十話
枝の上で、俺は固唾を呑んで二頭の獣の様子を見つめた。俺を狩ったメスと思われる獣と、たった今現れたオスと見られる新顔の獣……微妙な距離を取って、お互い顔を見合ってフゴフゴと鼻を鳴らしたり、低い声を出して言葉を交わしてるような雰囲気だ。初めて出会ったんだろうか。喧嘩にはなってなさそうだ。初めましてって感じで自己紹介でもしてるのかもしれない。でもどちらかと言うと、オスのほうが積極的な動きを見せてる。メスの周りをうろついたり、頭を近付けたり、興味津々みたいだ。一方のメスは、何だか戸惑ってるように見える。いきなり現れた相手にそれほど構う気はなさそうで、困ってる感じもある。まあ、これが人間であっても似たような反応になるだろうな。初対面の男にグイグイ来られちゃ、誰だって引くもんだ。
するとオスが距離を詰めて、メスに触れようとした。その瞬間、メスは短く吠えて威嚇し、オスを遠ざけた。そのまま喧嘩にでもなるかと思ったけど、オスはまた距離を取ると、しおらしくその場に立ち尽くした。……動物界でも、やっぱり男は女に敵わないんだろうな。でもそれこそが平和を生み出してるのかもしれない。女はいつだって偉大だ。
それにしても、このオスの態度からすると、今は発情期なんだろうか。多くの動物は春がそうだけど、年に何度か迎えるのもいて、秋にそうなっても別におかしくはない。だけどメスのほうがそんなふうに見えないな。発情期なら、警戒は見せつつもそれらしい動きをするはずだが、まるで無関心な態度だ。今はそういう時期じゃないのか、あるいはこのオスとまったく気が合わないのか……後者だったら、オスの努力が何とも不憫だな。
いろいろ考えながら二頭の様子を観察してると、ふとオスの顔がこっちを見上げてきた。ばっちり目が合って俺は焦った。やばい、存在が気付かれた。でも高い枝の上じゃ逃げ場なんてあるわけもない。枝にしがみ付いて、俺はじっと息をひそめるしかない。こっちに来るなよ……頼むから、無視してくれ……。
そんな心の声が届くはずもなく、オスの獣は俺に興味を移してこっちに歩いて来る。来なくていい! 俺のことは放っておいてくれ――顔をそらして懸命に祈るが、オスは大きな身体を枝のすぐ下で止まらせる。そして俺に目標を合わせたかのように見てくると、その顔がググッとこっちにせり上がって来た。近付いて来る獣に俺は声にならない悲鳴を上げた。恐怖が喉を絞めて呼吸が止まる。後ろ足で立ち上がったオスは、鋭い爪の生えた前足を枝にかけようと伸ばす。メスの獣よりこいつのほうが身体が大きいから、足を伸ばせば簡単に枝につかまれてしまう。俺、こいつに食われる――そう覚悟した時だった。
視界の端から動く影が飛び込んで来たと思うと、オスの身体はよろめいて枝から離れた。何だ? と下を見れば、メスの獣が唸り声を上げてオスの前に立ちはだかってた。グルルルと重低音を発してオスを睨み付けてる。そんなメスの態度に、凄まれたオスはたじたじになって後ずさった。……あ、危なかった。メスが来るのがあと少し遅れてたら、俺はあいつの爪で引きずり下ろされ、ガブッと行かれてただろう。
メスの怒りは収まらないようで、唸り声は止まってたが、まだオスを睨み続けてる。食べ物の恨みは深いもんだって言うけど、動物ならなおさらなんだろう。俺という食料を奪う行為は自分の命に直結する許しがたいことだ。生命を脅かされたと言ってもいい。簡単な注意じゃ済ませられないだろう。かと言って取っ組み合うわけにもいかない。二頭の体格差は大きい。そこにメスの勝ち目はない。だから睨んで威嚇だけに留める――二頭はしばらく向き合って、俺にはわからない言葉で話し合ってたみたいだけど、メスの態度がようやく緩み、オスも畏縮してた様子が消えた。どうやら和解できたらしい。踵を返したオスは現れた時よりも軽快な足取りで森の奥へ消えて行った。それをメスの獣と俺は見送る……はあ、とりあえず一安心だけど、また戻って来たりしないよな? 一応辺りに目を光らせておいたほうがいいかもしれない。
視線を下へやると、こっちを見上げてる獣の目と合った。何となくだけど、その目に大丈夫か? って聞かれてるような気がした。多分気のせいだ。食料の俺を心配するわけないんだから。だけど俺はこいつに、無意識だったとしても助けられたんだ。それは事実だ。その礼だけはしておこうと思った。
「あいつを遠ざけてくれて、ありがとよ……」
独り言のように礼を伝えた。意味はまったく通じてないだろうけど。獣は何もわかってない顔でこっちを見てたが、そのうち造りかけの巣に引き返すと、続きの作業を再開させた。
俺は獣の動きを、ただじっと見下ろす。今夜中に巣を作ってしまいたいのか、まったく休む様子はなかった。まあ、安心して休める場所がないと落ち着かないだろうからな。そうして作業を始めて数十分後には、密集してた雑草はまんべんなく踏み潰されて、獣のベッドに生まれ変わった。なかなかよさそうな巣じゃないか。時間をかけて丁寧に作っただけはある。今夜は獣もぐっすり眠ることだろう――でき上がったばかりの巣で、早速獣が休むものと思って眺めてたけど、なぜか獣は巣に入ろうとせず、辺りをキョロキョロし始めた。オスが戻って来たのか? と思ったが、警戒感はあまり見えない。何か探してるような感じだ。そのうち獣は巣から離れて、暗い森の中を歩き始めた。どこかへ行くんだろうかと見てたが、姿を消しても、またすぐに戻って来た。そして違う方向へ進んで、また戻って来る……何をしてるんだ? 食べ物を探してたり、新たな縄張り内を散歩してるって感じでもない。何なんだろう……。
謎の行動を不思議に眺めてると、獣は巣にほど近い地面に顔を近付けて、クンクン匂いを嗅いだかと思うと、おもむろにそこをガリガリと掘り始めた。爪が土と石を勢いよく削る音が静かな森に響き渡る――地面の下に美味そうなものでも埋まってるんだろうか。でもこいつは基本、大型の動物を狩って食べてるはずだ。土の中にいる生き物をわざわざ掘って食べるのは、ちょっと想像しづらいが……。
獲物にたどり着かないのか、獣の足は土を掘り続ける。次第に穴は大きくなって、獣の頭が隠れるほど深くなっていく……これは、本当に獲物が目的なのか? 穴を掘るよりも狩りに出かけたほうが手っ取り早い気がするが。それとも探しに行けないぐらい腹が減ってるのか……いや、そんなはずない。獣の毛並みはいいし、前より痩せてもない。食べ物に飢えてるようには全然見えない。それなのに土の下の小さな獲物を捕ろうとするだろうか。俺のため、じゃないよな。俺は木の実とキノコしか食べないっていう認識があるだろうし……わからないな。一体何のために掘ってるのか――眺めながら考える間にも、獣はどんどん深く掘り進めて行く。どこまで掘るんだろう。ここまで深く掘ってれば、もうさすがに獲物が目的じゃなさそうだとわかったけど、やっぱり理由はわからない。ガリガリ、ゴリゴリ……土を削る音がだんだん遠くなってきて、自分が睡魔に襲われてるのを自覚する。まずい。眠くてたまらない。変わらない光景に緊張も緩んで、眠る余裕が出てきてしまったんだろう。でも駄目だ。ここは高い枝の上なんだ。眠って意識を失えば地面に真っ逆さまだ。そんな間抜けな死に方はできない。でも睡魔はしつこく俺の意識を奪おうとしてくる。それに必死にあらがって、瞼が落ちて来ないよう気合いで意識を押し留める。しっかりしろ。眠るんじゃない。目をちゃんと開けるんだ――呪文のように自分に言い聞かせるけど、限界は近そうだった。そんな自分に向けての言葉さえも心地いい子守唄に聞こえてくる……。
気付けば暗かった視界は、うっすらと明るくなってた。ところどころ意識を失いかけてたけど、完全な眠りに落ちるまでには至らずに済んだ。もうすぐ朝になるのか――重過ぎる瞼を懸命に持ち上げながら、辺りを見回した時だった。
枝の下からぬっと何かが伸びてきた。え? と思った瞬間、それは俺の背中をがっちりつかんで引きずり下ろそうとしてくる――ひぃっ、な、何するんだ! 地面に、落ちる――傾いた姿勢で視線を下へ向けると、そこには二本足で立ち上がって懸命に前足を伸ばしてる獣の姿があった。……これは、俺を下ろそうとしてるのか? だったらちょっと待て! こんな強引に引っ張られたら枝から滑って落ちるだろ。お前が受け止めやすい体勢に変えるから、この足を一旦引っ込めてくれ――なんて言ったところで聞かれるはずもないわけで、俺は背中をつかまれたまま、枝を滑り落ちるしかなかった。フワッと浮遊感があって、あ、これ、頭打って死ぬなと思ったが、それはすぐに硬い感覚が打ち消して、どうにか落下死は免れた。頭を上げると、すぐ横には銀色の毛むくじゃらの身体が見えた。どうやら俺はいつものごとく、獣に腰部分をくわえられてるらしい。足で引きずり下ろして、そのままくわえるとは……動物の割に器用なやつだ。
地面に足を下ろした獣は方向を変えて歩き出す。今度はどこへ連れて行く気なんだ……と気持ちだけ身構えてると、その足はすぐに止まる。そして慎重な足取りに変えて、薄暗い穴の中へ入って行く――ここって、もしかしてこいつがずっと掘ってた穴か? 何でそこに俺を――と考えてふと閃く。ああ、そうだったのか。この穴は前の場所にもあった食料庫なのか。つまり俺の居場所……それをせっせと掘って作ってたわけか。なるほど。やっと疑問が解けた。
穴に入った獣は空間の真ん中辺りまで来ると、そこで俺を下ろした。数時間ぶりの地面を踏み締めてゆっくり立ち上がる。こうして立てるぐらいの高さと広さは十分にあるけど、前と比べるとやや縦長の空間になっただろうか。掘られたばかりの、新鮮っていう表現でいいのか、濃い土臭さが穴に充満してる。壁を見る感じ、水が染み出てる箇所はない。ここじゃ水分を摂るのも確保するのも期待できないかもな……。
獣は突っ立ったまま俺を見てた。その気まずい視線から逃れようと、俺は穴の奥へ移動する。壁を背にして座り、新たな空間を眺める。ここから正面を見ると、入り口は少し高い位置にある。つまり半分地下に穴は掘られたようだ。雨でも降ればここまで水が流れ込んで来るだろうか。そうなれば水の心配もなく、それなりに過ごせそうな気はするけど。
俺の様子を見てた獣は、そのうち踵を返して穴から出て行った。巨体がさえぎってた外からの光が、座る俺の顔に当たる。眩しい。前はこんなに光が入ってくることはなかったのに――と目を細めた時、気付いた。入り口、ガラ空きじゃないか? でも獣の姿は見えない。石で塞ぐとか、しないのか? それとも忘れて行っちゃったのか? こんなの、自由に出入りしてくださいって言われてるようなもんだ――俺は立ち上がって、そっと入り口に近付いてみた。
木と草が生い茂る森の景色は、徐々に明るくなってきてる。正面の少し先には、獣が作った新しい巣が見える。でもそこに銀色の姿はなかった。出かけてる……狩りにでも行ったか? それならしばらく戻って来ないかもしれない。今なら、逃げられるんじゃないか……? 心臓が高鳴るのを感じながら、穴の外へ一歩を踏み出そうとした時だった。
ガサガサと大きな音が聞こえて、俺はそっちへ目をやる。生えてる草が派手に揺れて、その奥から大きな影が現れた。獣……と、その前にも何かがある。雑草を蹴散らすように、それは獣によってゴロゴロと転がされ、こっちへ向かって来てた。狩りじゃなかったか――心の中で舌打ちした俺は、逃げるのを諦めて大人しく穴の中へ引き返した。
奥から入り口を眺めてると、大きな何かが転がって来て入り口を塞いだ。途端に光がさえぎられて一気に薄暗くなる。でも手元が見えないほどの暗さじゃない。入り口に置かれたものは大分隙間だらけで、塞いでも幾筋もの光が穴に差し込んで来る。前のような石じゃないな。あいつは何を置いたんだ――獣の気配が遠ざかったところで、俺は入り口へ行ってみた。
「……腐った、木か」
近付いてわかった。皮が剥がれて、虫に食われたボロボロの朽ち木。さすがに同じような大きな石はなかったんだろう。こんなもので代用するしかなかったらしい。それにしても、入り口を塞ぐにしては隙間だらけで頼りない。表面に触れてみると、ちょっとつまんだだけで木は簡単に欠けてしまった。もろ過ぎる。多分、道具なんか使わなくても、素手で削れるんじゃないだろうか。朽ち木のあちこちを確認した俺は、そう判断した。ここへ来て獣は、致命的なしくじりを犯したようだ。この木じゃ俺を閉じ込めることなんてできない。それに獣はまだ気付いてない……逃げられるぞ。近いうちに、ここから逃げられる! この木を少しずつ、毎日削って準備すれば……でも焦っちゃ駄目だ。逃げる前に木に穴を開けるのもいけない。獣の様子を見て、あいつが巣から離れた時を狙って一気に壊して逃げるんだ。それまでは絶対に気付かれないよう、慎重に動かないと――また得た何度目かの幸運に、俺は昂ぶる気持ちを抑えたが、自然に浮かぶ笑顔だけは抑えられなかった。
計画を立ててからの数日間、獣の様子に変化はなく、毎日変わらない時間を過ごしてた。狩りに行っては俺の食べ物を採って来て、穴の中に置いてくれる。そのたびに入り口の木を動かすわけだが、獣の馬鹿力のせいで見るからに端々が削られてた。おかげで隙間は広がって、箇所によっては腕一本通るほどの隙間に成長してた。これが繰り返されれば、そのうち木は小さくなって、さすがに獣も気付くかもしれない。そうなる前に俺はここを出たほうがいいだろう。毎日少しずつ木を削ってるけど、獣の出入りの助けもあって、木の削れ方は想定よりも早くなってる。逃げるタイミングも早まりそうだ。それまでは辛抱強く、でも確実に、この壁となってる木を削るんだ――隙間から外の様子をうかがいながら、俺は今日も入り口を塞ぐ朽ち木をガリガリ削る。
そんなある日に、異変は起きた。
狩りを終えて疲れたのか、獣は巣で休んでた。それを俺は木の隙間から眺める。削り作業をしたいところだけど、こう距離が近いと、きっと耳のいい獣は気にして見に来るかもしれない。だからあいつが巣にいる時は俺も手を休めることにしてた。気付かれて計画を台無しにはしたくないからな。
すると寝てた獣が急に頭を持ち上げた。そして一方向をじっと見つめ始める。木と草しかない景色……ここからだとそれ以上のものは見えない。何だ? 何かあるのか? じっと見てると、ガサガサと草をかき分けるような音が聞こえてきた。それと同時に獣は立ち上がって巣から出て行く。でも強い警戒感は見えない。ゆっくり歩いて近付いて来る相手を待ってる感じだ。獲物じゃなさそうだけど……。
やがて俺の視界に動く姿が入って来た。巨大な銀色の身体――それを見て瞬時に気付く。前にここへ現れた、あのオスか。また来るとは。それだけメスの獣のことが気に入ったんだろうか。二頭は顔を見合わせてる。と、そこで俺はオスが何かくわえてるのに気付いた。垂れ下がった長い茶の毛に、赤いものが付着した細い足……いや、あれは手だ。五本の指が見える――言葉を失った。茶の毛だと思ったのは髪だ。動物じゃない。あれは、人間……!
オスはおもむろにその人を地面に下ろした。ぐったりした姿を見て、俺は震撼した。うつ伏せになった背中にはべったり赤いものが付いてる。おそらく血だ。オスに傷付けられたんだろう。でも俺が目を見張ったのはそこじゃない。ぐったりしながらも、こっちに向いてる顔を見て、俺はこの現実を信じたくなかった。宙を見つめ続けてるその顔は、村にいるはずの恋人、アリーンに似過ぎてた。




