和文タイプライター
今や学校のプリントはパソコンで作り、印刷機で刷るのが当たり前になった。だが、我々が小学生だった頃、パソコンはまだ一般的ではない。あったとしても、自分でプログラムを組むのが当たり前の時代で、ワープロソフトなど存在しなかった。それでも低学年の頃の担任は、毎週のように学級だよりを出していた。当然、すべて手書きである。では印刷はどうしていたのか。
初代リソグラフが登場したのは昭和55年。出たばかりの機械が各校に配備されていたのだとすれば、私が入学した頃には、テストやプリント作りに活躍していたのだろう……と思いたい。
小学3年生の時の担任は、クラスだよりをワープロで作っていた。この頃はワープロ専用機がブームになり始めた時代である。調べると、その年の平均価格は16.4万円。廉価版でも、小学校教師にとっては決して軽い出費ではなかったはずだ。しかし、手書きのプリントに混じって活字の紙が配られるだけで、ずいぶん格好良く見えた。ようやく漢字が“機械で扱える”ようになり始めた時代だった。
平成に入り、中学生になる頃にはワープロ専用機を持つ先生も増えていた。とはいえ、試験問題はまだ手書きが多い。若い先生はAI辞書や自動短縮変換を搭載したシャープの「書院」を持ち込み、自慢げに使っていた。同じ頃、年配の先生の中にも活字で試験を作る人がいた。何を使っていたか分かるだろうか。
和文タイプライターである。
2000字以上が並ぶ配列ボードから目的の文字を探し、トリガーボタンを押す。活字箱から文字が拾い上げられ、インクリボンを介して紙に打ち付けられる。一文字ずつ探し、打ち、また探す。当然ながら、配列を知らなければ使えない。一文字ずつ探しているはずなのに、探しているようには見えない。こぼれた豆を拾うように、ぱっぱっと文字が選ばれていく。そこには熟練の技があった。
配列にない漢字は、予備の活字箱からピンセットで差し替える。本体はデスクトップパソコンよりも大きく、2000以上の活字を抱えた重量級の機械だった。
なぜかそれは放送室に置かれていた。年配の先生が迷いなく文字を選び、正確に打ち込んでいく様子は、まさに職人芸。キーボードを叩くより、よほど格好良かった。
ちなみに紙も今のような真っ白なコピー用紙ではない。わら半紙という、少し黄色がかった薄手でざらつきのある紙であった。藁と名が付くが実際に藁が入っているわけではなく古紙を再生した紙で、手触りは新聞紙に近い。私が就職した頃はまだ健在で、これを何百枚と数えると手の脂が取られるのか、指先の皮膚が割れてきて痛かった。しかしコピー機やレーザープリンタとは相性が悪く、コピー用紙の低価格化もあっていつの間にか姿を消した。
昭和の終わりまでは、タイプライターにも資格があったという。
後年、県庁に就職したとき、年配の先輩から聞いた話がある。昔は文書課に「タイピスト」という職がいて、原稿を持っていくと清書してくれたのだそうだ。すでに一人一台パソコンの時代。先輩はぽつりと言った。
「あんなにたくさんいたタイピストの人たち、どうしたのかなぁ。」
私が稼働している和文タイプライターを最後に見たのは平成25年。免許センターの交通安全協会に、会員証の名前を打つためだけに一台だけ残っていた。たった一行の名前でも、配列ボードから素早く文字を選ぶ動きは見事だった。私はそれを見たいがために、交通安全協会に加入していた。
「昔はたくさんあったのに、これが最後の一台ですよ。」
寂しそうに話した係の女性が印象に残っている。
その最後の一台も、元号が令和に変わると姿を消した。私は交通安全協会を辞めた。




