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五十歳の誕生日に人生の幕を引こうとしたら、悪魔に拾われました。

作者: 緑のノート
掲載日:2026/05/30

何も考えずに書き殴ったものの供養です。ただ人間と人外の時間感覚の違いって埋まらなさそうだと思って書きました。

 五十歳の誕生日。私が決めた人生の終点に、小指ほどの悪魔が現れた。

 悪魔は三等身ぐらいで黒い体をしていて、頭には黒い、角か耳のようなものが一対ある。目はカートゥーンのキャラクターのように大きくて、赤い。

 背中には蝙蝠のような黒い羽があって、忙しなく動く羽に合わせて、糸の先っぽに黒ダイヤの錘を付けたようなしっぽがぶらぶら揺れていた。


「あなたは今、命を絶とうとしていますね。あなたの命の時間は、あと三十一年二カ月と十三日あるというのに」


 ファンタジーな存在が、呆気に取られてまじまじと見つめていた私に向けて、目と鼻の先で言葉を発したものだから、睡眠薬とカップを落としそうになった。

 心底不思議そうにしている悪魔に、私は動揺を隠しつつ答えた。言うことだけは言っておかないといけない。


「そんなにいりません。五十歳で充分です」


「五十歳でいいなんて傲慢ですね」


「自分の身仕舞いをしようというだけではないですか。……何が傲慢なんです?」


 今でも長く生きたと思っているのに、あと三十一年?八十一歳まで生きるなんて冗談じゃない!

 よく分からない存在を相手にしているにも関わらず、ついむきになってしまった。

 しかしこの口振り!悪魔なんかに私の寿命についてとやかく言われる筋合いはない。寿命は神様が決めるもので、ちっぽけな人間が決めるなんておこがましいというのかもしれないが、生まれたくて生まれてきたわけでもないのだ、社会から退場する時ぐらい自ら降りる(・・・・・)権利があったっていいではないか。

 私の言い分に、悪魔はさぞ不満だという風に、あるのかどうか分からない鼻を鳴らした。そうして私に向かって吐き捨てたのである。


「たった八十年の寿命で」


「……たった?」


「なんです?」


 胡乱な表情の悪魔を前に、私は息を吸い込んだ。


「『たった』っていいましたね?こちとら別に働きたくもないのにやっすい給料で働いて、働いてる中から税金取られて、四十からは介護保険まで取られる中、少ない給料で必死にやりくりして、でも昇給もなく、お金も貯まらずに、老後どうしようなんて考えながら、特に夢も希望もなく会社と家とを往復して、パートナーもなくて、一人賃貸の部屋に帰るような、週末は一日は寝て過ごしてあとは晩酌するのだけが楽しみみたいな生活送ってるんです。分かりますか?お金も時間もない心もお金にも余裕のないアリンコみたいな庶民の気持ちが。その精神を磨り減らす生活を、あなたは後二十年続けろと言うのですか?ええ、たとえ七十歳で定年したとしても、あとの十一年は雀の涙みたいな年金と貯金だけで、ガタガタの身体で親の介護しながら年寄りになっても貧困に喘ぐことになるんです。私は……パートナーも、子どもも、望んでいたわけではありませんが……私には、世間一般で言う『人生の彩り』なんてありませんでした。だから、苦しいだけの人生を終わりにしたっていいじゃありませんかっ!……はあ、はあ」


「……」


 一息に言い切った。

 言ってて悲しくなってきた。

 こんな時でも素直になれない自分に、情けなくなる。

 確かにパートナーは、積極的に望んでいたわけではない。でも心のどこかではほしいと思っていたのだ。だが気付いた時には遅かった。私はおばさんになっていて、私の手を取ってくれる人は誰もいなくなってしまっていた。


 でも全て私の選択の結果だった。覆水盆に返らず。もう引き返すには遅すぎるのだ。胸がちくりと痛む。

 沈黙の気まずさに、重ねて口を開こうとした時、私は、という呟きが聞こえてきた。


「私はたった八十年と言いました。あなたは八十年をずいぶん長いと感じているようだが、それこそとんでもない。気の遠くなる時間生きている私からしたら(まさ)しく『たった八十年』です。あなたは人間社会に不満をお持ちのようだが、いいじゃないですか八十年。始まってすぐ終わる。私のように娯楽を求めて世間をさすらわなくていいんですから」


「でもそれは人間の社会に縛られていない悪魔の価値観ではないですか。社会の中にいる、楽しみもないちっぽけな人間にとっては、八十年も生きるのは、とっても長いことなんですよ」


「では、人間社会に縛られず、『人生の彩り』とやらがあれば、こんな真似はしなかったと?」


「それは」


 言葉に詰まる私に、悪魔が悪魔らしい邪悪な笑みを浮かべた。


「望みを叶えてあげましょうか?」


 正しく悪魔の囁きだった。つばを飲み込む私ににじり寄ってくる小さな身体。しかし、私には悪魔のちっぽけな身体がその何倍にも大きく見えた。悪魔が口を開いた。その時だった。


「さあ。言ってご――」


 ぱこんっ。

 どこか間抜けな音が車内に響いた。


「……」


「……」


 温めていたシガーライターが飛び出た音だ。運転席で我に返る私と、所在なさげに滞空する悪魔。車内に気不味い沈黙が、


「さあ。言ってごらんなさい。あなたの望みを」


「あ、続けるのですね」


 降りなかった。メンタルの強い悪魔だ。

 私はちらりとシガーライターと、足元に置いた練炭を見た。

 練炭に火を付けて、睡眠薬を飲む。それだけで全てを終えることができる。


 ただ。目の前の悪魔を見ながら考える。

 望み。

 そう悪魔は言ったが、この先に望むことなんて、ない。あるのはどちらかというと後悔だ。


「いえ、望みというより後悔、でしょうか。誰にも言ったことないんですか?」


「!」


 心を見透かされたような言葉に心臓が跳ねる。


「叶えてあげますよ。あなたがそれを口にさえすれば」


 小指ぐらいの大きさなのに、腕より太い毒蛇に身体を締め付けられている錯覚に陥った。赤い目は爛々と輝き、小さな口が綺麗な弧を描いて嗤っている。

 この悪魔、私の心残りをお見通しで煽ってきている。

 分かっている。もう気持ちは話に乗り掛けている。邪魔しているプライドさえ取り払えば、望みを言うことなんて簡単なのだ。


「対価は何ですか。…………処遇も含め痛いことはやめていただきたいのですが」


「いいでしょう。身体的に苦痛を伴う対価は求めません。あなたの処遇に関しても。これでよろしいですか?さあ、言ってごらんなさい」


 悪魔と交渉するなんて、愚かなことだと思う。この先に何が待っているかなんて分からない。でも、この時の私には、どうしてか悪い結果になると思えなかったのだ。

 人生の最期ぐらい、素直になったら?ともう一人の自分が囁いた。


「……追い詰められたら突拍子もないことをする、ということに定評のある私です」


「おや」


 どうせ捨てようと思っていた命だ、乗ってやろう。


 きらりと楽しそうに目を光らせた悪魔を横目に、思い切り息を吸う。


「ーッ!っほんとうは!結婚したかった!!素敵な旦那さんを見つけて!子どももできて!今頃は友達みたいに初孫をかわいがりたかった!」


 肩で息をしている私に声が降りかかる。


「――その望み、叶えて差し上げましょう」


「へ?え?」


 暗い車内に、更に闇が広がっていく。

 そして、目の前の小さな悪魔が等身大のハンサムなおじ様に変身した。悪魔が赤い目を細めて微笑む。魅力的な笑顔に年甲斐もなくときめいてしまいそうだ。漆黒の三つ揃えも色っぽい。

 周りはいつの間にか黒一色に塗りつぶされていた。


「私と結婚しましょう。面白そうなので」


「はい?」


 おじ様悪魔は私を抱き起こして、怪しげな黒い指輪を左手薬指に嵌めてしまった。

 触ってみるが取れない。


「ペットの首輪?……それとも何か呪いのアイテムでしょうか」


 私の行き着く先は花嫁という名の愛玩動物か、人間サンドバッグか。

 いやしかし、捨てた命だと思った瞬間から、重りを仕込んだ服を脱ぎ捨てたように心が軽い。心のままに軽口を叩くことにした。


「それにしても、私のことをもらってくれるんですか?ありがとうございます。あ、素敵な旦那様振りを期待してますね。でもプロポーズが酷すぎるのでやり直しを要求します」


「吹っ切れましたか?ますます遠慮がなくなってきましたね。面白いから良いですが。いやあ、退屈しなさそうだ。良い拾い物でした」


「拾い物……」


「その感情も美味だ」


 悪魔は鼻歌でも歌い始めそうな様子で、私の膝裏に腕を差し入れて、すくっと立ち上がった。いわゆるお姫様抱っこである。この年でこんなことをされるのは恥ずかしすぎる。悪魔を見ると私の下がり眉を見て嘲笑っている。


「対価は……そうですね。私と同じ時間を共に生きてください。逃げようとは思わないことです。八十年など瞬きの間だったと思い知らせてあげましょう」


「根に持っていますね。でもプロポーズの言葉としてはポイント高いです。さっきより」


「目算が狂いました。生き続けなければならないことに絶望する顔が見たかったのですが」


「長いものには巻かれる主義です」


 私はどうやら悪魔と結婚することになってしまったようだ。しかも寿命を超越するらしい。


「それに、びっくりするぐらい長生きしても、きっと一人で過ごす人生より楽しいでしょう。私、中嶋陽子と申します。不束者ですがよろしくお願いいたします」


「あなたという人は……。警戒心はないんですか?これからは悪魔に安易に名前を教えないように」


 笑い掛けると、呆れた声音をしつつも、悪魔は複雑そうな微笑みを返してくれた。


「もうごっつい輪っかが薬指に付いてしまったので、いいと判断しました。ところで悪魔社会では夫婦同姓なんでしょうか。私、もしかしてとうとう中嶋さんじゃなくなってしまいます?」


「何で嬉しそうなんでしょうか?因みに夫婦別姓です。私のことはネビロスとお呼びください」


「呆れた目を向けられました。ネビロスさんは知らないからそんな目で私のことを見られるんですよ。ヤマドリと言わないと『島』を書かれてしまう悲哀を!でも一度、山冠の『嶌』にも書き間違われたんですよ!」


「何の話ですか……。恐らく今後、名字の漢字を教える機会はないと思いますよ。…というか、キャラ変わっていませんか?」


「それは確かに。…そして、こちらが素なのです。あの、傷付くので面倒くさそうな顔をしないでくださいませんか?」


 このようにして、私は自死に失敗し、人生最大の転機を迎えることになったのだった。


お読みくださりありがとうございました。

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