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前編

 マリッサはここのところ同じような夢を見る。


 伯爵令嬢として厳しく育てられてきた彼女にとって、睡眠とは泥のように眠ることだったが、最近になってなぜか夢を頻繁に見るようになった。


 いつもきまって…今よりも大人になった自分が…海沿いの街の高台の上にある瀟洒な家でゆらりゆらりとロッキングチェアーに座って、シンプルなレースのカーテンがかかった窓を開け放ち、小さくも整えられた…ハーブや小花で彩られたかわいらしい庭の向こうに広がる海辺を見つめている。


 ゆらりゆらりと、風に髪をそよがせながら 誰か…────の乗る船の姿が水平線の向こうからいつ現れるかと待ち遠しく思っているのだ。


 それが誰かなのかは判らないが、その誰かを思うと胸の奥がくすぐったく…暖かくなるのを感じるのだ。


 風は草花たちをなびかせ、遠い遠い水平の向こうが揺らめいて、船の影…何かの影が見えそうになったところで目が覚める。



 いつものベッド…造りは良いが年代物のため少し古い意匠である。最も部屋自体の意匠も揃いで誂えてあり、古風な花柄ではあるが落ち着いた雰囲気でマリッサ自身とても気に入っている。


「……ハア………」


 目を覚ましたもののシンプルな花柄で彩られたシーツを跳ね上げて起きる気にはなれず、ついため息がこぼれてしまう。


 この夢を見た後は、いつもどんよりした気持ちになる。


 内陸に位置するこの国で、海を…水平線を見渡せるような場所などない。


 水平線どころか、海岸ですら実際に見たことは無い、書物や絵画で得た程度の知識しかない。


 それらに記されているように本当に海は空よりも濃い青で塩の味がするのだろうか。海岸は風すら塩の香りがするのだろうか。


 そんなことをふっと思ってみるが、考えても仕方のない事だとゆっくりと起き上がりながら頭を振る。


「…きっと私はそれを知ることなんて、一生無いでしょうね。」


 だって幼いころから嫁ぐ相手は決まっている。我が家─ベネット伯爵家より上の爵位─ウッドソン侯爵家の嫡男であるケイシー令息だ。国内のそして政治的な派閥のバランスがどうのとかいう事でお互いに物心がつくかつかないかの年齢で整えられた婚約である。

 大陸の中央部に広大な領地をもつ上位貴族であるウッドソン家に嫁げばそう簡単に国外へ出る事は…つまりは実際の海をこの眼で見ることなど叶わないだろう。


「……ハア……」


 彼女は再度ため息をついた。


 自分の家よりも格上の家に嫁ぐにあたり淑女教育や家政学・領地の経営学など学ぶことは山積みだ。結婚するまで…いえ、結婚してからもそれは続くのだろう、と。


 ケイシー令息はウッドソン侯爵夫妻が結婚後かなり経ってからようやく生まれた長男という事もあって、甘やかされて育てられてしまい率直で気分屋だ。よく言えば素直で情熱的、悪く言えば思い込みが強く気まぐれ。そして調子のいいことを鵜呑みにする癖がある。特に女性相手だと顕著だ。誰かに持ち上げられては良い顔をして侯爵家の権勢を使い悦に入る。彼の取り巻きはそれをわかっていて過度に礼賛してはおこぼれにあずかるといった事の繰り返し。


 それを判っているので侯爵夫妻は私に彼の手綱を引けるようにと期待をかけている。


「侯爵夫人という立場は重責で大変だが よろしく頼む。」


 こげ茶に緑色の瞳の侯爵と栗色の髪に菫色の瞳の侯爵夫人のつむじを何度見たことだろうか。

 自分の両親よりも年上の夫妻に頭を下げてそう頼まれれば嫌とは言えない。


 きっと泥の様に眠る事すら出来ないかもしれないけれど。それでも貴族としてなさねばならない責務の一つだと自らの心を励まし、気持ちを切り替えた。



 ──コンコン──


 ベッドの端に座ってから立ち上がろうというタイミングで扉からノックの音が聞こえたので入室を許可するとワゴンを押してメイドが入ってきた。


「お嬢様、おはようございます。」


 ワゴンには朝の身だしなみを整える調度品一式が乗せられており、メイドはそれをドレッサーの側に横付けるとドレッサーチェアを引く。私はいつもの通りそれに座ると洗面セットで顔を洗い、彼女に髪をセットしてもらい気分を入れ替える。

 そして着替えを手伝ってもらいながら思いつく。


「そうだわ窓は開けておいて。空気を入れ替えて欲しいの」


「かしこまりましたお嬢様」


 眩しい朝の光が木陰を通して差し込み、風があるわけではないもののほんの少し部屋の空気が軽くなった気がする。

 塩の香りはしない事を残念に思う気持ちと、当たり前だと思う気持ちを抱えながら支度を整え、朝食の席へ向かう。




 今日は王都にあるウッドソン侯爵家懇意の教会へ礼拝に行く日。


 それなりの時間、馬車に揺られることを考え、朝食は軽めに抑え玄関ホールで馬車を待つ。

 玄関ホールの鏡に映るのは、きっちりと編み込んでもった髪に、シックな色合いのシンプルな訪問用のドレスで華やかさなどない令嬢としてソツのない姿た。


 失礼が無いか鏡の前でチェックしていると、護衛が馬車の準備が整ったと伝えてきた。


 玄関ホールを出て、馬車回しに用意された──家紋などの無い貴族のお忍びや裕福な平民が使う──馬車に付き添いのメイドと共に乗り込む。


 護衛が馬に乗って馬車の横に来て、忘れ物などが無いかを確認すると御者に出立の指示を出す。


 ゆっくりと進む馬車に揺られながら教会への…司祭の方々への挨拶をどうしようかと思い憂鬱な気分になる。本来ならばウッドソン侯爵夫妻の代理人としてケイシー令息も来るはずなのだが、今回もきっと来ないだろう。


 彼はこういった─特に教会の慈善活動のような地味で労力がかかる上に貧しい者たちと関わることの多い実務は興味が無いようで、ウッドソン侯爵夫妻は迷惑をかけてごめんなさいねと言ってはくれるが改善される様子はない。



 憂鬱になる位の良い天気の下でゆっくりと進む馬車はいつも通り教会へ向かう途中で街に寄る。中央広場近くの馬車止め─馬車だけでなく馬を預ける事もできる─に馬車を預けると、御者は私をメイドを馬車から降ろした後は心得たものと馬の世話をするために下がっていった。私はメイドと護衛を連れて事前に予約してある教会への差し入れを引き取りに人気のパティスリーへと足を進め店舗に入ろうとした所、護衛に声を出さずにその場から動かないように手振りされ不思議に思いながら立ち止まると、お店の扉の向こうから


「ええーーっ、今すっごく流行っているっていうイチゴのデニッシュって今日は無いんですかあ~?」


「なんだ、わざわざ来てやったのに品ぞろえが悪いな!」


 必要以上に大きな声で店員を責めるように問い詰める一組の若い男女が見えた。

 侯爵夫人に似た輝く栗色の襟足が少し長めのショートカットに緑色の瞳の男性にくるくる巻いた柔らかいハニーブロンドをツインテールにアレンジしたピンク色の瞳を持つ令嬢が体全体をすり寄せながら口を尖らせている。


「…あれは…ケイシー様と…最近よく一緒に居られる女性の方ね…」


 私たちは彼らに見つからないようにお店の裏側へ静かに移動しそっと身を隠す。


「あの人たちったら相変わらずですね…お嬢様の事を何だと思っているのでしょう。」


 婚約者で侯爵令息たるの彼の不義理─それも度重なる─を不満そうにこぼすメイドを宥めていると乱暴に開け放たれた扉の音が聞こえたので、護衛に様子を伺って貰うと、どうやら彼らは大声で怒鳴りながら去っていったらしく、ホッと一安心して今度こそお店に入った。


 カラン──

 ドアベルの軽い音をさせて中に入ると、店員はほっとした表情でカウンター越しにこちらを向いた。


「あ、ようこそマリッサ様お待ちしておりました、いつものご注文のイチゴのデニッシュご用意しておりますよ。」


 店員さんは気を取り直したかのようで、明るく声をかけてきて少々お待ちくださいねと言うと奥の厨房へ向かうと沢山のデニッシュを載せた大きなトレイを抱えて戻ってきた。


「ではこちらの籠に詰めてください。」


 メイドがあらかじめ用意していた持ち帰り用の籠を店員に渡したとき


「お嬢様、お待ちを」


 と護衛が声をかけてきた。と同時に、カラン─とお店の扉が開く音がしてつい振り返ってみると


「おい、なんでさっきは無かったイチゴのパンがそこにあるんだ!?」


 そこにはケイシー様と先ほども一緒にいたお気に入りの女性が立っていた。

 護衛が私を庇おうと彼らと私の間に入ろうとするが、ケイシー様に制され一歩引かざるを得なくなり、私は自分を睨むケイシー様とニヤニヤとした目でこちらをうかがう女性と真正面から向かい合うことになってしまった。


「…あ、えと、あの、これはいつも買っていて…」


 何とか…穏便に説明しようとしたものの上手く言葉が出てこなかった私の言葉にかぶせるように


「ひどーいっ、私には買わせないってことなんですね!そんな嫌がらせされるなんて…」


 彼女は顔をうつ向かせよろめいたかのようにケイシー様にしなだれかかった。


「まさかシエンナに嫉妬してこんなことをしたのか!」


「私とケイシー様は普通のお友達なのに…ケイシー様がとっても親切にしてくださっているだけなのに…」


 ケイシー様は彼女…シエンナ─と言う名前である事なんて今初めて知ったわ─嬢の肩を抱き寄せ、シエンナ嬢はケイシー様のジャケットの裾を手でつまみながら更にすり寄り目を伏せ、私に向かってなじってきた。


「そんなっ、私はウッドソン家の教会への差し入れに…」


「よりによって我が家の慈善活動を盾にして言い訳にするとはな。見損なったぞ!」


 そう言うとデニッシュを詰め込んだ籠を持っておろおろしていた店員に近付いたかと思ったら強引に籠ごと奪い取り、


「つまり、これはウッドソン侯爵家の名を利用して作らせたんだろう?であれば俺が貰っていく事の方が正しい訳だ。」


「ケイシー様かわいそう!まだ結婚もしていない相手の家の威光をつかって、ケイシー様に断りもなく物を作らせるような人が婚約者だなんて、すっごくひどい人です!ぷんぷんっ」


 言うだけ言って気が済んだのだろう、二人はデニッシュの入った籠を持って今度こそ去っていった。



 あっけにとられ茫然としたまま立ち尽くしていると、彼らが今後こそ帰っていったかを確認した護衛が


「お庇い出来ず、申し訳ございません。」


 と平謝りしている。


「いいのよ、仕方ないわ」


 まさか彼らが戻って来るとは思わなかったし、彼の立場では侯爵令息を直接止める事は難しいし今の所私と彼は婚約者同士なのだ、向かい合って直接話すことを相手が…ケイシー様が望めば断るわけには今ない。

 もし戻ってくることを予測できたとして、護衛を店の外で立たせておく事は店や周囲への迷惑になるし何より護衛対象である私から離れるなんて何のための護衛なのかという事になってしまうもの。ただまあ彼が父にさっきの出来事を報告すればきっと護衛の人数を増やされるてしまうわ。侯爵家の代理としての教会への訪問なのに伯爵家の者がぞろぞろと大人数で向かいたくはないのだけど…。


「あ、あの…申し訳ありません…」


 店員が体を縮こませながら消え入りそうな声で恐る恐る謝ってくる。


「こちらこそ迷惑をかけてごめんなさい」


「そんな、頭をお上げくださいっ」


 慌てて手を振る店員に、今すぐ出せるもので20個程あるものは無いかと尋ね、それを改めて購入し─当然ケイシー様達が奪っていったイチゴのデニッシュの代金も支払って─籠はもうないけれど馬車から大判のクロスー包み布として使えそうなーを持ってこさせ、それに包んでもらうことにした。



 「いつものイチゴのデニッシュじゃなくてごめんなさい。」

 教会に着くと私は真っ先に差し入れのパンがいつものデニッシュでは無いことを詫びた。

 イチゴのシーズンもそろそろ終わりだから最後に子供たちやシスターの皆に食べてもらいたかったなと、残念な気持ちが顔に出てしまったのか、シスターもいつもの籠ではなく布で包まれていることで、何かを察してくれたのか。


「あのお店のパンはどれも美味しくて子供達には人気ですもの、どのパンだって子供たちは喜びますわ。それにこのビワの実のパンもとても美味しそうですよ。」

 と笑顔で受け取ってくれた。


 伝統的なスタイルのこの教会は侯爵家の支援で支えられているだけあって広さや施設も充実しており、その中でも庭はとても広く─といっても貴族の邸の庭園ほどではないが─全面に芝生が植えられ奥には低木の植込みもありちょっとした公園の様になっている。


 応対をしてくれたシスターとは別の若いシスター達が子供たちと共に、その植込みの向こうで洗濯物を干している。彼らの普段着以外にもシーツやクロスが沢山干されている。


「来月の生誕祭に向けて準備を始めているんですよ。今年は建物の掃除やクロス等の衣類の洗濯だけでなく芝生や草木の手入れも子供たちと一緒にやっていて…ほら、スッキリしましたでしょう?」


 まずは掃除をして、そして来賓や来客に配る記念品や振舞われる料理の仕込みを始める…この時期ならではの風物詩だ。


「…それで来月の生誕祭はケイシー坊ちゃまとご一緒においでになられるので?」


 シスターの問いに私は目を伏せる。


「そうですか、ケイシー坊ちゃまももう少しマリッサ嬢に寄り添われても…いえ、ウッドソン侯爵家の支援で成り立っている教会の人間が言うべきことではありませんでしたわね。」


 そう困り顔をするシスターにあいまいな表情を返してその場をやり過ごし、生誕祭の打ち合わせと他愛のない話をして教会を後にした。


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