3話 過去
放課後になり、わたしは寄り道もせずまっすぐ家に帰った。
家にはお母さんしかいなかった。「ただいま」という声に反応して「おかえり」と返してくる。
お母さんは台所で夕飯の準備を始めていた。包丁で野菜を切る音が、夕暮れの静寂に一定のリズムを与えていた。
二階の自分の部屋に入ってからもわたしは個人面談のことを思い返していた。知られてしまった可能性がある。何か手を打った方がいいのか。けれど、わたしにはどうすればいいのかがまったくわからない……。
制服から普段着に着替えたわたしは改めて部屋の中を見渡した。
目標も趣味もないわたしの部屋は質素であまり物がなかった。勉強机が壁際に、ベッドが反対側に備えられているだけだ。わたしはふと、机のうえに置いてある写真立てを見つめた。わたしと姉さん、お父さんお母さんの四人でとった写真だ。まだわたしも姉さんも幼くて、どちらも小学校に上がったばかりだった。
すでにこのころ、わたしと姉さんの差ははっきりと示されていた。姉さんの一つ下というころもあり、必要以上の期待がわたしの肩にのしかかっていて、それに押しつぶされそうになりながら小学校に通っていた。写真は、ちょうど姉さんが二年生になったときのものだ。
「……」
姉さんはくまのぬいぐるみを抱えながら、カメラに向かってニッコリ笑っている。わたしは涙目で姉さんを盗み見しながら、唇をぎゅっとかみしめていた。
わたしは、懐かしむというより憐れむような気持ちでそのときのことを脳裏に再現した。
小学生の時にすでに異彩を放っていた姉さんは、お父さんから特別扱いされていた。
会社で忙しいのに、進級の日には必ず家に帰ってきた。この子は大物になるから、節目節目をきちんと記録しておくのが親の義務だと語っていた。
わたしは、そのおまけだった。
誕生日でもないのにケーキを買ってきて、姉さんの進級を祝う。ケーキのうえにのっていたチョコレートはみんな姉さんに与えられて、わたしには一個たりとも与えられなかった。
でも、そのころのわたしは姉さんを誇りに思っていたし、その扱いの差にあまり不満を覚えなかった。わたしも、こんなふうになれるよう頑張ろうと前向きに考えていたくらいだ。
……だけど、結局のところ、その日を境に姉さんに対する憧憬は消えたのだった。
夕食を終えたあとのことだった。お母さんが、進級祝いにと姉さんにプレゼントを渡していた。当然わたしには何もないだろうと思っていたのに、そのあと、お母さんはわたしの元まで近づいて顔よりも大きいくらいの包みをわたしに手渡したのだった。
わたしは喜ぶというより驚いてしまって、しばらく声を出すこともできなかった。
包みを開くとそこにはくまのぬいぐるみがあった。茶色の毛がふわふわで、思い切り抱きしめるとほおがくすぐったかった。
急にうれしさが胸をつきあげるような感じで訪れて、わたしは「ありがとう!」と大声でお母さんに礼を言った。お母さんも、「喜んでくれてよかったわ」と微笑んでくれていた。
しかし……そんな和やかな空気を打ち破ったのが姉さんだった。
ぎゅっと胸に抱いていたぬいぐるみを、近づいてきた姉さんが力づくでふんどった。
涙を眼に浮かべながら返して! と言っても、姉さんは「これはわたしの」と言って譲らない。お母さんは困っていたように目をさまよわせていたが、お父さんは、これまたニコニコと笑いながらこう言ったのだった。
「しょうがないなぁ。じゃあ、美香は佑香に譲ってあげなさい」
え……? その瞬間、わたしの視界が真っ暗になった。なんで……そんなことを言うの? わたしは、せっかくお母さんがくれたぬいぐるみを奪われたのに、なんで……?
涙が止まらなくなって、さらにすごい勢いでほおを伝っていった。なのに、誰もなぐさめてなどくれなかった。
やがて、お父さんは「そうだ、写真忘れてたな」とカメラを持ってわたしたちの前に立った。写真は撮らないとね、とお母さんが口だけで笑い、姉さんは「うん!」と上機嫌で立ち上がった。
ほんとに、わたしはこの瞬間悟ったのだ……。
わざわざ三脚を広げ、カメラの角度を念入りに調整したお父さんはセルフタイマーをセットしてわたしたちの横に並んだ。
ちか、ちか、とランプが点滅する。
わたし以外のみんなが笑顔を浮かべてカメラを見つめている。
わたしだけを置いて、どこか別のところにいる。
わたしだけ、暗闇の中に一人ぼっちで……。
「そろそろだぞ」とお父さんが言う。
次の一瞬、わたしの視界いっぱいに、目をくらませるようなフラッシュが広がった……。
わたしは目を開くと、写真立てから視線をそらした。
「ご飯よ」という声が階下から聞こえてきた。「今いく」とだけ答えて、わたしは階段を下りていった。
リビングに入ると、お母さんが料理を食卓に並べているところだった。姉さんはまだ帰ってきていないようで、ほかには誰もいない。
二人で食卓につき、「いただきます」と言って箸をとった。
ふと目線を上げてお母さんのほうを見ると、どこかぼんやりした様子でご飯を口に運んでいた。きっと、今だけなんだろうな、とわたしは思う。姉さんが帰ってきたら、お母さんはいっぱい気を使わなくちゃいけなくなるから、今しかゆっくりできないんだろうな……。
そして、食べ始めてから五分後くらいに、「ただいま~」という元気な声が家の中に響き渡った。お母さんは箸をおいて立ち上がり、「おかえり」と言って玄関まで走っていく。
夕飯を終えたわたしは、自分の食器を洗ったあとお風呂に入ろうとした。しかし、洗面所のドアを開こうとしたところでお母さんの声が聞こえる。なんだろうと思って顔だけリビングのほうに向けると、携帯電話で何事か話しているお母さんの姿を見つけた。
「き、今日も、帰ってこられないんですか?」
「ええ。ええ……そうですか……」
「いえ、ただ朝は早く帰れると言って……」
相手はお父さんだとすぐにわかった。またその話か、と思った瞬間、電話から飛び出したのかというくらい大きな怒鳴り声が聞こえてきた。
「うるせえな! 俺に養ってもらってるくせに文句言うんじゃねえよ!」
お母さんは受話器から耳を遠ざけて、それからあわてたように「ごめんなさい」を繰り返した。また受話器からお父さんの声が聞こえる。
「最初から謝るくらいならそんなこと言うな! 忙しいから切るぞ!」
そうしてほんとに電話が切れたのか、お母さんは携帯電話を閉じて大きなため息をついていた。わたしは、見ていたことがばれないよう、音を立てずに洗面所に入った。
洗面所で服を全部脱ぎ、風呂場へと足を踏み入れる。それからわたしは、鏡の前で自分の体をじっくりと見た。
湯気の立ち上る先、わたしの貧相な体。けれど、肌色だけでなく紫や青の染みが全身に広がっている。
全身、あざだらけだった。
背中の見えないところには切り傷もあったはずだ。足を曲げたり伸ばしたりするだけでも痛みが走る。
これが、わたしの……正体……。
体育ができないのも、部活に入らないのも、これが理由だった。
わたしは鏡の前を横切り、お湯を体にかけてから湯船につかる。
湯の熱がわたしの体をひりひりと痛みつける。背中を丸め、膝を抱くようにし、わたしは目を閉じる。
ぽつっぽつっと、水の滴る音が聞こえる。