静かなる転属
それは、朝の点呼が終わった直後だった。
「レイ・グラント、前へ」
名を呼ばれた瞬間、嫌な予感が首筋を這った。
いつもは人の陰に隠れていたい俺が、全員の前に立たされる。
そこにあるのは、一枚の紙と、副隊長シア・ローレンの無表情。
「推薦の通達です」
それは、昇進でも栄転でもない。
だが、階級こそ変わらないものの、推薦というのは“事実上の昇進”に等しい。
選ばれた者は王都直属の特務部隊、あるいは前線の強化部隊に転属となる。
優秀とされた者にしか与えられない“異動”──つまり、俺の望まぬ未来だった。
「謹んで辞退します」
「できません」
返事は即答だった。
(……知ってた)
淡々としたやり取りの中で、俺は頭の中で叫んでいた。
(おい待て、これは違う。俺は違う。ただの凡人だ。誰だ推薦したやつ、出てこい。……いや、やはり出てこなくていい。相手は分かってる)
周囲の兵士たちが「おおー」とか「マジかよ」とか言ってる。
やめろ。拍手するな。なぜ祝福されなきゃならない。
兵舎に戻れば、すぐに荷物をまとめ始めた。
といっても、俺の持ち物は干し肉と筆記具くらい。生活感のないベッド下を見て、少し笑った。
(……まあ、予想はしてた。してたけどさ。まだ現実になると思ってなかっただけで)
雑音が遠くで鳴っている。
同僚たちが俺の推薦を話題にしている。
「やっぱりなー、隊長やったときの冷静さ、見られてたんだよ」
「まさかレイが推薦されるとは……いやでも分かる気もする」
「だな。地味に“頼れる奴”って感じだったし」
(“地味に”ってつけとけば何言ってもいいと思ってるだろお前ら)
「なぁレイ、お前実はめちゃくちゃやる気あったんじゃ──」
「ない」
即答。
俺の声はたぶん棒だったが、皆は笑った。
「はは、やっぱ照れてるんだなー!」
(何も伝わらないこの世界が怖い)
出発は明日。
夕方、荷物を持って中庭に出ると、そこにはシアが立っていた。
彼女は何も言わず、俺の姿をじっと見ていた。
その沈黙が、まるで「分かっているでしょう?」と告げているようだった。
「恨みますよ」
「光栄です」
淡々とした言葉の奥に、わずかな笑みの気配を感じた。
それ以上の会話はなかった。
俺も言うことはなかった。
夜。
屋根裏の物干し場。
星を見上げながら、干し肉をかじる。
(静かだったな、この駐屯地)
(声を荒らげる奴もいなかったし、命のやり取りもなかった。飯はまずかったけど、まぁ、それも味だ)
風が吹く。
明日は、王都行きの馬車に乗る。
新しい部隊、知らない人間、新しいルール。
(……名前も顔も覚えられずに、ひっそり消える。簡単な目標だったはずなんだけどな)
俺は静かに目を閉じた。
願わくば、明日の道中で馬車が故障してくれたらいいと、心の底から祈りながら。