ep.8 最終段階
「はは‥‥‥、俺としたことが油断していた」
玄造は茫然と自分の左腕の断面を見つめながら呟いた。断面からはドボドボと血液が流れ出ている。
周次はいよいよ目の前で起こっている様々な事象に理解が追いつかず、言葉を失っている。
「はは‥‥‥、はははは。――ははははははっ!!」
玄造の渇いた笑いが、高笑いに変わった。その眼差しは、空に舞う怪異蟲へと向かっている。
「間違いない。最終段階の怪異蟲だ‥‥‥! こんなところでお目にかかれるとはな!!」
"最終段階の怪異蟲"。その言葉を聞いて、周次は違和感の一つに合点がいった。
細い胴体、弧を描くように長く伸びた触角、特徴的な模様、そして強靭な大顎。ありとあらゆるものを噛み切ってしまう怪異蟲――髪切虫。
虫でありながら、その佇まいは寧ろ人間に近しい。怪異蟲の女王、カゲロウがそうであるように。
故に、周次は髪切虫を直感的に怪異蟲だと認めることができなかった。
髪切虫は、大穴に群がる他の怪異蟲よりも遥かに進化していたのだ。大きく四つに分けられるという変異段階――その最終段階に上り詰めた存在。
「班長、逃げましょう。状況はめちゃくちゃだが、髪切虫のおかげで怪異蟲がかなり減った。今なら大穴から脱出できる」
「‥‥‥蟹江。俺が殺蟲隊に入った理由は何だと思う?」
髪切虫から目を離さないまま、玄造が問いかけた。
「こんな時に何の話ですか? さっさと逃げますよ!」
「俺はこれまで、殺蟲隊の戦闘員として何千何万もの怪異蟲を屠ってきた。上層部の言うままに、ひたすら屠り続けてきた。気づけば支部の班長を任されるまでになっていた」
髪切虫が陽気に天空を飛び回っている。周次は焦っている。玄造は話し続ける。
「その全ては強さを極めるためだ。己の強さがいかほどで、どこまで極めることができるのか。それを最も手っ取り早く確かめられる場所が、殺蟲隊だった」
髪切虫の様子が変わった。視線をこちらに向け、何やら構えるような体勢。周次は察した。
「もう次の攻撃が来る!!」
「第三段階の怪異蟲までは容易に殺せた。だが最終段階の怪異蟲は、対峙すらしたことがなかった」
「あれは避けようとして避けられるような攻撃じゃない! 逃げないと!!」
「先の攻撃。第三段階とは比にならない練度の高さ。俺の全力を出す相手として不足ない。‥‥‥ようやく、ツキが回ってきた!」
玄造は左腕に伝う血液を振り払い、髪切虫を目がけて走り出した。
「班長!!」
周次の声は全く届いていない。玄造はバランスを崩しかけながらも、全速力で駆けている。髪切虫の視線が玄造を追いかけ始めた。
「班長、駄目だ!! 引き返――」
周次が言い切る前に、髪切虫の攻撃は始まってしまった。
――まただ。また身体が思うように動かなくなった。視界の上端、天空で髪切虫が踊る。甲高い金属音も鳴り始めた。
髪切虫の元から、やはり無数の"線"が放たれた。大穴に群れる怪異蟲を斬り刻み、そして玄造の左腕を斬り落とした"線"。しかし先ほどのように散らばっていない。"線"はまとまって玄造の方へ伸びていく。
天空から降りてくる無数の"線"は、まるで夜空に煌めく流星群のよう。あまりに圧巻の景色。周次は一瞬見惚れてしまっていた。
その直後に、激しい悪寒が全身を巡った。
間もなく訪れる確定した未来――"玄造の死"を、猛烈に感じ取った。
『無数の"線"は軽快に玄造を貫通し、忽ちその肉体をバラバラに斬り裂くだろう』
そうなることが分かっていながら、それをどうすることもできない。玄造に刻々と迫る"線"を目前に、周次は悶えた。
耳に響き続ける、低く鈍い音と甲高く断続的な音。そこに、さらに異なる音が混じってきた。か細く弱々しい音だ。
今にも消え入ってしまいそうな小さな音だというのに、他の音と隔てて確かに聞こえる。
その音は、少しずつボリュームを上げていた。少しずつ勢いを増していた。他の音に抗うように。髪切虫の攻撃に抗うように。
「――ぅぉぉぉおおおおおおおおお!!!!」
音は雄叫びとなった。それが玄造のものだと周次はすぐに理解した。そして何かが起こると直感し、目を凝らして玄造に注目した。
間もなく身体が呪縛から解き放たれた。しかし再び転ぶことはなく、周次は踏ん張った。
"線"は急加速した。目にも止まらぬ速度で落下する――――――が、その全てを玄造は回避していた。
玄造の背後で轟々と金属音が鳴る。"線"に触れていれば豆腐のようにあっさり斬り刻まれていただろう。玄造は構わず走り続けた。
玄造の方へさらに"線"が降ってきた。それさえ玄造は全て回避した。その様子を周次は愕然と見つめている。
"線"が現れる度に肉体の自由を奪っていた謎の呪縛。それが今はないのだ。
髪切虫はついに天空から降りてきた。嬉々として右の拳を握り締める玄造。
「さぁ怪異蟲よ、腕比べといこうかぁ!!」
周次は固唾を呑んだ。もしかすると、玄造ならあの怪異蟲を倒すことができるかもしれない。そう思わせるほどの気迫。
髪切虫は玄造に向かって飛びながら、また"線"を放った。玄造はニヤリと笑みを浮かべる。
「その攻撃はもう見切った!」
三度"線"をかわす玄造。続けて"線"を放つ髪切虫だが、一本として命中しない。そのまま髪切虫との間合いを詰めていき、玄造は拳を構えた。
「最終段階よ、これが俺の拳だああ!!」
"勝てる‥‥‥!!"
周次が玄造の勝利を確信した瞬間のことである。
玄造の拳が、髪切虫の顔面の直前で停止していた。
水平に伸びるたった一本の"線"。それが玄造の腹部を貫通していた。




