10話 奴隷
斜視の原因となった階段からの転落があったのは、今からおよそ3か月前のことだった。
その日、姉さんの所属するバレーボール部が全国大会で準優勝した。そのお祝いのため、お母さんは豪華な料理を作り、お父さんは早く帰って夕飯のときを待っていた。
わたしと姉さんはそれぞれ自分の部屋でご飯ができるのを待っていたが、やがて階下から「ご飯よ」という声が聞こえて部屋から外に出た。
そのとき姉さんもほぼ同時にドアを開けていた。さらに、ほぼ同時に歩きだし、わたしが前を、姉さんがその後ろを歩いてやがて階段までさしかかった。背後を気にしながら一歩目を前に出した瞬間だった。急に、強い衝撃が背中にのしかかってきた。
落ちる前のその一瞬、振り向いたわたしの前に、足を上げて蹴り飛ばす姉さんの姿が見えた。
わたしは膝を打ってからひっくり返り、段差の角に頭をぶつけ、転がりながら階下へと落ちていった。壁や段差に体のあちこちを痛みつけられ、大きな音とともにわたしが床に到達したとき、平衡感覚が死んだみたいにくらくらした。頭にものすごい激痛が走り、横たえた体をうつぶせ、頭を抱えようとした。けれど、手がけいれんしたみたいに震えて、体を制御できなかった。口から唾液をこぼし、息を荒くさせてうずくまった。痛みのあまり目に涙がたまり、視界がぼやけた。目を開くこともきつくて、ぎゅっと瞼を閉じるが痛くて痛くてたまらない。うめき声が自然とこぼれでてきた。
なんとか目を開けるようになったとき、ちょうど姉さんが階段を下り終わってこちらを見下ろしていた。ぼやけ、ぐらつく視界のなかに映った姉さんは、にらむような目つきのあとほおを緩め、優しげな笑顔を浮かべた。
「危ないじゃなイ。気をつけなさイ」
そして、わたしの返事を待たず姉さんはリビングのドアを開けた。
ドアの向こう、音に気づいて近づこうとしていたお母さんが手を口元にあてているのが見えた。お父さんは、背中をこちらに向け、食卓に座りながら新聞を読んでいた。姉さんが椅子に座ったのを見るや顔を上げ、あらぬ方向を向きながら言った。
「気をつけろォ」
それきりお父さんは、わたしのことは忘れたかのように新聞に目を戻す。
わたしを心配げに見つめていたお母さんは、お父さんの言葉を聞いた瞬間、わたしから目をそらした。
「ま、まったく、騒々しい子ネ……」
それから踵を返し、お母さんも食卓につく。
痛くて痛くて立ち上がることもできなかったわたしだが、なんとかお母さんたちのほうを見つめ、口を開く。喉をしぼるようにして、無理やり声を出した。
「ごめ、ごめんね。わたし、どんくさいから――」
笑顔を、たぶん作れていたと思う。わたしの必死に紡ぎだした言葉に誰も見向きもしなかった。
「ごめ、んね――」
その瞬間、窓から強い風が流れてきて、わたしの入室を待たずドアが、
バタン
と大きな音を立てて閉まった。ひとりになったわたしは、前のめりに倒れこむ。
ドアの向こうからは、
「準優勝だってな!」「いや~たまたまだよ~」「すごいよなぁ、なあ母さん」「ええ……」「もうやめてよ~」そんなみんなの会話が聞こえてきた。
痛い。痛い。涙が、望んでもないのにぽろぽろこぼれてくる。
わたしは、明るい家族の会話を聞きながら、ずっとその場にうずくまっていた。
これが、わたしたち家族の本質――――。
――――歪んでいた。わたしたちは、歪みきっていた。
9年前にそれを感じ取ってから、わたしたちは何も変わらなかった。
姉さんがぬいぐるみを奪い、お父さんがそれを認め、お母さんはそんなお父さんに何も言えず、わたしは真っ暗闇の中にひとり立たされた。
それが、今日までずっと続いてきたことだった。
結局のところ、わたしたち家族のなかにはカーストのようなものがあった。
姉さんが王様、お父さんが貴族、お母さんが平民で、わたしは――
―――――奴隷
こきつかわれ、けれど見向きもされない奴隷そのものだった。
奴隷は平民のために仕事をする。だから、わたしは虐待のことを黙っていた……。
お母さんは、現状のままでいることを望んでいた。わたしはお母さんのためならなんだってする。ちょっとした痛みくらいなんてことはないとごまかして生きてきた。
でも、お母さんが自殺するくらいだったら、すべてをぶちまけてしまったほうがよかった。
お母さんが、お父さんのために犯人にすげ替わることを望んでいたとしても、わたしはそれを止めるべきだったのだ。今になってそう思う。
けれど、後悔しても遅いのだ。もうお母さんは死んでしまったのだから。
わたしは、もうお母さんに逢えないのだから……。
なんでこんなことにならければならないのだろう。
この歪みきった関係は、でもほんとうは単純なものだったのだ。
姉さんは天才的な学力と運動神経で他の追随を許さない。とても輝いていて、誰もが憧れる存在で、家族としては当然自慢したくなるような人で……。
お父さんは、そんな姉さんを誰よりも大事に思っていて、姉さんが何をしても寛容に、あまりにも寛容に受け止めてしまう。だんだん、姉さん以外見えなくなってしまったかのように。
お母さんは、弱い人だった。きっと、一人では生きていけないくらいもろい。だからなのか、それとも愛情がまだあったのか、お父さんに捨てられることをひどく恐れていた。それで、お父さんの異常な寛容に合わせて、姉さんの罪を見て見ぬふりをした。
そしてわたしは……
9年前、姉さんの陰で放っておかれていたわたしにプレゼントを渡してくれた。大きなくまのぬいぐるみで抱きしめるととてもきもちよかった。うれしくてうれしくてお礼を言ったら、お母さんもうれしそうに笑ってくれた。
わたしは……
初めて小学校のテストで満点をとったので、わたしは答案をご飯のときにみんなに見せびらかした。お母さんは胸の前で手を合わせ、パァッと明るく笑った。けれど姉さんが冷笑に付し、お父さんが「それがどうした?」と無反応でいるのを見て、笑みを引っ込め、顔をうつむかせてしまった。それでも、お父さんと姉さんがリビングを出て行ってから、お母さんはよしよしと頭をなでてくれた。
わたしは……
姉さんがわたしに暴力をふるい始めて、けれど弱さゆえにお母さんは止めることができなかった。お父さんと一緒に見て見ぬふりをしていたが、姉さんの機嫌を損ねないよう目いっぱい気を使ってくれていた。姉さんが帰るころにちょうど料理ができるよう調整したり、忘れ物にめざとく反応して届けてやったりした。自分のことを多少粗末にしても、そうしてくれていた。
わたしは……
友達がずっといなかった。クラスでは一人ぼっちで、悩みを相談する相手がいなかった。いつも姉さんと比較し、バカにする人ばかりのなか、ほんとうのわたしを見つけてくれて、そのうえでわたしに愛情を注いでくれた唯一の人――――
わたしの意識が遠のいていく。
姉さんの重みとか、しめつけられた首の痛みとか、なにもかもが薄くなっていく。
何重にも見える視界のなか、姉さんの顔をじっと見つめてわたしは思った。
――なんでこの人が悲しい顔をしているのだろう。
そのとき、わたしの頭の中に再度、ぬいぐるみを奪われた日のことがよぎった。わたしは、あぁ、と心の中でつぶやいた。
もしかして、姉さんはお母さんが……
今さら気づいてももう遅い。わたしは、もう死ぬ。お母さんが逝った場所へ、わたしもまもなく逝くことになる。
あぁ……わたしは、お母さん、一度だけでも、あなたと心を通わせられたことをとてもうれしく思います。
涙がシーツにこぼれたのを見たのを最後に、わたしの意識は完全に失われた。




