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長編(完結)

えくあどうわ

作者: 池田瑛

 街の何処にいても聞くことのできるサイレンが鳴った。製鉄所の労働者の入れ替えの時間の到来を知らせる一回目のサイレンだ。サイレンは二回鳴る。二回目は労働時間の作業時間の開始を知らせるサイレンだ。二度目のサイレンがなった後、工場の通路をうろうろしていると、監視役の黒帽から減給させられると、健二は聞いたことがある。二度目のサイレンが鳴って、しばらくすると父の店に客が入り始める。


 仕事を終えた労働者達は、木製の引き戸を開けながら入ってくる。酒と焼串を求めて、父の居酒屋にやってくるのだ。カウンター一列と、カウンターの後ろに四人が胡座をかける座席が二つあるだけの店だが、連夜、客で満席になる。二度目のサイレンが鳴ってから一時間後には、満席となり、新たに引き戸を開けて店に入ってきた人は、「また来るわ」と言って店の外に出て行く。健二は、毎日この店が満席になるのは、この店にカラーテレビがあるからだと思っている。店に来た客は、酒を飲みながら、焼き串を食べながら、飽きもせずテレビを眺めている。煙とヤニで汚れた天井を、父が掃除するのを見たことがないが、テレビの画面を雑巾でこすっているのは何度も見たことがあった。

 焼串が特段おいしいから、という理由でもないと健二は思っている。この街にある、同じような焼串を出す店の串を食べて比較したことはないけれど、健二の中には確信めいたものがあった。父の作る焼串は、しょっぱい。健二にはそれをおいしいとは感じない。塩を多くすれば、酒もよく売れる、そんな小狡いこと父は考えているのではないかとさえ思う。「おまえんちの酒、メチル入れてるだろ」と言いかがりを付けてきた同級生を、ぶん殴ってやったことはある。だが、もしも、その同級生がお前の店の串はしょっぱいんや、と言ってきたとしたら、その同級生を殴り飛ばしていたかは、健二にも分からない。テレビが店の繁盛を支えている、それが健二の考えだった。


 健二の母が死んでからは、父が店をやっている間、健二は店の中にいるのが家の決まりとなった。調理場の隅に、父は小さな折りたたみ式の机を置いてくれて、そこで勉強することもできた。父が一人っきりで切り盛りしていたが、店を手伝えとは言わなかった。串を焼くのも、注文も、熱燗を温めるのも、勘定も、父は全てを一人でこなしていた。


 健二は、店に来る客のことを怖いと感じることはなかった。着ている服は汚れていたし、銭湯のサウナの中のような臭いがする客もいた。汚いとか、臭いとかは思うことはあったけれど、不思議とそれは不快感を伴うものではなかった。

 この店に来る客がみんな煙草を吸っていたからかも知れない。店に来る客のの口から出るのは白い煙で、街の工場の煙突と、この店の排煙口から出るのは黒い煙だ。煙の色が、黒か、白か、それだけの違いで、どちらもこの街の一部のように思えた。


 店の中をうろちょろしていると、話しかけてくるお客もいた。カウンターに座って一人で飲み来ている客が、健二に話掛けることが多い。話しかける内容は、「俺にもお前くらいの子どもがいてな……」という類いの話だ。

 頭に白髪が交じった、もう六十歳に近いんじゃないかと思うような常連客も、健二に話しかける一人だった。いつも一人で酒を飲みに来ていて、串は四、五本くらいしか食べず、黙々と熱燗を飲む。二合徳利の熱燗を、四、五本飲む。そのお客が着ている作業着は、他の客よりも、煤やタールで汚れていて、所々焦げていた。

「坊主は、セキドウを見たことがあるか」と、その客が健二に話しかけた。健二は、セキドウというものが何なのか分からなかった。また、僕は坊主ではなく、スポーツ刈りだ、とも思った。

「セキドウってのはな、太陽の通り道だ。赤色の赤に、道路の道を書いて、赤道だ」

 その客は、健二に言った。健二は、見たことがないと答えた。

「そうだろうな。日本では見ることが出来ない」と、その客は言った。

 健二は、この街からも出たことがない。見たことがあるはずも無かった。

「俺は見たことがある。あれはきれいだった。赤色の線がな、海の上に引いてあって、それが水平線までずっと、ずっと続いているんだ。あの光景よりも美しい光景は見たことがない。誰が引いた線かは知らないけどなぁ、あんな長い線を引いた奴は大したもんだ。波にゆらゆらと赤道が揺れて、綺麗だった」

 その客はそう言うと、お猪口を口に運び、一気に傾けた。そして、また零れそうなくらい酒をお猪口に注いだ。

「子どもに、変なことを吹き込むなよ」と、カウンターで飲んでいた三十くらいの男が、笑いながら話に割って入ってきた。右目に泣き黒子があり、右前の前歯が一本ない男だった。この男も作業着を着ている。

「赤道が見えるわけねぇよ。頭が惚けてきたんじゃないのかい」と、泣き黒子の男が嫌みなく言った。

「確かに見た。船倉の窓からこの両目でな」と、赤道を見たという男。

 見た、嘘だ、見た、法螺だ、というようなやり取りをしばらくした後、泣き黒子の男がそのやり取りに飽きたらしく、「じゃあ、君が大人になって、赤道が見えるかを確かめてくれや」と健二に言い、赤道を見たという男に二合徳利の熱燗を奢った。赤道を見たという男は、「若造に奢られる筋合いはない」と言ったが、争議で賃金が上がった祝いだと泣き黒子の男は言って、赤道を見たという男のお猪口に強引に酒を注いだ。赤道を見たという男は、注がれた酒を一気に飲んだ後は、黙々とその酒を飲んで、二合徳利を更に二回お代わりをした。泣き黒子の男は、テレビで放映されていた歌謡ショーが終わると、健二に「またな」と言って店を出た。



 健二は、小学校六年生にしては体が大きい方だ。父譲りだろう。小学校の制服を着ていなければ、中学の高学年のように見える。体育の時間などで、身長順に整列すると、最後尾が健二だった。しかし、走るのは早くはなかった。競争をすると、順位はクラスで真ん中くらい。身長に比例して足も長いので、駆けっこも早い筈なのにと、健二自身、首を傾げていたほどだ。

 健二は、クラスの中では、体格以外は目立たない。クラスの環の中心から、少し離れたところにいた。常に廻りに人がいるという状況でもなく、孤立しているという訳でもない。一人が好きな訳でもなく、誰かといるのが苦になるという訳でもない。クラス内で面白そうな事があれば、それに参加するし、掃除当番の日にはしっかりと掃除もした。日直の日は、休み時間毎に黒板をちゃんと消した。しかし、健二にはとりわけ仲の良い友達がいるという訳ではない。面白い遊びがあれば、昼休みに一緒に遊ぶし、読みたい本があれば、図書館で昼休みを過ごした。


 健二は、五月のくじ引きで、最前列、窓際から2列目の席になった。このクラスの担任の先生は、毎月、くじ引きによって席を決める。男子の列と女子の列に分け、番号を書いた紙をくじ引きで順番に引いていくのだ。

 健二は、後方の席を好んでいた。先生が教壇から「この問題、分かる人」と、クラスに問いかけた時、先生と目が合うのが好きではなかったからだ。前方だと先生と目が合う回数が自然と多くなる。健二は、その問題の答えが分かっても、挙手をして答えたくはなかった。

 先生と目が合うと、すぐに目をそらし、下を向いた。学校の成績も、音楽と美術以外は、上位の成績だった健二には、その問題の答えが分かったし、先生も健二のテストの成績を見れば、健二がその問題に答えられるということは分かっている。先生と目が合ったとき、「今日は、手を挙げるのかい? 」と先生が自分の心に問いかけてくるように感じるのだ。健二は、目を反らし、下を向いた後、居心地の悪い罪悪感のようなものを感じるのだった。

 授業中に先生と目が合うのを避けたいという意味で、後ろの席が良かったが、クジで前の席になってしまったのは仕方がない。


 窓隣の最前列の席、つまり健二の左隣は、佐々木という女の子だった。彼女は近視らしく、クジ引きには参加していない。希望をすれば事前に、黒板が見やすい前の席を選べるのだ。佐々木さんは、四月も、前の席を希望していたような記憶が健二にはあった。佐々木さんは、四月は、健二が今座っていた席に座っていたと思う。

 健二がこの女の子に興味を持ったのは、彼女が給食の牛乳を飲まないからだった。彼女は、牛乳には手を付けず、いつも残飯入れに捨てていた。彼女の行為は褒められたものではない。小学校の三年生の時まで飲んでいた脱脂の牛乳と比べれば、格段に美味しいと健二は思っている。しかし彼女は牛乳を飲んでいなかった。

「牛乳、飲まないの? 」

 飛石連休が明けた次の日だった。健二は佐々木有沙に初めて話しかけた。

「嫌いなんだ」

「飲まないなら、くれん? 」

「良いわよ。代わりに何かくれるなら」

 健二は、自分の席に置かれている今日の給食を見た。コッペパンも味噌汁も、牛乳との交換は割に合わない。コロッケを交換に出すなんてもっての他だった。

「どうせ捨てるんだろ? 粗末にするなって、先生言ってたぞ」

「牛乳飲み過ぎるとお腹壊すって、ラジオで言ってたわよ」

 健二はコッペパンにかぶりついた。パンを食べ終わると、牛乳の入っているアルミ食器を両手で持ち一気に飲んだ。そして、味噌汁も口に放り込み、最後にコロッケをスプーンで小分けにして全部食べた。


「牛乳。要るの? 要らないの?」

 健二が教室の前に置かれている食器籠に食器を戻し、席に戻ってきて、引き出しから本を取り出した時、佐々木さんがそう言った。

「要る」

「代わりに何をくれるの? 」

「もう全部食った」

「じゃあ、これ、捨てるわね」

「捨てるならくれ」

「嫌よ」


 健二は、本の続きを読むことにした。本の、紙飛行機が挟まっているページを開いた。健二は自分で折った紙飛行機を枝折として使っていた。健二の折る紙飛行機は、よく飛んだ。飛行機の先端を折り、前方に適度な重みを作るのがコツだ。

「『二年間の休暇』? その本面白いの? 」

 佐々木さんが話しかけてきたが、健二は聞こえていない振りをした。


「牛乳要る? 」

「要る」

 健二はすぐに答えた。

「労働で対価を払う? 」

「なにぞ? 」

「図書館で本を探してきてくれるなら、牛乳あげる」

 健二は、頷いた。そして彼女から牛乳を受け取りそれを飲んだ。食器は、彼女に返すのは忍びないと思い、自分で返しに行った。


「何を探せばいいの? 」

 昼休みに、健二は彼女に聞いた。健二は佐々木さんと教室に残っていた。彼女は、自分の席に座って、校庭を眺めていた。

「『八十日間世界一周』。健二君が読んでる本と同じ作者よ」

「見つけたらどうする? 」

 健二も、その作品は知っていた。この本を読んだら、『海底二万マイル』か、それを読もうと思っていた。

「借りてきてくれたらいいわ」

「自分で借りろよ」


 彼女は、「じゃあ、見つかったら教えて。ここで待ってる」と言うと、また校庭を向いた。

 健二は図書館に行き、その本を探した。しかし、その本は無かった。海外児童文学が集められた本棚に、あるはずだった。健二が借りている『二年間の休暇』も、貸し出し中でなければそこに置かれているはずである。『海底二万マイル』は、本棚にあった。『八十日間世界一周』は、貸し出し中なのだろうと健二は思った。

 健二は、教室に戻り、彼女に目当ての本がなかったことを告げようと思ったが、それも面倒だと思い、そのまま昼休みは図書館で本を読んで過ごした。

 健二は、午後の授業の予鈴が鳴る直前に「本、無かったぞ」と彼女に伝えた。


 次の日の給食の時間。健二は、佐々木さんに話しかけた。

「昨日の本、他の本棚に誰かが、間違って仕舞ったのかもな」

「そうかも知れないわね。それで?」

 彼女は、黒糖パンを両手で細かく千切りながら健二に言った。

「今日も探してやろうか?」

「そう。お願いね」

「只ではやらん」

 健二がそう言うと、彼女は牛乳の入った食器を健二の方に差し出した。

 健二は、昼休みに図書室に向かい、入り口近くの本棚の一つにその本がないかを探した。本の背表紙を一つ一つ読んで確かめる内に、気になる題名の本があったので、その本を読んで昼休みを過ごした。

 健二は、午後の授業の中、小声で「見つからなかった」と彼女に伝えた。


 昼休みに図書館に行くのが健二の習慣となった。それは、次の席替え後も続いた。 

 健二は、席替えのクジ引きの際に、前の席、正確に言うならば、佐々木さんの隣の座席を指定した。近視ではなかったが、前の席に座ることに関して、先生は何も言わなかった。他のクラスメートも、何も言わなかった。生徒の誰もが、前の席よりは、後ろの席を望んでいた。

 六月は、男子が窓側の列だった。健二は、最前列の窓際の席となった。



 六月中旬の給食の時だった。佐々木さんも、昼休みに図書館に行くと言った。

 健二は、その日、いつもより早く給食を食べた。彼女から貰った牛乳も、一気に飲んだ。アルミ食器を傾け過ぎたせいか、少し口から牛乳がこぼれて、数滴が床に落ちた。健二は、床に落ちた牛乳を、履いていた上履きで擦った。牛乳はワックスのように薄く広がり、やがて床と同化した。

 健二は、彼女よりも先に図書館に行った。健二が、辞典が並べてある本棚に、『八十日間世界一周』がないかどうかを探しているところで、彼女も図書館に到着し、健二の後ろに立った。健二は、居酒屋で話に聞いたことのある、工場の黒帽のことを思い出した。自分が本を探す動作を休むと、彼女は呼子笛を吹き始めるような気がした。サボるなと、呼子笛を吹いて注意をするのだ。

「なんで同じ国語辞典がこんなに置いてあるのかな。無駄だよな」

「授業で使うから、クラスの人数分、置いてあるんでしょ」

 彼女は、本棚の前に立っている健二の後ろから、国語辞典へと手を伸ばした。健二は、慌てて横にずれた。

 彼女は、辞典を手に取ると、閲覧席で辞書を引き始めた。健二は、昼休みの間、辞書コーナーの前に立ち続けた。

 本棚の上段の国語辞典を右から左にゆっくりと順を追って眺め、中腰になって中段に置いてある漢語辞書を左から右に、そして屈んで下段を右から左に古語辞典の背表紙を眺めた。その本棚の上段から下段まで見終わって、彼女の方を振り向いて見てみたが、相変わらず彼女は辞書を読んでいた。

 時計はまだ五分しか進んでいなかった。

 健二は仕方が無いので、上段の本を左から順に一冊づつ手に取って、中をパラパラとめくり、また本棚に戻し、次の一冊を手に取った。

 辞書をぱらぱらとめくりながら、ふと、健二は赤道の話を思い出した。世界一周をしたら、赤道を見ることができるのだろうか。赤色の線が海の上に引いてあって、それが水平線までずっと、ずっと続いている。その線は、砂漠も、町も、森も、海も、真っ赤なペンキのような原色の赤が、一直線に続き、地球を一周している。

 佐々木さんも、赤道を見たいのではないだろうか。健二は、自分でも突飛な発想だと重いながら、きっとそうだという奇妙な確信があった。健二は、『八十日間世界一周』を探し続けた。


 冬の童話祭、参加表明していたと思ってたのに……。参加表明してないとさ……。まぁ、童話か? と言われると微妙なのでいいのだけどさ……。


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