6話 窮地
宣言通り先生がやってきたのは、午後6時半くらいのことだった。
姉さんが帰ってきたあとすぐだった。インターホンが鳴り響き、あわててお母さんが駆け寄るとそこには村田先生が、もう一人の男の人と一緒にカメラに映りこんでいたのだ。
「初めまして」
リビングに案内された見知らぬその男の人は、名刺をお母さんに差し出していた。
児童相談所 広瀬正義
なんて嫌な名前だろうと思った。きっと、本人もその名に恥じないつもりで来ているのだ。
ご飯ができたばかりでいいにおいの漂うなか、わたしとお母さんと姉さんがそろってソファに腰を下ろしていた。対面のソファに先生と広瀬さんが並ぶ。広瀬さんはあたりを見渡してから、めがねを持ち上げた。
「お父様は、まだお帰りになっていないのですか?」
「ええ、まだですね。それでいったいなんのご用で」
姉さんが物おじせず、まっすぐ二人を見つめ返していた。ほんとうにこの人はすごいと思う。こんな状況でも、全然うろたえないなんて。
「とにかく、お父様がいらっしゃらない限り話すことも話せませんね。お手数ですがご連絡いただけないでしょうか? 一応、法律に従って来ているものですから」
「……承知しました」
お母さんは携帯電話を取り出してお父さんにかけた。ちらちら先生たちのほうを見ていたが、用件を伝え終わったのかまもなく受話器から耳を離す。
「……急いで帰ってくると言っていました。たぶん、あと30分くらいでこちらに着くかと」
「そうですか。それまでこちらで待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ……」
きっと、家庭内暴力のことが表沙汰になれば姉さんに影響が出ると思ったのだろう。お父さんはすんなり帰ってきてくれるようだ。
「私たちのことはお気になさらず、どうぞ晩ご飯をお召し上がりください。このままじっとしていても気まずいでしょうから」
わたしたちはお互い顔を見合わせたが、結局お言葉に甘えてご飯を食べることにした。
晩ご飯を食べ終わって数分後、お父さんが帰ってきた。
いつもだったらネクタイを緩めていたり、上着を脱いでいたりと緩い格好で家に入るけれど、今日はびしっと服装を整えていた。善良な父親を演じるように、朗らかにケーキの箱を掲げる。
「お客さんが来ているらしいからな。これを出しておやりなさい」
「はい……」
お母さんがティーカップと小皿を取り出して、買ったばかりのケーキをそこにのせていく。
紅茶とケーキが先生と広瀬さんの前に置かれ、家族四人全員が腰を下ろしたところで先生が口火を切った。
「今日お話しにあがりましたのは、娘さん……桜田美香さんのことです」
村田先生がわたしの担任というのはみんな知っているので、そこまではだれも驚かない。
「そして、話の内容というのは、ご家族との関係についてのことです」
ちらっと先生が目配せすると、広瀬さんが咳払いしてから口を開く。
「単刀直入に申し上げます。美香さんが虐待されているという通告がありました」
お父さんが目を細めてわたしを見る。ぶんぶんとわたしは首を振った。
「誰がそのような通告をしたのかということは、こちらから明かせない決まりになっております。なので、わたしの質問にだけお答えください」
蛍光灯の光を反射して、広瀬さんのメガネが一瞬きらめいた。
「まず、家庭内で暴力・虐待があることを認めますか?」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を上げたのはお父さんだ。髪をかき、困ったように笑っている。
「なにをおっしゃる。うちは見ての通り、健全で温かい家庭ですよ。そんなことあるわけない」
「ほう? あくまで通告は間違いだと?」
「その通りです。きっといたずらでしょう」
表情といい、口調といい、完璧だ。完璧に健全な家庭の父親になりきっている。
「だいたいいきなり来て失礼ですよ。わたしたちが、あるいはそのうちの誰かが、美香を虐待しているなんて決めつけてくるだなんて。証拠でもあるんですか?」
「証拠は……あります」
そのとき、お父さんの顔に動揺が走ったのが見えた。
「娘さんの体が証拠です。傷やあざが無数にあるのを目撃した人が何人もいます。いくらこの場でとりつくろってもその場しのぎにしかなりませんよ」
お父さんはわたしの顔をちらっと見たあと、怒ったかのように拳を握った。
「なんですか、それは。今、この場で、娘に服を脱げとでもおっしゃるのですか? そんなこと認めるわけがないだろう!」
しかし、広瀬さんはまったく狼狽せず、黙ってその様子を見ていた。お父さんがお母さんになだめられて座ったのを見るや、
「勘違いしてもらっては困りますね。私はこれから、娘さんを児童相談所まで連れて行きます。そこで実際に調査をさせていただきます。もちろん、保護者様は同伴でね」
「なに言って……もともと言いがかりなのに」
「すでに、知事からの命令は頂戴しました。これがその証明です」
広瀬さんは、ビジネスバッグから書類を取り出した。たしかに、そのようなことが書かれている。つまり……もう法律的な手続きはすべて完了していて、あとは確実な証拠を入手すればいいだけなのだ。それも、絶対に得られるとわかっている証拠を。
「んな……ばかな……」
もうお父さんは反論することができないようだった。
ほんとに崖っぷちのピンチなのだ。わたしは、ぎゅっと掌を握ってわきでてくる汗を抑えようとしていた。このままだと、確実にわたしの体の傷跡を見つけられ、家庭内暴力が確定的になり、その結果……わたしは……。
震える膝に鞭打って立ち上がった。もうすべてぶちまけてしまおうと思ったのだ。もっと早くからこうすべきだったのかもしれない。けれど、わかってもらえると思わなかったから、つい気後れしてしまっていた。姉さん、お父さん、お母さんの顔を順々に見、それからわたしは声を張り上げようとした。
そのとき――
「私です……」
静まりかえったリビングに、震えた声が響いた。