3
10分後、その男は汗だくで現れた。
どうやらこの山道を歩いてきたようだ。
もちろん響もミラノも同じ道をやってきたのだが、妖かしの力を持つ響たちと普通の人間とでは体力がまるで違っている。しかも、その男のでっぷりと太った体型からは、普段から運動をし慣れているようにはとても見えない。
スーツ姿の男は、八千流から差し出された冷えた麦茶を一気に飲み干した。
「いや、参りました。バスを降りてすぐと聞いていたのにこんなに歩くことになるとは」
「それにしては時間通りに来られたようですね」
「遅れちゃいけないと思って急いだのですよ。こちらで私の依頼を引き受けてくれると聞いたのですが」
「まずは話を聞かせてもらえますか?」
落ち着いた口調で、遠野火輪が話を促した。
その中年の男は的場総司と名乗った。音楽事務所でプロデューサーをしているのだそうだ。
「これを聴いてください」
的場は黒い鞄の中からCDプレイヤーを取り出すと、響たちの前に差し出し再生ボタンを押した。
すぐにヴァイオリンの音が聞こえてきた。
「わかりますか?」
目を輝かせながら的場は言った。確かに美しい音色だということは、素人の響にも理解出来たが、それ以上のことは何もわからなかった。
「ヴァイオリンですか? これが何か?」
「この音はすごいんですよ。ジネット・ヌヴーそのものです」
「ジネット・ヌヴー?」
「フランスのヴァイオリニストよ」
と横に座っているミラノが響に向かってつまらなそうに小さく答える。
そんな周囲の反応など気にせず、的場は興奮気味にさらに言った。
「しかも、次の曲はミッシェル・シュヴァルベのものだ。こうも音色の違う音を、一人のヴァイオリニストが奏でるなんて……すごいというしかない。それなのに……それなのに」
的場の表情が一変し、頭をかかえる。
「この曲がどうかしたんですか?」
「このCD、おかしいんです。多くの人に聴かせたいと思ってパソコンに取り込もうとしてもコピーが出来ない。音源はこの一つしかないというのに」
「それは誰の演奏なんですか?」
「それがわからないから困っているんです。いや、わかってはいるんです。でも、わからないんです」
もどかしそうに的場は言った。
「わかっているけどわからない? そのCDはどこから?」
「昔、あるコンクールを録音したものです。この前、たまたま古い友人からこれを借りたんですよ。友人はただの思い出話のつもりだったようですが、私はこれを聴いて驚きました。これほどまでの演奏をする人がいたなんて」
「コンクール、それがいつのものかわからないということですか?」
「いや、それはわかっている。それなのに弾いている人物が特定出来ない。いやいや、わかっているんです」
「どういうことです? CDにまで録音されているのに? あ、コンクールなら記録が残っているんじゃありませんか?」
「そう。もちろん記録は調べました。そこに書かれている名前は御厨マリノ」
その名前を聞き、思わず隣に座るミラノの顔を見た。ミラノは何のことかわからないというようにポカンとした顔をしている。
「その名前に、御厨マリノという名前に間違いないんですね?」
「ああ、だが、誰も彼女のことを記憶していないんです。しかも私も」
「あなたもって?」
「記録によれば、私はこのコンクールで審査員をしていたんですよ。それなのに記憶していない。どういうことなのか……さっぱりわからない」
的場は悔しそうに言った。