ランプを点けておく
テレビは昭和末期も今もマスメディアの中心だ。
物心ついた頃から、家にはテレビがあった。NHKの「おかあさんといっしょ」や学校向け番組は、今でも続くロングラン番組であり、幼稚園に入る前までは家でよく見ていた。当時、テレビは一家庭に1台が普通で、子ども部屋にテレビがある家はうらやましかった。
当時のテレビは真空管を使ったブラウン管テレビで、今主流の薄型テレビよりもずっと小さく、画面は丸みを帯びていた。母に聞くと、私を妊娠した頃に買ったものだというから、昭和50年か51年の購入になる。当時のテレビは、スイッチを入れてもすぐには映らなかった。ブラウン管テレビには「予熱」が必要だったのである。
記憶が正しければ、うちのテレビは音量つまみを少し回すと緑色のランプが点いた。これが予熱中の印だった。そして、しばらくしてからつまみを引っ張ると電源が入る。見たい番組があるときは、5分ほど前から予熱をしておかねばならない。我が家ではこれを「ランプを点けておく」と言っていた。ランプを点け忘れて番組が始まってしまうと、つまみを引っ張っても画面は映らない。しばらくして、ようやく像が浮かび、2、3分かけて安定する。あの待ち時間に、子ども心にやきもきしたことをよく覚えている。チャンネルも音量も、予熱も、とにかく「回す」操作が多いテレビだった。
その後、待機電力によって常時予熱する方式が主流になり、スイッチを入れればすぐに映るようになった。しかし地上デジタル放送への移行後は、受像器側での処理が必要になり、再び一瞬の待ち時間が生まれた。とはいえ、数秒程度である。今、その数秒に少しだけやきもきしながら、「昔のテレビはこんなものではなかったな」と思いをはせている。
自宅にはなかったが、白黒テレビも見たことがある。ある年の年末、叔母の家で「見たことある? 白黒テレビだよ」と言われ、紅白歌合戦を見た。亡くなった祖父の妹が使っていたものらしい。日本のカラー放送は昭和35年に始まり、白黒での制作番組は昭和52年に終了している。しかしカラー放送ではNTSC方式が採用され、輝度信号と色差信号を分けて送信していたため、白黒テレビでも輝度信号だけを受信して番組を見ることができた。テレビ番組で黒柳徹子が、カラー放送開始の日に期待してテレビを見ていたら白黒のままで、「何だ、色がついてないじゃない」と言ったという話をしていた。受像器が白黒テレビだったからだ。白黒テレビは平成23年のアナログ放送停波まで視聴可能だったが、叔母の家のテレビはその前に壊れてしまったらしい。
昭和末期のテレビ番組で、今思い返してもすごかったと思うのが、TBSの「8時だョ!全員集合」と、日本テレビの「アメリカ横断ウルトラクイズ」である。前者は生放送の公開お笑い番組、後者は誰でも参加でき、勝ち進むとアメリカ大陸を横断しながらクイズに挑戦するという、スケールの大きな番組だった。当時は視聴者参加型の番組が多かった。
「8時だョ!全員集合」は毎週、各地の劇場やホールで公開収録を行っていた。当時は「コント」ではなく「お芝居」と呼ばれており、舞台芝居をそのままテレビで放送していたのである。最大視聴率は50.5%。末期とはいえ、私が小学校に入学した頃でも平均視聴率は20%を超えていた。学校では番組のネタが当たり前のように通じ、掃除の時間には、多くの小学生が、手のひらにほうきを逆さにして乗せて歩いたり、水を入れたバケツを振り回したりしていた。
いかにこの番組がお化け番組だったか。今では全国的に「最初はグー」と言ってからじゃんけんを始めるが、これもドリフターズが昭和56年に「ジャンケン決闘」というネタで使ったのが始まりだという。それまでは地方ごとに掛け声が違い、遠方の親戚とじゃんけんをするとタイミングが合わなかった。これ、本当の話である。
そんなテレビのある生活は、昭和59年に突然終わった。母がNHKの集金に腹を立てて、テレビを撤去してしまったのだ。小学校1、2年の担任が「家にテレビがない」と言っていたのを聞き、「そんな家もあるのか」と思っていたが、まさか我が家がそうなるとは思わなかった。
意外なことに、テレビのない生活にはすぐ慣れた。生まれた時間を他のことに使えるようになり、結果として時間の節約にもなった。その感覚のまま、大学に入って一人暮らしを始めても、テレビは購入しなかった。
お化け番組「8時だョ!全員集合」は昭和60年に、「アメリカ横断ウルトラクイズ」は平成4年に終了した。テレビ撤去の原因となったNHKの集金人も、令和5年に原則廃止となった。




