【004】愛の告白と、心の壁の崩壊
レティシアが部屋を去った後、アベルの心は激しく波打っていた。彼女の『愛の契約』の告白が、彼の胸を熱く焦がしていた。
アベルは、調合台にもたれかかり、深い溜息をついた。
(私は、彼女の命を救う契約者だ。それ以上にはなれない)
彼の拒絶は、傲慢さからではない。それは、レティシアへの真摯な愛と、身分差という現実に根差していた。貧民街育ちの彼は知っている。王女が平民と結ばれることが、どれほどの政治的混乱と、レティシア自身の立場を危うくするかを。
愛しているからこそ、彼は距離を置かなければならない。それが、王女を守る唯一の方法だと信じていた。
その時、静かに扉が開いた。そこに立っていたのは、私服に着替えたレティシアだった。彼女は、先ほどの公務の装いでも、病人でもない、ただ一人の女性の顔をしていた。
「アベル。なぜ、私を拒むの?」
彼女の声は震えていた。
「殿下、もうお休みください。治療に必要な安静が取れていません」
アベルは視線を合わせようとしない。
「王女としてではなく、一人の女として尋ねているわ。貴方の心の壁は何? 私は、貴方が私を愛していないとは思えない」
レティシアはアベルの実験台の横に立ち、その手を取った。
「私が貴方を愛しているのは、貴方の知識や力だけではない。貴方が、貴方の知識以外に何も持たない、最下層の出であることを、決して卑下しないその魂よ」
レティシアの言葉が、アベルの心の奥深くにあった重い扉を叩いた。彼は静かに口を開いた。
「私が子供の頃、流行り病で両親を亡くしました。私は知識を頼りに薬を作り、貧民街で生きてきた。しかし、私がどれだけ命を救っても、貴族たちは私を『汚らわしい野良犬』と呼んだ。私の命と存在は、この身分制度の下では塵同然だった」
アベルは、レティシアからそっと手を離し、自嘲的な笑みを浮かべた。
「貴方は太陽です。私は、その太陽の足元にいる影。影が光に触れれば、貴方の光は汚れる。私は、貴方を心から愛しているからこそ、貴方の隣で、貴方の光を曇らせるわけにはいかない」
レティシアは、アベルの過去の痛みを知り、涙ぐんだ。彼女は、アベルの心を縛っているのは、彼女への愛と、その愛を守ろうとするあまりの自己犠牲だと理解した。
「馬鹿ね、アベル。貴方は、私の光を曇らせる影ではないわ」
レティシアは、ためらうことなくアベルを抱きしめた。初めて、王女の抱擁がアベルを包んだ。
「貴方の知識が、私の命という光を守った。貴方の魂が、私の心の闇を照らしてくれた。貴方は、私がこの世で最も頼りにする、そして最も愛する、私の希望よ」
「貴方が傍にいることが、私の光を強める唯一の方法よ。だから、もう、私を拒まないで」
レティシアの真っ直ぐで偽りのない愛の言葉に、アベルの硬く閉ざされていた心の壁は、音を立てて崩壊した。
彼は、もう身分も地位も、過去の傷も気にしなかった。ただ、この腕の中にいる、愛する女性の笑顔だけを求めた。
アベルは、レティシアの華奢な体を強く抱きしめ返した。
「……レティシア。私の人生と知識、そのすべてを貴方に捧げます。私の愛も、この国の改革も、すべて貴方のためにある」
「では、改めて契約よ」
レティシアは顔を上げ、涙の跡が残る瞳で微笑んだ。
「公の契約に加え、私たちだけの、愛の契約を。私は貴方の唯一の愛の伴侶となり、貴方は私の唯一の希望となる。この契約は、この命が尽きるまで、絶対に破らない」
アベルは、彼女の言葉が真実であることを示すように、レティシアの唇に静かで、深い誓いのキスを落とした。身分も地位も関係ない、魂と魂が結びついた瞬間だった。
「私の命の対価は、貴方の笑顔です。この契約が、私の生きるすべてです」
二人の秘密の愛の契約は、夜が明ける前に静かに成立した。翌日からは、アベルは公には『異端研究官』として、裏では『王女の愛の契約者』として、レティシアを守るための探偵活動に、さらに情熱を注ぐことになる。




