【006】夜会の真実(前編)
婚約披露の夜会当日。王宮の大広間は、国内外の貴族や要人で埋め尽くされ、豪華絢爛な光に満ちていた。しかし、この輝きの裏で、一世一代の大芝居が始まろうとしていた。
レティシアは、アベルが調合した『一時的に体調の悪化を偽装する薬』を飲んでいた。顔色は青白く、額には薄っすらと汗が滲んでいる。まるで、毒の進行により衰弱しきっている病人のようだ。
「……アベル。私の演技、いかがかしら?」
玉座に向かう直前、レティシアは影で控えるアベルに、弱々しい声で囁いた。
アベルは、普段通りの冷徹な表情を崩さず、彼女の手をそっと握った。
「完璧です、レティシア。貴方の演技は、病という名の毒を纏った最高のヒロインです。ですが、忘れないでください。貴方の命は、もう毒ではなく、私の愛の契約が守っている」
レティシアは、アベルの言葉を心の支えにし、玉座へと向かった。
玉座に座るレティシアは、美しくはあるが、明らかに憔悴している。隣には、早くも勝利を確信したような笑みを浮かべるフレデリック王子。
レティシアの様子を見た貴族たちは、ひそひそと囁き始めた。
「やはり、王女殿下はもう長くない」
「病は想像以上に重いようだ」
その囁きは、フレデリック王子とバルトス公爵にとっては最高の音楽だった。
夜会の進行役を務めるバルトス公爵が、わざと重々しく口を開いた。
「皆様、ご紹介いたします。このルミナス王国と、隣国アトリア王国の輝かしい未来を結ぶ、フレデリック王子殿下です」
大きな拍手が起こる中、フレデリック王子はレティシアの隣で、傲慢な笑みを隠そうともしなかった。
「レティシア。体調が優れないのは重々承知している。だが、王室の義務を果たせ。今日の夜会が、私たち二人の最後の公務になるかもしれぬのだからな」
その言葉の裏には、「お前はすぐに死ぬ」という明確な侮蔑が込められていた。レティシアは、必死にこみ上げる怒りを抑え、仮面を貫いた。
そして、フレデリック王子がスピーチのために立ち上がった。
「国民の皆様。王女殿下は、残念ながら病に冒されていますが、私も含め、王室は全力を尽くしています。しかし、天命には逆らえません。万が一の際は、私がルミナスの王配として、この国を隣国と協力し、より『安定した形』へと導くことをお約束いたします」
より『安定した形』とは、レティシアの目指す身分制度の改革を廃止し、公爵派と結託して国を牛耳るという意味だ。
フレデリック王子のスピーチが終わると、バルトス公爵が、満を持してレティシアに近づいた。
「王女殿下。まことにお辛そうでございます。ですが、これが最後の公務になる前に、王国の安定のため、フレデリック殿下との正式な婚約文書への署名を、今ここでお願いできますでしょうか?」
公爵は、憔悴したレティシアに署名させることで、彼女の死後、すべての権力を合法的に掌握するつもりだった。
レティシアは、目の前に突きつけられた豪華な羊皮紙を見た。署名すれば、すべてが終わる。アベルとの契約も、彼女の命も、国の未来も、闇に葬られる。
彼女は、ペンを握る手に力を込めた。指先が微かに震える。
フレデリック王子はニヤリと笑った。
「さあ、レティシア。さっさと署名しろ。これが、お前の最後の義務だ」
屈辱。絶望。怒り。レティシアの瞳の奥で、感情が激しく渦巻いた。しかし、彼女は玉座の影、大広間の隅で、自分を見つめている一人の男の視線を感じた。
アベル。彼の冷静な、しかし愛に満ちた視線が、レティシアに力を与えた。
(まだだ。アベルは、必ず真実を連れてくる)
レティシアは、ペンを羊皮紙の上に乗せた。そして、震える手でゆっくりと、署名を開始しようとした──その瞬間。
「お待ちください。王女殿下は今、毒によって判断力を失っています」
大広間の隅から、静かな、しかし空間全体を凍りつかせるような声が響いた。スポットライトが、ひっそりと立っていた異端研究官、アベルを照らし出した。




