【002】治療と、心の奥の壁
王宮の奥、秘密の離宮に設けられたアベルの研究室は、通常の宮廷錬金術師の研究棟とは一線を画していた。壁には薬草ではなく元素の周期表のようなものが貼り付けられ、器具は最新のガラス製だ。
アベルは、レティシアの血液のサンプルを特殊な触媒と反応させ、試験管の中の色調の変化を観察していた。
「……やはり、解毒には時間がかかります。殿下の体内に蓄積された金属錯体は、通常の薬草では分解できません」
彼はレティシアに背を向けたまま、淡々と報告する。レティシアは、治療のために用意された簡素な寝台に横たわり、アベルの集中した横顔を静かに見つめていた。
「わかっているわ。貴方の薬が、私にとって唯一の希望よ」
「希望だけで治るなら、私の知識は不要です。これは、化学に基づいた治療です」
アベルの口調は常に冷静だ。彼は、レティシアを「王女」ではなく、ただの「患者」として扱っている。それは、アベルにとって身分差を無視する唯一の方法であり、レティシアにとっては仮面を外せる唯一の空間だった。
治療は痛みを伴う。アベルが調合した解毒剤は苦く、飲むと体内で毒と薬が激しく反応し、倦怠感と吐き気が襲う。
「ふぅ……」
レティシアがわずかに顔を顰めたのを見て、アベルは手を止めずに言った。
「我慢してください。痛むのは、毒があなたを離れたくないと抵抗している証拠です。この苦痛に耐えれば必ず治ります」
「……ええ。貴方が、私の体内の毒を正確に把握しているから、怖くはないわ」
アベルの論理こそが、彼女の信頼の基盤だった。
治療後、アベルはレティシアのためにハーブティーを淹れた。これは、苦い薬の後に残る口内の不快感を和らげるために、彼が特別にブレンドした薬草茶だ。
「貴方は、本当に爵位や金に興味がないのね」
レティシアが温かいカップを両手で包みながら尋ねた。
「ええ。貧民街で生きていればわかります。金や地位は、人の命を奪う毒になる。私が欲しいのは、その毒のない、平等な社会です。そのための道具として、貴方との契約を選んだ」
レティシアはハッとした。彼は、自分の命ではなく、この国の未来を対価に選んだのだ。
「貴方がこの国を救ってくれたら、私は約束を果たすわ。身分制度の改革は、私が長年望んできたことでもある。だけど、アベル……」
レティシアは視線を落とした。
「貴方は私を、王女としてだけでなく、一人の人間として見てくれている。なのに、どうして私に、心まで開いてくれないの?」
アベルはゆっくりと振り返った。彼の黒曜石のような瞳は、真っ直ぐにレティシアを見つめる。
「レティシア。私は、貴方を一人の人間として尊敬しています。しかし、私には貴方を愛する権利がない。私は貴方の契約相手であり、最下層の出だ。貴方を守るために、私は感情に流されるわけにはいきません」
彼の言葉は、彼自身の心の壁を物語っていた。身分差は、彼にとって乗り越えられない、絶対的な壁なのだ。
「……そう。わかったわ」
レティシアは寂しさを押し隠すように微笑んだ。しかし、彼女は諦めなかった。この冷たい壁を、必ず壊すと心に誓った。
その夜遅く。レティシアが寝息を立て始めたのを確認し、アベルは自身の実験を再開した。
彼は、レティシアの病状の原因となった「毒」のサンプルを、宮廷の公的な流通ルートから集めた薬草や食材と比較し始めた。しかし、反応はどこにも見られない。
「この毒は、特定の環境下、特定の人物しか使用できない特別なルートから持ち込まれたものだ」
アベルは、治療と並行して探偵としての推理を働かせていた。毒が蓄積する対象がレティシア王女のみであることから、犯人はレティシアの極めて身近な人物である可能性が高い。
そこで、アベルは一つの可能性に思い至る。
「王族が毎日使うもの。しかも、先代から受け継がれ、代替わりしても使われるもの……」
アベルは、レティシアの身の回り品を調べるため、離宮の護衛隊長に極秘裏に協力を求めた。
「隊長。明日、一つだけ王女殿下の食器を確認させていただきたいものがある。それは、殿下が最も大切にしているティーカップです」
アベルの頭の中で、事件の全体像が、化学反応のように明確になりつつあった。毒の根源を突き止めれば、自ずと黒幕が見えてくる。
(貴方の命を脅かす闇を、この私の知識で、必ず明るみに出す)
アベルは、ベッドで眠るレティシアの横顔を一瞥した。早く、彼女が心から笑える日を、自分の手で迎えたいと願っていた。




