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名もなき剣に、雪が降る ― 厳島影譚  作者: 妙原奇天


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続き

第十五話 白い布の行方


 海は細く絞られ、峡湾へと変わっていた。両岸は切り立った岩壁で、海面は墨のように暗く、波はほとんど立たない。静けさは息苦しいほどで、鳥の声も風の囁きも遮られていた。

 舟を進めながら、矢野は背後の気配に気づいていた。追手だ。水音はわずかであったが、静まり返った峡湾では一滴の雫の落下すら響く。耳に届く度、胸の鼓動が同調するように早まっていく。

 沖田は舟の先端に立っていた。身体の動きはまるで波と同化するように滑らかで、剣を抜く気配すら見せない。それでも、矢野には分かった。彼は既に戦いの只中にある。呼吸の深さと、指先の微細な緊張が、それを告げていた。

「ここは狭すぎる。逃げ切れない」

 矢野が言うと、沖田は肩越しに振り返った。濡れた髪が頬に貼りつき、瞳は細く光っている。

「散る覚悟をするしかないですね」

 散る、という言葉には二つの意味があった。別々の道を選ぶこと。そして、命を散らすこと。

 矢野は唇を噛んだ。崖上に視線をやる。岩壁には狭い獣道のような道筋があり、そこから追手の影が覗いている。弓を構える者、石を投げ落とす者――峡湾の道は完全に狙われていた。舟の上で戦えば、一瞬で射抜かれる。

「俺が上へ出る。囮になる」

 矢野は櫂を放り、岩壁に取り付いた。指先が濡れた岩を掴み、足裏に冷たい苔が滑る。息を殺して登るうち、追手の影がより鮮明になっていく。

 沖田は舟を止め、海際に立ち尽くした。刀はまだ鞘に収まったままだ。彼の姿は、嵐を待つ鳥のように静かで、しかし研ぎ澄まされていた。

 矢野は崖の中腹に達し、追手の集団を正面に見た。彼らは驚き、一瞬矢野に狙いを集中させた。その隙に、沖田の動きが始まった。

 彼は鞘から刃を抜き、水平に構えた。刃は光を吸い、声なき線となって峡湾の狭間に走った。

 矢野は崖上からその姿を見下ろした。沖田が踏み出すたび、波がわずかに揺れる。崖の上の追手は矢野を狙いながらも、下方で閃く刃に気を取られ始めていた。矢野はそれを利用し、声を張り上げた。

「こっちだ! 俺を狙え!」

 岩を蹴り、さらに高く駆け上がる。矢野の声に導かれるように矢が飛んだ。矢羽が頬を掠め、岩に突き刺さる。火花が散った。彼はあえて身を晒し、追手の視線と矢を自分へ引きつけた。

 その間に――沖田は、動いた。

 矢野が崖上で矢を誘い、怒号と視線を自分へ集めた刹那――静止していた世界が、わずかにずれた。

 沖田が動いた。

 彼の歩幅は小さい。水際に沿って浅瀬の縁を踏むたび、足裏で波の起伏を受け止め、刃は終始、水平のまま保たれた。角度が変わらないということは、迷いがないということだ。斜めに振れば斬れるものも、水平に保てば、必要なものだけが切り分けられる。

 最初の一人は、矢を番えようとして指が震えていた。狙いは下がる。だから沖田は敢えて低く、波と同じ高さに身を沈めた。矢は肩越しに抜け、背の岩に乾いた音を残す。その音の中へ、彼は踏み込んだ。

 柄頭で弓の腹を打ち、弦が緩む音を聴き終えるより早く、横へ一歩。水平の刃は、息を吸う間にだけ触れ、男の重心を奪った。落ちかけた体が岩の斜面へもたれ、足を滑らす。海へ落ちた音は思いのほか軽く、泡の弾ける匂いだけが残った。

 次の二人は、岩伝いに駆け下りてくる。

 沖田は待った。待つあいだ、刃先がわずかに呼吸をするのが見えた。人差し指と中指の間に挟まれた空気が、さざ波のように刃を揺らす。間合いが合うや否や、彼は一人目の膝裏へ水平に触れ、同時にもう一人の喉元へは鞘で押しあてるに留めた。落とす者と、止める者――線引きは一瞬の判断だった。

 膝を折った男は、視界の端から海へ消えた。鞘を喉に受けた男は息を詰まらせ、よろけ、石の上に崩れた。沖田はその頭を支えて横向きに転がし、肺に水を入れない角度で置く。指先が、ほんの僅か温もりに触れている。

 矢の唸りが崖上から降りた。

 矢野の声が、風に切り刻まれながらも届く。

「こっちだ!」

 怒りは上へ――その分だけ、海際の殺気が薄れる。沖田は波の反射光に目を細め、岩肌の“濡れていない線”を見つけて跳んだ。さっきまで誰かが立っていた場所。踏み跡が乾きかけている。そこへ足を置けば、音は最小で済む。

 崖を伝って降りてきた男が、石を振りかぶる。沖田は一歩だけ退き、その影を水へ落とした。石は男の手から離れ、間の抜けた音を立てて沈んだ。男は水面で荒くもがき、やがて岩にしがみついた。

 助けられる者だ。

 沖田は彼の指のかかる出っ張りに足を置き、さらなる追手の進路だけを塞いだ。踏みつけはしない。ただ、そこに立っている。彼の体温が、冷えた岩を通じてわずかに伝わる。

 横から短剣の閃き。

 沖田は腕を締め、肘で受け、刃の平で払う。水平のまま保たれた線が、短剣の軌道をすうっと外へ滑らせ、相手の手首の力を削いだ。次の瞬間、柄で顎を打つ。歯の割れる音はしない。ただ呼気がひとつ、喉で跳ねた。男は膝を折り、座り込む。それ以上は追わない。

 戦いは短いはずだった。

 だが短い、というのは、切迫のうちに判断を加速させることを意味する。時間が伸び縮みする。沖田の世界では、瞬き一度の中に、五つの線が引かれ、三つの命が行き先を変え、二つの足音だけが残った。

 崖上で矢野がつまずいた。湿った苔に足を取られ、体勢を崩す。その隙を、弓手が見逃さない。弦が鳴る――その音と同時に、沖田は小石を拾い、水平に弾いた。

 石は斜めに立つ岩角に当たり、乾いた跳ね返りを二度繰り返して矢羽を叩いた。矢はわずかに軌道を失い、矢野の耳朶のはるか先へ抜けた。

 矢野が振り返る。見開いた瞳に、笑いとも涙ともつかない光が瞬く。

 沖田は応えない。応えず、ただ進む。

 岩の上で踏み替え、刃を水平に滑らせる。狙いは指だ。撓んだ弓の握りを持ち替えようとした瞬間の、硬くなった指節。そこを叩けば、弦は己で弛む。

 打つ音が二つ。落ちる音が一つ。

 落ちたのは弓で、男の体ではない。

 後方から駆け下りた別の者が叫ぶ。声は荒く、恐れが混じっている。沖田はその声の高低だけを聴いて、殺すべきかどうかを決める。

 叫びが命令へ変わる時、声は下がる。

 救いを請う時、声は上ずる。

 今の声は、そのどちらでもなかった。

 彼は、ただ人であった。

 ならば落とす。

 踏み込みは浅く、刃は衣だけを掠める。男は自分の体が斬られなかったことに驚き、足場を確かめる前に足を引いた。そこは空隙だ。岩と岩のわずかな段差が、彼の靴底を拒む。身体は傾き、重さが前へ流れ、海へ。

 水の音。

 沖田は振り返らない。

 矢野の側で、矢筒を持つ者が最後の一本を探っていた。指がもつれ、矢羽が抜けない。焦燥は、命より先に手元を殺す。沖田はそこへは行かず、代わりに矢野の真下の岩へ跳んだ。

「下だ!」と矢野が叫ぶ。

 沖田は頷き、刃を水平に、岩の縁へ置いた。

 弓手が狙いを付ける。

 その瞬間、沖田は刃で“音”を切った。刃が岩の角を擦り、澄んだ金属音が峡湾に満ちる。狭い地形では音が輪になる。輪は人の耳を惑わせ、距離感を奪う。矢は的を失い、岩へ吸い込まれた。飛沫が上がり、海は冷たく笑った。

 残った者たちは互いに顔を見合わせ、後ずさった。彼らはまだ戦える。だが、戦わないことを選ぶ可能性がある。

 沖田はそこで初めて、水平の刃先をほんの少し下げた。

 降ろすのではない。赦す位置まで、置き直す。

 そのときだった。

 崖の上の奥――見えない角度から、別の矢が飛んだ。

 狙いは沖田。

 矢野が息を呑む。叫ぶより早く、沖田は半歩、己の影へ入った。影は水に揺れ、揺れる影は、刃の影と重なる。影を切れば、音が出る。音が出れば、矢はわずかに揺らぐ。

 矢は肩の上を抜け、背後の岩へ。沈黙が戻る。

 静けさの芯で、沖田は呼吸を整えた。

 戦いは――短い。

 短いからこそ、取り返しのつかない決定が詰め込まれる。殺す者は、殺さねばならない。落とす者は、落とせばよい。止められる者は、止めればよい。

 いま、この峡湾で、彼が殺すべき者は、三人だけだった。

 一人は、指示を切り替え、恐怖を支配に変える目をしていた男。

 一人は、弦を引き絞る腕に迷いがない弓手。

 もう一人は――沖田自身の、過去。

 刃が水平のまま、静かに線を引いた。

 命は、刃の線より先へ進もうとして、しかし進まなかった。倒れる音は、岩のうえで短く途切れる。海は、受け取るべきものだけを受け取った。

 矢野が崖を駆け下りてくる。

 膝に泥がつき、頬に薄い傷がある。だが目は冴えていた。

「終わったか」

「終わりました」

 沖田は刃を払うでもなく、ただ水平から垂直へ、そして鞘へと戻した。雨は上がり、風だけが峡湾を渡っている。

 生き残った者たちは、じりじりと退いた。彼らは命令を待っている。命じるべき者がいないことに、やっと気づきはじめている。

 沖田は追わなかった。追えば、もっと殺せた。だが、殺さなかったのは、彼の剣がそう望んだからではない。

 ――矢野の呼吸が、今は、彼の剣よりも優先されるべき拍を刻んでいた。

 舟のほうで、波が小さく砕けた。

 沖田はそこで初めて、装束の袖口に指をやった。白は潮に濡れ、重く張りついている。

 彼は袖の縫い目を指先で探った。裂け目を作る動きは、まだ早い。だが、どこを裂けば“線”になるか、確かめておく必要があった。

 矢野が側に立つ。肩で息をしながら、崖上を見渡した。追手の影は遠ざかる。まだ完全に消えたわけではないが、いまは彼らの番ではない。

「……短かったな」

「短くしました」

「どこか痛むか」

「痛みは、あとでまとめて来ます」

 沖田は乾いた冗談のように言い、剣を腰へ収めた。

 矢野は笑って、すぐに真顔へ戻った。

「下へ降りる。舟を出せるか」

「出せる。潮はまだ背を見せている」

 そのとき、崖の奥で小さな音がした。

 岩と岩のあいだから、一本の白い細紐が滑り出す。誰かの腰に巻かれていたものが緩み、風に引かれ、海へ向かって伸びる。

 沖田はそれを見て、袖から指を離した。

 まだだ。

 裂く線は、もっと静かなところで引くべきだ。

 矢野が頷く。

「行こう」

 二人は水際へ戻り、舟の舷に手をかけた。

 背後で、誰かが小さく咳をした。彼らの命は落とされたが、まだ息はある。

 沖田は振り返り、倒れた者を横向けにして、喉の詰まりを避ける姿勢へ直した。指がもう一度、温もりを確かめる。

 矢野はその手つきを見て、何も言わなかった。言葉は褒めるに似合わず、赦すに似合わない。

 舟が水に入る。

 岩と水の境に、新しい線が一本引かれた。

 戦いの線ではなく、逃れるための線。

 彼らの行く先に、まだいくつもの線がある。いくつかは越えられ、いくつかは戻れない。

 沖田は櫂を握り、矢野は舟首に腰を落とした。

 峡湾の風は冷たく、しかしもう、刃の匂いはしなかった。

 水平に保たれたものは、刃から、呼吸へと移り、二人の胸の中で同じ拍を刻みはじめていた。

 峡湾を抜けた先に、小さな入江があった。潮の流れは穏やかで、波は砂を撫でるように寄せては返す。戦いの余熱が残る身体には、あまりにも静かすぎる景色だった。

 舟を引き上げると、二人は砂の上に腰を下ろした。矢野は額に汗を滲ませ、肩で息を整えている。沖田は黙ったまま、袖を解き、海風に晒した。白装束は血と潮で重く、ところどころに裂け目が走っている。

「……短い戦いだったな」

 矢野の声は、まだ息に追いついていなかった。

「短くしましたから」

 沖田はまたそれだけを言い、布の端を指で探った。

 矢野は目を細め、その動きを見ていた。沖田が裂こうとしているのは、装束の袖の一部だった。細く引けば、波に乗る布片となる。残すべきは形ではなく、痕跡だった。

「ここで?」

 矢野が問うと、沖田は首を横に振った。

「まだ。峡湾は近すぎます。追手が見れば、すぐに気づく」

「なら、いつ?」

「静けさが戻ったとき。……そのときが線です」

 二人はしばらく言葉を交わさなかった。波の音だけが耳に届き、空は淡い灰から青へと移り変わる。夜と朝の境目にあるその景色は、何かが終わり、何かが始まることを予感させていた。

 矢野は砂に指を走らせ、無意識に線を描いていた。水平の線、斜めの線、交わる線。戦いの余韻がまだ手に残っているのか、それとも沖田の刃が心に影を落としているのか、自分でも分からなかった。

「線って、不思議だな」

 呟きに近い声だった。沖田は視線を向ける。

「斬る線と、赦す線。越える線と、戻れない線。……お前は、どこに線を引く?」

 沖田は布を握りながら、わずかに微笑んだ。

「線は、あとから分かるものです。引いたときには気づかない」

「気づいたときには、もう戻れない」

「だから面白いんです」

 矢野は返す言葉を失った。だがその無言は、決して拒絶ではなく、同意にも似ていた。

 やがて沖田は、布を裂いた。

 乾いた音がして、白い布片が手の中で軽く震える。彼はそれを一瞥し、ためらいもなく海へ投げた。

 布片は波に揺られ、やがて沖へ流れていく。朝の光を受けて白く浮かび、やがて遠くの影と混ざり合った。

 矢野はその光景を黙って見つめた。胸の奥に、言葉にならない重みが沈む。やがて彼は小さく吐息を漏らした。

「……ここで、お前が死んだことにしよう」

 沖田は驚きもせず、ただ笑った。

「私は、よく死ぬ」

 そして短く間を置き、続けた。

「だが今は、生きていく」

 その言葉に、矢野は目を閉じた。布片はすでに見えない。残っているのは、二人の胸に引かれた線だけだった。

 海に流した布片は、波に揉まれながら光を失っていった。白は灰に近づき、やがて水の色へと溶けて消えた。ほんの少し前まで沖田の袖であったものが、今は「死んだ者の痕跡」として漂っている。その一瞬の変容を、矢野は凝視していた。

「ここで、お前は死んだ」

 矢野は重ねて言った。声は決して大きくはなかった。むしろ自分自身に言い聞かせるような響きだった。

 沖田は膝に肘を乗せ、唇の端をわずかに上げた。

「そうか。なら、またひとつ死んだわけです」

「軽く言うな」

「軽いんですよ、私にとっては。私はもう幾度も死んできました。名を捨て、顔を捨て、刃の重さだけを残してきた」

 矢野は砂を握りしめ、吐き出すように言った。

「だが今は、生きていくと言った」

「ええ。死んでみせることでしか生きられないこともあります。ですが――」

 沖田は目を細め、朝焼けを見上げた。

「今は、あなたといるから、生きていく」

 矢野の胸に熱が広がった。答えたい言葉はあった。だが声にすれば、縛りになる。だから彼は黙った。沈黙は、最も正確な返事になると知っていた。

 二人はしばし砂浜に座り、波の音を聞いた。世界のどこにも彼らの名は残らない。記録には載らず、伝承にも刻まれない。ただ布片ひとつが「死」の証として流されただけだ。だが、その抹消を二人は自ら選び、互いに背負った。

「私は、存在しなかった者になる」

 沖田が低く言った。

「俺もだ」

 矢野は応じた。

「そうして、お前の“死”を背負う。お前も、俺の“抹消”を抱け」

 沖田は振り返り、矢野の目を見た。その視線は澄んでいた。荒ぶる刃を持ちながら、その瞳には柔らかな光があった。

「名を持たない逃げ道を選ぶってことですね」

「ああ。名があれば追われる。名がなければ、風になる」

 二人は立ち上がり、舟を再び海へ押し出した。背後の峡湾は静かに口を閉ざしている。追手の影はもうなかった。だが、彼らの存在もまた、この土地から消えた。

 沖田は櫂を握り、矢野は舟首に腰を下ろす。朝の光が水面に乱反射し、舟の影を細く引き延ばしていく。

「行こうか」

「どこへ」

「どこでもない場所へ」

 舟は沖へ滑り出した。海風が二人の背を押し、流された布片の行方を追うように漂った。白はもう見えなかった。けれど、その「消えたもの」が、確かに二人を護っていた。

 ――存在しなかった者を抱くということは、赦しを選ぶことだ。

 その赦しの名は、誰にも呼ばれない。

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第十六話 潮のそと


 まだ夜が明けきらぬ刻、海沿いの小径に霧が降りていた。

 風はなく、ただ波の息が寄せては返す。岩に打ち寄せるたび、白い泡が足元に残り、やがて跡形もなく消える。

 矢野は歩を緩め、立ち止まった。息は上がっていない。むしろ胸の奥が過剰に静まり返り、音のすべてを拾ってしまう。耳の奥で鼓動が早鐘のように響くのに、外界は驚くほどに寡黙だった。

 隣には沖田がいる。

 白布を裂いたあとも、彼の装束はまだ白のままだった。だが血と潮で薄墨に染まり、夜明けの霧に混じって輪郭を失いつつある。その姿は、もはや「生者」であることを留めながらも、同時に「消えゆく者」にも見えた。

 矢野は言葉を探した。何を口にしても、音は霧に吸い込まれるだろう。それでも、沈黙を抱えたまま歩みを進めることはできなかった。

「……まだ先に、道はあるのか?」

 沖田はわずかに振り返った。

 霧に濡れた黒髪が頬に張りつく。視線は細く鋭いのに、そこに宿る熱はやわらかだった。

「道はあります。けれど、名を持ったままでは踏み込めない」

 矢野は唇を噛んだ。

「名を呼ばぬ島」の記憶が甦る。祠に置かれていた白い石。名を呼ばれぬ神。呼び戻す太鼓。――すべてが、この道のためにあったのではないかとさえ思える。

 歩みを再開すると、やがて海中に立つ鳥居が見えてきた。

 両柱は古びて苔に覆われ、波を受けて軋むたび、鈍い音を鳴らす。その姿は、まるで海が用意した門出の標のようだった。

 矢野は思わず立ち止まり、護符を握りしめた。布に包んだそれは、幾度もの戦いで擦り切れ、もはやただの紙片に近い。それでも彼にとっては唯一の「証」だった。

「なあ、沖田」

 声が掠れた。

「お前がもし、ここで消えたら……俺はどう記せばいい」

 沖田は足を止めた。鳥居の向こうに朝の気配が満ちていく。その光の縁に背を重ね、彼は振り返った。

「記すことはありません」

 短く言い、そして続けた。

「けれど、忘れないでほしい」

 矢野の胸に鋭い痛みが走った。記さなければ、誰も知らない。忘れなければ、誰も救えない。だが――その矛盾こそが彼らの選んだ生だった。

 沖田の目は淡く笑っていた。

「記すことは縛ります。忘れないことは赦します。あなたにできるのは、その両方です」

 霧が濃くなり、鳥居の輪郭がぼやけていく。二人は互いに視線を交わした。そこには別れの合図も、逃避の決意もなかった。ただ、同じ影の濃い方へと並び立つ者の姿があった。

 矢野は護符を握り直した。指の間から、布片がひらりとこぼれ落ちる。波がそれを攫い、足元でほどけ、海へ溶けた。

 ――彼らの足取りは、もはや記録には残らない。


 鳥居を背にして、小径は海と並走した。右に波、左に低い石垣。霧は薄布のように視界を仕切り、先の形を曖昧にする。

 浜の端に、古い番屋があった。屋根は斜に傾き、壁板は潮に焼けている。出入り口には布帘が垂れ、黒い線で「止」の字が掠れて読めた。霧の幕の向こうで、かすかな人の気配が動いた。

 矢野は護符を握り、顎で合図した。沖田は頷き、鞘に触れず、まず耳に触れた。風の向き、波の返し、足音の層――ここに在る音を一つずつ外していく。最後に残るのは、人の呼吸だけだ。

 番屋の背後には、舟を吊るす滑車台がある。濡れた縄が垂れ、雫が間遠に落ちている。矢野はそこへ素早く回り込み、足場板の節目を指で叩いた。

 トン――。

 短く、低い一打。

 沖田は振り向かない。鞘尻で砂を、同じ拍で返す。

 トン。

 言葉の代わりに、記憶で重なった合図が息を繋ぐ。

 帘が揺れ、見張りが一人、顔を出した。若い。目は眠たげで、肩には弓が雑に載っている。彼は霧の向こうを見て、こちらに気づかないふりをした。気づきながら、見なかったことにする迷いの目だ。

 沖田はまっすぐに近寄らず、斜めに歩いた。波打ち際の湿った砂に足を置けば、音は小さい。若者の肩がほんのわずかに上がり、口が開く。名を問う声が出るより早く、沖田の手が動いた。

 刃ではない。鞘だ。

 喉元に、押し当てる――止めるため、切らぬための角度で。

「声を出すな」

 囁きは潮の音に混じって、彼一人にしか届かない。若者の眼に恐怖がよぎり、すぐに羞恥の色が上書きする。彼はまだ命令を持たない兵だ。命令を持たぬ者は、殺すべき対象ではない。

 矢野は合図のに、番屋の内へ滑り込んだ。網の匂い、古い油の匂い。壁際に矢束、棚に銅鈴。床板の下に、警告用の太鼓が据えられているのを見つけた。縁の革は乾き、叩けば間違いなく峠の見張りへ響く。

 矢野は太鼓の縁に指先を置いた。打てば呼ぶ。呼べば縛る。彼は指を離し、代わりに太鼓枠の外周を爪で弾いた。

 コ……ン。

 乾いた輪郭だけが、番屋の木組みに吸い込まれる。

 外で、沖田が若者の肩から手を離した。若者は膝をつき、咳を一度だけした。沖田はその肩を押し、屋内へ促す。

「伏せろ。目を閉じろ」

 命令は短い。若者は逆らわない。逆らわない者は、ここでは生き残る。

 帘の影がもう一つ動いた。今度は年配で、眼の底が冷えている。矢を番え、口は開かない。判断が早い。こういう者は、いくさの歯車に噛む。

 沖田は一歩、砂を踏み替えた。刃を抜く。水平――。

 が、線は空気を割らない。刃は男の頬に届く直前で止まり、鞘が先に男の手首を叩いた。弦が鳴る寸前の衝動だけを奪う。

 停刀ていとう

 殺せるのに、殺さない。切れるのに、切らない。そこにわずかなが生まれる。男の目が釘打ちのように固まり、躰の力が抜ける。

 その間の内に、矢野が番屋の床板を静かに上げ、太鼓の革を手拭で包む。音の口を塞ぐ。太鼓は呼ばない。呼ばれなければ、追手は遅れる。

 沖田は刃を引き、男の膝へ低く触れた。関節が折れて石に落ちる。痛みで意識が遠のく。命は落ちない。落とさない。

 海が近い。誰も溺れさせない角度へ、彼は二人を横向けに転がした。

 霧の奥で、遠い一打が響いた。

 ドウ――ン。

 太鼓ではない。岬の向こうの岩が波を噛む音が、たまたま太鼓の低音と同じ腹を持っていたに過ぎない。だが二人は同時に息を整え、同じ拍に心を合わせた。

 番屋の裏手に、低い木戸がある。鍵は縄一本。ほどけば海へ出る細道につながる。

 矢野が縄を解きながら囁く。

「ここじゃ似合わない」

 沖田は刃を納め、頷いた。

「ここでは死なせない」

 言葉は反復して、霧に消えるのではなく、霧の形をわずかに変えた。

 細道の先、滑車台の陰から兵が二人現れた。片方は濡れた弓、もう片方は錆びた槍を持つ。二人とも、迷いを持った目だ。

 矢野が先に出る。足の運びは速いが、音は浅い。槍持ちが威嚇的に突き出した。

「名を名乗れ」

 問う声は形ばかりで、実は答えを期待していない。名を得れば、責任が生まれる。彼らは責任を持つほどの命令を受けていない。

 沖田は一歩前に出た。刃は抜かない。左手の指で舟縁を叩く。

 トン、トン……。

 二つの短い点、ひとつの長い間。

 矢野の喉が、その間に合わせて、息を一つだけ吐く。

 はあ――。

 音の言葉が形を結ぶ。敵味方の線は、目の前ではなく、音の向こうに引かれる。

 槍持ちの足が鈍った。沖田はその懐へ、水平線を引くように身体を滑らせる。刃は鞘のまま、槍の柄へ“触る”。弾かず、押さず、触るだけ。手応えのない接触が、相手の力の行き場を奪う。勢いは地へ逃げ、槍の穂先は濡れた板を舐め、空を切った。

 次の呼吸で、沖田の右足が槍の石突いしづきを踏む。槍はたわみ、男の腕から抜け、板の隙間へ落ちた。

 弓持ちは弦に指をかけたが、革は湿って重い。彼の肩が上がる。狙いが高い。

 矢野は素手で、弓の腹に手刀を落とした。音は小さいが、響きは深い。弦がかすかに振動し、矢羽は矢筒へ戻った。

「帰れ」

 矢野の声は低く、命令ではない。道を示すだけの声だ。

 ふたりの兵は顔を見合わせ、霧の向こうへ退いた。足取りは速くない。速くない退きは、生還の合図だ。

 番屋の中で、若者が身を起こしかけた。沖田は手で制し、床に残る太鼓へ目をやった。

「叩けば助かると思いますか」

 若者は唇を噛み、首を振った。彼は知っている。この霧と潮の日には、助けは遅れ、犠牲が増えることを。

「なら、あなたは見なかった。私たちも、あなたを見なかった」

 沖田はそう言い、若者の肩に布をかけた。布は白ではない。煤けた灰色だ。

 小径へ戻ると、鳥居の向こうでまた波が砕けた。

 ドウ……ン。

 ふいに、別の打音が重なった。

 トン――。

 遠く、岬のほう。合図の“ひとつ”。

 矢野と沖田は視線を交わす。太鼓は封じた。では、誰が。

 霧の帳の先で、何者かが同じ言葉を知っている。救いか、追手か。その区別は、もう彼らにとって重大ではない。音が通うなら、行ける。

 矢野は護符を握り直し、囁いた。

「書けば、ここで物語は止まる」

「書かないでよろしい」

 沖田が応じる。

「でも、忘れない」

「ええ」

 反復は祈りに近い。二人のあいだで、言葉は名を持たず、しかし確かな形を持った。

 さらに奥へ、小径は海から剥がれるように山裾へ寄り、石段へ変わる。段の苔は濡れ、踏めば小さく鳴く。階の上手かみて、霧の濃さが一段深くなり、輪郭のない人影が横切った。

 矢野が先に動いた。石段の脇へ身を落とし、袖の内で指を鳴らす。

 コッ。

 短い吸気。

 は――。

 沖田は反対側から同じ拍を返す。

 トン。

 人影が止まった。霧の粒子の中に、驚きが広がる。彼もまた、音の言葉に反応したのだ。愚鈍ではない。名の代わりに音を聞く耳を持つ。こういう者には、刃よりもで答える。

 沖田は石段の上段へひらりと移り、影の背後に立った。刃を抜く。水平――。

 止まる。

 影が振り向く。顔は若くも老いともつかず、霧の加減で頬の起伏が曖昧だ。眼だけが確かで、そこに怯懦ではない警戒があった。

「誰のために行くのですか」

 沖田が問う。

「誰のためでもない。命令があるだけだ」

 その答えは真実だった。命令は名を持たない。名を持たない命令は、斬っても斬り切れない。

 刃が、わずかに下がる。

「なら、あなたも見なかった」

 沖田は刃を納め、影の肩を押して脇へ退けた。

 影は押されるまま、一段下へ退き、霧に溶けた。

 矢野が息を吐く。停刀の間は、いつも刃より鋭い。救いの刃は、殺しの刃より冷える。

 石段を登り切ると、海は背中で低く鳴った。鳥居は遠くなり、揺れる白いものが足元でほどけている。さきほど海へ流した布片ではない。誰かの袖の端だ。きっと、ここで誰かが“死んだ”ことにされた。

 矢野はそれを拾わず、見るだけにした。拾えば、名がつく。見れば、痕跡になる。今は、痕跡だけで足りる。

 霧の向こうで、再び“ひとつ”。

 トン。

 それに呼応するように、沖田が舟の舷を叩いた記憶の手つきで、空気を叩く。

 トン。

 二つの音は合わさって、道のかたちを描いた。

 ふたりは並んだ。分かれて消えるのではなく、同じ影の濃い方へ。

 矢野が囁く。

「ここじゃ似合わない」

「ここでは死なせない」

 反復は、もう呪文ではなかった。約束になっていた。

 足下で波が寄せ、拾わなかった白い端布をさらっていく。ほどける。生地の繊維がほどけ、塩に融け、海に紛れる。

 記すな。けれど、忘れるな。

 その言葉の芯だけが、ふたりの胸で硬質に残った。

 彼らは音の道を辿り、霧の層のさらに奥へと消えていった。そこで待つものが救いであれ、追手であれ、今や重要ではない。無言の連携が立ち上がり、殺せる刃は停り、太鼓は鳴らずに、しかし確かに彼らを導いた。

 世界は、わずかに静かになった。

 静けさの中で、潮が、遠くで、ひとつだけ打った。

 ドウ――ン。

     ※

 霧の層を抜けると、石段は峠へ続いていた。そこには戦の痕跡が残されていた。血に濡れた地面、折れた矢、焦げ跡。誰の勝利で、誰の敗北かは分からない。ただ「ここで争いがあった」という事実だけが、濃い匂いとなって漂っていた。

 矢野は足を止め、吐息を押し殺した。足元の黒ずんだ泥に、踏み潰された護符の切れ端が混じっている。名もなく、主もなく、ただ「信じた証」だけが抹消されていた。

「……勝った者の痕跡すら、こうして消える」

 矢野が低く呟くと、沖田は肩をすくめた。

「勝利は誰のものにもなりません。名を刻まれなければ、すぐに砂に戻る」

 二人が進む先に、十数名の影が立ちはだかった。霧に隠れていた兵たちが、峠を塞いでいる。槍と弓が並び、その背後には鎧姿の指揮者がひとり。年配で、眼差しは冷たく研ぎ澄まされていた。

「白き影……」

 指揮者が唇を歪めた。

「お前はここで消える。功に記すことなく、ただ“なかった者”として」

 その言葉に、矢野は悟った。戦の帰趨はもう定まっている。だが権力にとって都合の悪い者は、勝利と共に抹消される。政治による否認――それは戦よりも冷酷な刃だった。

 矢野は沖田に視線を送る。沖田は刃を抜き、水平に構えた。その姿は、挑むでもなく、抗うでもない。――ただ線を引くだけの者。

「矢野さん。私に背を預けて」

 短く言われ、矢野は息を呑んだ。これまで幾度も戦場で聞いた言葉。だが今は違う。

「背を預けるのは……お前だけだ」

 背中合わせに立った瞬間、霧の中で二つの影が一つになった。矢野の剣は前を、沖田の刃は左右を、互いの死角を補い合う。

 兵が突撃した。槍の穂先が霧を裂き、弓の弦が唸る。

 矢野は弾き、沖田は落とす。

 矢野は突き、沖田は止める。

 殺すべき者と、赦すべき者が、背中を通して瞬時に分けられる。

 背を預けることは、存在を預けることだ。矢野はそれを理解していた。彼らは互いの呼吸を知っていた。刃の間合いも、足の拍も、すでに分かち合っていた。

 一人が倒れ、二人が退き、三人が声を失う。残った者たちは指揮者の背を仰いだ。だが指揮者は動かない。彼もまた理解していたのだ。――この二人を殺しても、功には記されない。否認される者に、勝利の意味はない。

 やがて兵たちは矛を下げた。誰も口を開かない。霧が再び濃くなり、峠は静けさを取り戻していく。

 矢野と沖田は刃を収め、背中を離した。

「勝ったのか?」

 矢野が問う。

「勝ちも負けもありません。ただ、ここで私たちは“いなかった”ことになるのです」

 沖田は淡々と答えた。

 その言葉に、矢野の胸が締め付けられる。存在しなかった者として、歴史の帳面から抹消される――それは死よりも深い孤独だった。だが彼はそれを受け入れるしかなかった。

「お前と俺だけは、忘れない」

 矢野は強く言った。

「記すな。けれど、忘れるな」

 沖田が反復した。

 霧の向こうで、太鼓が一打響いた。

 救いか、追手か――もはや関係なかった。

     ※

 霧は音を吸い、海は光を薄め、世界は白い盲目の内側で呼吸していた。

 鳥居は海中に立ち、波に洗われながら、門出の角度を保っている。両柱の苔は深く、縄は海塩を吸って硬い。くぐる者を選ばず、しかし名を持つ者をそのままには通さない、そんな顔つきだ。

 矢野は鳥居の前で足を止め、護符を握った。擦り切れた紙の角は、指の腹に馴染みすぎて、もはや痛みすら起こさない。書かれたはずの字は潮でぼやけ、線は線のままではなく、ただ“記そうとした痕”だけを残している。

「……沖田」

 呼びかけは名を避け、しかし確かに彼へ届く。

 沖田は鳥居の影に立ち、霧に濡れた髪を耳にかけた。その仕草は、あまりに生のものだった。消えゆく者のものではない。

「聞いています」

「お前が消えたあと、俺は本当に忘れないだけでいいのか」

 矢野の問いは、霧の濃淡を測るように慎重だった。

 沖田の口元が、わずかに笑いのかたちを作る。

「ええ。記すな。けれど、忘れるな」

 反復は祈りに近い。

 矢野は護符を握り直し、指の間からわずかにほつれた紙片が、ひらりと鳥居の足元へ落ちるのを見た。波がそれを攫い、白い布片のようにほどき、塩に融かして海へ返す。

「ここじゃ似合わないな」

 矢野が言う。鳥居の正面、揺れる白と灰の境目に目をやりながら。

「ここでは死なせない」

 沖田が応じる。

 ふたりの言葉は潮に紛れ、しかし消えず、同じ拍に収まった。

 遠くの浜辺に、かすかな人影が揺れた。追手かもしれない。救いかもしれない。或いはただ、この霧の日に道を見失った漁夫かもしれない。どちらでも、もういい。

 矢野は沖田を見、沖田は矢野を見た。分かれて消えるのではない。同じ影の濃い方へ、肩を並べて入っていく――その選択だけが、彼らの中で固まっていた。

 鳥居をくぐる。

 海は膝の下で冷たく、砂は沈黙のまま形を変える。ここを境に、名はほどける。名がほどければ、追う手もほどける。ほどけたものは、もう一度結べるだろうか――それは分からない。分からないからこそ、美しい。

 沖田は装束の袖口に指をやった。白は潮を吸い、重く垂れている。裂いて流した布の欠け目から、朝の風が入り、薄い音をこぼした。

「唯一無二って、面倒ですね」

「面倒でも、消すには惜しい」

「惜しいものは、いったん外しましょう。世界から半歩、退く」

 淡々とした声に、矢野の胸が静かに疼いた。

 鳥居の先で、霧が一段と濃くなる。見えるものは少なく、聞こえるものだけが多い。波がひとつ、岩を叩き、海燕が二羽、霧の縫い目を渡る。

 トン――。

 どこかで、合図とよく似た一打がした。太鼓ではない。岩腔に溜まった空気が、波で押されて吐息した音。その偶然ですら、彼らにとっては道の印だった。

「矢野さん」

 名を呼ばない呼び方で、沖田が言う。

「隣にいてくれませんか」

「最初から、そのつもりだ」

 ふたりの肩が触れ合う。衣の布目が擦れ、わずかな温度が伝わる。その温度だけが、確かなものだ。記録には残らない。だが皮膚は覚える。

 膝を打つ波が引き、ふたりは砂洲の上へ出た。霧は湿った幕を少し持ち上げ、細い道筋が現れる。左右は浅瀬、真ん中だけが硬い。歩き違えれば沈む。音を合わせれば渡れる。

 沖田が先か、矢野が先か――もはや判じがたい。ふたりは同じ拍で足を運び、同じ間で息を吐く。

「書けば、ここで物語は止まる」

 矢野が囁く。

「書くな」

「でも、忘れない」

「ええ、忘れるな」

 鳥居の方から、遅れて声が掛かった。誰かが彼らを呼ぶ。名ではなく、ただ声のかたちだけで。

 ふたりは振り向かない。振り向けば、名が戻る。名が戻れば、線が引かれる。線が引かれれば、誰かが裁く。

 裁かれないまま、消える。――それが、ここでの赦しだ。

 砂洲が終わり、岩の背骨が海面からのぞく。滑りやすい苔の上に、朝の光が薄く差す。沖田は一瞬、足を止め、右足から先に置いた。矢野は左を選ぶ。互いの癖を、互いが補う。背を預けるというより、拍を預ける。

 世界は、ふたりにとって、音でできている。

 やがて砂が硬い道へ変わり、霧の内側に石の鳥居がもう一基、影のように現れた。海からの帰り道を示す鳥居だ。くぐれば陸。陸へ出れば、また追手と記録が待っている。

 沖田はそこで立ち止まった。

「行けるか」

「ええ、行きますよ」

「名のないままで?」

「名がないから、行けるんです、きっと」

 矢野は護符を胸元に戻した。紙は湿り、肌の上で冷たくなった。

「記さない。けれど、忘れない」

「……それでいい」

 最後の鳥居をくぐりかけて、足元で白いものがほどけた。

 先の浜で流れた布片だろうか。それとも別の誰かの、抹消の切れ端だろうか。布は水を含み、指の間で頼りなく裂け、繊維の一本一本が光に浮いた。

 矢野は拾わない。拾えば、名が付く。

 沖田もまた、見送るだけにした。見送れば、痕跡だけが残る。

「ここじゃ似合わない」

「ここでは死なせない」

 同じ言葉が、今度は重なり合って一度だけ響いた。反復は呪いではなく、誓いになった。

 陸の気配が濃くなる。遠くで犬が吠え、どこかの家の戸が軋む。人の生活は、ふたりの“いなかったこと”に気づかないまま、平らに続く。その平らさは残酷で、救いでもあった。

 峠の向こう、霧を切るように旗の影が揺れた。武の印か、僧の布か、旅人の荷か。どれであっても同じだ。彼らは、もう表舞台に戻らない。

 白き影と若武者の風聞は、諸国の道の端々に点々と残るだろう。名は伝わらず、ただ「見た」「助かった」「怖かった」「美しかった」という人の声だけが、折れた矢のように土へ刺さっていく。

 世界は少しだけ静かになった。

 静けさは、誰かの死ではなく、誰かの抹消によってもたらされることがある。勝者のいない勝利。敗者のいない敗北。その狭間に、ふたりは立っている。

 沖田が前を見据えた。

「行きますか」

 矢野は横に並ぶ。

「ああ、行こう」

 ふたりは海を背に、陸の影へ入った。名を呼ぶ者はいない。名を求める者もいない。

 ただ、潮のそとへ――世界の輪郭から半歩退くための一歩を、同じ拍で踏み出した。

 霧の向こうで、最後にひとつだけ音がした。

 トン。

 それが合図だったのか、別れの拍だったのか、誰にもわからない。わからないままのほうが、きっといい。

 潮騒が寄せ、言葉の縁をさらい、砂に戻す。

 記すな。けれど、忘れるな。

 波が、一度だけ、静かに打った。

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巻末資料・年表


ⅠⅡ史料

一 峡湾戦闘日誌(抄)

「天文二十年某月某日、黎明未明、峡湾に於いて小戦有り。白布を纏ふ剣士一人、若武者一人と相対せし由。敵兵若干討たるるも、屍体確認叶はず。軍功帳へ載せずとの沙汰に及ぶ。」

二 沿岸守備衆申状

「入江番屋に於いて、兵ら幾名か気絶のまま横たはるを見ゆ。死者一人もなし。或兵曰く、『白き影と若武者とを見たり』とのこと。然れど太鼓は鳴らされず、軍令の伝わることなかりき。」

三 某家臣より主君へ奉書

「白き影、実に有り。然れど記録に留むべからず。若し功を認むれば、後日に於いて彼を制すること能はじ。ゆゑに、存在を抹消すべし。」

四 敗残兵口上

「刃は我らを斬らず、落とすのみにて命を奪はず。何故かは知れず。ただ背に若き武士を負ひ、二人、呼吸一にして動きたり。」

五 軍評定記録

「白装束の剣士を軍功に記すべきか否か議論す。結論――記さず。理由――名を与へれば、己らが縛らるること必定なるゆゑ。」

六 雑兵落書

「白影の剣士、斬らずとも人を戦場より外す。其の夜より夢に魘され、声を発せんとすれど名は出でず。」

七 敵国側風聞

「白き影と若武者、忽然として現れ、敵味方を問はず。誰も死なず、皆ただ退きたり。その不気味さ、剣よりも怖ろし。」



Ⅱ.年表(簡略)

天文二十年 沿岸守備厳とす。

同 中旬 峡湾にて交戦。沖田・矢野の姿、此を以て最後の目撃と伝ふ。

同 翌日 軍議にて「功に記さず」と裁断。

以後 白き影と若武者の風聞、諸国に点々として伝はる。

後年 「名を呼ばれぬ島」の伝承と交じり、記録なき剣客として語り継がる。




Ⅲ.奥書(筆者不詳)

「名を記すなと彼らは申せり。然れど忘るるなとも。記さずして忘れず――此こそ矛盾にて、人の世の真也。

彼ら、互ひに『ここでは死なせぬ』『ここじゃ似合はぬ』と語り合ひて、潮の外へと歩み去りぬ。

名は残らずとも、其の余韻のみ潮騒のごとく今に響く。」

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