静な反抗
俺は、見なかったことにした。 机の上の推薦書も、その横に置かれた俺の名前が載った報告書も、すべて。
それは現実からの逃避ではなく、合理的な判断だ。 今まで通り、目立たず、沈黙していれば流されずに済む。
……そのはずだった。
食堂の朝は騒がしい。いつもは聞き流している無駄話も、今日ばかりは妙に耳に残る。
「推薦候補、誰になるんだろうな」
「やっぱ前線経験者が有利だろ」
「でもよ、前の任務で隊長やってたのって……」
一瞬だけ、目線がこちらをかすめた。 だがすぐに他の名前が挙がり、会話は逸れていく。
「レイ? いや、まぁ悪くはなかったけど……あいつ地味すぎんだろ」
「なんか喋らんし、よくわかんねー奴だよな」
この程度なら問題ない。そう、俺は“地味”だ。そういうことにしておけ。
その日の訓練。俺は意図的に手を抜いた。
避けられる攻撃をわざと受け、気づかれない程度に動作を遅らせる。
評価が下がるように。推薦されないように。
これは静かな反抗だ。
「……レイ」
訓練後、シアがいつもの無表情で声をかけてきた。
「動きが鈍ってる。体調、悪いの?」
「問題ありません」
「わざと、じゃないの?」
「違います」
即答。目を逸らさず、声も抑揚を殺す。
「そう。ならいいわ。無理は、しないように」
それだけ言って、シアは去っていった。
深追いはしてこない。ただ、あの眼差しは――確実に、見ている。
(まずいな……あれは確信に近い)
夜、屋根裏の物干し場。いつもなら風が心を落ち着かせてくれるのに、今日はやけに肌寒く感じた。
これ以上目立つわけにはいかない。
騒ぎに巻き込まれたくない。
俺は、ただ静かに、平穏に、生きていたいだけなんだ。
──翌日。
その書類に名前を書いたのは、副隊長シア・ローレンだった。
一人、事務室に残っていた私は、ペン先を静かに紙へと滑らせる。
『推薦候補者:レイ・グラント』
間違っているかもしれない。
彼の意志を無視することになるかもしれない。
それでも――
「あなたが本当に何者であれ、私は……確かめたい」
私はペンを置き、提出書類の束にそっと重ねた。
沈黙は、時に最大の抵抗になる。
けれど、沈黙はまた、最も雄弁でもあるのだから。