87. 国語教師、美術部顧問になる(なぜ?)
ああ、もう、心臓が口から飛び出しそうだ。こんな状況、誰が想像できただろう。
プロローグ:あと一歩の楽園、そして教頭先生
「先生……」
彼の熱い吐息が私の耳朶をくすぐる。背中に回された腕が、私の薄いブラウス越しに肌の温もりを伝えてきた。理性の警鐘が鳴り響く。ここは職員室。しかも、残業で他の先生方がまだ残っている可能性だってあるのだ。頭の中では「だめだめだめ!」とサイレンが鳴り響いているのに、彼の視線に捕らわれると、体が鉛のように重くなる。
「だめ……生徒と先生なんて……」
蚊の鳴くような声で呟く私に、彼はさらに顔を近づける。彼の指が私の頬を優しく撫で、そのまま顎をなぞり、首筋へ。ゾクゾクと全身に電流が走る。ああ、このままでは本当にヤバイ。私の人生三十数年間、一度も経験したことのない「あと一歩」の扉が、目の前でゆっくりと開きかけている。
「でも、好きなんです。ずっと……」
その言葉と同時に、彼の唇が私の唇に触れた。柔らかく、それでいて情熱的な感触。とろけそうになる体を必死で支えていると、ガチャリとドアの開く音がした。二人同時にビクッと体を硬直させる。
恐る恐る振り返ると、そこには教頭先生の恐ろしくも満面の笑みが。いや、笑顔が怖いってどういうことよ。
「おや、中川先生。斎藤くんも、熱心だねぇ。先生に勉強を教えてもらっているのかね?」
教頭先生の目が、私たちを鋭く射抜く。私たちはお互いの手から火が出るんじゃないかってくらい慌てて距離を取り、何事もなかったかのように振る舞った。冷や汗が背中を伝う。ギリギリセーフ。いや、アウトに近いセーフだ。いや、アウトに片足突っ込んでた。
第一章:国語教師、美術部顧問になる(なぜ?)
私の名前は中川麻衣、34歳独身。しがない地方の高校で国語を教えている。生徒指導も担任業務もそれなりに頑張っているつもりだが、どうにも教頭先生には目をつけられているようだ。「中川先生は覇気が足りん!」「もっと生徒を厳しく指導せんか!」と、会議のたびに公開説教を食らうのがお決まりのパターン。胃に穴が開きすぎて、もはやブラックホールになっているんじゃないかと疑っている。
そんな私の日々のストレスに、追い打ちをかける存在がいた。それが、美術部。いや、美術部そのものではない。美術部の顧問という役目だ。私は国語教師。絵の才能なんてミジンコレベルだし、美術の知識も皆無。なのに、なぜかこの私が美術部の顧問なのだ。理由は簡単。他の先生方が「自分が顧問になったら美術部が滅びる」とでも言いたげに、軒並み辞退したから。
部員はたった3名。しかも、実質活動しているのは1年生の斎藤くんだけ。他の2名は幽霊部員もいいところで、年に数回顔を見せる程度だ。その斎藤くんがまた、曲者なのだ。絵の才能は認める。だが、やたらと私に絡んでくる。
「先生、今日の髪型、天使の輪ができてますね」
「先生、そのブラウス、先生の優しい雰囲気にぴったりです。ええ、まるで聖母マリア様のように……」
教室移動中、昼休み、職員室前。隙あらば褒め言葉(?)の嵐。最初は「あらあら、斎藤くんもしかして天然さんかしら?」くらいに思っていた。それがだんだん、様子がおかしいことに気づき始めたのは、ある日の放課後だった。
美術室で、斎藤くんは真剣な眼差しでキャンバスに向かっていた。私はいつものように、部誌に目を通すふりをしながら時間をつぶしていた。すると、彼が突然、絵筆を置いて私の方に振り向いた。
「先生」
「な、何?」
その真剣な顔に、思わず背筋が伸びる。
「先生のこと、好きです」
は? 聞き間違いか? 耳掃除、怠ってたかな? いや、まさか、そんな馬鹿な。
「あの、斎藤くん、今、なんて……?」
「だから、好きなんです。中川先生が。生徒と先生なんて関係ありません。僕は真剣です!」
彼はまっすぐ私の目を見つめ、繰り返した。その瞳に嘘偽りのない感情が宿っているのがわかる。いや、わかるけど! 生徒と先生だぞ! ありえないから!
「な、何を馬鹿なことを言っているの! 生徒と先生よ!? ありえないでしょ!」
「そんなことないです! 僕は真剣です!」
それからというもの、彼の告白はエスカレートしていった。毎日、毎日、会うたびに「好きです」の猛攻。断っても、断っても、諦めない。休み時間には教室までやってきて、私の机の周りをうろつく。時には、生徒たちの前で堂々と「先生、愛してます!」と叫んだりもした。そのたびに、クラスの生徒たちが「ヒューヒュー!」とはやし立て、私は顔を真っ赤にして彼を追い出す羽目になった。まるで、私が彼に告白されたいとでも思っているかのように! いや、思ってないから!
教頭先生からは「中川先生、生徒との距離が近すぎませんか? けじめは大事ですよ!」とまたしてもお小言を頂戴した。いや、あんたの孫みたいな子に告白されて、どうけじめをつければいいんだ!
第二章:まさかのヌードデッサン事件、勃発
ある日の放課後、いつものように美術室で彼の「好きです」攻撃をかわしていた時のことだった。
「先生、僕、どうしても描きたい絵があるんです」
斎藤くんが、いつになく真剣な顔で言った。いつものチャラついた(?)告白とは違う、切羽詰まったような表情だ。
「どんな絵なの?」
「ヌードデッサンです」
ヌードデッサン。思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。まさか、まさかだよね?
「は? ヌードデッサンって、まさか……」
「はい。先生のヌードを描きたいんです」
耳を疑った。正気か、この子。生徒が、先生の、ヌードを? そんなこと、絶対にあってはならないことだ。教師の倫理、いや、人としての倫理に反する!
「何を馬鹿なことを言ってるの! そんなことできるわけないでしょう!」
即座に拒否した。しかし、彼は普段の軽いノリとは一転、鬼気迫る表情で私に懇願してきた。その顔は、まるで「この絵を描かなければ死ぬ!」とでも言いたげな、切実なものだった。
「お願いです、先生! これを描かないと、僕、前に進めないんです! 先生の存在が、僕の創作意欲を掻き立てるんです! 先生の全てを、僕のキャンバスにぶつけさせてください!」
彼の真剣な、あまりにも真剣な眼差しに、私はだんだん押され気味になっていった。押しに弱いのは、私の悪い癖だ。昔から、友達に「これ、ちょうだいー」「これ、買ってー」と言われると、たとえ嫌でも断りきれないタイプだった。これでもう34歳になるのに、全然成長していない。
「……誰にも、絶対言わないの? 描いたってことも、私がモデルだってことも、誰にもよ?」
「はい! 誓います! 神に誓って、誰にも言いません!」
「絶対に、私をモデルにしたってバレないようにする?」
「もちろんです! 誰も知りません! 秘密のデッサンですから!」
「……本当に、絵のためだけなの?」
「はい! もちろんです! 先生の芸術的な美を、僕の魂で表現したいんです!」
疑念は尽きなかったが、彼のあまりの熱意に、ついに私は根負けしてしまった。あぁ、なんて自分は馬鹿なんだ。
「わかった……わかったわよ! でも、本当に絵のためだけよ! 絶対に、誰にも言っちゃだめだからね! 冗談でも言ったら承知しないわよ!」
かくして、私の人生最大の(多分)愚行が始まった。美術室のカーテンを閉め切り、鍵をかける。冷たい空気が張り詰める中、私は震える手で服を脱ぎ始めた。自分の子供と言ってもいい年齢の生徒の前で、生まれてこのかた誰にも見せたことのない体を晒す。これほど変な気分になったことはない。羞恥心で顔が真っ赤になり、心臓が爆発しそうだった。
彼は真剣そのものだった。私の体が露わになっても、目をギラギラさせるわけでもなく、ただひたすらにキャンバスに向かっていた。その集中力は、まさしく芸術家のそれだった。私は羞恥と戸惑いと、ほんの少しの好奇心がないまぜになった複雑な感情で、彼の筆の動きを見つめていた。まるで、私が彼の描く「作品」の一部になったかのような、不思議な一体感さえ感じた。
デッサンは数日かけて完成した。彼の描いた私は、確かに私だったが、同時に私の知らない、内なる輝きを放っているようにも見えた。それは単なるヌードデッサンではなく、私の魂が剥き出しにされたような、そんな絵だった。
第三章:衝撃の受賞と、無職の私、そして故郷へ
斎藤くんは完成した絵を、大事そうに抱えて帰っていった。私は、これでようやくこの悪夢のような日々から解放される、と安堵した。まさか、その絵が、私の人生を大きく変えることになろうとは、その時の私は知る由もなかった。
数ヶ月後、校長室に呼ばれた。校長先生と教頭先生が、なぜか浮かない顔で私を見つめている。嫌な予感がした。私の胃のブラックホールが「ズズズ……」と音を立てる。
「中川先生、これを見てください」
校長先生が差し出したのは、美術展の図録だった。そして、そのページの真ん中には、大きくカラーで印刷された彼の絵が! しかも、特選! タイトルは「誕生」!
「これは……」
言葉を失った。そして、その絵の下に小さく書かれた説明文に目をやると、さらに心臓が止まりそうになった。
『モデルは、私の人生の転機を与えてくださった恩師、中川麻衣先生』
バカ! バカバカバカ! 誰にも言わないって約束したじゃないか! これが彼の言う「誰にもバレない」なのか! 全国にばらまかれているじゃないか!
「中川先生、これは一体どういうことですか! 生徒と不適切な関係を持ったという噂が広まっていますよ! あなたは教師としての倫理観を欠いている!」
教頭先生の怒声が、私の耳を劈いた。そこからはもう、怒涛の勢いだった。学校には保護者からの苦情が殺到し、私の名前は瞬く間に知れ渡った。「ヌード教師」という不名誉なあだ名までついてしまった。新聞にも掲載され、テレビでも取り上げられた。私は学校に行けなくなり、結果的に自主退職という形で学校を去ることになった。全ては、彼の絵のせいだ。あの絵のせいで、私の教師人生はあっけなく幕を閉じたのだ。
故郷の田舎に帰った私は、しばらくの間、心を閉ざして暮らした。友人たちからの連絡も無視し、実家の部屋に引きこもった。あの絵のせいで、私の全てが崩れ去ったような気がした。
しかし、いつまでも塞ぎ込んでいるわけにはいかない。仕事をしなければ。私は教師という仕事が好きだった。子どもたちと関わるのが好きだった。一念発起し、別の地方の高校に教師として再就職した。今度こそ、平穏な日々を送りたい。そう心に誓った。
第四章:5年後の再会、そして運命の女に
それから5年が経った。私は39歳になっていた。相変わらず彼氏はいない。地元に帰ってきてからは、母の勧めで何度かお見合いもしたが、どうにも縁がない。年々、結婚への焦りは募るばかりだ。生徒たちからは「中川先生、彼氏いないんですか?」「クリスマスも一人ぼっちですか?」と無邪気に聞かれ、そのたびに「大きなお世話だ! 授業に集中しろ!」と返している。泣きたいのはこっちだ。
新しい学校での生活にも慣れ、平穏な日々を送っていた。過去のことは、遠い記憶の彼方に追いやられたはずだった。そんなある日の朝、私は職員室で驚きの光景を目にした。
「今日から着任する新任の先生を紹介します」
校長先生の言葉と共に、職員室のドアが開く。そこに立っていたのは……。
「斎藤です。教科は美術です。よろしくお願いします」
斎藤くんが、そこに立っていた。スーツをビシッと着こなし、以前よりもずっと大人びて、精悍な顔つきになっていた。あの頃のやんちゃな面影を残しながらも、彼の成長ぶりに私は言葉を失った。彼は私の方を見て、ニヤリと笑った。
心臓が、ドクンと大きく鳴った。まさか、こんなところで彼と再会するとは。しかも、同じ学校の、同じ教師として。これも、運命のイタズラなのだろうか。
斎藤くんは、挨拶が終わるやいなや、まっすぐ私の元にやってきた。周りの先生方がざわつく中、彼は涼しい顔で私に言った。
「先生、迎えに来ましたよ」
「は? 何を言ってるのよ……」
「先生が僕のモデルになってくれたおかげで、僕は美術の道に進む決心がつきました。あの絵は、僕にとって先生からの最高のプレゼントでした。そして、先生を追いかけて、ここまで来ました」
周りの先生方の好奇の目が、私たちに突き刺さる。私は顔から火が出そうになった。まさか、この場で「ヌードデッサン」の話を蒸し返す気じゃないでしょうね!?
「斎藤先生、冗談はそこまでにして……」
「冗談なんかじゃありませんよ、先生。僕は、先生と再会するために、この5年間、必死で頑張ってきたんです」
彼は、私の手を取り、そのまま強引に職員室を出て行った。私の抵抗も虚しく、彼は私の手を決して離そうとしなかった。握られた手から、彼の熱が伝わってくる。
廊下を歩きながら、私は彼に文句を言った。
「な、何してるのよ! みんな見てるじゃないの! 私の人生を台無しにしたあなたに、今更何の用があるっていうのよ!」
「台無しにしたのは僕じゃないですよ。先生を本気にさせたのは、僕の絵の力です。僕の絵が、先生の内に秘められた感情や、普段は見せない「本音」のようなものを引き出せたと感じています。僕の絵は、描かれている人の本質や魂に迫り、それを表現する力があるんです」相変わらず、彼は私の心を揺さぶる術を知っている。
「あの絵が先生の人生の転機になっただけのこと。それに、先生、全然変わってない。相変わらず素敵だ」
彼の言葉に、なぜか胸がキュンとした。こんなふうに、私の心を揺さぶるのはいつも彼だ。
彼は私を屋上へと連れて行った。そこは、生徒たちが普段立ち入らない場所で、人気がなかった。冷たい風が、火照った頬を撫でる。
「先生、僕はもう生徒じゃありません。先生も、僕の先生じゃありません」
彼の瞳が、私を射抜く。その瞳には、かつての幼さが消え、男としての強い意志が宿っていた。私は、その視線から逃れることができなかった。
「僕は、先生を諦めない。あの時、先生は僕の絵のモデルになってくれた。あれは、僕にとって先生からの最高のプレゼントだった。だから今度は、僕が先生に最高のプレゼントをあげたい」
彼は私の肩を抱き寄せ、そして、真っ直ぐに私を見つめた。
「先生、僕の女になってください」
その言葉に、私は言葉を失った。5年前の出来事が走馬灯のように駆け巡る。あの時、私は彼によって人生を狂わされたはずだ。なのに、なぜだろう。彼の真剣な眼差しに、私の心は大きく揺さぶられていた。私の理性はもう限界だった。
抵抗しようとした。でも、できなかった。彼の腕が私を強く抱きしめ、彼の唇が私の唇に触れた。あの5年前の、あと一歩だったキスではない。それは、大人同士の、情熱的なキスだった。甘く、そして深いキス。
彼の強引さに、私は完全に負けた。彼の腕の中で、私は彼の女になった。私の人生は、この日、再び大きく動き出したのだ。
エピローグ:笑いと胸キュンの始まり
翌日、職員室では昨日からの噂が飛び交っていた。「中川先生と新任の斎藤先生が、やたらと親密だ」と。私たちは、堂々と手をつないで職員室に入っていった。周りの先生方がざわつき、教頭先生の顔は真っ青になっていた。
「中川先生! 斎藤先生! これは一体どういうことですか!」
教頭先生が怒鳴る。私は、斎藤くんと顔を見合わせてニヤリと笑って、彼の腕に絡みついた。教頭先生は、泡を吹いて倒れそうになっていた。彼の胃のブラックホールも、もうすぐ完成するかもしれない。
私たちの物語は、まだ始まったばかりだ。きっとこれからも、笑いと胸キュンの嵐が吹き荒れるに違いない。そして、きっと私と彼の関係は、教頭先生を生涯苦しめることになるのかもしれない。まあ、それも悪くないか。だって、私は今、最高に幸せなのだから。




