ep.9 疲弊
髪切虫の目前で停止した玄造。数秒を置いて、その腹部から勢いよく血液が噴き出た。
いくつもの"線"が追い打ちをかけるように玄造を襲う。全てが玄造の肉体を貫いた。
周次の脳はフリーズした。何が起こったのだろうか? そこに立ち尽くす玄造を見つめたまま、周次はゆっくりと首を横に振った。
これで、終わりなのか‥‥‥?
何かの見間違いだろう。何かの見間違いであってくれ。何の根拠もない虚ろな期待を抱き、彼を呼ぶ。
「班長!!!!」
きっと返事をしてくれる。また意味の分からないことを言い返してくれる。きっと、きっと――。
玄造は何も言わぬまま地に伏し、バラバラに崩れた。肉体はほとんど原型を留めておらず、細切れになった肉片が血液でドロドロになっている。
周次の期待はあっさり潰えてしまった。玄造は死んだ。
髪切虫はつまらなそうに空中へ舞い上がった。次の標的は――――周次だ。
「くそっ‥‥‥!!」
周次はすぐに踵を返し、走った。
訳が分からない。何も理解できていない。展開が急過ぎる。自分の情緒がめちゃくちゃで気持ちが悪い。
無数の線が地上へ放たれた。
殺されることへの畏怖が一番にあるべきだが、もっと複数の感情が動き回っている。脳が正確に判断し切れていない。状況を整理するための時間が必要だ。
――それなのに、また身体が言うことを聞かなくなる。一切の身動きが取れない。あの怪異蟲の攻撃が来る度にそうなる。何なんだこれは?
背後に音が迫ってきた。甲高く断続的に響く音。触れるだけで斬られてしまう線の音。避けなければならない。
音の大きさで、何となく分かる。線はもう間近に迫っている。周次は自分の身体に強く念じた。"動け。動け。動け"と。
――この時、周次の視界にはある人影が映り込んでいた。目の前の出来事でありながら、ところが周次は線から逃げることに精一杯で、その人影に気づいていなかった。
艶がかった長い白髪を靡かせて鮮やかに、しかし一切の物音なく駆ける女性。
周次の意識が及ぶより早く、女性は軽やかに周次の頭上を飛び越えた。
直後、周次の身体は束縛から解放された。同時に線の音も消えた。
周次はようやく違和感に気づき、背後を振り返る。
そこに立っていたのは――――小鳥遊真央だった。
「遅くなってごめんね!」
真央は笑顔でそう言った。この地獄のような景色の中で。
「森の中にこんな場所があったなんて知らなかった。とりあえずあの怪異蟲を何とかしないといけないね」
真央が髪切虫を見つめる一方で、周次は今しがた起こったことを脳で反芻していた。そして真央に対していくつもの疑問を抱いた。
「周次、月島はどこ?」
真央の質問。周次の口元が震える。
「班長は‥‥‥」
上手く答えられない。答えはもう分かっているのに。
真央は何となく事情を察して、問答を取りやめた。
「後で話を聞かせてね」
そう言って、髪切虫の方へ歩いていく。髪切虫もまた、真央の方を注目していた。
髪切虫は徐々に地上へ降りてくる。真央は変わらず歩き続けている。周次にはそう見えていた。これから双方の攻防が始まるのだと。
しかし、実際には違った。真央は周次との会話を終えてから今この瞬間に至るまでに、既に幾度か髪切虫と攻防を行っていた。
髪切虫の線を数回かわし、真央はお返しと言わんばかりに視線を数回送った。何か物理的に攻撃している訳ではないのに、髪切虫は咄嗟に真央の送る視線全てに対して回避行動を取った。
真央の放つ異様な雰囲気に髪切虫は強く関心を抱き、地上に降り立つことにしたのだ。
「君は、言葉を話せるのかな? この大穴について知ってることがあったら教えて欲しいな」
真央は髪切虫に話しかけた。しかし地に立つ髪切虫は何も答えず、ただ真央を見つめている。
「さすがにカゲロウちゃんほどは進化してないか」
対話を諦めて、攻撃の姿勢に切り替える真央。それに応じるように、髪切虫も空中へ舞い上がろうとした――。
髪切虫の脚先が地から離れるより先に、真央は間合いを詰め切っていた。
真央が指先でそっと髪切虫の腹部をなぞろうとして、それを髪切虫は否んだ。凄まじい挙動で真央の指から逃れ、大きく後方へ下がった。
もう一度間合いを詰めようとする真央だが、その一方で髪切虫は距離を保とうと後退し続ける。
真央は髪切虫に視線を送った。すると距離を保とうと後退していたはずの髪切虫が、即座にぐっと前に出てきた。
髪切虫は動揺した。今しがたの行動は、髪切虫自身の意思によるものではなかったからだ。何かに対して反射的に肉体が前へと動いていた。
依然として真央は間合いを詰めてきている。髪切虫は再び後方へ下がり始めた。
――が、またしても髪切虫の肉体は勝手に前へ押し出された。何度も何度も押し出され、真央との間合いが縮まっていく。
堪らず、髪切虫は線を放った。一本二本、真央はそれを難なくかわした。
真央を狙っても命中させることができないと悟った髪切虫は焦燥に駆られ、線を全方位に向かって乱発した。
「あっ、それはまずい」
一言呟き、すぐさま髪切虫へ視線を向ける真央。髪切虫は三度回避行動を強制された。いくつかの線の軌道が揺らいだ。周次の方へ向かっていた線である。
周次の無事を確認した後、真央は自身が線を回避することに徹した。
――周次は疲弊し切っていた。髪切虫の攻撃で身体が拘束されたり解放されたりを繰り返していた。
一体、何故こんなことになっているのか?
何故自分は殺蟲隊にいるのか?
朦朧とする意識の中で、周次は過去を振り返った――――。




