンは呆れたように息を吐いた。

「男って本当、そういうことが好きなのね……死んだら、後悔もできないのに」

「反省してるよ。ごめん……」

 素直に謝ると、俺を見上げるアリーンは少しだけ笑う。

「もう、こんな心配、させないでね……だけど、私達、ナフォカに襲われたのに、殺されずに済んだなんて……まるで、奇跡よね」

「確かにな。考えてみると、すごいことかもな……」

「ナフォカは、人を食べる獣なんでしょう?」

「そう言われてるけどな」

「何で、私達のことを食べないんだろう……リヴィオなんて、襲われてから、もう何週間と経ってるのに……」

「それは俺も、未だに不思議に思ってるんだ。あいつは食べるどころか、俺に食料を持って来るし」

「……食料? どういうこと?」

「わからない。他にも水浴びをさせたり……俺の世話をするような真似をしててさ。そのおかげで今日まで餓死せずに済んでるんだけど」

「何か、理由があるのかな……」

「さあ……何しろ幻の獣だからな。生態は謎だらけだ。でも観察してきた中で、俺なりに予想してることはある」

「何の、予想……?」

「俺をすぐに食べない理由だ。見てるとナフォカは賢いってわかる。俺の世話までできるぐらいにね。本来は食料である相手を生かして、世話までする……そういう光景って村でも見たことないか?」

「村で……?」

 考え込むアリーンに俺は教える。

「山羊や鶏の家畜だよ。つまり俺は、餌を与えられて飼われてる家畜って状態なんじゃないかって思ってるんだ」

「あの獣が、そんなことをしてるの……?」

「そう考えると世話される理由も納得できるだろう? それにここ……この穴は、あいつの食料庫なんだ」

「え……そ、そうなの……?」

「ここは最近引っ越して来た場所なんだけど、前の巣の近くにも同じ食料庫があってさ、初めて入れられた時、生肉が置いてあったんだ。ナフォカは食べ物を穴に隠す習性があるんだろう。そこに俺を入れたってことは、いつか食べるつもりではいるはずだ。そんな俺を殺さず、食べ物まで与えて生かすって……家畜扱いしてるとしか思えなくないか?」

「……そうね……確かに、そうかもしれない……それじゃあ、私も殺されなかったのって……同じように、家畜として……?」

「可能性としてはある……予想の域は出ないけど。でもいつか俺達を食べることは確実なはずだ。じゃなきゃ人間を狩って持ち帰るなんてことしないはずだ。こうして命があっても、ここにいたら殺される運命からは逃げられないだろう……」

「私達は、命を少し伸ばされてるだけ……ナフォカに、運命を握られてる状態、ってこと……?」

 不安げに見上げてくる瞳に、俺は作った笑みを向ける。

「そんなに怖がることない。運命って言ったって頼りないもんだ。失敗はしたけど、前に何度か逃げ出せたこともあるんだ。次こそ上手くやれば、あいつに食べられる運命なんか簡単に引っ繰り返せる」

「に、逃げられるの? だけど……入り口は、塞がれてるよ……どうやって……」

 俺は塞ぐ木を手で叩いて示した。

「よく見て。この木、腐ってるからボロボロなんだよ。引っかいただけで簡単に削れる。だからほら、あちこち隙間だらけだ。あいつが動かすたびに、どこかしらにひびも入る。俺は見つからないよう、密かにこの木を削ってる。そして隙を見て、一気に蹴破ろうかと思ってるんだ」

「そんなこと、できるの……?」

「時間をかければ確実にできる。でも、その時間が問題だ。蹴破る前に、あいつが俺達を食べる気になったら、もう成す術はない。だからできるだけ早いうちに逃げ出す準備を終わらせないと……それに、あんまりここに長くいたら、君の背中の傷が悪化するかもしれないし」

「傷……そんなに悪い状態、なの……?」

 不安な顔で聞かれて俺は慌てて答えた。

「そうじゃない。傷は深くないから、数日で塞がるはずだ。だけどそれはまともな手当てをした場合で、ここにいたらそれもできない。しかも傷を付けたのはナフォカなんだ。妙なバイ菌でも持ってたら、そのせいで熱を出したり、病気になるかもしれないだろう? そうなる前に、なるべく早く消毒して治さないと」

「そう……だね……」

 アリーンはなぜか、シュンとして目を伏せた。

「……どうした? 身体が辛いか?」

 かぶりを振るとアリーンは小さな声で言う。

「私が、襲われて捕まったせいで……リヴィオの脱出計画の、足手まといに、なってるよね……ごめんね」

「何を謝ってるんだよ。君は何も悪くなんかないだろう?」

「そうだけど……でも……」

「俺は君に会えたこと、命が無事だったことを喜んでるんだ。脱出するのに一人増えたところで、そんなの大した問題じゃないよ。これが十人とか六十人とかなら、さすがに俺も頭を悩ませたかもしれないけどね」

 笑って見せると、アリーンはちらとこっちを見上げる。俺はその頭を撫でた。

「緊急事態の今は、そんなこと考えなくていい。自分のことと、ここから逃げ出すことだけを考えてくれ。そしてまた村に帰って、地味で退屈かもしれないけど、幸せな毎日を過ごすんだ。いいね?」

 そう言うと、アリーンは微笑みを浮かべて俺を見る。

「……うん。わかった……でも、村は退屈なんかじゃない……リヴィオが、いつも側に、いてくれるから……私は毎日、楽しいよ」

 その優しくも温かい表情と言葉に、俺の胸は心地よく跳ねた。

「君が傷を負ってなければ、今すぐこの腕の中に抱き締めたいよ」

「私もよ……だけど、それは、ここを出てから、いくらだってできる……」

 すると頭をもたげたアリーンは、まだ重そうな身体を動かすと、上半身を起こし始めた。

「だ、大丈夫なのか? まだ寝てたほうが……」

「平気……うっ!」

 背中の傷が痛んだのか、背を丸めて痛みをこらえる素振りを見せた。

「やっぱり横になってるほうがいい。俺に身体を預けて……」

 手を貸そうとすると、アリーンはそれを拒む。

「寝てたら、あなたが動けない……ここから、逃げるんでしょう? なら、早く、準備を進めないと……」

「それはわかってるけど、君の身体のほうが大事だ。さあ、俺の手をつかんで」

 手を差し出すが、その前を四つん這いで通り過ぎたアリーンは壁のほうへ向かう。

「一人で、動ける……私は、ここで休んでるから、大丈夫……」

 俺の背後の壁際まで行くと、そこに右肩を預けてもたれるように座り込む。

「本当に、寝てなくて平気か?」

「辛いのは、背中の痛みだけだから……私も、手伝いたいけど……」

「怪我人は手伝いなんかしなくていい。横になりたかったら、すぐ言ってくれよ?」

 わかったと笑みを見せたアリーンに俺も笑顔を返して、早速今すべきことに向き合う――入り口を塞ぐ、ボロボロの木。俺がちょっとずつ削ったおかげで、内側はだんだんえぐれてきてる。このまま順調に削れば、蹴破れる厚さになるだろう。アリーンのためにも、これまでより急いで削らないと――もろい木を指先で地道に削る作業を、俺は黙々と続けた。靴に乗っかった木くずを払いつつ、数十分が経った頃、その音は聞こえた。

 ガサガサと草をかき分けて近付いて来る音がする――獣だ。あいつが帰って来たのかもしれない。作業を中断しようかと一瞬思ったけど、やっぱり思い直して俺は木の隙間に顔を近付けた。獣にこれを動かしてもらって、ちょっとでももろくさせて、ここからさっさと脱出するべきだろう。日に一度の食料の差し入れ時だけじゃ時間がかかり過ぎる。こっちから呼んで何度も動かさせれば、もっと早く蹴破りやすくなるはずだ。アリーンのためにも、悠長にしてられない。

「おーい! ここを開けてくれ! 頼むよ! 開けてほしいんだ!」

 俺は隙間から大声を出して呼んだ。姿が見えるまで何度も呼んでると……来た。銀色の巨体がのそのそとこっちにやって来る。でもいるのは俺を襲った一頭だけだ。オスは自分の縄張りにでも戻ったんだろうか。まあそんなことはどうでもいい。一頭いれば十分だ。

「開けてくれ! それだけでいいから!」

 隙間からのぞく俺を、獣はしばらく不思議そうに見てきたけど、しつこく叫び続けてると、ようやく前足が木の端をつかんだ。そして横へズズズとずらされる。獣の馬鹿力につかまれた木は、ミシミシ、メキメキときしんだ悲鳴を上げてる。これでまた一歩、蹴破りやすさに近付いたはずだ。

 目的を達した俺は、黙って壁際へ下がった。そこに座るアリーンを見ると、入って来た獣に強張った表情を向けてる。俺は視線だけで大丈夫と伝え、彼女の隣に寄り添う。……本当に、大丈夫だよな。こいつは俺を一向に食べようとしないから、特に考えもなく呼び寄せちゃったけど……もしかして俺は、判断を間違えたんだろうか。さっきから獣の視線が、アリーンばかりを見てるような……。

 その時、獣の前足がおもむろに動いた。前へ伸ばすと、鋭い爪の生えた足はアリーンのほうへ――俺の心臓はギュッと締まった。

「彼女に触れるなっ!」

 恐怖心よりも先に、危機感が身体を動かした。アリーンの前に立って、爪先の向く大きな足に立ち塞がる。ほとんど反射的だった。引っかかれてもおかしくないタイミングだったけど、それよりも俺はアリーンがまた傷付くことのほうが恐ろしかった。

 咄嗟の行動だったにもかかわらず、獣の前足は俺に触れる直前で止まってくれた。そしてゆっくりと引き戻していく。……やっぱり、こっちから獣を呼んだのは軽率過ぎたか。アリーンのためとは言え、焦った考えはするもんじゃないな……くそ、どうにかして引き返してもらわないと――大いに後悔しながら、俺は出て行く素振りを見せない獣と対峙する。

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