9話 真相
家の中は真っ暗で、電気をつけてもなお暗いような気がした。わたしは骨壺をどこに置けばいいかわからず、とりあえずテーブルの上に慎重に置いた。姉さんはその様子をじっと見ていたが、特にわたしに対して何も言ってこなかった。
リビングを出、階段に足をかける。姉さんもついてきた。姉さんの部屋も二階にあるのだから当然だ。わたしたちは階段をゆっくりと上る。二階の廊下に着くと、手前にある自分の部屋の前に立ち、ドアノブに手をかけ、中に入る。ドアを閉めようと思ったところで抵抗感があり、ふと振り向くと姉さんもまたわたしの部屋に入ろうとしているところだった。
「あ……」
そのときの姉さんの表情はよくわからなかった。怒っているのか、悲しんでいるのか、笑っているのかも判別できない。ただ、わたしのことをじっと見つめている。
「ねえ、美香……」
姉さんの声は小さくて、窓の外の雨音に打ち消されてしまいそうだった。わたしは、なに、と返す。部屋の中に、重苦しい空気が立ち込めていた。
「美香は、ストックホルム症候群って知ってる?」
急に何の話だろうと思う。ストックホルムがスウェーデンの地名だということは知っているが、「ストックホルム症候群」という言葉は聞いたことがなかった。
「知りません、けど……」
「あら、そんなことも知らないの?」
姉さんはかすかに笑う。それでも、姉さんがどんな感情を抱えているのかわからない。
「ストックホルム症候群ってのはね、過去にストックホルムで起きた銀行立てこもり事件からそう名付けられたの。銃を突き付けて『来たら殺すぞ』と叫ぶ犯人、それにおびえる人質、という構図が当たり前の景色。けれど、長く犯人と場所を同じにするうちに、人質は犯人に対して好意的な感情を持つようになったの。なかには犯人と結婚した人質もいたそうよ」
それがいったいなんだというのだろう。姉さんは、なにを言わんとしているのだろう。
微笑んだまま、姉さんはわたしに一歩近づいた。わたしは一歩後ずさる。
「あなたも、同じなのよ。ストックホルム症候群なの」
外は雨雲が立ち込めていて、部屋のなかは蛍光灯もつけられていない。周囲は暗くどんよりとしている。姉さんの顔は、影が密集したように沈んだ色に見えた。
「暴力をふるう家族。そして、長く長く、一生の半分以上を一緒に過ごしたこと。あなたがたとえ被害者でも、心の中でその加害者のことを過剰に愛してしまうの」
そんなわけはない。そんなこと、姉さんだってわかっているはずなのに、どうしてそんなでまかせを言うのだろう。
姉さんがまたわたしに歩み寄ってくる。そのぶん、わたしも後ろに下がる。
「実際、家庭内暴力に苦しむ子のなかには、その相手のことをかばってしまう子がいるらしいの。あなたも、母親のことを隠し通そうとしたでしょう? だから、あなたはストックホルム症候群、あるいはそれに準じたものにかかってしまったのだと、みんなそう思ってくれるわ」
姉さんの歩幅に合わせて後ずさっていたら、とうとうベッドに膝をぶつけてしまった。けれど、それにおかまいなく姉さんは近づいてくる。
「だから――」
どんどん姉さんの顔が近づいてくる。そのときわたしは、お母さんが自供し始めたときのことを思い出していた。あのとき、わたしの思ったこと。なんで、なんで――
お母さんはわたしになにもしてないのに、なんで身代わりになることを望んでしまうの!?
「だから――母親が死んで後追いしたのだと、みんな思ってくれるわよ!」
空気を震わせるような大声のあと、にたぁっと笑って姉さんがわたしの肩を押した。わたしは仰向けの体勢でベッドに倒れ、そのうえに姉さんがのしかかってくる。
姉さんの手が伸びる。わたしの顔より下――わたしの首に。
力をこめられて、わたしの呼吸が止まる。頭に向かおうとしていた血が停滞するのがわかる。
「わたしの頭脳ならあなたを自殺として処理させられるわ。よかったじゃない、愛が成就して」
目を大きく見開き、口を横いっぱいに広げて、姉さんは言う。
ぐっとつよく押し付けられて、背中からスプリングをきしませた。
わたしはもはや抵抗する気もなかった。ベッドの弾力と上からの圧力の板挟みで、体がくだけてしまいそうだった。感じるのは、窓の外でとどろく雨音まじりの雷鳴と、部屋の薄暗さと、息苦しさ、そして、わたしの喉をしめつける手の冷たさだけだった。
わたしのうえに馬乗りになり、体重を乗せるようにして、わたしの首根っこを押さえつけて、でもそうしているあなたの顔は、なんだかとても悲しそうだった。
きっと、わたしは恨まれていたのだろう。理由は正直よくわからない。でもたぶん、わかっていなかったからこそ、こんなことになってしまったんだ。
涙がほおを伝うのを感じる。死にたくないとは思った。けれど、わたしを死に至らしめようとしているこの手を振り払って、息を荒げながら逃げ出す気はまるで起きなかった。
諦めて、いたから。
視線を上にずらすと、窓に降りかかる雨粒がいくつもいくつも見えた。
次の一瞬、窓いっぱいに、稲光がまぶしいくらいに広がった。
9年前、くまのぬいぐるみを奪われたまま写真を撮られ、視界をうめつくすほどまばゆいフラッシュを浴びたときの光景が、一瞬だけ今と重なった。
あの日、わたしの家族の実像を焼き付けた一枚を撮ったあの日。
くまのぬいぐるみをお母さんにもらって、でも急に姉さんにかっさわられて、泣きながら返してと追いかけた。お父さんは、そんな光景を見て、姉さんにゆずってあげなさいとわたしに告げた。
そして、悟ったのだ。わたしは、自分の立ち位置を本能みたいなもので感じ取った。
わたしたち家族の本質。その、歪んでぐちゃぐちゃなつながりを。