白い結婚を望まれた花嫁は三年後、離縁を望む
今日は結婚式でした。 大勢の招待客に華やかな式場。 それに、宝石をふんだんにあしらったドレス。 誰が見ても、幸せな結婚式を送ったように見える。
だが、実際はそんな風ではないのだ。
「君とは白い結婚だ」
ベッドに腰掛けて座っている私の目の前で仁王立ちで、こちらを睨みつけた。
まるで、親の仇でも見るような目でだ。
「白い……結婚……ですか?」
こちらが困惑するように彼を見ると、自分の前髪を手で上げながら、ため息を大きく吐いて、煩わしそうにした。
これが、一生を誓った相手に言う言葉や態度だろうか?
そう、目の前の男は私の夫になった男である。 アーサー・グルーガー。 グルーガー伯爵家の嫡男として生まれた彼は誰もが振り返るほどの美貌に、生まれ持った優雅な仕草、貴族としての素養など、私には足りないものを多く持った彼は多くの令嬢からモテていた。
その中で、誰が彼のことを射止めることができるのかと社交界で噂にもなった程だった。
そんな彼の結婚相手はこの私だ。 ルルージュ・ストラ。 ストラ男爵家の次女である。 男爵と言っても、その中でも下級もいいところで、平民よりも少し上ぐらいの位置である。 だが、私の家は商会を営んでおり、持っている資産では国一番と言われる程だ。
つまり、金持ちなのである。
だが、見た目は平凡である。 彼の隣に並んだら、天と地ほどの差ぐらいあるだろう。 何故、そんな彼が私を選んだか……。 それは、お金である。 彼の家は、二年前の大雨の影響で作物の不作、それに伴った資金ぐりがうまくいくことなく、借金が増え続けてしまったので、多くのお金を持っている私の持参金目当ての結婚である。 そして、丁度適齢期の私が選ばれた。
いつかは結婚するだろうと思っていたが、こんなに早く決まるとは思わなかったし、政略でもこんなに見目が麗しい貴族と結婚できるだなんて夢みたいだと思った。 だが、本当に夢は夢だった。
今日は初夜だったのに、旦那様になる彼からの『白い結婚』宣言。 ショックを受けるなと言う方が無理である。
彼はショックのあまり、言葉を発することができなくなっている私に、いい気味だと思ったのか、鼻で笑った後に、さらに言葉を続けた。
「俺には愛する人がいる。 お前と違って、俺と並んでも遜色ないほどの美人だ」
彼の言葉を信じたくなくて、縋るように彼を見つめる。 きている服の裾を強く握りしめながら。
「こっ、この結婚は……確かに、政略結婚ではありますが……貴方も乗り気だったのではないですか?」
アーサーは初めの顔合わせのときに、私に微笑みながら手を握ってくれたのだ。
「貴方と結婚できることが嬉しいです、と……言ってくれたではありませんか!」
彼の家は伯爵家。 私達は男爵家と身分に差があるため、断ることが難しい縁談だったが、私の両親は断っても大丈夫だと言われた。 断ったところで、国一番の資産を持つ私の家は影響を受けることがないと優しく言ってくれた両親。 だけど、私はアーサーの優しさや麗しい見目で、貴方は可愛いね、と言われたことが嬉しくて、結婚を承諾してしまった。 だけど、婚約期間中の彼とは全く違う雰囲気になってしまった彼が目の前にいる。
信じられないのは仕方がないのではないだろうか?
「そんなの、お前と結婚するための嘘に決まっているだろう? 俺の家は金が必要だったんだよ。 そんなことも分からないのか?」
私の言葉に、苛立ちをあらわにし出した彼はさらに言葉を続けた。
「さっさと、この会話を終わらしたいんだよ。 お前と話しているとイライラする。 こうしている間にも、アイナはずっと、俺が来るのを待っているんだからな」
アイナ……。 その名前はきっと、彼が愛する人の名前だろう。
「そんな……」
信じられない気持ちで、口を手で押さえた。
「じゃあ、俺はもう行くからな」
そう言った、彼はさっさとこの部屋から出て行こうとする。 このままでは駄目だと思った、ルルージュは急いで立ちあがり、彼の手を触った。 しかし、その手は無惨にも振り払われた。
「きゃっ!」
そして……その触られた手を見た後に、彼女を睨みつけた。
「汚い手で俺に触るな! 俺に触れていいのは、アイナだけだ。 二度と、俺に触るなよ!」
それだけ言うと、彼は部屋を出て行った。
部屋に残されたのは、結婚式を一緒に上げた筈なのに、違う女性の元に行ってしまった男の出ていった扉を呆然と見ている女性一人だった。 その日、小さな悪意の芽が生まれたとも知らずに。
そして、この初夜の日の話は翌日には屋敷全体に広まってしまった。 この屋敷に彼の両親は住んではいない。 新婚を邪魔してはいけないと、領地に移り住んでいるのだ。 だから、彼の両親、それに私の両親もこの話は知らない。
この屋敷で、私は蔑ろにされていると……。 そして、アーサーの愛人が我が物顔で、この屋敷に居座っていることを。
「奥様。 ふふっ。 本当に、奥様なのかしら」
そう言ったのは、この屋敷のメイドである。 何の力もない、ただのメイドだ。 朝食の時間だと言われて、私を呼びにきたのに、何一つ準備の手伝いをしない。
だが、貴族と言っても下級である私は一人で何でもできるので、現在では彼女の存在など、気にしない準備をしている。
彼女の言葉に何も反応しないでいる私に腹を立てたのか、髪をすいている私の後ろに急に立ち、髪を引っ張った。
「痛っ!」
鏡に写る自分の顔を見ると、痛みから顔が歪んでいた。 その様子に、にやっと笑っているメイド。
「離しなさい!」
私が声を荒げると、メイドはさらにニンマリと嫌な笑みを浮かべた。
「髪を整えて差し上げているのに、どうしてそんなことが言えるのでしょうか? 不思議でなりません。 やっぱり、ただの貴族の振りをしている奥様……ああ、奥様っぽい人でしたかね……」
そう言ってクスクスと笑う使用人に腹が立つが、ここで言い返しても良いことがないことを知っている。
何故なら、言い返したところで、彼女達はアーサーに有る事無い事を報告する。 そのせいで、私は彼に叱咤される。 違うと否定しても、貴族の振りをした卑しい身分のくせに、と言われるのだ。
さらに、酷いのは、彼は初夜の次の日、私に部屋の移動を要求したのだ。
「この部屋は伯爵夫人の部屋だ。 だから、お前は出て行け」
「伯爵夫人なら、私ではないですか?」
「……はっ!」
私の言葉に彼は鼻で笑う。
朝から彼が訪れたので、もしかしたら昨日のことは夢で、謝りにきてくれたのかも知れないと、部屋に通したが、少しだけ浮かれていた私の心に大きな鍵を打ちつけた。
「今日から、この部屋は……アイナに使わせる」
アイナと呼ばれた女性は、アーサーの後ろからひょこっと顔を出した。
加護欲をそそる小柄な体格に、それに見合う可愛らしい顔。 それに、ふわふわな金髪。 どれを取っても、ルルージュが羨む程の見目である。
「ごめんなさい。 確か……奥様の、ルルージュ様……でしたっけ?」
首を傾げながら、微笑んだ彼女を睨んでしまうのは仕方がないと思う。
だが、睨んだことがアーサーにバレて、何を睨んでいるんだ、と大きな声で叫んだ。
ビクッと肩を振るわせていると、彼の後ろから出てきたアイナが、プクーと頬を膨らました。
「アーサーったら。 朝から大声出さないで。 それに、ルルージュ様がいるから、お金があるんでしょう? なら、仲良くしとかないと。 ねっ!」
にっこりと、彼に向かって笑う彼女はとんでもないことを口にしている。
「私も、ルルージュ様と仲良くするように頑張るわ! だって、貴方の愛する人は私だけって知っているから、奥様が私じゃなくても、大丈夫!」
「アイナ……」
アイナの言葉に蕩ける顔を見せた彼に一気に熱が冷めていく。
だが、この一部始終を見ていた使用人は誰につくか、即座に判断したようだった。
「アイナです! よろしくね。 ルルージュ様」
アイナはまるで貴族の必要最低限の常識を持ち合わせていなかった。
「ルルージュ・グルーガーです」
結婚したので、グルーガーと名乗ったのだが、それがいけなかった。 アイナが大きな瞳に涙を浮かべたのだ。 そして、アーサーに抱きついた。
「アーサー。 私では名乗ることができない貴方の姓がルルージュ様だけ名乗れるだなんて……ずるいわ!」
彼女の言葉はまるで意味がわからなかった。 だが、アーサーには響くのだろう。 何故なら、この日から、妻であるはずの私はグルーガーの名を名乗るなと言われ、部屋も客室に移された。
本当に私のことをお金だと思っているのだ。 それも、見返りがなく、お金を生む鳥だと思っているのだろう。 その証拠に、何もさせてもらえない。 女主人の仕事はこの家の執事長と侍女長。 それに、社交界にも出させてもらえない。 そのため、ドレスは必要ないだろうと買ってもらえない上に、アイナには、買っていることを知っている。 それも、私に贈るためだと偽って。 お金は無限に湧くものではないことを彼らは知らないのだ。 私の持参金を領民ではなく、愛人に贈る贈り物に使うなど信じられない。
だから、私は決めた。 あの日、生まれた悪意の芽は確実に育っていた。
「もう、結構よ。 下がって」
髪を引っ張っていたメイドを下がらせようとするが、その言葉に不服だったのか、もう一度、強く髪を引っ張られた。
そして、出る間際に、この事は旦那様に報告致しますので、と言う言葉と共に出ていった。
私は、彼女の出ていった扉を睨みつけた。
この後、軽く準備をした後に、机に入れていた書類を手に持って部屋を出た。
食堂に入ると、アーサーとアイナは隣同士で一緒に座って、もう食事を初めていた。 それも、食べさせあったりして、とても楽しそうである。
この光景はいつものことなので、もう何も思わなくなってしまった。
そして、その空間に入ってくる私をアーサーが睨みつけて、それをアイナが勝ち誇った顔をしながら私を見るのもいつもの光景である。
私が彼らの目の前に着席すると、メイドが食事を持ってくるが、目の前の彼らとは違う質素な食事を持ってくる。
置く時も、ガシャンと大きな音を立てた。 スープが飛び散るが、メイドはニヤニヤと笑うだけである。
これに怒りを露わにすると、目の前に座るアーサーに怒鳴られるので、何も言わずにスプーンを手に取って、口をつけた。 すると、口の中に広がるのは苦味だった。
「ごほっ」
大きく咳き込んでしまった。 その様子を見たアーサーは顔を顰めて、アイナと周りに立っている使用人は嫌な笑みを浮かべた。
今までは、味だけは普通だったのに、とうとう味までも適当にするなんて。 私の味方は本当に誰もいないことを再確認した瞬間だった。
「貴族の娘として、食事も静かに取れないとは……。 やはり、平民に近いお前は貴族としての教養が足りないのだな……」
顰めた顔のままそう言ったアーサーにため息を吐きそうになったが、我慢した。
「申し訳ありません……」
ヨレヨレになってしまったドレスの裾をギュッと握りしめた。
「アーサーったら、そんなことを言っては可哀想だわ」
可哀想と言っている割に顔は勝ち誇った顔をしている。 アイナは感情を隠すことができないようだ。 それに、カトラリーの使い方も違う。 ずっと、気になっていた。 私のことを貴族ではないと馬鹿にするのに、アイナのことは何も言わない。
昔、とうとう腹が立って、「アイナ様も……貴族ではありませんよね」 と言ったことがあった。 その時にアーサーが今までで一番、怒った出来事だった。
「お前もアイナが貴族ではないと言うのか!!」
「酷い! 酷いわ! 私が男爵家の妾の娘だからと馬鹿にするのね! 私だって、ただの貴族だったら、アーサーと結婚できたのに!」
彼らの言葉を聞くに、二人は結婚を反対されたのだろう。 だからと言って、私と白い結婚をして、お金だけを受け取った後に、蔑ろにするのはおかしい。 その上で、愛人を女主人として扱うなど。
本当に結婚したいなら、アーサー自身が平民に落ちれば良かっただけだ。
だから、その言葉をそのまま彼らにぶつけた。 すると、激昂したアーサーに頬を打たれた。 強い力でだ。 勿論、そんなことをされた私は後ろに大きく倒れた。 後ろに花瓶があるなど、知らずに。 私がぶつかった衝撃で花瓶が割れた。 それも、割れた破片が私の右端の額を切った。 前髪で隠れてはいるが、小さな傷ができている。
誰も、治療をしてくれなかったので、傷が残ってしまった。
だから、この出来事以降、この話に触れることはなかった。
でも、もう……いいや。
悪意の芽は確実に大きく育ってしまったから。
私はにっこりと彼らに微笑んだ。
目の前の二人や使用人達は目を見開いた。 最近の私は何をされても無表情が常になっていた。 その私が笑ったのだ。
「なっ、何を笑っているんだ?」
不審がったアーサーは私に尋ねた。
「私、今まで、二人のことを応援することができなかったのですが……今日、二人が愛し合っていることを再確認致しました」
「はっ……?」
アーサーとアイナは一瞬だが、戸惑った表情になった。 使用人も同じである。
あれほど、私に酷い仕打ちをしたのに、認めたら戸惑うなど、可笑しくて笑いそうである。
「なので、白い結婚を認めようと思います」
その言葉で、アイナは嬉しそうに笑い、アーサーはやっと認めたかと、うなづいた。
「なので、三年は私と結婚したままで、その後にアイナ様を娶ればよろしいかと。 白い結婚を三年送れば離縁できます。 ……白い結婚を知られたくなければ、三年の間に子供ができなかったから離縁したと言えば良いのです」
「アーサー様! これなら、私達結婚できますよ!」
嬉しそうにアーサーの腕に絡みついた。
「あっ! でも……その三年間の間はアイナ様とのお子様も我慢していただきたいのです。 この間に子供が産まれてしまうと、アーサー様の不貞の上での離縁になってしまいます。 それだと……外聞も悪いですから。 あくまで、白い結婚か、私に子供ができないための離縁だと、印象付けた方が、アイナ様と結婚しやすいと思うのです」
私の言葉にうんうんと、うなづくアーサーに内心ほくそ笑んだ。
そして、アーサーに向かって書類を渡した。
「これにサインして欲しいのです。 内容は三年後離縁することが書かれた書類です」
だが、それを受け取る前にアーサーは考えこむ仕草をした。
「だが、お前の家からのお金がなくなるではないか」
そう、今は私の家の援助もある。
「三年の間に、伯爵家を復活させれば良いのです」
「復活?」
「ええ。 私が実家に支援をお願いしながら、領地の復活を頑張りますわ」
「できるのか?」
疑うように私を睨みつける彼に大きくうなづいた。
「ええ。 私、実家ではお金を産む鳥のようだと比喩されたことがあります」
「本当か?」
まだ、信じられないような顔をしている。
「それに、もし失敗しても、私の実家からの支援は止めないつもりです。 これなら、大丈夫でしょう?」
私の言葉に一番反応したのはアイナだった。 興奮した様子で、アーサーに詰め寄った。
「アーサー様! ルルージュ様もこう言っているのですよ! サインしましょう! 私、アーサー様と結婚したいです!」
ねっ! とアーサーにお願いする様子は、可愛らしい。 私もにっこりと笑った。
「アーサー様。 私も気が変わる前にサインをお願いしたいです。 サインをいただければ、私は別館に移りますので……。 お二人のお邪魔はこれ以上したくありません」
目線を下に下げながら、しおらしく装う。
「わっ、わかった! サインしよう」
アーサーは渡した書類を深く確認せずに、サインした。
私は心からの笑みで、そのサインされた書類を受け取った。
「ありがとうございます。 では、今日から別館に移動しますね。 あっ! 領地を復活させなければいけませんので、偶に領地に行きますが、アーサー様のご両親にはしっかりと仲良くやっていることをアピールしておきますので。 良いですか?」
「あっ、ああ……」
彼から、しっかりと言質をとった。 もう、後は行動に移すだけだ。
「それと、別館用に使用人も新しく雇いますね。 ここの使用人はアイナ様の物なので……」
反対されるかもしれないが、ここの使用人など信用できない。 だから、駄目元でお願いしたが、先程の話が功をなしたのか、特に何も言われることなく許可が降りた。
私は鼻歌を歌いながら、部屋を出ていった。
三年後に思いを馳せながら。
三年の月日は思ったよりも早かった。
別館で書類を確認していく。 勿論、離縁届も忘れずにだ。
この三年間、アーサーとアイナ、それに本館の使用人達は一切態度を改めなかった。 アイナに至っては私の名前でドレスや宝石などを買い漁っていた。 アーサーも領民のことを一切考えていなかったのか、領地に訪れることなく、夜会やお遊びに勤しんでいたようだ。
その証拠に、私には沢山の領収書だけが届いていた。
それをクスクスと笑いながら見ている自分も性格が悪くなったと思う。 その横で、紅茶を淹れてくれるメイドは私を気にした様子はなく、淡々と仕事をこなしてくれる。
「奥様。 お待たせしました」
良い香りが鼻をくすぐった。 そして、一緒にお菓子も用意してくれた。
「美味しい」
あの後、別館には新しい使用人を数人雇った。 本館のような使用人ではなく、皆、仕事ができる人間だ。
実家のつてを使って探した。
「奥様。 そろそろお時間です」
初老の執事が頭を下げて、呼びにきた。 この別館を取り仕切ってくれる執事長である。 この方だけは、伯爵領から連れてきた。 領地にいる彼のご両親から推薦された優秀な人である。 もう、ゆっくりとして良い歳なのだが、この状況を憂いて働いてくれているのだ。
「では、行きましょうか」
にっこりと笑みを浮かべて振り返った。
久しぶりに本館を訪れると、何の用だと不躾な視線を受けた。 これが伯爵家で働く使用人なのだろうかと呆れてしまった。 一緒についてきていた、執事長や別館のメイドは顔を顰めたが、私が止めた。
「旦那様達の元に案内して頂戴。 今日は約束の日なのだから」
そこに立っていたメイドに声をかけると、嫌そうな顔を隠すことなく、ぶっきらぼうに「ついて来てください」 と言われた。
そんな彼女の態度に呆れを通り越して、笑いが起きた。 堪らず、クスクスと笑うと、メイドは怪訝な顔を浮かべた。
そして、食堂に着くと、相変わらずな二人がそこにいた。 いや、違うとすれば、二人が来ている服だろう。 アイナに至ってはゴロゴロとたくさんの宝石をつけた派手なドレスだ。
「お二方。 お久しぶりです」
「ああ! ルルージュ様! お久しぶりです!」
嬉しそうな顔をするアイナはこの日を待っていたのか、席に案内してくれる。
「今日は、離縁届の書類を持ってきました。 サインしてくれますよね」
「ああ! 初めは、資金が増やせるのかと疑っていたが、この通り、伯爵領は蘇ったからな。 遠慮なく、お前と離縁して、アイナと結婚できる」
「そう思って、アイナ様との婚姻届もお持ちしました。 アーサー様のご両親が反対する前にサイン致しましょう」
その言葉に一番反応したのはアイナだった。 嬉しそうに、婚姻届に名前を記入する。 アーサーも離縁届にサインした後に、アイナと同じように婚姻届にサインした。
それをしっかりと確認する。
「「「ああ……やっと……」」」
アイナとアーサーと同じ言葉が出た。
だが、意味合いは全く違うだろう。
「はは……あははははは」
私は笑いが止まらなかった。
「やっと……やっとだわ! あはははははは!」
私の様子を不審に思ったのか、彼らは怪訝な顔を私に向けた。
「お前……。 一体、どうしたんだ?」
「ルルージュ様?」
「ふふ……ああ、可笑しい」
やっと、笑いが落ち着いてきて、困惑する二人に心からの笑みを浮かべた。
「アーサー様。 アイナ様。 それに、使用人の皆様。 今すぐ、この屋敷を出ていって下さいな」
そして、信じられないほどの穏やかな声が食堂に響いた。 その声を発したのが、ルルージュであると、一瞬皆が信じられなかった。
「どっ、どう言うことだ! この屋敷は俺の物だぞ! 出ていくのはお前の方だ!」
「そっ、そうよ! ルルージュ様の方でしょ!」
二人は声を荒げた。 しかし、ルルージュは動揺することはなかった。
「いや、アーサー。 お前達が出ていくんだ」
その声はこの場にいる筈のない人の声だった。 アーサーは声がした方に顔を向けると、言葉を失った。
「ちっ、父上……。 それに、母上までも……」
「えっ⁈ アーサーのお父さんに、お母さん⁈」
二人と使用人は驚愕した様子を見せた。
「何故……だと。 お前がそれを言うのか! アーサー!!」
「ちっ、父上……?」
「この三年間のお前達の所業は全て知っている。 全部嘘だと思いたかった」
彼のギュッと握りしめる手は震えていた。 怒りと悲しみが同時に襲ってきていたのだろう。
「アーサー。 私は言った筈です。 ルルージュ嬢と結婚するなら、彼女とは一切会わないようにと……それなのに……」
父親と同じよう怒り、そして、我が子である筈のアーサーに冷たい視線を向けた。
「ルルージュ! どう言うことだ!」
「何のことでしょう」
にっこりと優雅に微笑んだ。
「とぼけるな! 両親には仲良くしていると伝えると言っただろう! 俺に嘘をついたのか!」
激昂するアーサーに笑いが漏れた。
「ふふ。 確かに伝えましたわ。 アーサー様は、屋敷で愛人と仲良くしていると……。 私とアーサー様は仲良くなどないのですから当たり前でしょう」
「なっ……」
ワナワナと怒りのあまり振るえるアーサーを無視した。
「では、もう良いでしょうか。 早く出ていってくださいな」
「ルルージュ様! こんなのはあんまりです! 私達が一体何をしたんですか?」
その言葉にアーサーの両親は信じられないものを見るような目でアイナを見た。
「あら……沢山です。 まずは、私の持参金でドレスを買い漁ったこと。 結婚したらもらえる筈だった屋敷での権限。 それに、私の自尊心を傷つける行動。 ……など、様々でしょうか?」
にっこりと、アイナに笑いかける。
「でも、もう許してあげます。 だって、平民になった貴方達とは会うことはないでしょうから。 今、着ているドレスや宝石は餞別として差し上げますわ」
その言葉に反応したのは、アーサーだった。
「どう言うことだ! 俺達が平民って……」
「そのままの意味です。 だって、アーサー様。 三年前に書類にサインしたでしょう」
「サイン?」
「ええ。 離縁を認める書類です。 まさか……確認していないのですか?」
嘲笑うように彼らを見ると、顔を真っ赤にさせた。
「お忘れしているようなので、読み上げましょうか?」
「…………アーサー様」
瞳を揺らし、不安な様子を見せたアイナを気にする余裕がないアーサー。
「三年後には、白い結婚の元、必ず離縁すること。 離縁すれば、アーサー・グルーガーは平民になること。 伯爵家の本邸で働く使用人は紹介状なく退職させること。 私がこの家を出る時、ストラ家からの支援は無くすこと。 などが大まかに書かれていました。 まさか、伯爵家の当主になるような方が目を通さずにサインするなど……ありえませんよね」
にっこりと彼に向かって微笑んだ。 勿論、目は笑っていない。
「そんなもの無効だ! 俺は騙されたんだ!」
「そうです! こんなのはおかしいです!」
二人は大きく叫んだ。 本邸の使用人も同じように口々に叫び出した。
「紹介状がなければ、次の就職先などないじゃないですか!」
「どうすればいいんだ……」
「そんな……こんなことって……」
皆、顔を真っ青にして絶望にも似た表情だ。
「ちっ父上! 俺は騙されたんです!」
アーサーは父親に縋りついたが、それは呆気なく振り払われた。
「何が……詐欺だ。 書類をしっかりと見ていれば良かったではないか! それよりも、結婚した相手を大事にすればこんなことなど起こりはしなかったのだ!」
「ええ。 例え、政略であろうと、お互いを尊重し合いながら、夫婦になっていけば良かっただけです……それなのに、貴方ときたら……」
「そんな……」
両親からも助けてもらえないと思うと、表情が抜け落ちた。
「お前のせいで……お前のせいだ……。 ルルージュ・ストラ!!」
そして、怒りの矛先を私に向けた。 テーブルの花瓶を手に取って向かってきた。
「…………っ!!」
ギュッと次に来る衝撃に耐えるために目を閉じて、両手で自分を守ろうとしたが、いつまで立っても衝撃が襲ってこないので、ゆっくりと目を開けると、そこには大きな背中で守ってくれる彼がいた。
「…………グレイ様」
その背中には見覚えがあった。 安堵から彼の名前を呼ぶ。
「申し訳ありません。 遅くなりました」
グレイはアーサーを取り押さえながら、安心させるようにルルージュに向かって微笑んだ。
「グッグレイ⁈ 貴様が何でここに⁈」
グレイ・グルーガー。 グルーガー伯爵家の次男であり、アーサーの弟である。 背が高く、鍛えられた身体。 アーサーとは違い、切れ長の瞳に真っ黒な髪、それに、額には大きな火傷の後がある。 騎士服を来ていないと、まるで極悪人のように見える顔をしている。 騎士団に入っており、その強さは皆が認めるほどだ。
「兄さんこそ、か弱い女性に何をしている」
「が弱いだと! この女のせいで俺は平民になるんだぞ!」
「良かったではないですか。 そこに立っている女性と愛し合っているのでしょう。 添い遂げたいなら、平民になれば良いだけです。 ルルージュ様はその後押しをしてくれた女性です」
「なっ……」
言葉を失うアーサーを見て、ワナワナと震えていたのはアイナだった。
「私が……平民? 何で……?」
信じられないと焦点があってない目で呟いていた。 この三年間の間で調べたことがあった。 アイナのことだった。 とある男爵家の妾として産まれたと言っていた。 それは確かだったが、男爵はきちんと自分の娘として引き取って育てていたが、貴族の勉強を疎かにした上に、正妻の子供を虐める、それに、婚約者がいる男性に言い寄るなど、問題行動ばかり起こしていたのだ。 みかねた男爵はアイナを修道院に送ろうとしたら、家出したらしい。 そして、新しい寄生先がアーサーだった。
「アイナ様……。 平民になっても愛する人と一緒ですわよ」
そんな彼女に勝ち誇ったような笑みを浮かべた。 あの日、私に向かって笑った貴方のように。
「では、そろそろ幕を引きましょうか。 アーサー様。 それにアイナ様。 そして……使用人の皆様。 二度と会うことはないでしょう。 さようなら」
今までで一番いい笑顔を浮かべた。
その日、伯爵邸から多くの人が出ていった。 アーサーとアイナは最後まで喚いていたが、無理やり追い出した。 そして、二度と戻って来れないように、グレイはあの怖い顔で脅していた。 何を言ったのかわからないが、二人は顔面蒼白で、逃げ出した。
「ルルージュ様」
耳まで真っ赤に染まり恥ずかしそうに私の名を呼ぶのはグレイだった。
「グレイ様」
彼に名前を呼ばれると、鼓動が早くなる。
彼と出会ったのは、三年前のことだった。 彼の両親に今の状況を報告するために領地を訪れた時だった。 偶々、帰省していたグレイ様は私を見て、軽く頭を下げるだけで、目は合わせてくれなかった。 それは、彼の顔に驚いてしまった私のせいなのかもしれない。 アーサーとは真逆の雰囲気の彼は祖父に似たそうだ。
だが、アーサーと私の置かれた状況の説明をすると、彼の両親とグレイは怒りで顔を真っ赤にした。 そして、今すぐにでも屋敷に突撃しそうな勢いだった。 だが、私は止めた。 彼には三年後、痛い目を見て欲しかったから。 初めは、彼を平民に落とすことに反対されるかと思ったが、彼の両親は涙ながらに私に土下座して謝った。 「申し訳なかった。 愚息のせいで、大事な人生を奪ってしまった」 と。 グレイも同じように頭を下げた。 その様子を見て、勢いが削がれてしまった。 だけど、アーサーの両親だが、嫌いになれなかった。 本当は反対されたら、何も手助けすることなく、支援を打ち切ることにしていた。 だけど、彼らや領民は悪くないので、三年の間に領地を持ち直すように努力することに決めた。 私一人ではどうすることもできないので、実家に頼ることにしたのだ。 そして、三年の間に何とか元の伯爵領に戻すことができた。 その時、アーサーよりもグレイの方が頭が切れることがわかった。 仕事ができて、頭が切れる私の父と意見を交わすことができるほどだったのだ。
それに、アーサーと違って動物や領民に優しく、それでいて、女性に慣れていないので、私と話すだけでいつも顔を真っ赤にさせていた。 その様子が可愛くて、彼と話していると、いつの間にか笑顔が浮かんでいた。 領地から帰った後も文通を通して、彼の人となりを知った。 好きになるのに、時間は掛からなかった。 それに、私の額の傷を見て、そっと、壊れ物を触るような手つきで触れた。 そして、小さな声で一言だけ発したのだ。 「頑張ったんですね」と。 泣きそうになってしまった。
彼の額の火傷もそっと触れた。 彼の火傷も、子供の頃にアーサーに熱湯をかけられたそうだ。 自分よりも優れた弟に嫉妬から、入れ立ての紅茶を上からかけられたそうだった。 その日からグレイはアーサーよりも目立たないように自分を押さえていたそうだ。 離れるように騎士団に入団したのもそのせいだ。
「グレイ様も……頑張りましたね」
そう小さく呟くと、彼は目元を赤くした。 このまま、彼を抱きしめたかったが、既婚者である私には許されない。 ゆっくりと彼から離れて微笑んだ。
そして、今日やっと、アーサーと離縁できた。
「ルルージュ様」
そっと、私の手を取って口づけた。
「これから、私と生きてくれませんか?」
真剣な眼差しで私を見つめてくる彼はその瞳の中に熱が含んでいた。
「私で宜しいのですか?」
「貴方が良いのです」
「グレイ様……」
グレイの顔は真っ赤に染まっていた。 きっと、私も同じように真っ赤に染まっていることだろう。
この一年後、私は二度目の結婚式を挙げた。
勿論、笑顔に溢れた幸せなものだった。
「グレイ様……愛しています」
「ルルージュ様……。 私も……貴方のことを世界で一番愛しています」
私達は顔を見合わせて、笑い合った。
私の中の悪意の芽は完全に消え去って、新たな芽が生まれた。 それは、幸せの芽だった。 きっと、すぐに大輪の花を咲かせることだろう。