アリス・ダイアリー
それは潔癖症ではないと言ったその人は、眠そうな顔をした赤茶色の髪の女の人だった。
「私の手は汚いと思うかね? 触られたくないと思うかね?」
「思わないわ。別に触ってほしいとは思わないけど」
「面白い回答だ。じゃあなぜ君は何度も手を洗いなおしている? 私は一度しか洗ってないぞ?」
「…………」
誰もわかってくれない。何回手を洗ってもヌルヌルがとれない気がするなんて、誰も信じてくれないの。きっとそれはただの妄想だから……証明することもできない。話せばきっと、大声で嘘つきあつかいされてしまうわ。
「洗っても洗ってもなにか付着している気がする。丁寧に洗っても、洗い終えてしまうと本当に丁寧だったか不安になる」
「…………」
「これだけ洗ったらさすがに綺麗になっただろうと思っても、また疑わしくなる。ああそうだ、洗う前の手で触れたところに対しても、おまえは疑いの目を向けるのだろう?」
うん、だから私はまた手を洗うの。
「不安に負けてまた手を洗うと、何故かぬめりを感じる気がする。そのうちわけがわからなくなり、無理やり洗うのをやめ日常に戻る。そしてその手で顔を触ってしまうと、とたんに怖くなり今度は顔まで洗いだす。しかもそれは、いつもではない」
「そう! あれ、どうして知ってるの?」
「私は科学者なのでね。不安には少しばかり詳しい」
賢いってこと?
「私はね、不安のない世界を作りたいのだよ。だから不安を減らす研究をしている」
「減らすことと作ることは違うと思うわ」
「私のことをおかしいと思うかね?」
「あんまり思わない」
この人の心は、私の手みたいに汚れに取り憑かれているのかもしれない。
「ねぇ科学者さん。私はどうしたらいいの? 私ね、どれが妄想でどれが現実なのかわからないの」
「そうだな。苦しいかもしれないが、洗い直しは二回までと決めると良い。心配するな、お前の洗い方なら二回も洗えば間違いなく汚れも、石鹸も落ちている。ああ、そうだ。最後洗うときは水洗いにしたら良い。その前にはハンドルも洗っておけ。完璧だろう?」
「ハンドルってなに?」
そんなの、聞いたこともない。
「その水道のひねるところだ」
「これはじゃぐちじゃないの?」
「蛇口は水が出るところだ」
「なんでじゃぐちって言うの?」
「さぁな。今度調べておいてやろう」
科学者っていっても、なんでも知ってるわけではないのね。
「洗っても落ちてない気がするのは妄想なの?」
「ああ、妄想だ。私が保証してやる」
「妄想ってなに?」
「現実みたいなものだ。それに取り憑かれている人にとってはな」
この人は私を理解してくれる。そんな気がした。
「ねぇ私はアリス。あなたは?」
「ラヴクライン・ステインス」
「赤の女王ね」
「いや、違う。ただの科学者だ」
まぁ、そうよね。私だって不思議の国から来たわけじゃないもの。でもちょっと、同じ物語に落とし込みたかったの。あなたのこと。