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 その部屋の中央に彼女はいた。

 背はスラリと高く、ジーンズに白いシャツというシンプルな姿がそのスタイルの良さが際立って見える。長い髪は肩口でクルリと巻かれ、透き通る肌、青い目、顔立ちはやはりミラノによく似ていた。

 暴れるわけでもなく、騒ぐわけでもなく、ただ静かにそこに立って周囲を見回して様子を伺っている。そして、すぐにその警戒した視線を響たちへ向ける。

 その視線が、響の少し後ろに立つミラノへと移動していく。その瞬間、彼女の気が少し変化したのが感じられる。

「御厨マリノさんですね」

 と響は声をかけた。

「あなたは誰なの?」

「草薙響といいます」

「草薙? 前に会ったかしら?」

 そう言ってマリノは響の顔を見つめた。

「いえ、はじめてお会いします。御厨マリノさんですね?」

 響はもう一度訊いた。

「私の何を知っているの?」

「あなた……というより、ボクが知っているのはこちらのミラノさんです。そういえば十分でしょう?」

「その子に意味なんてないわ。その子は私のことなんて知らないでしょう?」

 その時、部屋の壁に幾つもの呪符が浮かび上がる。そして、衝撃を受けたかのように、ミラノが身体をビクリと震わせた。

「……お姉ちゃん?」

「憶えている……の? いえ、違うわね。思い出した……のね?」

 マリノは壁に見えている呪符へチラリと視線を向けながら言う。

「うん」

「余計なことをしてくれるわね」

 とマリノは響を睨んだ。「いえ、やったのは別の誰か……なのかな?」

「そんなことより話さなきゃいけないことがあるんじゃありませんか?」

「何のために?」

「何のため? それはむしろミラノさんが訊くべき言葉でしょう? あなたは何のために自分という存在を消そうとしているんですか?」

 マリノはそれに対してすぐには答えようとはしなかった。ミラノへと視線を向け、少し柔らかな口調で声をかけた。

「あなたはまだヴァイオリンを続けているの?」

「……うん」

 ミラノは少し緊張しているように見えた。

「そうよね。続けてもらわないとね。私が全てを捨てることにしたのは、あなたのヴァイオリンのせいなんだから」

「どういうこと?」

「あなたは知らないでしょうね。13際の時、私は一度死んでいるの」

 遠くを見るような眼差しでマリノは話し始めた。

「死んでる?」

「家の裏手に川が流れているわよね。昔、あそこに落ちて溺れた子がいたの。小学生に入学したばかりの小さな女の子だった。13歳だった私は思わず助けようとして飛び込んだ。私はわりと運動神経が良かったから、当たり前のように助けられると思い込んだ。でも、溺れている人を助けるって、意外と難しいことなのね。溺れた子にしがみつかれ、私は泳ぐことなんて出来なかった。私はその子を救うどころか溺れて死ぬことになった。運良く、その女の子だけは助かった。そして、私は命を取り戻した」

「取り戻した?」

「そうよ。妖かしとしてね。生きたいと願ったつもりはないけれど……いえ、願ったのかしら。憶えてはいないのだけど、もっといろんなことをやりたいと強く願ったのかも。その思いが、妖かしとして生き返ることにつながったのかもしれないわね」

「それを後悔しているの?」

「お母さんの影響で、私は子供の頃からヴァイオリンを習っていた。それまでは楽しいとも思ったことはなかったけど、事故の後、私はどんどん上達していった。当然よ。妖かしの力があったんだから。でも、実際には、妖かしの力を使って有名なヴァイオリニストが弾いた曲をコピーしていただけ。それは私が奏でる音じゃなかった。それでもそんなこと私は気にしなかった。だって、周りの大人は十分に褒めてくれたし、コンクールに出れば賞をもらえたから」

「それじゃ、どうして?」

「一年もしないうちに、あなたは私の真似をしてヴァイオリンを習い始めた。そのあなたの音を聴いた時、私はゾッとしたわ。それは誰にも真似出来ないあなたの音だった。心のない、魂のこもっていない、ただ誰かのコピーでしかない私の音色とは全然違っていた。そんなものに何の価値もないってことに私は気づいた。私は、全てを捨てたいと思った。ヴァイオリンも、それまでの自分も。そのためには皆の記憶を書きかえる必要があった」

「だから私たちの記憶を書き換えて、姿を消したの?」

「そうよ」

「私のせい? 私のヴァイオリンのせいでお姉ちゃんはいなくなったの?」

 ミラノがそんな怯えた声を出すのを聞くのははじめてのことだった。

「そう言っているでしょ。でも、あなたのせいとは言っていないわ。あなたに責任を感じてほしいわけじゃない」

「同じことよ」

「私、お姉ちゃんに憧れてた。お母さんは私にヴァイオリンをやれとは言わなかった。それはお姉ちゃんがやっていたから。お母さんが期待していたのはお姉ちゃんよ。私じゃない」

「お母さんは私なんかに期待していないわ。昔からね。あなたも私のことなんて見るのは止めなさい。まさか、あなたに憑いた妖かしもそのせいだというの?」

「これはーー」

「迷惑だわ」

 ミラノは言い返すことが出来ずに押し黙った。叱られた子供のように、肩を落として項垂れている。

 ミラノをかばうかのように、響は彼女の前に進み出た。

「それで納得出来る自分という存在になれたんですか?」

「あなた、嫌な言い方するわね」

 マリノはそう言いながら視線をはずす。そして、逃げ道を探そうとするように周囲を見回した。

「教えてください。マリノさん、どうしてここに?」

「わかっているでしょ? 私が残したものを消すためよ。あなたたちだってわかっていて罠を仕掛けたんでしょ?」

「違います。聞いているのは、罠とわかっていてなぜやってきたのかということです」

「たとえ罠だったとしても、あれを消さないわけにはいかないのよ。あれが聴こえると疼くのよ」

「疼く?」

「傷のようにね。しかも、どんなところに居ても、それは聴こえてくるのよ」

「悔やんでいるんですか? 妖かしとなったことを」

「わからないわね。そんなことを悔やんでみたところで何がどうなるわけでもないのだから」

「でも、悔やんでいるからこそ、疼くんじゃありませんか?」

「かもしれないわね。だから、やれることをやるだけ」

 だが、そのマリノの声からは何の感情も感じられない。

「自分の存在を消すことが、あなたの傷を癒せるのですか?」

「やってみなければわからないわ」

「無駄ですよ。そんなことをしてみても、あなたの望みは叶わないと思います」

「どうして?」

「目の前のものから逃げているだけだからですよ」

「そんなことあなたに言われたくないわね」

「乗り越えてみたらどうですか?」

「簡単に言わないでほしいわ。私がどれほどの思いをしてきたと思っているの?」

「それなら記憶を奪われた人たちは? 無理やりにあなたを忘れさせられた人たちの思いはどうなるんですか?」

「人の気持ちを考えることが出来るほど、私には余裕がないのよ」

「もう一度、やり直してみませんか? 助けてくれる人はいますよ」

「こういう術を使うあなたたちのような人のことを言っているの? あなたたちに私の力は通じないみたいね。じゃあ、お願いするわ。私のことは忘れてちょうだい」

「……お姉ちゃん」

「忘れなさい。そんなものいないのよ」

「いるわよ。お姉ちゃんのことを忘れられるわけないじゃないの」

「今まで忘れていたじゃないの」

「お姉ちゃんの力のせいでしょ」

「それで何の問題があったのよ。私がいなくても、私の記憶がなくても、困ることなんてなかったでしょ」

「そういうことじゃないでしょ」

「あなたはいつもそうなのよ。人の気持ちを逆撫でするように、そんな白猫の妖かしなどを身に憑けて」

「違う。この子はあなたに会うために私にーー」

「知ってるわよ。私が助けた女の子が飼っていた猫でしょ」

「そこまでわかっているならーー」

「もういい。どきなさい!」

「嫌よ」

「殺すわよ」

「お姉ちゃんーー」

「黙りなさい」

 マリノの髪が逆立ち、みるみるうちにその姿が巨大な真っ黒な猫に変わっていく。

 そこに物理的な存在はなかった。それは『怨念』の塊だ。

 その禍々しい姿に響はゾッとした。それはただ外見が恐ろしいというものだけではない。

 人を呪う強い感情が伝わってくる。だが、それはどこかの誰かへのものではない。その憎しみは自分自身へと向けられているようだ。

 なぜ、そこまでマリノは自分の存在を嫌うのだろう。たとえ妖かしとなった自分のヴァイオリンの音に失望したとはいえ、自分を嫌う理由には思えない。

「どけ!」

 マリノの強い妖気を受け、外壁が吹き飛ぶ。

 呪符が再び宙を舞った。

 それは火輪と八千流の術だった。

 無数の呪符が宙を飛び、結界の張られた空間を作り出し、その空間にマリノを閉じ込める。

 東側に立つ火輪が呪符を操り、その反対側に立つ八千流がそれに合わせる。その二人が作り出す結界は強かった。マリノであった黒猫が大きく暴れ、のたうち回るのを結界が抑え込んでいる。だが、その強さがむしろ響たちの気持ちを揺さぶった。

 その苦しげな鳴き声が、彼女の悲鳴となって響の耳に届く。それは妖かしと化した彼女のこれまでの苦しみが伝わってくるようなものだった。

 思わず響は火輪の前に立ちふさがった。そして、それと同時にミラノが八千流の前に飛び出した。やはりミラノも同じように感じたのだろう。

 それを目にして二人は術を解いた。

 結界が消え、自由になった黒猫は大きく跳ねて屋根の上で響たちを睨む。黒い毛が逆立ち、目が炎のように爛々と光っている。

 だが、襲いかかってくることはなかった。

 巨大な黒猫が大きく一声鳴いてから闇の中へと消えていった。


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