魚はネズミの隣で赤い月に祈りを込める
「嬢ちゃん、取引をしねえか」
仕事を求めて繁華街までやって来たものの思うような仕事はなく、繁華街の細い路地でどうしたものかとうずくまっていた私にそう持ちかけたのは、のちに私の旦那様になるスレン様だった。
闇に紛れるための黒いロングコートに顔を隠すための帽子、視線を読ませないためのサングラス。
いかにも怪しいといえる彼の言葉は天使のささやきかはたまた悪魔のささやきか。
「おい、アニス」
「はい、何でしょう。スレン様」
「スレン様なんて呼ぶな、こっぱずかしい。スレンでいいと何度もいってるだろう」
恥ずかしそうに頭を掻くスレン様。
恥ずかしい時と困ったときに頭に手が行くのはスレン様の癖だ。これは約一年間、彼と一緒に過ごして知ったこと。
「いえ、そうはいきません。あなたはスレン様。私の、私たちの命の恩人ですから」
「はあ……そうかよ。まあ、いい。俺は少し出てくる」
「いってらっしゃいませ。スレン様」
渋々ながらに私からコートと帽子を受け取り、そして最後にサングラスをかける。これが彼の外出するときの姿だ。夏でも冬でも関係ない。
スレン様曰く、私には同じように見えるコートは何種類もあるそうで季節によって違うものを着ているらしい。
違いがわからない私にとってはいつもと変わらない姿でスレン様はいつものように仕事に向かう。そんな彼を見送るのが私の日課にして妻としての務めだ。
私はあの日、スレン様の妻になった。
それがスレン様との取引の条件だったからだ。彼があの日出した条件は、私が妻になる。そして代わりとしてスレン様が私たち家族にお金を渡す。
これがもし、子どもがベッドの中で聞かされるようなお話の中であればきっと男は女を幸せにしてくれるだろうし、女の家族も食に困ることはなく幸せに暮らしました。とハッピーエンドに終わる何ともロマンチックな取引だろう。
だが私と彼はその日が初対面であったし、少なくとも私は彼の素性は知らなかった。
私は全く知らない、それもいかにも怪しげな男の取引に乗ったのだ。
よく言えば家族のために、悪く言えば金のために、自分を売った。
簡単にいってしまえば繁華街で身売りをしたのだ。
一回限りの、ではなくこれからの将来全てを渡すことが条件なので、俗に言うところの花売りとは意味が異なってくるのだが……。
この話を聞いた人は、仕方ない選択だったのだと言ってくれるだろうか。はたまたどんな状況下であれ自分を売るなんてと怒ってくれるだろうか。
その時の私は仕方ないと言ってほしかったし、今の私は怒ってほしい。
あの時私を怒ってくれる人がいたら、私はあの時選択をとどまれたかもしれない。
だが、もうそんなこと嘆いても遅い。
だって、私はそんな怪しげな男に惚れてしまったのだから。
怪しいけれど優しくて。
だけどとってもひどい人。
それがスレン様だ。
スレン様が私を買うために叩いた金は、少なくとも農民には一生かかっても払えない額であったし、没落しかけていた我が家を立て直すには十分な金だった。
それほどにまで高い金を払って私を買った彼には何か思惑があるのだろう。没落しかけているとはいえ貴族の娘で、常に食に困っていたとはいえまだ20にもならない若い女。なおかつ貴族には珍しくもなんともないことだが、高等教育を受けていた。
そんな私を煮るか焼くか。
彼はどう料理するのだろうか。
人よりも少ない表情筋はいつも通りなまけていて全く顔に現れはしないものの、心の中ではビクビクとおびえながらスレン様と過ごした。
だが、彼は何もしなかった。
スレン様の仕事の取引が思うようにはいかなかった日、私は彼にストレスを発散するために殴られるのだと思っていた。
金で買われた身であり、妻として女としての役割を課されていないならばそうされても仕方がないと。
実際に夫や父親に暴力を振るわれた、なんて話はよく、とまではいかなくても耳に入ってくる。私は今まで、気の優しい父親に暴力を振るわれたことはなかったがそれがお前の役割だと言われれば受け入れるつもりだった。
そんな私の考えを裏切り、スレン様はおびえる私に「怖い顔をして悪かったな」と申し訳なさそうに頭を下げたのだ。
その姿を見て私は思った。
彼は私に暴力をふるうつもりなどなく、それどころか私に普通の生活をくれるのだと。
考えてみればそれまでの私に与えられていたものは平均的な生活水準以上のものばかりだった。
「俺は牛の肉はあまり好きじゃないんだ。お前が食え!」
そういって初めて食べる牛の肉に嬉しさを隠せない私の皿に自分の皿の肉を全て入れたこと。
「たまたま在庫が残っているんだ。残ってるなら使ってやらなきゃ物がかわいそうだろ」
と押し付けられた服の数々。
よく考えれば好きでもないものが食卓に並ぶことをスレン様ならば許さないであろうし、商人としての才能がある彼がそもそも在庫が残すわけがない。
万が一残ったとしても彼ならばそれすら逆手にとってまた一つの商売を始めることだろう。
そんなスレン様の殻に包まれた優しい言葉をそのままに受け取って、彼の本当の言葉を聞こうともしなかった。私は彼の言葉にいつもおびえていた。
彼の殻は案外薄く、こちらが少し変わればいとも簡単に剥がれ落ちてしまうのだ。
スレン様の妻になれてよかった、そう思っていた。
だが、その思いははかなく散った。
スレン様が毎月くれるお小遣いというには多いくらいのお金。それで彼に何かをプレゼントしようと町へ出た。
スレン様からもらう金で彼へのプレゼントを買うなんて可笑しな話ではあるが、私自身がお金を稼ぐという行為は他でもないスレン様によって却下されている。
だったら大人しく何もしなければよかったのだ。だがその時の私はどうしても何か贈り物をしたかった。この想いを形として表したかったのだ。
だがそこで見てしまったのだ。
スレン様が何人もの女を連れて、宿屋に入っていく姿を。
こんなに日が高く昇っているのに……だとか家が近くにあるのになぜわざわざ宿屋に泊まるのだろうか。なんてそんなことはどうでもよかった。
ただスレン様の腕に女の人の腕が絡んでいることがどうしようもなく悲しかった。
あの人は出会ったあの日ですら私の身体どころか指先にさえ触れたことなどなかったのだ。
たった一度たりとも。
金で買われた身とはいえ私はスレン様の妻だ。
妻……なのだ。妻なのにスレン様は私には触れてくれない。
それから私はスレン様が仕事に出るたびに彼の後を追った。
宿屋の中や酒場は私の幼い見た目では入れなかったけれど、意外にもスレン様には気付かれることなく後をつけることが出来た。
つけたところで意味なんかないことくらいわかっている。何かを見てしまったところでそれを責める権利など私にはないのだから。
それでも自分の中の何かが満たされていくような気がしてやめることなどできなかった。
せめて彼に見つかってしまうまでは……。
見つかってしまったらスレン様は何というだろうか?
怒る? 呆れる? それとも……。
スレン様がどんな反応をするか半ば楽しみで、続けていた彼のストーキング。
うまくいっているのだと思っていた。
「何してるんすか?」
「あ」
スレン様の後をつけるようになって半月が経過した頃、私の背後に聞き慣れた声が聞こえて来た。
振り返るとそこにはよく見知った男がいた。スレン様の部下のアランだ。
アランはスレン様の右腕のような存在のようで、私が彼の妻になった日、一番初めに紹介を受けた。
あの時はスレン様に抱いたようにアランもまた怪しい男だと思っていた。だが、やはり彼もまた優しい人だった。
おそらく今もまたアランは一点の曇りもない優しさから動いているのだろうと簡単に予想がついた。
だって、そういう人だから。
毎日毎日「寂しくはないっすか?」「何か必要なものとかないっすか?」と飽きもせずに聞いてくるような人なのだ。
だからアランは仕事中のはずなのに、こんなしょうもない女の心配をしてしまう。
「このへんは馬車の通りも多いっすから」
「えっと……」
「危ないから帰りますよ」
ほらと言いながらアランはいとも簡単に手を私の方へ差し出す。
数日前に、スレン様が女にしたように。
それは嫌だった。私には否定することは許されていないその行為を肯定するかのようで。
それなのに私は親切心で差し出された手をはじくことをためらった。きっとアランのことだから母が子にするのと同じような感覚なのだろう。子に向けるような優しさを否定することはできなかった。
私には母がいなかった。
「お前が幼いころに他界したのだ」と父は言ったが、その割には一枚も母の写真が我が家にはなかった。
だから、私は母を知らない。
知らないけれど町ゆく親子の顔を見ていれば優しくて温かいものなのだということは容易に想像することが出来た。
私は寒いのが苦手だから。温かいものを望んだ。
今回だって。
「ええ、ありがとう」
醜くて何よりも冷たい感情よりも温かいものを選んだのだ。
ずっと見つめていたスレン様の背中はもう遥か後ろ。
きっともう宿屋に入ってしまって私には見ることができない。
「そういえばどうしてあんなところにいたんすか? あそこは馬車が結構走ってて危ないっすよ?」
私の目に入るのは活気付いた街と心配そうに見下ろすアランの顔だった。
「猫を追っていたのよ」
「猫……ですか? どんな猫だったんですか?」
「真っ黒な、毛並みが綺麗な猫」
「じゃあ、飼い猫かもしれませんね」
「そう……ね」
スレン様は猫。
そして私はさしずめ彼に捕らえられた魚といったところだろうか。
餌は毎日きちんと与えてくれるのに、構ってはくれない。
パクパクと口を開けるのはお腹が空いている時だけじゃない。私を見てって言いたいのに水の中からじゃ声にならなくて、その言葉は届かない。
水槽を見続けるのは目が疲れてしまうから?
それとも私が猫じゃないから?
「あ、あれ美味しいんすよ?」
沈んだ私の手を引いて男は露店へと歩き出す。
真っ赤なリンゴが水飴でコーティングされたものにかぶりつきながら男は私にも食べろと差し出す。
「やっぱりいつ食べても美味いっす」
「そうね」
「あ、買い食いしたのはスレン様には内緒ですよ?」
「ふふ、わかったわ」
猫に隠れてリンゴを頬張る姿はまるでネズミだ。
並んで、シャクシャクと音を立てながら一歩ずつ進んでいく。
ネズミ同士だったら、幸せになれるかしら?なんてふざけた事を魚の私は一瞬だけ考える。
そうなることを望んですらいないくせに。
彼が振り向いてくれますように。
だから私は欠けていくちっぽけな赤い月に祈るのだ。




