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こぼれる笑顔の女

 京城学園を卒業した俺はハーバードに入学した。日本と比べてアメリカの大学生は勉強が大変とか言われるが、実際のところそうでもない。知らないヤツが適当に言うか自分の優位性を確保しようとしているヤツが吹聴しているにすぎない。

英語さえ扱えれば、単位をどんどん取ってさらっと卒業できる。2年ちょっとかかったが。その間、お約束のように金髪碧眼に狂ったり、酒を浴びるほど飲んだり、テニスを本格的にやったりと同年代の男なみに大学生生活もエンジョイした。



 その後はフランスのINSEADで1年半、ロンドンビジネススクールでゆったりと2年過ごして、友菱本体に入った。この6年で世界中に友人と縁故ができた。京城での6年間もおもしろかったが、卒業してアメリカ・フランス・イギリスと渡り歩いたのも愉快なものだった。俺があの友菱剛造の孫だということは知れ渡っていたけれど、なにも有名人は俺一人じゃない。もっとすごい財閥の御曹司もいたし王族もいた。みんなが世界トップクラスの才能とその友人関係と縁故を求めて留学してくる。Just One of Them というのは楽でなかなか辞められない。家から許された6年間を宝物のようにエンジョイした。いったん友菱に入社すれば、それからの人生はずっと戦場になるはずだから・・・・。



 そうして友菱本体コアでの戦争が始まった春、友菱家の執事から書類を渡された。

「何?」

「結局、一人だけしか残りませんでした。その方についての報告書です」

表紙にはほころぶような笑顔の女性。はっきりウェーブがかかった長いフワフワした黒髪。黒髪に映える真っ赤なルージュ。知性を隠せない黒目がちで挑戦的な瞳は引き込まれるようだ。その姿を見て愕然とした。6年間で女はこんなに変わるものなのか? それは口一文字の現在の姿だった。



「候補者10人の方のうち、1人は国内に残り、9人がアメリカとイギリスにわたりました。そのうちの4人は大学の成績が会長の示す基準を超えられなかったので除外されました。3人は大学卒業後、すぐに帰国して友菱グループの各社に入社することになっています。これも現状満足で向上心や欲がないということで除外。1人はコロンビア在学中に恋人ができて、そのままアメリカで暮らすことを希望されています。そして、この佐伯さんだけが、友菱財団に交渉してきました」

「交渉?」

「はい。帰国をあと2年伸ばしてほしい。自分はこの後、イギリスに渡り、ロンドンビジネススクールで学ぼうと思う。もうロンドンでの奨学金も受られるようになっている。貸与されたお金については利子を含め、2年後から払いたいので了承して欲しいと」

「それで?」

「ハイ。奨学金は複数個所からもらうと返済が煩雑になるので、このまま友菱でめんどうをみる。貸与じゃなくて給費である。ロンドンの経験は今後友菱で働くにおいても財産になるので、心して学べと返事しています」




・・・ふん。あの祖父さんの考えそうなことだ。もし俺がこの娘を気に入らなくても、これだけ能力も高く、向上心も、社会情勢への理解力もある娘だ。社員として迎えるのは会社の利益と判断したというところか。それにまたも給費で奨学金がもらえるとなると、彼女としても生半可の留学気分で過ごせるわけない。この機会チャンスを有意義なものにしようと人一倍、正面から向きあうことだろう。



「プリンストンの卒業式は6月1日です。実際に本人をご覧になられては?」



丁度その週にNYで商談があった俺は、その日、足を伸ばしてプリンストンで口一文字を見た。




――― 写真よりもいい。なにより独自の空気感をまとっていて、しっとりした雰囲気がある。周りの騒がしい喧騒の中にいても、自分だけ別世界の衣をまとっているようだ。一目で恋に落ちた。こういうのは2度目だ。だけど、1度目より、数倍強烈に心魅かれた。






 それから祖父さんに「気に入った」とだけ伝えた。

日本に戻るまで2年、俺が何もせずとも、彼女は守られるだろう。いろんな経験を積み、いろんな事を学んで人生の糧にするといい。恋愛以外は。もう他の男と恋愛する必要はない。次に彼女の瞳に映るのは俺だけだ。




 ヨーロッパ出張の度に、ロンドンへ足を伸ばして、彼女を見た。ロンドンの社交界で偶然会ったときは、知らないふりして話かけたりもした。彼女はかなりモテてるようだったが、もう友菱の手の者がついている。不埒な感情を持つ男どもからは、本人が気づかぬうちに、徹底的にガードされた。


  


 2年が過ぎ、ようやく彼女が友菱本体コアにやってくる日が来た。


「佐伯瑠璃です。よろしくお願いします」

「「「「こちらこそ」」」」



 よく通る声でにこやかにあいさつする彼女。春山さんの下につけることにした。エリートばかりのこのオフィスにおいても彼の仕事には余裕という名の愛があるし、学ぶには最適だ。なにより京城つながりで仲がいい俺が顔を出しやすい。生涯の伴侶になるのだ、俺が押してそういうことになるのは避けたい。自然に彼女が俺を求めるようになってほしい。逃がす気はないけど長期戦の予定だ。仕事もこの友菱本体コアのメンバーとして、このエリートたちに遜色ない働きができるようになってもらわなければ困るのだから。




 一文字はよく笑う。京城時代にあんなに無表情だったくせに、人が変わったようだ。

頭はすごくキレるのに、けっこうそそっかしい。今日はヒールを側溝の穴にスボリと狙ったように入れて、よろけて転びそうになった。思わず手を伸ばして腰を抱きとめたら、彼女のポーカーフェイスが崩れて、真っ赤になった。

「すみません。ありがとうございます」

「いえ」

 そっけなく返すが、心の中では側溝の穴に感謝したくらいだ。それにしても側溝の表面積でいうと5%にも満たないホールに狙ったようにはまるなんて、おかしな娘だ。俺の視線に気づいたのか、一瞬俺の目をみつめた彼女はゆっくり視線を外した。



「視線を外すのは癖か?」

「はい?」

「なぜ私を見ない?」



 突然の言いがかりに一文字は目を大きく見開いて、ほんの一瞬、目を泳がせた。そしてすぐに何事もなかったように真正面から俺を見て「はい?」となんのことかわからないとでも言うように、ニッコリほほ笑んだ。そうきたなら、俺も、と彼女から視線を外さない。二人の視線が濃厚に絡み合って、甘美な空気を醸し出した瞬間、「店ついたよ、なにしてんの? 二人とも」 春山さんのじゃまが入る。


「悪かったな~、二人の世界邪魔して」

ホント邪魔だよ。わざわざ声かけずに、さっさと先に店に入ればいいのに。ニヤニヤしている春山さんに心の中で毒づく。

「いえ、そんなんじゃありません」

ポーカーフェイスで答える一文字。いや、もうその口は一文字じゃないな、ポーカーフェイスなのに、口元は緩い微笑をいつもたたえているのだから。




 彼女についての報告書は2つに分かれていた。京城時代と留学時代。京城時代は、俺が高校時代に感じていた印象そのものに、色がない(モノクロ)の雰囲気だ。しっかり者で、落ち着いていて、学年の1%の特待生に6年連続選ばれている。少ない友人と濃厚な関係を築き、学校では如才なく立ち回る。表情に乏しく、冷ややかな目をしているが、時々ふとした拍子に情熱の片鱗を見せる時もある。

 やると決めたら、絶対成し遂げるようで、いきなり降ってわいた留学話で進学先をアメリカのIVYリーグに決めると、あっという間にSATやTOEFLのスコアを上げ、エッセイを完璧にした。目標を決めると最短距離で成し遂げる。そのためにどうすればいいか冷静に戦略を練る。その戦略力と実行力が特に際立って素晴らしいと報告されていた。

 家族とは確執があるようで、妹と弟ほどには、親から関心をもたれていない。それがかえって「長女でしっかりした子」という立場を強調しているようだ、と。



 留学時代の報告書は、京城時代のとはかなり異なる。一言で言うと、あんな優等生のしっかり者が、いきなりふにゃっとした普通の女子大生になっている。プリンストン大学でも、彼女の能力なら4年もかからず卒業できるはずだが、ゆっくり生活を楽しんで過ごしている。いろんなことに手を出し、おかしな失敗もし、何人かの男と付き合い、別れの修羅場もやり・・・。

 

 一番の変化はその顔の表情だ。京城時代は能面のようないつも一緒の表情をしていたが、留学時代の写真はいろいろな表情で埋め尽くされている。すました顔、怒った顔、嫌そうな顔、満足げな顔、そして花が咲き誇ったような笑顔。バラというより、モクレンかな? 派手ではなにのに際立った華やかさで、その場の景色を一瞬で華麗に変える、美しい可憐な花。モノクロではない、極彩色のカラーだ。



 ロンドン・ビジネススクール時代は、彼女に恋心を抱く男は牽制されているので、彼女は誰とも付き合っていない。ロンドンだけでなくドーバー海峡を超えて大陸の方まで足をのばし、ヨーロッパの文化や歴史、音楽や絵画を心置きなく楽しんでいた。



 俺はいつしかヨーロッパの奥深い文化の中で大人の女に成長していく彼女を眺めるのが喜びとなっていった。そして、時々、彼女が俺の存在を認識する程度には、彼女の前に姿を現した。

 それはロンドン・ビジネススクールでの「各界で活躍する一流の卒業生の講演会」だったり、彼女が絶対顔を出す、イギリス経済界主催のパネルディスカッションのゲストだったり。そしてそういう時には、偶然を装って口をきいたりもした。


 我ながらじれったい攻防だと思う。ロンドン2年、彼女が会社に入ってから2年、ずっとこうして、ゆっくりと彼女に浸食していく。どんな忍耐力だと自分でもおかしく思うが、彼女だけでなく、俺自身にとってもこの4年は重要だったのだ。友菱にはいって、将来は友菱の頭脳と呼ばれるこのエリートたちだけでなくグループ全体のトップに立たなければいけない。その立場にふさわしくあろうと、仕事に全力で向かっていて、とても女と付き合うような余裕はなかったのだ。




 でも、もうその期間は終わった。

 そろそろ、全力で彼女に向き合おうではないか。

 彼女を俺の腕の中に抱きとめるのだ。




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