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名もなき剣に、雪が降る ― 厳島影譚  作者: 妙原奇天


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続き

第六話 朱と白の初対峙


 火矢が、濡れた檜皮を舐めた。

 舐めたという言葉以外、ふさわしい言い方が見つからなかった。燃えることを拒む木肌を、湿り気が守り、火は牙が欠けた獣のように、ただ表面を撫で回す。檜皮の下から生まれる樹脂の匂いが雨に薄められ、風は社殿の背へと回り込み、煙はどこにも居場所を見つけられないままぼんやり宙に漂っている。雨脚は細い糸を無数に垂らして夜を縫い、糸はずぶ濡れの兵の背にまとわりつき、足もとだけがやたらと重い。朱の鳥居はかすれ、赤が稀薄な血のように海へ吸い込まれていった。

 矢野蓮は、社殿裏の狭い回廊で立ち止まった。

 退路が切られている。

 さっきまで開いていたはずの細道に、崩れた軒の破片が橋のように斜めに積み重なり、泥と雨水の渦が足首を飲み、先の曲がりでは誰かの倒れた背が道を塞いでいた。火矢の明滅が、濡れた木肌に赤い舌を生やし、舌はすぐに雨に噛み切られる。耳を澄ませば、社殿の内側で祈りの節が短く、形だけ残っている。形だけ残った祈りほど、戦を長くするものはない。

「戻る道は、ここじゃない」

 矢野は、小隊の背に向かって低く言った。声は潮の匂いを吸って湿り、しかし重さがある。

「ここで死ぬな」

 いつもの文句をもう一度だけ置き、彼は懐の護符に手をやった。老女の指の温度がまだ紙の皺に残っている気がした。名は呼ばれぬ――その言葉が胸の骨に横たわっている。名を呼ばれぬ島で、生きている者だけが互いを呼び合う。呼び合う方法は、声でも名でもない。歩幅と、肩の角度と、息の拍だ。

「隊長、火が……」

 若い兵が囁き、指さした。行燈から漏れた火が檜皮の下の乾きを見つけて、一瞬だけ勢いを増し、すぐに雨に叩かれて萎えた。火は負けるが、火の音は負けない。湿った木が爆ぜる無音の爆発が、兵の胸の内側で繰り返される。爆ぜた音は恐怖の形をして、足の指にまで降り、足は自分が立っている地面との関係を瞬間ごとに忘れそうになる。

 矢野は五人の顔を見る。濡れた睫毛、顎の泥、口の色。どの顔にも、まだ帰る方向が残っている。帰る方向の代わりに死ぬ方向を渡されぬよう、彼は手を上げ、指を二本、水平に振った。標の列がまだ生きている、と告げる合図だ。鳴らさない太鼓の代わりに、彼の手が夜の拍を刻む。鳴らせば混乱が増える。鳴らさないことで群れの呼吸は残る。

 雨が一段階強くなった。

 強くなった雨の層の向こうで、白いものが、ゆっくりと立ち上がる。

 白――と見えながら、黒が被さっている。白装束の上から黒の雨合羽を重ね、肩に残った白は雨に打たれて灰に近づいている。顔は見えない。見えないのに、輪郭が整いすぎていて、見た者の眼の中に、先に姿勢の気配が入ってくる。姿勢が先に来たとき、人はその人の名を問わない。名のないものに、兵は異様に敏感だ。目を逸らす者、見据える者、最初から見えないふりをする者。各々の反応が、雨の糸を伝ってこの狭い回廊に集まった。

 沖田静は、敢えて姿を晒した。

 彼は、晒すという言葉を知らない。晒すのではない。ただ、雨の中に立つ。雨の中に立つことが、すでに晒すのと同じ働きをする場所がある。社殿の背の斜面、山道、入江。その三角の心臓の縁で、白は最もよく見える。見えるということが、噂を実体に変え、実体は噂よりも遅く動き、遅いものほど人の呼吸に干渉する。

 矢野の小隊の退路が切れたのを、沖田は見ていた。

 このまま押し上げれば、彼らはここで消耗して潰れる。潰れる音は夜に残り、夜に残った音は次の群れを迷わせる。迷わせれば、黒い道の筋が乱れる。乱れれば、彼の刃は余計な血を吸う。余計な血は、飽きる。飽きると、嗜虐が笑い、笑いは理性の刃を鈍らせる。鈍った刃は、彼の手には似合わない。だから、彼は立った。小隊の視線の前に、ひとつの的として。

「……白」

 背後で、若い兵が呟いた。矢野はすぐにその肩に手を置いた。置いた瞬間、若い肩の震えが指に移る。震えは、悪くない。震えは覚醒の徴だ。覚醒を恐怖に取られぬよう、彼は肩を軽く押し、小隊の並びをわずかに変えた。槍の穂先が濡れ、刀の鞘口が息を吸い、泥の足音が消えた。

 沖田が一歩踏み出した。

 踏み出した、と言うより、足場のほうが彼の足を迎えに来た。迎えに来る足場。雨が土の角を落とし、音の少ない場所だけが浮島のように現れる。彼は、その浮きの縁を踏んだ。踏んだ足は沈まない。沈まない足のまわりで、雨の粒だけが崩れ落ち、崩れ落ちた粒が地面と彼との間の音を奪っていく。

 矢野は、槍を半ばに持ち替え、刀に指をかけた。

 間合い。

 相手の肩、鞘口、左の靴の泥の深さ、右肘の余白、顎の角度。全部で、距離が決まる。距離は目に見えない。見えないからこそ、恐怖が計算に入り込む余地がある。恐怖の分だけ距離が縮む。縮んだ距離のぶんだけ、槍は短くなる。短くなった槍は、刀に近づく。刀に近づくほど、こちらの死は眼前に置かれる。

「退け」

 矢野は、後ろへ半歩、声を落とした。同時に、沖田が前へ半歩、音を置かなかった。

「退く道は、どこですか」

 声は、雨に混じって届いたのか、届かないふりをして届いたのか、判別できなかった。

 矢野は答えない。答えれば、背中が動く。背が動けば、隊が崩れる。崩れる音は、雨でも消せない。代わりに、彼は槍の柄で地面を静かに撫でた。撫でた軌跡は、標の方向へ向いている。向いていながら、誰にも見えない。

 沖田は、肩をわずかに落とした。

 礼だ。

 刃を抜かない礼。抜かないことで、抜く以上の意味を持つ礼。彼は黒の合羽の裾を指で押さえ、鞘の口に指をかけた。かけただけ。開けない。開けないまま、彼の足は、矢野の横へ斜めに寄り、斜めの軌跡は雨に消え、彼の姿勢だけがそこに残った。

「構えろ」

 矢野は、自分に言った。小隊に向けてではない。自分に向けて。

 槍先が、白と黒のあいだに細い線を引く。線はすぐに雨で消える。消えた線を、筋肉が覚える。覚えられた筋肉だけが、次の一拍に間に合う。

 初合。

 沖田の足が、泥に一寸沈み、沈みの反動で、彼の上半身が薄く前へ流れる。流れは音を持たない。矢野は槍を斜めに出し、肩で刀の鞘を押さえ、膝を緩めた。刃はまだ鞘にあり、槍の穂先は雨をすくい、それを相手の胸へ投げた。投げられた雨は、ささやかな幻を作る。幻に対して、沖田の刃は眠ったまま、槍柄の根もとに爪の腹を立てる。爪は音を出さない。出さない接触。接触だけが、矢野の手の皮膚へ直接意味を渡した。

 殺せる。

 初合の一瞬で、そう理解させられる。理解は心を乱す。乱れた心が乱れないふりをするには、息を均すしかない。矢野は均した。

 二合。

 矢野が槍を引き、刀を半寸抜く。鞘鳴りはしない。音が出たら、誰かが死ぬ。そういう距離に、いつのまにか入っている。沖田は、半歩だけ右へずれ、矢野の左の視野の角を奪う。その角度で、彼は矢野の喉と鎖骨の間をじっと見ない。見ないことが見ているに等しい。見ていない視線ほど、骨に深く降りる。「ここ」ではない、の種が、もう矢野の胸にまかれていた。

 三合。

 火矢がもう一度だけ檜皮を舐め、雨が「やめなさい」と言うようにそれを叩く。叩かれた火の明滅が、白の肩に薄い影を刻む。矢野はその影の厚さで、相手の体重の寄り具合を測った。測った瞬間に、刀を抜き、槍を低く構え直す。二本の器具が、ひとつの動作に収まるのに、思考は必要ない。訓練と雨の助けだ。沖田の刃は、遂に一寸、二寸。

 矢野の頬に、冷たいものが触れた。

 汗だ。雨と汗は似ているが、触れられた時だけ違う。違うものが、たしかに頬に線を残した。

 彼は悟る。

 この二合、三合のどこでも、相手は自分を殺せた。殺さなかった。殺せるのに、殺さない。殺さないという選択は、刃を抜くより難しい。難しいことを、滑らかにやってみせる相手を、彼は生まれてからまだ見たことがない。

 四合。

 沖田は、刃を盾のように使った。斬るためのものを、守るために立てるという逆説。刃は横顔を持ち、横顔は頬の汗を切るのに向いている。切られた汗が、矢野の顎へ落ち、冷たい鎖のように肌を伝った。舌の奥に鉄の味が生まれそうになり、彼は唾を飲み込んだ。飲み込むという動作は、恐怖に形を与える。形を与えられた恐怖は、もう暴れない。

 五合。

 槍と刀と刃が、雨の糸を振るわせ、糸は切れず、音だけが変わる。変わった音を、矢野は骨で聞いた。骨で聞いた音だけが、判断に使える。耳で聞いた音は、すぐに噂に喰われる。

 沖田が、一拍だけ目を閉じた。

 致命の直前の癖。

 閉じたまぶたの内側で、彼は「切らずに済むか」を確かめている。確かめられるという贅沢。贅沢は、戦いの中では罪かもしれない。だが、それを許すのが、今夜の雨と社殿の背だった。

「……あなたの死は、ここじゃ似合わない」

 囁きは、雨の糸を二、三本だけ弾き、あとは矢野の皮膚の下へ降りた。

 似合わない。

 言葉は、侮辱ではなかった。侮辱よりも、柔らかく、しかしよく切れた。切り傷は浅いのに、血は思いのほか長く滲む。滲んだ血が、熱の場所を教えてくれる。矢野は、熱を見た。己の胸の内側の熱。誰かを生かそうとして生まれた熱。熱の形は、刃に似ず、しかし刃より確かだった。

 沖田は、刃をわずかに逸らした。

 逸らされた軌跡が、矢野の頬の汗だけを切り、汗は線をなぞって顎へ、鎖骨へ落ち、衣の襟に吸われた。刃はそのまま鞘へうすく戻り、鞘鳴りはしなかった。鞘は濡れて重く、重さが音を飲み込んだ。飲み込まれた音は、礼になった。礼が終わる前に、白は闇へ沈む。沈む動作が、雨の糸に溶け、糸は白と黒の輪郭を取り込み、全体として夜がわずかに暗くなった。

 矢野は、追わなかった。

 追えば、部下が死ぬ。

 背のほうで、息の乱れがひとつふたつ。彼の手の動作ひとつで、乱れは遅れ、息はゆっくりと均される。均された呼吸は、小隊をひと固まりの石に戻す。石は、押せば動く。押さなければ、雨の中で少しずつ角を失い、やがて滑らかになる。滑らかなものは、刃を弾く。彼は、滑らかさを選んだ。

「退く」

 声は小さく、しかし背中の全員に届くように落とした。標の方向に片手を傾け、護符の位置を少し下げ、胸骨の上で押さえる。押さえた紙が、雨で柔らかく、指の皺に吸い込まれそうになる。吸い込まれる前に、彼は手を離した。離すというのは、信じるということに見合う。

 若い兵が、躊躇いと安堵を交互に顔に浮かべた。浮かぶたび、雨がそれを消す。消えたあとに残るものだけが本物だ。残ったのは、屈辱でも、誇りでもない。生かされたという事実だ。

 矢野の胸のどこかに、何かが芽を出していた。

 借り。

 言葉にすると、軽くなる。軽くなった借りは、夜に向かない。言葉にせず、骨で持つ。骨に持った借りは、鈍い痛みになって、彼を夜の地図に結びつける。

「隊長」

 背で、最年長の兵が声を落とした。「いまの……」

「見るな」

 矢野は首だけで制した。「見ると、追う。追えば、死ぬ」

「……はい」

 声はすぐに雨に溶けた。溶けた声の代わりに、足の向きが揃う。揃った向きの先に、崩れた軒の破片の隙間が、さっきよりも広くなっているのに気づく者が一人、二人。広がるはずはない。広がったように感じるのは、心臓の拍が落ち着いたからだ。落ち着いた拍は、隙間を広げる。広がった隙間を通すのは、声ではなく、礼の余韻だ。

 沖田は、闇に溶けながら、振り返らなかった。

 振り返れば、刃になる。いまは、刃を置いていく。置いていった刃は、彼の背の内側で冷え、冷えた刃は、次の場所でよく切れる。切るために、いまは切らない。雨が味方をしている。味方は、すぐに裏切る。裏切られる前に、彼は自らを先に裏切る。裏切りの中に、理がある。

 彼は黒い道を斜めに横切り、社殿の背の斜面を舐め、鳥居の根の影に膝を落とした。膝を落とすという動作だけで、背後の追撃の意思が薄れる。薄れた意思が雨に吸われ、吸われたぶんだけ、夜は静かになる。静けさが増せば、殺さずに済む回数が増える。増えすぎれば、彼が飽きる。飽きる前に、夜は必ず反転する。反転を待つために、いまは目を閉じる。

 矢野は、振り返らずに、退路へ兵を散らした。散らすと集まる。集まると崩れる。崩れない程度に散る。散りながら、それぞれの足の下に残った「さっきまでの恐怖」を軽く払う。払ってやる仕草は、受け取る側の背骨を撫でる。撫でられた背骨だけが、夜の重さを正しく分担する。

 耳の奥に、さきほどの囁きが残っていた。「似合わない」。

 生かされた屈辱。

 屈辱の裏側に、安堵。

 安堵は軽い。軽いものほど、戦場では長く残る。残った安堵の上に、薄い誓いが置かれた。声にはしない。骨に書く。

 ――借りは、返す。

 返し方は、刃の向け先で。

 火矢が諦め、檜皮の上で弱った火が雨に溶け切った。煙だけがしぶとく木の隙に残り、焦げの匂いがこの夜を一枚だけ薄く色づけた。嗅ぎ取ったその色を、矢野は胸の底へ沈める。沈めた色が、のちに記憶の端をじわじわと浸食していくだろう。だが今は、足だ。足で道を繋ぎ、肩で雨を受け、目ではなく骨で標を読む。

「退け」

 もう一度だけ言い、小隊を率いて回廊を抜ける。崩れた軒の破片が作った斜めの橋を、足の指で噛むように渡る。足が噛めば、橋は噛み返す。噛み返された感触が、体内の恐怖を遅らせる。遅れが生まれた隙に、息は歩幅に合い、歩幅は標に合い、標は夜に合う。

 背後で、雨が静かに一層薄くなった。薄くなったところで、白の気配が完全に消えたのを、矢野は感じた。感じたというより、消えたあとに残る空洞の形で、それを知った。空洞は、借りの形に似ている。似ているものは、長く忘れられない。

 沖田は、鳥居の脚にそっと自分の指先をあて、濡れた木の冷たさで現在を確かめた。確かめた時間たった一拍。一拍の間に、彼は自分が選んだ「殺さない」をもう一度だけ舌で味わい、味はないと笑って、雨に喉を預けた。嗜虐の舌は、味のないものを覚えない。覚えないものだけが、今夜の正解だ。

 遠く、入江の喉が、低く閉じては開いた。潮の呼吸。呼吸の合間に、ほんのわずか、土の太鼓が鳴る。鳴らしたのは誰でもない。鳴らさない太鼓だ。鳴らさないことが、島じゅうに薄い波紋を引き、波紋の端で、背中と背中が触れ合う。触れ合った者たちは、互いの名を呼ばない。呼ばないほうが、深く繋がる夜がある。

 矢野は、退路の最初の曲がりで立ち止まり、背を一度だけ振り返った。振り返ったが、何も見えない。見えないことの中に、さきほどの線の感触が残っている。頬を切った汗の冷たさ。顎の鎖のような滴。刃ではないものが残した線。線は、のちに言葉になるだろう。まだならないのなら、いまは骨に置いておく。

「ここじゃ似合わない」

 自分の口の中で、彼はもう一度だけ反芻した。雨がそれを外へ押し出す前に、彼はそれを飲み込んだ。飲み込むことで、言葉は血肉に変わる。変わったものは、次の一歩に流れる。

 追えば、死ぬ。

 追わずに、生きる。

 生きるための屈辱は、屈辱ではない。

 そう、彼はやっとのことで思い至った。思い至るのに時間がかかるのは、誇りが邪魔をするからだ。誇りは雨に弱い。雨がそれを薄くする。薄くなった誇りの下で、彼はようやく軽く笑った。自分だけに聞こえる、誰にも見せない笑いだ。

 沖田は、鳥居の根を離れ、斜面の影へ吸い込まれた。黒い合羽の背が一瞬だけ水面のように波打ち、次にはもう、雨しか残っていない。残った雨の音に、彼は耳を澄ます。澄ました耳に、さきほどの槍の柄のざらつきがよみがえる。ざらつきは、礼の側にあった。礼で動く者は生き延びる。生き延びる者は、いつか祟りを受ける。祟りは、記録に残る。記録は、雨に弱い。

 社殿の背の祈りは、さらに短く、輪郭だけになった。輪郭だけが夜を支える。夜は彼らのほうへもう一度だけ傾き、傾いた分だけ、黒い道は広がる。広がった道は、彼と彼の敵をひととき同じ拍に乗せる。乗せられた拍のうえで、刃は降り、降らない。降ろさない一拍が、今夜の核を守った。

 矢野は、標に指を触れ、泥の手を払って歩き出す。背中で兵の息が合い、靴底で雨が潰れ、火矢の名残りの赤はやっと完全に消えた。消えた赤のあとには白も黒もなく、ただ湿りの気配だけが島全体を覆っている。湿りの気配の中で、ひとつだけ乾いたものがある――骨の中の借りだ。借りは、湿らない。湿らないものは、長く残る。

 彼は、それを抱えて歩く。

 名は呼ばれぬ。

 呼ばれないまま、彼は次の曲がりへ、次の標へ、次の雨脚へと身を細くして入り込んでいった。

 夜は、ひとまず彼らを通した。

 通しながら、わずかに微笑した。

 微笑みは、誰にも見えなかったが、雨の糸がほんのすこし緩んだ。緩んだ糸の隙間で、二つの影が別々の方向へ消えるのではなく、同じ方向へ、わずかに角度を違えて消えていく。角度の違いは、いつか交わるための余白だ。余白は、刃より鋭い。鋭さの端で、囁きが反復される。

 ――あなたの死は、ここじゃ似合わない。

 その反復が、島の心臓の皮膚に、薄い傷として、長く、残った。

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第七話 火の橋、雨の梯子


 雨は夜の背骨を一本ずつ撫でていた。

 音は細く、数は多く、ひとつひとつが人の呼吸より軽い。山から降りた風が社殿の背を回って入江の口で止まり、湿った冷たさだけを置いていく。鳥居の朱はもうほとんど水へ融け、海はその色を受け取りながらも、何の記録も残さない。島全体が記録を嫌っている。名を呼ばれぬ島の夜は、すべてを均して、濡れた布のように折り畳んでから、誰にも渡さない。

 沖田静は、その布の裏側を歩いていた。

 白装束の上の黒い合羽は、雨を吸うほど軽くなる。濡れた布が肩に貼りつき、動作の角をひとつずつ落としていく。彼は指先で空気の厚みを測り、薄い場所だけを選んで進んだ。敵陣の息の出入り口は、昼と夜とで違う。夜は、声より先に湿りが出入りする。湿りの裂け目こそ、伝令線の脆いところだ。

 最初の伝令は、まだ若かった。

 腰に結んだ小さな太刀が雨で鞘口を膨らませ、布の端には泥ではなく灰がこびりついている。さっき火のそばにいたのだ。火は、夜に安心の嘘をつく。安心の嘘を一度でも飲んだ者は、雨の味を忘れる。雨の味を忘れた足は、黒い道の縁に立ったとき、必ず一度、滑る。沖田は滑る音を待った。待つという行為は、刃の一種だ。

 音がした。

 彼は、刃を出さなかった。出す必要がない。若い伝令の背がわずかに反った瞬間、彼はその肩と土のあいだに掌を差し入れ、勢いを殺してやった。若い背の骨が驚きに鳴る。鳴った骨の位置に、彼は人差し指で軽く触れた。触れられた骨は、その夜のあいだ、生き延びようとする方向に自ら傾く。傾かせたまま、彼は若者の腰紐を引き、伝令筒だけを抜き取った。

 若者は、気づかない。

 気づかぬまま、別の方向へ走る。方向が少し違えば、伝令は伝令でなくなる。伝令でないものは、夜にうまく溶ける。溶けた跡に、空気の薄さがひとつ生まれ、それが、道になる。

 筒の中の紙は、雨の匂いで膨らんでいた。

 彼は口で端を噛み、墨の味を舌に乗せ、文字の骨だけを飲み込んだ。「退かず」「持ち堪えよ」「火を回せ」。命令が短いほど、群れは迷う。迷いが増えるほど、刃は軽くなる。軽い刃は、斬らずに済む回数を増やす。増えすぎれば、彼は飽きる。飽きる前に、別の伝令線を切った。

 狼煙は、今夜、役に立たない。

 風が裂き、雨が揉んで、煙は輪郭を保てない。だからこそ、人は耳へ戻ってくる。耳へ戻ってきた途端、夜は意味を取り戻す。太鼓は湿っていて、鳴らせば混乱する。鳴らさなければ、沈黙が合図の形をとる。沈黙そのものへ、彼は指を置いた。社殿裏の土を爪の根で軽く擦り、すすけた岩に呼吸をひとつ預け、入江の喉で水を一度だけ跳ねさせた。跳ねた水は音を持たないが、伝令線のどこかで、欠落の形だけを残す。欠落が二つ、三つ。足を踏み替えた兵が、ふいに自分の列を疑う。疑いは、刃の味方だ。

 火のそばへ戻った斥候が、捕らえた男の髻を掴み、泥に顔を押しつけていた。

 周囲にいた味方は、興奮のなかで、それを娯楽に変えようとしている。暗闇は、人を残酷にする。残酷へ寄りかかって、恐怖から退がろうとする。沖田は、彼らを見るでもなく見た。見たというのは、体に覚えさせる、という意味だ。髻を掴む手。刃を振り上げる肩。囃し立てる喉。

 彼は歩いた。

 歩いて、囃し立てた喉の主を横目に置き、刃を振り上げた腕の肘の内側へ、鞘のまま手首で打ち込んだ。骨が乾いた音を出す前に、もう一方の掌で髻を掴む手首の腱を切った。刃は短く、動きも短い。短いものだけが夜に合う。

 悲鳴を上げたのは、捕虜ではなかった。

 腕を打たれ、腱を断たれた味方だ。

「何を――」

 言葉を最後まで使わせる暇を、彼は与えなかった。飄々とした笑みの端だけを残し、刃を持たぬほうの手で相手の頬を掴み、土へ押しつけた。押しつける加減は、埋葬の手よりわずかに強く、殺しの手よりは、はるかに弱い。

 囃し立てていた者たちの声が、雨よりも薄くなる。

 沖田は視線を捕虜へ移した。目は合わない。合わす必要がない。刃が仕事をしたのは、捕虜のためではない。夜のためだ。夜が均されるのを手伝うこと。均されなかった場所を、刃で均すこと。残虐に対する残虐は、善悪ではなく、重さの足し引きだ。

 終えると、彼は血に濡れた手を雨に差し出した。

 雨は丁寧で、彼の指先の血を一本ずつ洗い、掌の皺に入り込んだ赤い線まで薄くしていく。

「海に流れれば、たちまち薄まる」

 飄々とした口調で、誰にともなく言い、深い息を吐いた。吐いた息が白いかどうか、彼は確かめない。白さは冬の記憶に属し、今は雨だ。

 同行していた若い斥候が、口の中で何かを堪えていた。吐き気は、恐怖と同じところから来る。恐怖は、骨へ降ろしてやれば役に立つ。吐き気は降ろせない。降ろせないものは、雨に持っていかせるしかない。若者は唇を噛んで、耐えた。耐え方が良かった。良い耐え方は、翌朝の歩幅に残る。

 伝令線は切れ、次の列は自分の前後を疑いはじめた。

 疑いが生まれると、火は橋になる。

 燃えない檜皮へ火矢がしつこく舐めつづけ、その赤い舌が、夜の視界に細長い道の錯覚を作る。人は炎を道と思い、そこへ寄ってくる。寄るには、周囲を捨てる。不用意に捨てられた周囲の空白が、黒い通路の起点になる。沖田は、火の橋の手前の泥へ、わざと一度、足跡を深く刻んだ。深い足跡は、見張りの目を呼ぶ。呼んだ目は、橋へ向き直る。向き直った瞬間に、彼は逆側の雨の梯子を上る。梯子は、斜面に沿って垂れる水の筋。筋の間隔は均一で、そこに体を差し入れると、音が薄くなる。薄い音は、刃より鋭い。

 黒い雨の段をひとつ、ふたつ、彼は上がった。

 上がりながら、真上の葉の裏に溜まった水を爪で弾き、落ちる拍を乱していく。乱された拍は、巡回の足音と重なり合わなくなる。重ならなくなった瞬間に、巡回は疑う。疑いは、刃の味方だ。彼は、味方を増やしながら、斜面の中腹で足を止めた。生じた空白に、風が小さく溜まる。風は喉の手前で震え、遠くの誰かの声を運びかけて、やめる。やめた声の残骸が、彼の耳の中で砂のようにこすれた。

 矢野蓮は、別の場所で、同じ砂を耳の中に感じていた。

 退路は標の列でかろうじてかたちを保っている。標の木札は濡れて重く、しかし重いほど地面へ深く噛み、噛んだ分だけ夜に残る。彼は、負傷兵を先に動かした。動かす順番は、いつも恨みを生む。恨みは、あとで雨が洗ってくれる。今は、足の裏の泥を払ってやる手しか、持たない。

「次の曲がりで、替われ」

 担ぎ手の肩と肩のあいだへ指を差し入れて、矢野は短く命じた。肩は濡れ、皮膚は冷え、筋は緊張で短くなっている。短い筋ほど、痛みをはっきり持つ。痛みは、判断の敵だ。肩を揉まない。揉めば、そこへ人の気配が残る。残った気配は、刃を呼ぶ。短い命令だけで、肩は替わり、負傷兵の唇が少し色を取り戻す。

「ここで死ぬな」

 いつもの言葉を、彼は何度も配った。配るたび、言葉そのものは薄くなる。薄くなった言葉の代わりに、手の動作が濃く残る。濃く残った動作が、別の者の骨に移る。骨で受け渡されたものは、雨に負けない。

 火の橋が、彼の隊の視界にも現れた。

 燃えない木肌を舐める火は、道の錯覚を与える。錯覚は、恐怖とよく似合う。恐怖は、道を早足で渡らせる。早足は、崩れる。崩れる前に、彼は手を上げた。掌を、火の橋と反対側へ向ける。向けただけで、兵は理解した。理解に時間を要しない集団ほど、夜に強い。

「負傷者を先に――」

 言いかけたとき、彼は言葉をやめた。

 音が、一枚、剥がれたからだ。

 遠くで、鳴らさないはずの太鼓が、雨の向こうでほんの一打、低く、短く、骨の底へ届いた。誰の手でもない手で叩かれたような、音というより震え。

 道が空いた。

 彼は、言葉にせずに頷いた。頷いた動作が、最年長の兵の目に入り、兵は息を合わせ、担架を斜めに上げ、火の橋から視線を外して、雨の梯子を選んだ。選ばれた梯子は、斜面の水の筋。筋に身を置くと、音が薄い。薄い音は、戦の味方だ。

 後方から、追いついてきた敵が、喚声を上げかけて、雨に口を塞がれた。

 矢野は、最後尾に残った。

 誰かがそこで足止めをせねば、前は無事に動けない。「ここで死ぬのは、俺だ」と、彼は骨に書いた。書いた文字は誰にも見えない。見えないまま、槍を短く持ち替え、刀を半寸だけ抜いて、鞘と柄をひとつの棒のように扱う。棒は、雨の中でよく働く。叩くのではない。斜めに据え、相手の足の踏みしろだけを奪う。踏みしろを失った足は、戦意の半分を失う。半分で済むのだ。半分を残すことが、夜の礼だ。

 前では、負傷兵の列が雨の梯子を上がっていく。肩の高さが揃い、担架の角度が安定し、標の向きが正確に読み替えられていく。読み替えられた標の先で、風が少し変わった。海が息を吸う。吸うたび、鳥居の朱の残りが揺れ、揺れの縁をかすめて白い影が一瞬だけ横切る。見間違いかもしれない。見間違いでよい。見間違いの中で、礼の往復が続いている。

 沖田は、火の橋の裏側で、別の伝令の影を切り離した。

 斬るのではない。

 影の根元にある「目的」を断ち切る。伝令が走る理由は、命令ではない。恐怖だ。恐怖は、群れの端から中心へ向かう。中心へ向かう線に、彼は石をふたつ置いた。見えない石。音の薄い石。走る足は、そこに足を取られる。取られた足は、一拍だけ遅れる。その遅れで、矢野の隊の背は救われる。

 互いの名を呼び合わず、互いの方法を知らぬまま、二人は地形と火と雨に同じ注文をつけていた。注文が一致すれば、夜は動く。夜が動けば、刃は少しだけ軽くなる。

 火のそばで、また捕虜を弄ぶ気配がした。

 今度は、さっきよりひどい。

 声が笑いに似ている。笑いは、湿った焚き木と同じだ。火にならないで煙だけ出す。煙は、目を痛め、判断を遅らせる。沖田は、ため息の代わりに、薄く笑った。飄々とした笑いは、時に刃に似る。刃は、ひとつの手を選んだ。

 振り上げられた棒の根元へ、彼は水を落とした。落ちた水が、滑りとなって力の方向を逸らし、逸れた棒は地面の石に自分で当たって折れた。折れた棒の先を握っていた手が怒りで形を変え、指の力が増す。増えた力は、刃で断たれるのに向いている。

 今度は、肘を断たなかった。

 手首でもない。

 親指の付け根、掌の要を、皮一枚分だけ浅く切った。

 痛みが、残る。

 残るが、傷は浅い。浅い傷は、忘れない。忘れない者は、次に同じ暴走をしない。善悪ではない。均衡だ。雨の夜にふさわしい重さの分配の仕方だ。

「おやめなさい」

 誰にともなく、首を振っただけで、その場は収まった。収まったあとで、彼はまた手を雨に差し出し、血の線を薄めた。薄めながら、海を思い出し、遠い血の匂いを思い出し、自分の嗜虐が短く笑うのを感じて、同じくらい短く、それを喉の奥で殺した。

 矢野は、最後尾で、自分の「死ぬ気」が隊の背を軽くするのを、皮膚で感じていた。

 死ぬ気は、死ぬためのものではない。自分が死ぬと決めることで、他の者が「死なない」で済む。この計算は単純だ。単純な計算は、戦の場で最も複雑な結果を生む。彼は槍の石突きを冷たい泥に置き、踏み込んできた敵の足の甲に鞘を当て、ずらし、肩で押し、腰を切った。切るのではない。切るふりをして、「切られない」を相手に渡す。渡された者は、命を拾う。その場の勢いをなくし、別の方向へ去る。去る背は、追わない。追えば、こちらが死ぬ。

「ここで死ぬのは、俺だ」

 骨に書いた言葉が、筋肉の節に変わり、節が関節を守る。守られた関節で、彼はもう一度、相手の踏みしろを奪った。

 負傷兵の列は、雨の梯子を半ばまで上がっている。

 標の木札が雨を吸って重く、だが重さのぶんだけ、地に食い、食ったぶんだけ、明け方まで残る。残るものがある限り、人は戻れる。戻る場所がある限り、人は進める。進みながら、矢野は背後の音の変化を耳の奥で拾った。拾ったのは、音ではない。音の欠落。先ほどの太鼓の一打の余韻が、まだ骨に響いている。余韻は、判断より先に身体を動かす。動いた身体は、たしかに正しい方向へ向く。

「急げ」

 言葉は短く、しかし足は長くなった。長くなった足は、滑らない。雨が梯子の段を均等に濡らし、濡れた段は、彼らの靴底を受け入れる。

 沖田は、伝令の筒を三本、雨の溝に沈めた。

 沈めると、墨は滲み、文字は海の図になる。海の図は、読むものに道を与えない。与えない地図は、夜の理に適う。彼は沈めながら、空気の厚みが変わるのを感じた。心臓の皮膚——あの三角の核——が、薄く震え、斜面の向こうで呼吸をひとつ漏らした。漏らした呼吸に、彼は返礼の意味で、太鼓へ短い一打を贈った。太鼓は濡れ、音は失われるはずだが、今夜は失われない。失われないのは、音ではなく、意味だ。

 その意味が、雨を介して、背中合わせのどこかへ届く。

 捕虜の背が起き上がろうとしたのを、彼は片手で制した。

「動くな」

 声に温度はない。温度がない声だけが、雨の中でよく聞こえる。捕虜は、彼の指の形を見て従った。従うという行為は、骨の疲労を遅らせる。遅れが生まれたあいだに、沖田は火の橋の横へ移り、濡れた草を手首で払って、泥の上へ薄い足跡をいくつも重ねた。重なる足跡は、尾根へ向く。向いていながら、誰もそこへ行かない。行かない道が、ここには無数にある。無数の行かない道の間を、彼は通る。通ることが、切ることに等しい夜がある。

 矢野の背で、敵の足音がひとつ、二つ、重なり、やがて揃った。

 揃うというのは、勇気が集まった徴だ。集まった勇気を、彼はわずかに散らした。散らし方は、先ほどと同じ——踏みしろを奪う。奪いながら、彼は骨に書いた文を少しだけ書き換えた。

 ここで死ぬのは、俺だ。

 だが、いまではない。

 いまではないという判断を、太鼓の一打が支持している。支持を受けた判断は、群れを速くする。速くなった群れの背に、彼は目を置き、手を置かず、ただ呼吸の数だけを数えた。数がそろう。そろいながら、彼らは火の橋に目をくれず、雨の梯子を上がる。

 火の橋の向こうで、白い影が一度だけ斜面を横切った。

 矢野の眼は、それを追わない。

 追わないという行為は、勇気の逆ではない。礼だ。礼は、戦いの中で最も贅沢なものだ。贅沢を許すのは、雨と、島と、いくつかの偶然。偶然に礼を返す方法は、少ない。少ない中で、彼が選べるのは、背の守り方と、死ぬ場所の選び方だけだ。

「ここで死ぬのは、俺だ」

 もう一度、骨に書いた。書いた直後に、耳の奥で、太鼓の一打がふたたび、遠くで生まれた。今度はさらに浅い。浅いのに、深く届く。不思議な一致。言葉ではない合図が、雨の下で交わされている。交わされるたび、夜は傾き、傾いた分だけ、彼らは長生きする。

 沖田は、ふいに自分の嗜虐の舌が、雨では濡れないことを思い出した。

 思い出した瞬間、舌は鉄の味を探し、その代わりに海の味をぬるく思い浮かべ、つまらぬと笑って、また喉の奥で殺した。殺すという行為は、彼にとって、いつでも刃より難しい。難しいことをやったあとは、必ず埋葬の手が現れる。現れた手で、彼は近くの死者の瞼を閉じた。瞼の上で、雨が滑った。滑った水が、まばたきの代わりをし、死者は、夜の別の層へ落ちていった。

「静殿、あれは——」

 若い斥候が口を開けかけ、沖田は首を横に振った。

「見るな」

 見ると、判定が入る。判定は、刃を鈍らせる。鈍らせた刃は、暴力に負ける。負ける前に、彼は斥候の肩を軽く押した。押すという動作は、矢野が兵の肩にやっていたのと同じに見える。見えるだけかもしれない。見間違いでよい。見間違いの中で、やり方は伝わる。伝わったものだけが、雨に負けない。

 矢野の小隊は、梯子の頂に達し、細い尾根筋へ出た。

 尾根の上では風が強い。強い風は、火の橋の錯覚を吹き払う。吹き払われた錯覚の下で、地面の本当の傾斜が現れる。現れた傾斜に、担架の角度を合わせる。合わせるのは、筋の習いで、誰も言葉にしない。言葉にした途端、失敗することがある。言葉の代わりに、彼は護符へ指を当て、紙の角で皮膚を少し痛めた。痛みは、覚醒の友だ。

 背後の土に、重い何かが落ちる気配がした。

 追ってきた敵兵の誰かが、滑って膝を打ったのだろう。打った膝の痛みが群れに伝染すれば、追撃の目は鈍る。鈍った目は、見間違いを増やす。見間違いの中で、矢野は小さく息を吐いた。吐いた息は、雨に薄められ、骨の中の太鼓の余韻だけが残る。

 彼は、最後尾から二番目へ移り、最年長の兵を後ろに置いた。老いた背は、若い背より長持ちする。持ち場を替えるだけで、列全体の持久が変わる。変わるたび、夜の機嫌が少しだけ良くなる。

 沖田は、斜面の中腹で体を横へ滑らせ、尾根の陰に沿って進んだ。

 火の橋の明滅が、雨に和らげられ、誰かの記憶の中で道のかたちへ固まりつつある。固まった記憶ほど、壊しやすい。壊すために、彼は明滅のリズムをずらした。火に息を吹きかけるのではない。火のそばに溜まった湿りを、手首で切ってやる。湿りは、火の敵だ。敵の敵は、味方に似る。似ているものは、よく働く。

 明滅が崩れ、火の橋は橋であることをやめる。やめた瞬間に、人の列の前後は分からなくなる。分からないものの間を、彼は通す。通すことで、誰かの背を救う。背を救うことと、刃を救うことは、今夜は同じ意味だ。

 矢野は、尾根の上で一度だけ立ち止まった。

 止まり方は短い。短い停止は、全体の速度を上げる。止まらずに行けば、足は伸び続け、やがて切れる。切れる前に短く止まり、呼吸を整え、筋を伸ばし、標の方向を確かめ、次へ移る。移るたび、背の借りの形が胸の中で変わっていく。

 借り。

 言葉にすれば軽くなる。軽くなってはいけない。彼は、言葉を飲み込んだ。飲み込んだ言葉は血肉になり、血肉は歩幅になる。歩幅に変わった借りは、夜の背骨の隙間へ入り込み、彼を立たせる。

 雨はなお降り続き、等しくすべてを濡らしている。

 公平さは残酷だ。

 だが、残酷の中でこそ、礼が生きる。

 礼は、太鼓の一打に似て、短く、深く、名を呼ばない。それでいて、確かに届く。届いた先で、誰かが生き、誰かが死なずに済み、誰かが刃を抜かずに済む。済んだものの総量が、今夜の戦の勝敗より、はるかに大きい。

 沖田は、黒い雨の梯子を下り、別の梯子を上り、尾根の裏側で、一瞬だけ立ち止まって耳を澄ました。

 太鼓は、もう鳴らない。鳴らす必要がない。

 代わりに、土の中で、水が小さく笑った。笑いは、音にならない。音にならない笑いだけが、島の心臓の皮膚を微かに震わせる。震えは、礼の返礼だ。返礼を受け取った気がして、彼は肩をすくめ、飄々と、雨の中へと溶けた。

 矢野は、尾根の上で振り返らずに、ただ一度だけ胸に手を当てた。

 護符の角が、皮膚へ押しつけられ、痛みが短く灯る。灯りは、火ではなく、雨の中の目印だ。目印がある限り、人は迷わない。迷いは、敵と味方を同じ濡れた土の上に置き、同じ雨の梯子を上らせる。上りきった先で、彼はようやく息を吐いた。吐いた息は、笑いに似た形をしていた。誰にも見せない笑い。自分の骨の内側だけに許した笑いだ。

 火の橋は、雨に溶けた。

 雨の梯子は、まだ続いている。

 その上を、名前を呼ばれぬ者たちが、それぞれの骨に書いた言葉と、雨に溶かした血の匂いと、返すべき借りの形とを抱えたまま、すれ違い、追い抜き、追い抜かれず、同じ方向へ、すこしだけ角度を違えて進んでいく。

 角度の違いは、いつか交わるために、夜が用意した余白だ。

 余白の上に、太鼓の一打の記憶が、長く、薄く、光っていた。

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第八話 潮が反転する刻


 潮が反転する刻は、雨の粒の形が先に変わる。

 山から下りてきた風が社殿の背を撫で、鳥居の脚を抱いて海へ落ちるとき、粒は糸ではなく細かな鱗のかたちを取り、皮膚に触れた途端に崩れて消えた。遠くの波がひと息だけ長く吸い、次に吐き出すとき、いつもより低く濁った音で浜を叩く。島全体の重心が、わずかに、しかし確かにずれた。人の耳はそれを雨脚の強弱の違いとしてしか受け取らない。だが、土は先に知る。根を張った木は黙って幹を固くし、社殿の柱は内側の水気を絞り、鳥居の朱は薄くなったのではなく色を内へ引き取った。潮が引く。島の皮膚が裏返る。その合図を、夜は静かに運んできた。

 沖田静は、その合図を、靴裏の泥の手触りで受け取った。

 先ほどまでは指に絡みつくようだった粘りが、急に軽くなる。重さが取れるのではない。重さの向きが変わる。踏み込んだ足が前へではなく下へ沈み、土がやわらかく杖を返す。潮が反転する刻にだけ起きる、土の礼だ。礼に礼を返すのは、刃の角度であるべきではない。彼は肩の力を抜き、黒い合羽の裾をもういちど膝に巻きつけ、呼吸の拍を半分だけ遅らせた。遅らせた拍に、島の心臓の震えがしずかに重なる。斜面と山道と入江を結ぶ三角の心臓が、いままさに片方の鼓動を落としたのだ。

 敵の伝令線は、切れているはずの場所が、切れていないふりをしていた。

 潮の反転は、人の焦りを浮き彫りにする。浮いた焦りは、筋肉へ先に走って、手のひらを固くし、声を荒げ、足を速くする。速い足は、地図の上では役に立つが、夜の泥の上では沈む。沈んだ足跡が濃くなり、列は自分の前後を疑いはじめる。疑いが増えるほど、刃は軽くなる。軽くなりすぎぬよう、沖田は自分の嗜虐の舌をひとつ折りたたんで、口蓋へ押しあてた。味はない。味のない舌は、理性の刃の鞘になる。

 入江の喉が、ゆっくりと姿を変えるのを、彼は見た。

 水が退くのではない。水の滑らかさが、前ではなく横へ流れる。流れたあとの浅瀬に白い泡が残り、その泡が列状に並んだ先で、砂の皮膚が露わになる。砂州が現れる。現れたということが、夜の端に立つ者から順に、反射のように伝わる。「渡れる」という希望の形で。それは、罠であることが多い。渡り始めた数のうち、どれだけが途中で足を取られ、泥の迷路に沈むか。彼の眼は、砂州ではなく、その両側の泥の濃淡を見ていた。

「ここが、裏返る」

 彼は、誰に言うともなく呟いた。呟きは雨に溶け、音ではなく形だけが残る。形は、彼の掌に移り、掌から刃へ、刃から目へ、目からまた掌へと戻る。身体の内側で、刃はひとつの図形になった。図形は、殺しのためのものではない。崩れ方を読むためのものだ。

 陶方の陣は、火の橋に未練を残したまま、砂州のほうへ流れようとしていた。

「退かず」「持ち堪えよ」と増幅された命令が、いまや反対の意味に読み替えられている。「退け」「堪えるな」。命令は、届く。届いた途端に裏返る。島全体が裏返りつつあるとき、言葉は最も簡単に反転する。反転の勢いに乗った者から足を取られる。沈む前に、彼はひとつの糸を断つことにした。

 要の将は、火と泥と雨の交差する一点にいた。

 豪雨の夜に最も無駄のない声の出し方を知っている男だった。首の座りがよく、合戦の喧騒に耳を取られない。こういう者が陣の秩序を保つ。保たれた秩序は、潮の反転に抗い、結果として余計に深いところまで沈む。沈ませるなら、ここだ。沖田は、白の内側で指を組み替え、刃の重心を半分だけ前へ滑らせた。重心の移動が、彼の骨に合図を入れた。

 雨の幕の向こうで、男は自らの存在が標であることを、まだ疑っていなかった。

 彼は喉を鍛えている。鍛えた喉は、刃に弱い。刃は声を嫌う。声が刃のために用意した場所は、喉ではなく、喉の周囲だ。鎖骨の下、肋骨の間、呼気の出口と入気の入口の交差点。そこへ刃を持っていくには、真正面を避け、横顔の影を通り、雨の粒になる必要がある。粒は数えるほどある。数えられる粒だけが、刃の味方だ。

 彼は、一拍だけ目を閉じた。

 切らずに済むか。

 潮が反転する刻に、殺しは予想よりもよく効く。よく効くものを持っているとき、切らずに済む選択は稀だ。稀な選択が、今夜はここではない。

 目を開ける。

 刃は眠りをやめ、雨の鱗を一枚だけ剥がし、そこから入り、男の体の中心へ達して、致命に届く前に逸れた。致命をわずかに外した刃の軌跡は、男の気道を半分だけ閉じ、声を奪った。声を奪われて、男は自分が既に死んだような顔をした。人は声の喪失を死と混同する。混同しているあいだに、秩序は崩れる。秩序が崩れた瞬間、彼は刃をほんのすこしだけ深く入れた。深さは致命の一歩手前。そこから、男の肩を、まるで眠りへ導くように押した。

 倒れた体が、泥に音を残す。

 泥の音は消えない。消えない音を、雨は薄める。薄められた音は、鳥居の朱の根元へ集まり、朱はその薄さを引き受けて、色を少しだけ外へ戻した。朱が水へ染みる。染みるというのは、穢れるという意味ではない。島が夜を受け取り、翌朝の光へ橋を架ける予備動作だ。鳥居は、誰にも見えないまま、内側で色を増やしている。そこに、飛沫がひとつ、ふたつ、雨粒より重いものが降りかかった。血潮が、雨に薄められ、さらに薄められて、色の支柱に縫い合わされる。

「……鳥居が、染まる」

 若い斥候が呟き、すぐに口を噤んだ。彼の吐息が白いかどうかを、誰も確かめない。確かめないことが、夜を長持ちさせる。

 要の将の護衛が二歩遅れて駆け寄り、刃を抜いた。

 抜かれた刃が、雨で鈍く光る。光を見た瞬間がいちばん危ない。瞬間の反射で、腹のほうへ力が集まる。集まった力は、降りる前に崩すほうがいい。沖田は刃の背で護衛の刃を受け、その手首の角度と肩の高さを記憶だけに移し、本体はそこから離れた。離れたともいえないほどの微細な距離移動で、護衛の刃は宙に残され、主人を守るべき動線を失う。失った刃は、何も切らずに濡れ、濡れたまま、護衛は泥の破片に躓き、膝から落ちた。

 彼は、護衛の喉に刃を置かなかった。置かず、掌を胸の中央にあて、小さく押し、静かに寝かせた。埋葬の手。残虐の直後に現れるあの動作が、また短く夜を通り過ぎた。

 潮がさらに引く。

 砂州は、最初の細い線から、やがて幅を持ち、島と対岸とを結ぶ蛇の背骨のように伸びる。が、蛇は死んでいる。背骨だけが露わで、体液の代わりに泥が眠っている。駆け出した者から順に、足は足首まで、膝まで、太腿まで沈んだ。沈むほど、人は高く声を上げる。声は助けを呼ぶ形を取りながら、じつは自分の恐怖の輪郭を他人の中へ押しつける。押しつけられた輪郭は、群れ全体の呼吸を乱す。乱れが増えるほど、潮の反転は深まる。島は、いま、勝手に勝っている。勝ちの勾配が急になりすぎるとき、刃は余計な血を吸う。吸わせないために、彼はそこから離れた。

 矢野蓮は、砂州を見た瞬間に、叫んだ。

「ここで死ぬな、海が怒っている」

 怒っている、という言葉が胸の真ん中で硬い響きを持ち、小隊の背骨を伝ってゆく。風が潮の匂いを運び、怒りが海からのものだと、皆が納得する。納得させるための比喩は、命令の代わりに働く。命令よりも早く、足が揃った。

「標に沿え、砂州へ踏み込むな。足の軽い者は右。担架は左の梯子。打ち直した木札は、ここを抜ければ見える」

 声は長くない。長くしない。長い言葉は、雨に濡れた耳の中で分解し、意味の骨まで届かない。短い言葉だけが骨に触れる。触れられた骨はすぐに動く。

 若い兵が背負う負傷者の手が、彼の肩で滑った。滑った手の甲に血が乾きかけ、その乾きが雨で戻されている。矢野は肩を内へ絞り、体の傾きで担ぎ手の重心を変え、担架の角度を標の方向へ合わせてやった。言葉を使わないほうが、早い。

 海の音が変わる。

 吸って、吐く。その間が長くなり、吐くときの音が、いつもより乾いている。湿った夜に乾いた音が混じるとき、誰もが顔を上げる。顔を上げ、期待と恐怖のあいだで瞼を半分閉じる。閉じた瞼の内側で、ひとりひとりの記憶が反転する――はずだった。矢野は、閉じなかった。閉じない瞼で、群れの背中の高さを見、足下の泥の濃さを見、風の向きを皮膚で受け、標の位置を思い返した。

 護符の紙が、腕の内側へずれ落ちた。

 ひやりとする。

 紙の角が、皮膚のやわらかい場所を撫で、そこだけ別の時間を呼び込む。老女の指の節の硬さ、紙の薄さ、藁の節の位置、結び目の向き。彼は、指先で押さえ直した。押さえるというより、紙の位置に自分を合わせた。合わせると、骨の軋みが消える。消えた隙間に、風が、言葉のような形をして入り込んだ。

 ――ここではない。

 耳ではなく、皮膚で受けた。

 言葉の主は、もう分かっている。振り向けば、隊が崩れる。崩れても、いまは死なないかもしれない。それでも彼は振り向かなかった。振り向かないまま、ただ、わずかに頷いた。頷きは、背の二人へ伝わり、二人はその意味を知らぬまま、歩幅を半刻だけ揃えた。揃った拍が、夜の端に小さな橋を架ける。橋の向こうで、白い影が、雨を背負ったまま、斜めにずれて消えた。

 沖田は、矢野が頷いたのを見た。

 見た、といっても、目に映したわけではない。頷きが周囲の湿りに作る小さな渦を、皮膚で受けただけだ。渦は音を持たない。音を持たない合図だけが、夜に向く。向かうものがひとつ増えただけで、刃は軽くなる。軽くなった刃は、深く入る必要がなくなる。不要な深さを避けることは、嗜虐にはつまらぬ。だが、それでよい。つまらぬ夜だけが、朝へ渡せる。

 砂州の横で、陶方の旗が二本、逆さに揺れていた。

 旗を立て直すために、若い兵が泥の中へ腰まで沈み、そのまま動けなくなる。助けに入った友が、同じ穴へ嵌る。三人目が来るまでが勝負だ。三人目が来た瞬間、その場は泥の口になり、引き込む。矢野は、そこへ向かおうとした若い手を引いて止めた。

「行くな。行けば、四人目になる」

「でも――」

「五なら生きる。五を集める。ロープを持て。板を寄越せ。旗は、倒れていればよい。人を立てろ」

 言葉は短く、意味は鋭い。鋭い意味に、若い手の熱がすこしだけ戻る。熱が戻れば、判断は鈍る可能性がある。鈍る前に、彼は次の命令を落とした。

「担架を置け。十歩で戻る。戻らぬなら、置いていけ」

 残酷な命令は、やさしい声で言うべきではない。彼は、乾いた声で言った。乾いた声は、雨に強い。

 尾根の向こうで、毛利軍の小隊が火を持って出た。

 火といっても、濡れた布に包んだ松脂の湿った匂いが先に来る。匂いは雨に混じって広がり、陶方の背へ回り込み、光る前から恐怖の形に膨らむ。沖田は、その膨らみを見た。膨らみは、刃で切る必要がない。針で穴を開ければよい。穴は、音の薄い場所にしか開かない。彼は斜面の筋を上り、膨らみと木立の間の細い隙に身体を差し入れ、そこへ一拍だけ太鼓の皮を叩いた。鳴らない音が、風に乗る。乗ったものは意味だけになり、「道が空いた」と誰にも聞こえぬまま伝わる。矢野の足の裏は、すでにそれを知っている。

 鳥居の朱は、雨と血と潮とで、いっときだけ妙に鮮やかになった。

 赤が薄まるとき、人の眼は赤を濃く感じる。濃く感じた赤が、いくつかの記憶の端を焼く。焼かれた端は、のちにほつれやすい。ほつれやすい記憶ほど、よく人を守る。守られる側は、それに気づかない。気づかなくてよい。

 沖田は、鳥居を見ない。見ないのに、鳥居の内側の温度が、いま自分の手の血の温度と等しいことを、どこかで知っていた。等しいものは合図になる。合図に従うと、刃はもっとも美しく鈍る。鈍った刃が、今夜は要る。

「右の斜面へ、十人。左は七。余はここに残る」

 矢野は、数字を配った。数字は、人を安心させる。安心は危険だが、いまは必要だ。必要な安心は、短く使い、すぐに返す。彼は自分の位置を最後尾からひとつ前へ移し、最年長の兵を後ろに置いた。

「ここで死ぬな。海が怒るぞ」

 もう一度だけ言った。この言葉は、祈りではない。計算だ。海が怒っているときに死んだ者の顔は、翌朝、誰も見ない。名を呼ばれぬまま流される。名を呼ばれぬことは、この島では救いにも罰にもなる。彼は、救いのほうへ重さをずらしたかった。

 砂州の上で、誰かが膝を抱え込んで泣いている。

 泣き声が雨に似て、区別がつかない。区別がつかない声ほど、群れの中で長く響く。響く前に、矢野は近づき、膝の裏へ手を差し入れて、立たせた。立たせるという行為は、救いではない。動かすための準備だ。準備をしてから、彼はその者の背を、進む方向ではなく、雨の梯子のほうへ押した。押された背は、梯子の段に足を置く。置けば、音が薄くなる。薄い音は、泣き声を外へ流す。流れた声の代わりに、呼吸が入る。

 沖田は、崩れはじめた陶方の隊列の隙間に、己の影を置いて回った。

 置く、というのは、そこへ自分が存在したという印ではない。そこへ、自分が存在しなかったという印だ。存在しなかった場所は、のちに誰も探らない。探られない道だけが、明け方まで生きる。生きた道に、人の足を通すのは、自分の仕事ではない。だが、通りやすくすることはできる。彼は倒れかけた樹の枝を一筋だけ押さえ、濡れた岩の上に短い布を置き、泥の縁を靴の踵でひとかきして小さな段差を消した。どれも、刃の仕事の一部である。

 矢野の隊が、砂州を避けて、斜面から斜面へと渡り、尾根の陰へ入るころ、潮は本格的に引いた。

 露出した砂は、最初は道のように見え、次に砂粒の総体になり、最後には足跡の羅列になる。羅列の間に、黒い穴がいくつも開く。穴の底に水が残り、穴と穴の間を泥が結ぶ。泥の迷路。迷路の入口を塞ぐために、誰かが命令を叫ぶ。「退け」「進め」「ここを使え」「あそこは危ない」――すべて正しい。正しい声が多すぎるとき、群れは最初に出会った声へ従う。最初の声を、彼は自分の声にしない。しない代わりに、彼は背の呼吸を揃え、標の列を信じさせる。信じさせるのに、証拠はいらない。信じる行為それ自体が証拠だ。

 尾根の風が、湿りの中でひときわ冷たく、護符の紙がふたたび腕を撫でた。

 その時、横手の斜面に、一瞬だけ白いものが動いた。

 矢野は振り向かない。背が動けば、列が動く。列が動けば、穴が口を開く。開いた口は、人を飲む。彼は、足の位置を半歩だけずらし、その半歩で列の重心を変えた。それで足りた。足りたことに、胸の内側で薄い笑いが生まれる。笑いは声にならない。声にならない笑いほど、よく働く。

 沖田は、風の背に「ここではない」をのせた。

 ここではない――死ぬ場所が、ここではないという意味。死ぬべきであれば、彼は斬る。斬らずに言葉を風に預けるのは、稀だ。稀を選ぶには、理由がいる。理由は、名ではなく、動作に宿る。矢野の肩が、先ほどから「借り」を骨に抱えたまま揺れている。揺れは、刃の重さを正確に測る。測り方が正しければ、彼はそれを生かす。生かすという言葉に、彼は愛着がない。ないことが、今夜は救いになっていた。

 鳥居の根元で、赤が濃くなった。

 濃さは、血のせいではない。雨が赤を洗いながら、内側の光を露出させるせいだ。内側の光は、戦とは無関係だが、戦の最中にしか見えない。見た者は、しばらく言葉を失う。言葉を失ったまま、命令が通る。命令が通ると、死者が減る。減った死者のぶん、夜は少しだけ余裕を持つ。

 砂州を走った者たちのいくつかは、もう戻れない。

 戻れないという事実は、まだ誰にも認められていない。認められるのは、朝の前だ。それまでに、動ける者を動かし、生きるべき者を生かす。矢野は振り向かずに、背で兵に合図を渡し、担架の角度を調整し、足の軽い者たちへ狭い尾根道の先を開けた。

「隊長、砂州の向こうに味方が――」

 最年長の兵が言いかけ、矢野は短く(いな)と頷いた。

「向こうは向こうの隊だ。こちらは、こちら」

 割り切りではない。重さの差配だ。重さを間違えると、夜は報復する。報復は、祟りとして記録に残る。記録は雨に弱い。弱いものを、彼は選んだ。弱いから、長く残る。

 沖田は、砂州の端でひざまずいている武者の背へ近づいた。

 男は、膝から下を泥に奪われ、刀の柄にすべての体重を預けている。柄は折れない。折れないが、支えにはならない。支えではないものを支えに選びつづけると、人は静かに死ぬ。死ぬ場所が「ここ」なら、彼は斬る。だが、ここではない。男の背は、今夜、まだ動く余地を持っている。彼は刃ではなく、鞘で男の肩を軽く叩いた。男が顔を上げる。視線は合わない。合わないまま、沖田はその背を斜面の方向へ押した。押した手は、埋葬の手に似て、しかし埋葬ではない。

 嗜虐の舌が、また退屈を訴える。

 彼はそれを笑って、雨に飲ませた。

「海に流れれば、たちまち薄まる」

 小さく言って、手の血を垂らし、指先で雨を掬った。掬った水は冷たく、血の温度を均した。均された温度で、彼はもう一度だけ、遠くの尾根を見た。そこに、白ではない影が動いた――矢野の隊だ。動き方に、礼が含まれている。礼を返すのは、今ではない。今は、刃を鈍らせたまま、島の反転を最後まで見届ける。

 矢野は、尾根を抜けるとき、老女の護符が衣の内でふと軽く鳴るのを感じた。

 鳴るという言葉は正確ではない。紙の角が骨に触れ、骨が「まだだ」と言ったのだ。まだだ――死ぬのは、いまではない。死の場所も、ここではない。言葉はいらない。いらないものが増えるほど、夜は静かに進む。静かに進んだ夜は、朝へ橋を架ける。橋の上で、彼は背に残った湿りの重さをひとつずつ払い落とした。払い落とすたび、借りの形が、少しずつ明瞭になる。

 借りは、軽く扱えない。

 軽く扱えば、刃の向きが狂う。

 狂わせないために、彼は借りを言葉にせず、骨の中で重く持った。持ち方があれば、返し方もまた、いつか自然に現れる。

 潮は完全に引き、砂州は太い背骨となって対岸へ伸びた。

 だが、その背骨の上を、勝者の足取りで渡る者はいない。

 渡ってしまえば、陥没が待っている。陥没の音はどこにも記録されず、ただ、夜の裏側で長く反響するだけだ。「勝ち」を名乗った者ほど、その反響に引きずられる。

 勝者なき勝利。

 この島が選んだ形は、そういうものだ。

 矢野は、その言葉をまだ知らない。知らないまま、彼は兵を束ね、最後尾を守り、風の向きを測り、木札の濡れ具合で道の手触りを推し量り、火の橋を見ずに、雨の梯子を降りた。

 鳥居の朱が、ついに外へ溢れた。

 溢れた赤は、海に広がって、水面に薄い膜を作る。膜は、雨に叩かれて破れ、破れた先でまた別の赤が現れる。血の色と朱の色と潮の色は、この刻だけ、同じ種に属する。属しあうものの間で、人は名を失う。名を失った者だけが、ここでは生き延びる。

 沖田は、鳥居の根本に手を触れ、木の冷たさで現在を確かめた。

「記すな。けれど、忘れるな」

 自分に向けて言い、誰にも渡さず、雨に沈めた。沈めた言葉は、のちに別の場所で拾われるだろう。拾われる場所は、まだ選んでいない。選ばないことが、いまは正しい。

 潮が反転し、夜の均衡が別の位置へ落ち着くまで、ほんのわずかな間があった。

 間は、刃の厚みと同じくらい薄い。薄い間に、二つの影が、刃の間合いと同じ正確さで距離を縮め、なお交わらなかった。交わらないことが、礼だ。礼は、戦の最中にしか保てない種類のものだ。

 矢野は、振り向かないまま、頷いた。

 沖田は、笑わないまま、目を閉じた。

 切らずに済むか――すでに切らないと決めた刃の内側で、彼はもう一度だけその問いをたたみ、嗜虐の舌に「今日は飽くのも芸だ」と短く言い聞かせ、雨を吸った合羽の裾を払った。払った手は、どこかで埋葬の手に続く。続く先で、誰かの瞼が閉じられる。閉じられた瞼は、朝の光へ備える。

 砂州の向こうで、喚声が一度だけ上がり、すぐに雨に千切れた。

 千切れた声の残骸が、空の低いところに滞留し、鳥居の脚を撫で、社殿の檜皮に吸われ、山道の獣の匂いと混ざって、島の奥へ戻っていく。戻るべきものは、戻る。戻らぬものは、海が持っていく。海が怒っているときだけ、持っていき方は丁寧だ。丁寧に持っていかれたものは、のちに祟りにならない。祟りにならない代わりに、風聞になる。「白き影と若武者」の風聞。まだ、名は呼ばれない。呼ばれぬうちは、彼らは生きる。

 矢野は、尾根の陰で一度だけ立ち止まり、護符の存在を確かめ、視線を海へ落とした。

 赤が薄く、白が濃く、黒が溶け、すべてが同じ湿りを持っている。湿りの中で、彼は自分の骨に書かれた文を読み返した。

 ――ここで死ぬな。

 ――ここではない。

 ――借りは返す。

 どれも、声にすれば壊れる。壊れやすいものだけが、夜に向く。向いているものを抱えたまま、彼は標の次の位置へ歩き出した。歩きながら、背で兵の息を聴き、前で風の向きを聴き、足の裏で土の機嫌を聴いた。聴くことが、命令の半分を済ませる。

 沖田は、三角の心臓の一点に、最後の小石を置いた。

 置くといっても、紙の地図ではない。泥の上へ、指の腹で、目に見えない石の形を描いただけだ。描かれた石は、夜明けまでそこにある。誰も踏まない。誰も見ない。その石の上だけ、夜は人にやさしい。やさしい夜は、彼の刃を鈍らせる。鈍った刃は、のちのために取っておくべきものだ。

「終いだ」

 声にせずに言い、彼は鳥居から背を離した。朱が内へ吸い込んだ色は、朝にまた別の色で返ってくる。その色の前で、人は簡単に、勝ち負けの言葉を忘れるだろう。忘れたままのほうが、長く生きられる。長さがあれば、借りもまた、返しようが見つかる。

 潮は引き、雨はなお降り、火は橋であることをやめ、梯子だけが残った。

 梯子は、空へではなく、次の闇へかかっている。

 その梯子を、彼らは別々に、しかし同じ拍で上り始めた。上るたび、夜の重心が、またわずかにずれる。ずれた分だけ、世界は静かになる。静かさの底で、鳥居の赤が、ほんのすこしだけ濃くなった。濃くなった色は、誰にも見えない。見えないまま、島は息をついた。

 そして、まだ交わらない二つの影のあいだの距離は、刃の間合いのとおりに縮み続けた。

 縮みながら、互いの名を呼ばず、互いの死をここではないほうへ押しやり、互いの生を、夜の湿りへ預けた。

 それが、潮が反転する刻に与えられた、唯一の、正しい連携だった。

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第三章 勝者なき勝利(転)—抹消、追跡、共闘


第九話 勝利の影、存在しなかった者」


 評定の間は、雨の音を借りて沈黙を保っていた。

 濡れた畳はわずかに膨らみ、障子紙は水気を吸って重く垂れ、柱の木目には塩の白が薄く浮いている。鳥居の朱はここから見えない。けれど、海がどの拍で吸い、どの拍で吐いているかは、この場にいる誰の骨にも伝わっていた。勝った、という言葉はまだどこにも置かれていない。置かれぬうちは、勝利は誰のものでもなく、ただ湿りとして場に漂う。

 報告は簡潔で、数字は少なかった。

「……砂州の陥没により、敵は多く溺死。残敵は山の端へ散り、追撃は――」

 そこまでで、使番の声は一度切れた。切れた声を、別の声が拾う。

「追えば潮に足を取られ、夜明けを越す。ここで追うのは悪手」

 木札に筆を走らせていた小者が、墨の重さを和らげるように、筆先で紙の端を掬い直した。掬い直すたび、数字は雨の中で輪郭を失い、意味だけが畳の上に残った。

 毛利元就は、端座していた。

 顔に疲れがないのではない。疲れを置く場所を知っている顔だった。そこに集まる目配せの総体を、彼は直接は見ず、柱の節の位置を数えているかのように、視線をわずかに移した。節の数が整えば、言葉が降りる。

「功は、祀るべきか。祟りは、祓うべきか」

 問いは、ひとつずつ置かれた。置いた途端、部屋の湿りが少しだけ動いた。動いた湿りに、年長の家臣が咳をひとつ落とし、若い者は膝の重心をわずかに変えた。

「白装束のこと、にござりまする」

 口火を切ったのは、吉川元春の側に控える者だった。太めの声は雨に向いている。

「白の者、夜のうちに敵の首級を重ね、伝令線を寸断、わが側の暴挙をも刃で抑え、火の橋を壊して雨の梯子をかけ、ここへ導いた功」

 言葉の途中で、紙の上の墨が少し滲んだ。滲んだ分だけ、声に重さが足された。

「されど、同時に、兵に恐れを走らせ、神域を穢したと囁かれ、味方に刃を向けたと触れ回られてもおります。功と祟り、背中合わせ。秤にかけるとすれば――」

「秤にかけるほどのものか」

 小早川隆景が、柔らかな声で遮った。柔らかさは、刃を鈍らせるためのものだ。

「秤は二つまで。三つ目が載れば、器が割れる。功も、祟りも、そして風聞も、三ついっぺんには量れませぬ」

 彼は筆を持たぬ手で畳の目を撫で、目の一筋が逆立っているところを押さえた。押さえるだけで、空気が整う。整った空気には、言葉がよく沈む。

「風聞をどう扱う」

 元就の声は低い。低いが、湿りに負けない。

「『白き影』、『夜の祟り』。そう呼んだ者は、生きておるか」

「生きておりまする。人は恐ろしいものほど長く語ろうとしまするゆえ」

 即答したのは、評定の場に珍しく呼ばれた記録方の若い侍だった。彼の前には濡れた木札が並び、そこに、今日の責が、やがての功が、薄い墨で書かれてゆく。

「ならばいよいよ、功は祟りの器に入れて祀ってはならぬ」

 隆景が言葉を継ぎ、元春は眉をわずかに動かした。

「祟りは祓うべき、と」

「祓ってもよい。だが、祓いかたが肝要」

 元就が、初めて目を上げた。

「この者は名を記すに足らず――否、記してはならぬ」

 静かな声は、墨より黒く、雨より長く場に残った。

「存在の抹消。恩賞は、それで足りる」

 たったそれだけで、木札の一本が、きしりと音を立てたかに見えた。音は出ていない。出ていないのに、誰もが聞いた。

 恩賞。

 それを与えるときに、金と米と地と名とを用いるのが常だ。名を与えぬことを恩賞と呼ぶ、その逆転は、この場にいた誰にとっても初めてだった。初めての言葉は、畳を通じて骨へ降り、骨は、判断のかわりに沈黙を選ぶ。沈黙は、命令に向く。

「記録方」

 元就が筆の音を呼ぶ。

「白装束の者について、記すこと一切、無し。先の働きも、今の所在も、以後の出入りも、無いと記せ」

 若い侍は、筆を紙から離した。離してなお、手に墨の重さが残る。

「は……」

 返事の末に、彼は紙の端を折り込み、書かれたばかりの数行を、革の小刀で薄く削いだ。削がれた墨は、雨に似た匂いを立て、畳の目に入ってゆく。入ってゆくたび、文字は砂のように輪郭を失った。

「無いものとして残る」

 小声で、彼は自分に言った。それは記録の術における最も難しい配剤だ。無いことを記す。記してはならぬものを、記さぬように記す。紙の上では、存在しなかった者が最も確かに残る。

 元春が、膝を寄せ、低く言った。

「父上。祓い切れぬものも、世にはござる。刃を手放せぬ者を野に放てば、いずれ祟り返す。遠からず首を取られる、という声も、すでに……」

 彼が言葉を続ける前に、隆景がひとつ瞬きをした。兄弟の間で、瞬きは合図だ。

「声の主は?」

「吉川の中にも、小早川の中にも。口伝は速い」

「口伝は波だ。波は、風が鎮める」

 隆景は、そこで初めて元就を見る。

「風を、どちらから当てまする」

 元就はすぐには答えなかった。答えの代わりに、雨の音の種類をひとつ数え、障子の向こうの暗さの濃さをひとつ測り、畳の冷たさを膝で確かめた。確かめたあとで、彼は言った。

「吉川に三、隆景に二。影を放て」

「影、にございますか」

「名を持たぬ者には、名を持たぬ追手が似合う。祓いの仕方は、祀りと同じく、見えぬほど良い」

 その場に、わずかな呼気が走った。吉川の側の者が深く頭を垂れ、小早川の側の者が目を伏せる。影――それは吉川元春配下の山の衆、小早川隆景の海の衆、それぞれが抱える隠密の呼び名だった。山は足を忍ばせ、海は息を殺す。いずれも、記録に残らぬための術を持つ。記録に残らぬものを追うには、記録に残らぬ手が要る。

「白装束の者が、もし、こちらへ刃を返すなら」

 元春が言い、元就は頷いた。

「その刻には、『祟り返し』と名をつけよ。名をつけた祟りは祓いやすい」

 言葉は、どこか祈りに似ていた。祈りと命令のあいだには、細い橋がかかっている。橋を渡るのは言葉ではなく、重さの差配だ。元就が差配を決めた瞬間、場の湿りは別の場所へ移動した。移った湿りの跡に、乾いた空気が残る。乾いた空気は、命令の居場所だ。

「――では、恩賞の件」

 ひとりの家臣が恐る恐る切り出した。

「兵の士気に関わり申す。白の者については抹消として、他の働きへの褒賞を早々に」

 元就は、わずかに笑った。笑いというより、唇の端が短く動いただけだった。

「恩賞は速く、記録は遅く。速いものは群れに効き、遅いものは歴に効く。両方を使え」

 言葉が落ちたのち、場は一度だけ軽くなり、すぐに元の湿りへ戻った。戻った湿りは、先ほどよりも均されていた。均されるほど、勝利は個人の手から離れ、島のものになる。島のものとなった勝利は、人の名を嫌う。

 評定が解かれ、襖が開くと、外の湿りが一挙に流れ込んだ。

 記録方の若い侍は木札を重ね直し、ひとつを懐に、ひとつを袖に、ひとつを帯に挟んだ。白装束の者に関する札は、どこにも挟まれない。挟まれない札は、畳の下に入れられた。畳の下は、湿りが長く残る。残る湿りが、墨の残り香をやがて土へ還す。土に還った記録は、記録でなくなる。記録でないものを、彼は確かに書いた。

 外では、兵たちが火を囲んでいた。

 火は燃えない。燃えるふりをして、湿りをほんの少し和らげるだけだ。和らいだ分だけ、笑いがいくつか生まれ、すぐに消えた。消えた笑いの間に、噂がすべり込む。

「白は、神の使いだと、社家が言った」

「いや、祟りだ。あれを見た者は、夜に名を呼ばれなくなる」

「味方の手も斬ったとか」

「斬った手が、今もぴくぴく動いていると」

 誰も、真実を問わない。真実は夜に向かない。向かないものは、湿りの中で重く沈み、翌朝には別の形で浮かび上がる。

 沖田静は、その重さの底にいた。

 評定の間を離れたあと、彼はどこへも入らなかった。入らない代わりに、海の端の濡れた石に腰をかけ、指先で鳥居の根の水を撫でた。撫でるたび、指の血が薄くなる。薄くなった血は、潮の味を少しだけ思い出させる。思い出すことは、彼にとって恩賞ではない。刃の腹を雨に当て、鞘に戻し、戻し切らずにまた出し、そんな無駄を二度ほど繰り返した。無駄は、夜のあとでしかできない贅沢だ。

 兵がひとり、彼の近くを通りかけて、足を止めた。

 止めた足は、戻る。戻りかけて、別の手に袖を引かれて、また進む。彼のすぐそばを、視線だけが避ける。避けられた視線の端に、笑いがあるわけではない。恐怖でもない。名を呼ばれぬ何かが、そこへ薄く垂れている。

「……白殿」

 勇気を搾って呼ばれたその呼称が、雨に砕けた。彼は振り向かず、海を見た。海は、彼を見ない。見ないもののほうが、彼をよく知っている。

 飄々と、彼は笑った。

「名は、よく変わる」

 雨に向かって言い、立ち上がった。立ち上がった動作が、水に記憶され、波の端で溶けた。

 彼の居場所は、味方にさえ消えつつあった。

 寝藁は、別の者のもとへ運ばれ、囲炉裏の端の空きは、背の骨の曲がった古参に与えられた。膳は、数が合わぬまま配られ、箸が一本、誰の手にも渡らないで火に落ちた。粗末な小屋の梁に吊るされた灯りは、彼が通るときだけ、風に揺れるでもないのに、わずかに陰りを増した。陰りの中で、彼は軽く肩をすくめた。肩をすくめると、「存在しなかった者」の衣に、体がさらに馴染んだ。

 その夜、畳の下の記録がひとつ、風でめくれた。

 めくれたというのは譬えで、実際には誰かの指が畳の目に差し入れられ、紙の角に触れ、確かめたのだ。指の主は、吉川元春配下の影の者。山の匂いがする。苔と土と湿った松の皮の匂い。肩の線が斜めに落ち、足の運びが柔らかい。記録が無いことを確認し、彼は畳を元に戻した。戻したときの指の温度は、雨より冷たい。

 同じ頃、海の端では、小早川隆景配下の影の者が、濡れた舟板に耳を当てていた。耳は波の数を数え、波のない時間の長さを測る。測った値は、「いない」を示した。「いない」ことを確かめに来る者ほど、よく嗅ぐ。水の下の、薄い鉄の匂い。舟板の節に残る古い血の塩。耳を板から離し、彼は舟縁に指を置いた。指の跡が残らぬように、爪の角で。影は、痕跡を持たない。

 評定の翌朝、元春は各所へ手を回した。

「祓いの名手、呼べ」

 口にしたのは祓いであって、祀りではない。呼ばれたのは、山伏と僧と社家の端くれ、それに、紙と墨を持った書役だ。彼らは火を焚かず、塩を撒かず、鈴を鳴らさず、ただ、紙に「無し」と書いた。書かれた「無し」は、やがて水に浸され、紙は解かれ、解かれた繊維は、畳の下へ戻された。儀式は、見えないところで済まされた。済まされた分だけ、兵の噂は鎮まった。鎮まるというより、別の形になった。

「白は、どこにもいなかった」

 その言い方のほうが、恐ろしくなかった。

 隆景は、子細を語らなかった。語らない代わりに、海の地図を前に置き、潮の癖の書き付けを端から焼いてゆく。焼く火は小さく、煙は出ない。煙を出さずに燃やす術を知っている男の動作は、いつ見ても美しかった。美しさは、戦に向かない。向かないものを、彼は好んだ。

「影には、顔を見せるな」

 念のために、ひとことだけ付け足す。

「顔を奪う者に、顔を覚えられるな」

 沖田は、その間に、海辺で小さな支度をした。

 合羽の裾を短く裂き、白装束の帯の一端を結び直し、刀の柄巻のほつれを歯で押さえて、雨で締めた。小さな金を一枚、斥候頭に渡し、「次の潮で本土へ渡ってもらえますか」と言う。斥候頭は頷く。頷き方が、昨日より重い。重くなった頷きは、別れの印に似る。似るだけが、今はよい。

 背で、誰かの視線が一瞬だけ止まるのを感じた。振り向かない。振り向くという行為は、刃に直結する。刃は、いま鞘にいるべきだ。鞘の中の刃は、飽きている。飽きは、嗜虐の舌にとって、もっとも退屈な味だ。退屈は、彼を長く生かす。

 昼過ぎ、雲がわずかに薄くなり、鳥居の朱が遠目にも濃く見えた頃、元就はひとりで社殿の裏へ回った。

「記すな。けれど、忘れるな」

 小さく呟いた言葉は、彼自身の骨をも通過し、鳥居の脚へ吸われていった。老いてなお、彼は風の使い方を知っている。風は、人の噂よりも忠実で、雨よりも遅延が少ない。風に預けた言葉は、必ずどこかへ届く。届いた先で、誰かがそれを拾う。拾う者が誰かを、彼は選ばない。選ばぬことが、統べるということの中に含まれている。

 夕刻、影の者たちが、それぞれ別の方角から戻り、何も告げず、何も受け取らずに散った。

 散るのが、報せだ。

「いない」

 その二文字が、場の湿りの上に、目に見えぬ印を付けた。印は、沖田の肩にも、隆景の指にも、元春の眉にも、元就の言にさえ、薄く宿った。宿るほど、現実は「無し」に寄る。寄った現実に、やがて祟りが戻る。戻る前に、祓いを終えよ。そういう時間の使い方を、彼らはよく知っている。

 夜。

 沖田は、小さな社の軒先に立った。雨は細くなり、代わりに風が湿りの向きを変えた。社の扉は閉ざされ、鈴は古く、縄は硬い。祈る意図はない。ないのに、扉の前に立つと、言葉がひとつ口の中に生まれる。

「お前の死は、ここじゃ似合わない」

 自分に言ったときには、もう、その言葉は別の誰かの骨に属していた。矢野蓮。名は呼ばない。呼ばなければ、返すべき借りの形だけが残る。借りの形は、刃の向きをわずかに変え、人の歩幅を半刻だけ遅らせ、雨の梯子の段をひとつ増やす。増えた段のぶん、人は生きる。

 彼は笑い、笑いの端を、雨に差し出した。差し出した笑いは、海へ流れ、薄まり、魚の鱗のきらめきのようなものになって消えた。

 同じ夜、吉川の陣屋では、小さな灯の下で、元春が短い文を三通書いた。

「山の衆へ。『名無(ななし)』一人、祓い候。潮の癖、尾根の雨、鳥居の朱、いずれにも近づくな。近づけば、祟らる」

 文は命令ではない。戒めだ。戒めを置くことで、命令の速度を上げる。

小早川の陣では、隆景が舟板の節に墨で点を打ち、その数を奇数にした。奇数は、海を渡るときの守りであり、また、見えない目印でもある。

「海の衆へ。『名無』を見たら、見ないふりをせよ。見ないことが、最も速い追跡である」

 追跡という語の奇妙な逆説が、墨の中で光った。

 評定の結果は、翌日には全体の動きになって現れた。

 白装束の噂は、薄くなった。薄くなったが、消えない。消えぬまま、別の名を付けられた。「誰も見なかった者」。誰も見なかった者が、夜の端を歩く。歩くたびに、兵は背の汗を薄く感じ、火は燃えずに暖かく、鈴は鳴らずに祓われた。

 抹消、という恩賞は、沖田の肩に静かに掛けられた。外からは見えない。見えぬ恩賞は、いちばん重い。重さは、彼を沈めるのではなく、浮かせる。浮いた者は、影の手に掴まれやすい。掴むための指は、すでに用意されていた。

 その指が、初めて彼に触れたのは、夜半を少し過ぎた頃だった。

 触れたといっても、布の端が風に揺れ、彼の袖にそっと当たっただけだ。触れた布は、すぐに離れ、離れたあとに、湿りの向きがわずかに変わった。山の匂いと海の匂いが、順に来る。彼は目を閉じ、一拍のあいだに嗜虐の舌を折りたたみ、理性の刃を起こした。

「味方は、一番恐ろしい」

 飄々と、呟く。

 その言葉は、明日以降、別の場で別の形を取る。今夜は、ただ、存在しなかった者の肩に置かれて、雨に薄められた。

 元就は、その頃、ひとりで文机に向かい、薄い紙に短い一行を書いていた。

「白を記さず。白を忘れず」

 筆は乾かぬうちに火へくべられ、紙は煙にもならず、灰にもならないまま消えた。消えたものは、記録ではない。記録でないものほど、長く残る。

 彼は目を閉じた。

 勝者なき勝利。

 この形を、島は選んだ。選ばれた者たちは、名を呼ばれない。名を呼ばれない者たちが、このあとに続く追跡と共闘の物語の上で、互いの骨にだけ言葉を刻む。刻まれた言葉は、祟りにも恩寵にも、どちらにも似ている。似ているからこそ、秤は割れずに済む。

 夜明け前、雨はようやく上がった。

 鳥居の朱は、すこしだけ濃くなったように見え、社殿の檜皮は水を手放し、入江は浅く息を吐いた。砂州の上の足跡は、半分だけ残り、半分は海へ去った。去った半分の上に、誰かの名があったのかどうか、もう分からない。分からないまま、島は静かになった。

 その静けさの底で、「存在しなかった者」という新しい影が、最初の一歩を踏み出した。踏み出す音は、どこにも書かれない。書かれない音だけが、これからを動かす。

 功と祟りの秤は、いま、空のまま、評定の間の隅に置かれている。誰も触れない。触れないものほど、長く効く。長く効くものだけが、物語を次へ連れてゆく。

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第十話 祟りと恩寵


 潮は、勝ち負けの言葉をまだ受け入れずにいた。

 夜半の濁りはそのままに、波の皮膚だけが薄く張り替えられ、鳥居の脚にまとわりついた泡が、息を吐くたび白から灰へ、灰から透明へと色を変える。砂州はもう姿を消し、そこに残ったのは、足跡とも跡ともいえぬ、崩れかけのへこみばかりだ。雨は細くなったが、風が湿りを運び続け、社殿の檜皮は、濡れた夜をまだ手放さない。勝利は、どこにも置かれないまま、港の外れを漂っていた。

 沖田静は、濁った潮を見ていた。

 見ているといっても、目で追うのではない。指先で、波の縁の厚みを測る。厚いところでは血の匂いが残り、薄いところでは塩が先に来る。匂いは混ぜるほど純度を失う。純度を失った血は、嗜虐の舌には物足りない。物足りなさが、彼を長く生かしてきた。

「海に流れれば、たちまち薄まる」

 飄々とした口調で誰にともなく言い、指先についた赤を水に解いた。解いた水は、小さな魚の鱗ほどにも光らず、ただ波の呼吸に紛れた。

 彼の内側には、二つの声があった。

 ひとつは、血を求める声だ。独りで歩いているとき、その声はよく笑った。笑う、というのは、刃の角度のことだ。切るべき場所が見えたとき、笑いは自然に出る。血が温かいほど冴え、冷めるほど穏やかになる。温度で制御できる嗜虐ほど、扱いやすいものはない。

 もうひとつは、刃の理屈を確かめ続ける声だ。どこから入ってどこへ抜ければ、骨を避けて声だけ奪えるか。どのつぎ目を叩けば、呼吸だけ乱して相手の意志を奪えるか。刃を抜かずに済む手順の数を、雨の日に数え、晴れの日に忘れない。理は冷たく、嗜虐は熱い。二つの温度は、一枚の舌の上で混ざり合わず、並んで立つ。今朝の風は、その並びに小さく触れた。触れられたほうの声が、微かに震えた。

 斥候頭が、足音を殺して近づいた。

「静さま」

 呼び名は濁り、水の底の石に触れたかすかな音のように擦れた。彼は振り返らず、掌だけを後ろへ差し出した。そこへ薄い金が一枚、落ちる。斥候頭の指は、金を受けるのに慣れていない。躊躇が皮膚に残る。

「次の潮で、本土へ渡っていただけませんか」

 沖田は、波と同じ調子で言った。

「ここで息を継いではなりません。潮は今朝、息を短くしました」

 斥候頭は、海を見るでもなく頷いた。頷いた拍が早い。早い拍は、恐れの形だ。

「静さまは——」

「私は、よく死ぬ」

 笑って言い、彼は金を指で押し戻す代わりに、斥候頭の手の甲を軽く叩いた。叩いた場所の血が、温度を少し上げた。温度が上がると、人は動く。

「いまは、生きる」

 付け足しは、誰に向けたものでもない。潮の縁が、その言葉を受け取るふりをして、すぐに薄めた。

 金を渡した手が、わずかに震えた。

 おかしかった。刃を抜くときに、震えたことはない。刃を鞘に戻すときにも、震えはない。金を渡すとき、震えた。震えの出どころを辿れば、評定の間の湿りを思い出す。名を記すに足らず、いや、記してはならぬ——誰かがそう言った。誰かが、ではない。島が言ったのだ。島の口は、老練な武の口ぶりで、人の骨に言葉を刻むことを知っている。抹消。軽い言葉ほど、重い。

 視界の端で、山の匂いと海の匂いが交互に動いた。

 山の匂いは、苔の湿りと、松の皮の苦味の混じったもの。海の匂いは、縄の塩と、舟板の古い血の匂い。どちらも、息が浅い。浅い息は、追う者の癖だ。彼はため息を飲み込み、笑って、石の上から立ち上がった。立ち上がる動作が海に記録される前に、足を向ける。向けた足は、濡れた小石を踏み、音を持たない。

「味方は、一番恐ろしい」

 自分に言い、雨の名残に肩を貸した。

 道の端では、敗残兵の収容が続いていた。

 矢野蓮は、泥の上に片膝をつき、濡れた布で若い兵の額を拭いていた。布は灰色で、端に小さな裂け目がある。裂け目から覗く白が、ほんのわずかに塩の匂いを持っていた。

「起きるな。起きると、立ちたくなる」

 矢野は、声を低く、短く落とした。

「立ちたくなったら、立つ前に息を吸え。吸うと、やめたくなる」

 若い兵は、言うとおりにした。息を吸い、やめた。やめることのほうが、勇気を要する夜がある。夜はもう上がったが、泥はまだ夜を抱いている。

 矢野の周りでは、声が増えつつあった。

「敗残者の処分をどうする」「傷病者に口を割らせよ」「砂州で見失った者の名を記せ」「矢野殿の隊は退路を優先したと聞くが」

 責め口は、非難というほど硬くはない。硬くない分、長く続く。長く続けば、士気は疲れる。疲れの前に、手を動かす。矢野は、負傷の位置を指で探り、布をあて、骨の段差を避けるように包み直した。包帯は濡れ、冷たい。冷たさに、兵の呼吸が均される。

「俺たちは、まだ息をしている」

 矢野は、誰にともなく言った。言葉は自分の肋骨へ落ちた。

 そこへ、先日救った敵兵——あの見張りが、担がれて運ばれてきた。

 足首の腱は断たれたままで、しかし命は失われていない。呻き声が、雨の名残のように低く続く。矢野は、その声を嫌わなかった。嫌悪は判断を鈍らせる。

「水を」

 彼は水袋を受け取り、見張りの口の端に当てた。血の塩がまだ残っている。水は塩を薄め、声の震えを少し柔らげた。

「名は」

 問うても、答は要らない。ここは名を呼ばれぬ島だ。名は、後で敵になる。

「喉が動けばそれでいい」

 矢野は、布を新しく当て直し、見張りの眼を見た。眼は彼を見ない。見ないというのは、信頼の一種だ。敵同士だからこそ、見ないまま礼が通う。

「矢野殿」

 背後から、年嵩の者の声が落ちた。

「おぬしは、臆したのではないか」

 言葉は湿っていた。湿っている言葉は、火には燃えづらいが、人の耳に粘りつく。矢野は立ち上がって、声の主の方へ半歩だけ向き直った。

「臆した。だから、生き残った。だから、彼らも」

 短い返答に、場がわずかに揺れた。揺れはすぐに収まる。収まったあと、残るのは手の動作だけだ。彼は再び膝をつき、布を押さえ、傷口の縁を指で平らにした。

「責は、あとで受ける」

 それでいい、と彼は思った。責は乾いてから受けねば、重さの分配が歪む。

 午後、雲が裂け、濁りの上に斜めの光が落ちた。

 光は何も温めない。温めない光は、標になる。矢野は、部下に短く指示して、敗残の者たちを光のないほうへ寄せた。名簿の木札には、まだ空白が多い。空白は祟りではない。恩寵とも違う。空白のまま残しておくことは、時に祈りに似る。

 見張りの男が、浅く目を開け、唇が微かに動いた。

「お前は、ここで死なせない」

 矢野は、自分に向けて言った言葉を、男へ貸した。貸した言葉の利息は、のちに自分が払うのだろう。借りは、借りへの返答でもある。

 夕刻、風がひとつ向きを変え、港の外れの水面がわずかに撫でられた。

 沖田は、鳥居の片足の影へ身を寄せ、濡れた縄を指で弾いた。弾いた縄は鳴らず、鳴らない音が、耳の奥に薄く響く。

「記すな。けれど、忘れるな」

 評定の場で落ちた言葉が、縄の繊維に残っている。残っているものは、祓いの対象になる。祓いが山から降りれば、海もまた応じる。応じるというのは、追手が現れるという意味だ。

 山の影は、地面に馴染む。海の影は、目に馴染まない。二つの影が交互に出入りし、彼の周囲の湿りが薄くなったり濃くなったりする。薄いときは嗜虐が笑い、濃いときは理が笑う。二人の笑いは交わらない。交わらないまま、彼を立たせる。

 斥候の少年が、控えめに近づいた。

「静さま、船が——」

 言いかけて、少年は口を噤んだ。沖田の手が、わずかに震えたのを見たからだ。

「お行きなさい」

 沖田は、その震えを自分で認めるように、わずかに頷いた。

「今夜は、船でなく、足で渡ります」

 少年は意味を取れず、しかし頷いた。頷きだけが伝わればよい。言葉は、多いときほど失敗する。彼は少年の肩を軽く押し、背を向けた。押す手が、埋葬の手に似ていた。

 山の影が完全に夜へ溶け、海の影が港の端でほどけ、鳥居の朱が内側の光を取り戻すころ、矢野はひとり、鳥居の下に立った。

 雨は止んだが、縄はまだ湿っている。風が、塩の匂いを戻す。

 足下で、小さな白が揺れた。

 布の切れ端。白装束の裾のようでいて、波に揉まれ、海塩が沁み込み、血の痕が蜘蛛の巣のように広がっている。

 彼はしゃがみ、指先でそれを摘み上げた。布は重くない。重くないものほど、記憶に残る。布の端には、糸が一本、長く出ている。糸を引けば、夜がほつれる気がした。引かない。引かず、掌に置く。置いた掌に、塩の冷たさが移る。

「ここで死ぬな」

 彼は小さく言い、布を懐へしまった。しまう場所は、護符の隣だ。紙と布が触れ合い、ざらり、と音を立てた気がした。

 その夜、矢野は火のそばに座らず、誰とも酒を交わさず、ただ、見張りの男の側にいた。男は眠りと醒めの境を漂い、呻きはもう声の形を取らない。呼吸の数だけ、夜が長くなる。長くなった夜は、彼の骨の書付を読み返させる。

 ——ここで死ぬな。

 ——ここではない。

 ——借りは返す。

 言葉は、骨に書かれるとき、形を変える。命令ではなく、姿勢になる。姿勢は、誰にも見えない。見えないのに、周りを整える。整った場は、追及の声を柔らげる。

「矢野殿」

 昼の声の主が、夜になって来た。

「先ほどは……悪く言った」

 矢野は首を振った。謝罪は水に似て、火を消すが、泥は洗わない。

「人は、生かされると屈辱を覚える。屈辱は、朝には消える」

 彼は、布を少しきつく巻き直し、見張りの額の汗を拭いた。汗は雨より温かい。温かさが、彼の指先に戻る。

 沖田は、同じ夜、社殿の裏でひとり、刃の重心を確かめていた。

 刃を抜き、鞘に戻し、戻し切らずにかすかに止める。止めた瞬間の重みの偏りが、彼の身体の傾きと一致するかどうか。一致しなければ、明日、どの方向へ歩けばよいかが決まらない。

 指先の震えは、まだ少し残っていた。残っていることが、彼を笑わせた。笑いは嗜虐ではなく、理の側から出た。

「死にに行くときに震えたことはない」

 飄々と言い、刃の背を指で撫でた。

「生きにくくなると、震える」

 生きにくさが、祟りに似てくる。祟りは、追うべき影を呼ぶ。影が来る前に、彼は足を決める。足は、山へではない。海へでもない。

「道は、黒いほうに出る」

 黒い道。夜の死角が連なってできる、あの細い通路。彼のためにではない。矢野蓮のためでもない。道そのもののために、そこを選ぶ。道は、選ばれなければ死ぬ。死なせないという選択が、自分に似合う夜がある。

 港の外れで、山の影と海の影が、互いに気配を確かめ合っていた。

 山の者は、滑るように地を移り、足跡を残さない。海の者は、舟板の節に耳を当て、波の数を数え、数の間の沈黙の長さで相手の息を読む。どちらも、名を持たない。名を持たぬ者同士は、互いを見失いやすい。見失いやすさが、唯一の恩寵だ。

 沖田は、その恩寵に寄りかからない。寄りかかれば、それはすぐ祟りに変わる。祟りは、返される。返された祟りは、刃の重さを増やす。重くなった刃は、彼の手に合わない。

「近いな」

 風に向かって言い、肩の力を抜いた。力を抜くほど、刃はよく働く。働くというのは、切ることではない。切らずに済ませる方向へ、世界の重さをずらすことだ。

 矢野は、火の消えたあとの灰を指で崩し、匂いを嗅いだ。

 灰は、昨日の木の匂いと、今日の血の匂いを混ぜ、どちらでもない温度を持つ。温度が中途のとき、人は語りやすい。語らせてはならない。語らずに済ませるには、誰かの身体が側に要る。彼は見張りの男の呼吸に耳を寄せ、拍を数えた。拍は、先ほどより少し長い。長い拍は、夜を延ばす。延びた夜が、祟りを薄める。

 懐の布が、護符の紙と擦れて、また音を立てた。蜘蛛の巣のような血の痕が、布に残っている。血は、乾くと軽い。軽いものが、彼の胸で重さを持つ。

「名を呼ばれぬ島」

 老女の言葉が、骨に帰ってくる。名を呼ばれぬことが、救いになる夜。救いは、恩寵に似ている。似ているものは、いちばん長く効く。

 夜更け、鳥居の朱が、わずかに内側から灯るように見えた。

 沖田は、その脚に手を当て、木の冷たさで現在を確かめた。確かめることで、過去が薄くなる。薄くなった過去は、祟りになりにくい。

「記すな。けれど、忘れるな」

 もう一度だけ言い、彼は鳥居から離れた。離れる前に、白装束の裾を指で裂いた。小さな切れ端が、風に揺れ、どこかへ行った。行き先は、彼が決めるものではない。布は布で、行くべき場所を知っている。

 刃を鞘に戻し、戻し切って、彼は歩き出した。歩みは音を持たない。音のない歩みだけが、追手の耳に入らない。入らないものが、彼の恩寵だ。

 矢野は、灰が静かに冷えるのを見届けてから、立ち上がった。

 背が軋まない。軋まない背は、借りを正しく持っている。借りは、軽く扱えば呪いに変わる。重く持てば、いつか返し方が現れる。

「ここではない」

 彼は、鳥居のほうへ視線だけをやり、声にせずに頷いた。頷きは誰にも見えない。見えないまま、礼が通う。礼が通う夜だけが、戦の続きに橋を架ける。

 夜の底で、祟りと恩寵は、まるで同じ形をしていた。

 どちらも名を持たず、どちらも湿りを好み、どちらも人の骨の内側へ静かに染み入る。違いは、触れたあとに残す重さの配分だけだ。祟りは、刃を重くする。恩寵は、刃を鈍らせる。鈍った刃が、今夜は美しい。

 沖田は鈍い刃を携え、矢野は布と紙の擦れる音を胸に、別々の闇へ入っていった。足音は、どちらも、水に向いている。水は、すべてを薄める。薄められたものだけが、朝を越える。

 朝は、まだ来ない。

 鳥居の朱は、内側の光を隠した。隠しながら、木の肌がわずかに温かくなる。温かくなると、祟りは眠り、恩寵は形を変える。形を変えながら、二人の間の距離は、刃の間合いと同じ正確さで縮み、まだ交わらない。交わらないことが、いまは唯一の礼だ。礼は、長く効く。長く効くものだけが、物語を押しすすめる。

 潮は、先ほどよりさらに静かに呼吸している。呼吸の端に、薄い白が浮かんで、すぐに消えた。消えたものだけが、長く残る。布の切れ端は、懐の紙に寄り添い、塩の匂いを伝えた。塩は、血の匂いをやさしくし、やさしさは、刃の理屈を眠らせた。眠りの中で、嗜虐の舌が短く笑い、理の声がうなずいた。

 祟りと恩寵は、一本の縄のように()り合わさり、ほどけそうでほどけないまま、夜の梁にかかっていた。

 その下を、二人は素通りした。素通りすることが、今夜の勝ちだった。

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第十一話 追手、島影より


 追手の足音は、雨の止む音に似ていた。

 降りやんだあとの静けさは、音が消えたのではなく、別の場所へ移ったせいで生まれる。山の影が湿りを手放しはじめ、針葉の先から落ちる最後の水が、土の脈の上で小さく弾ける。その弾けにまぎれて、柔い草を踏む足、籐の甲冑が鳴らす微かな擦過、綱を引く手の節の乾いた音――吉川配下の斬り手は、音を持たぬように訓じられた身のまま、それでも物理という嘘つかぬ習慣に従って、到来の痕跡を残していた。

 沖田静は、岩の陰で片膝を立て、潮の匂いを薄く吸った。

 雨はとうにやみ、海面は風に撫でられて白い鱗を見せ、鳥居の朱は夜のあいだに内側へ引き取った色を、明け方の薄光へと少しずつ返しつつあった。潮は下がり、砂州はすでに消え、入江の喉は朝のために広がっている。彼は、鞘の口へ指を置き、柄に添えた親指を半刻だけ浮かせては戻し、重心の位置を手の内で測った。嗜虐の舌が目を覚まし、理の声が「まだだ」と囁く。二つの声音は、いつものように隣り合い、互いに触れず、互いの存在だけを肯定していた。

「味方は、一番恐ろしい」

 飄々と、誰にともなく言う。言葉は潮風へ融け、鳥居の脚を撫でて、消えた。

 山の影が、視界の縁を斜めに切った。

 現れたのは、三の列。先頭は短槍を逆手に持ち、二列目が小太刀、三列目が鉤縄。兜の緒は堅く、目の下には煤を薄く引いてある。見られることを嫌う者の身だしなみだ。吉川の山の衆。寡黙で迅速、風上と風下の区別を骨で嗅ぎ、足が地を離れる寸前に膝を緩め、踏む音を土に渡す術を持つ。

 先頭の男が、指を二度、弾いた。

 合図に応じ、二列目の左右が開き、三列目の鉤縄が岩の角へ立つ。縄の先の鉤は、雨で鈍った鉄の匂いを残している。沖田は、唇の片端を上げる。挑発の笑み。嗜虐は、獣より先に笑う。

「探し物は、白ですか、無ですか」

 声は静かに、しかし足元の湿りを震わせて、相手の膝へ届く高さに落ちた。

 返事は、刃だった。

 短槍の穂先が、風を一枚だけ剥ぎ、沖田の頬の皮を一枚、薄く削った。血は出ない。皮膚の記憶だけが熱を持つ。刃はその熱へ集まる。集まった刃を、彼は半身で受け流し、鞘で槍の石突きをこじり、地面の小石を一つ、槍の木に噛ませた。石は黙って割れる。割れた音が、山の衆の耳をわずかに叱り、前進の拍を半分崩した。

 左から小太刀。

 低い。良い高さだ。彼は刃を出さない。鞘の角で手首の腱を撫でる。切らない。撫でるだけ。撫でられた腱は、次の一合で自ら弱る。弱るものを待つのは簡単だ。簡単は退屈だ。退屈は、生を延ばす。

 右の鉤縄が、背にくるりと回る。縄の繊維に塩が残り、滑りが悪い。悪い滑りは、殺意の速度を鈍らせる。鈍りは、刃の友だ。彼は足を半歩後ろへ払って、縄を自らの腰に流し、締めを待つ間もなく逆手で縄を掴み、引くのではなく、持ち主の体の軸を一寸だけ捻った。捻られた男は、倒れない。倒れないところが良い。倒れねば、殺さずに済む。

「白!」

 誰かが呼んだ。名は呼ばれぬ島だが、異名は別だ。異名は、祓いの道具にもなる。呼ばれた瞬間、山の衆の間に、うっすらとした安堵が流れた。対象が輪郭を持つ安堵。輪郭は、刃のために用意された入口だ。沖田は入口を素通りし、槍の柄の節の不揃いを指で探り、節の高いところへ鞘の角を軽く当てた。木が鳴る。鳴いた木の振動が穂先へ伝わり、手の平をくすぐる。人はくすぐられると、力を均等に入れ損なう。損なった瞬間、彼は体を半身から四分の三身へ、影のように滑らせ、刃を出した。

 ひと振り目は、喉ではない。

 喉を切れば、声は消える。声が消えると、残りの者の判断は速くなる。速くなった判断は、いちどきに襲う。襲われれば、刃は飽きる。飽きた刃は、誤る。

 彼は、肩を斜めに切った。皮と布と筋の境を、紙を裂くほどの浅さで。痛みは走るが、致命ではない。痛みは、群れの背骨へ伝わり、背骨は一瞬だけ弓なりになって、列の間へ空隙を作る。その空隙が、黒い道の起点だ。

「囲め」

 低い命令。

 左右の小太刀が入る。

 沖田は、笑う。嗜虐の舌が、鉄の味を思い出し、理の声が「そこは()」と告げる。

 鞘で左の小太刀の背を打ち、刃を自らの外へ追い出す。右は、柄で受けず、肘で受け、骨で角度を逸らす。骨に触れさせると、相手の腕の骨も同時にこちらへ触れる。触れた骨同士が、音もなく礼を交わす。礼は、一瞬だけ殺意を鈍らせる。鈍った隙に、沖田は前へ踏み、槍の男と鼻が触れる距離へ入った。入ってから、刃を動かす。

 切りつけない。

 刃の背で、喉の皮膚を少しだけ押し、気道を塞がぬ程度に浅く、しかし咳を誘う角度で、線を置く。咳は出ない。出ない咳ほど苦しい。苦しみは、殺意を散らす。散るものの上に、彼は足を置いた。

 鉤縄が、ふたたび腰を狙う。

 縄の主は、先ほどの捻りを学んで、今度は締めを早くした。賢い。賢い手は、殺意も賢い。賢い殺意には、愉悦がある。愉悦に礼を返すのは、鈍い刃だけだ。沖田は、刃の腹を縄の上に置き、滑らせ、繊維を一本ずつほどくように、微細な振動を与えた。縄は切れない。切れないが、締まりを失う。失った縄の向こうで、山の衆は初めて「この者は殺さない」という事実に触れ、わずかに戸惑った。戸惑いは、刃の味方だ。

 その戸惑いに、別の刃が斜めから入ってきた。

 涼しい風のような踏み込み。

 裾の泥が細く跳ね、木札が肩口で鳴り、声はまだ発せられない。

 矢野蓮だった。

 彼は、己の槍を長く持たなかった。

 半柄で詰める。鞘は帯に残し、柄と鞘のかわりに、掌と肘を武器にした。掌は握らない。握れば固い。固い動きは、朝の湿りに向かぬ。彼は走りながら、捕らえかけていた山の衆の腕を逆に取り、肩で押し、地面に転がすのではなく、膝で座らせるように落とした。座らされた男の喉に刃を置かず、背に膝を当てて、視界を遮った。遮られた視界は、殺意の半分を盗まれる。

「ここでは死なせない」

 矢野は、沖田に向けてだけ、短く言った。

 その言葉は、先日の夜、社殿裏で囁かれた言の反転だった。返された言葉が骨に入る。骨に入った言葉は、すぐに動作へ変わる。

 沖田は、笑って頷いた。

 頷きは一度だけ。足の向きが、矢野の肩の角度に合わさる。これで、背中を合わせる準備ができた。

 二人の間に、短い空白が生まれる。空白は、輪舞のための中心だ。

 山の衆が、速さを取り戻した。

 数では勝る。寡黙は強さだ。彼らは声を持たず、符丁だけで円を縮める。縮んだ円の内側で、沖田と矢野が、互いの背を一点で合わせた。背骨と背骨のあいだに、薄い紙一枚分の余白を残し、呼吸を同期させる。吸えば、相手が吐く。吐けば、相手が半歩ずれる。

 輪舞が、始まった。

 最初の回転は、右。

 沖田が刃で右を押さえ、矢野が左の足を切る。切るといっても、皮一枚。皮が裂ければ、足は次の一合で自ら止まる。止まった足の上に、別の刃がある。刃に刃を載せず、柄で押さえ、肩で払う。払うと同時に、沖田の刃が背の向こうで喉元へ行き、喉ではなく、鎖骨の窪みに影を置く。影は切れずに、殺意だけを黙らせる。

 二回転目、左へ。

 矢野の槍が半柄から一寸だけ伸び、石突きが膝裏を叩く。叩くというより、触れる。触れられた膝は、地面の湿りに礼をして、わずかに沈む。沈むと、背後の沖田の鞘が肩甲骨の端を打ち、力が腕から抜ける。抜けた腕が落とした刃を、矢野は踏まない。踏めば折れる。折れた刃は、次の瞬間に凶器になる。彼は刃の平へ足の裏を柔く置き、滑らせ、泥の中へ返した。

 三回転目、右。

 鉤縄が二本、同時に飛ぶ。

 沖田は、一方を肩で受け、一方を刃の背で払い、矢野が縄の持ち手の手首を取って、逆へ捻る。捻られた手は、抵抗しない。抵抗せぬように捻ったからだ。捻り方が礼を含むと、相手の骨は素直だ。素直な骨の先に、沖田の刃が置いた影があって、その影が咳の代わりに呼吸を奪う。

 四回転目、左。

 短槍の穂先が、背の紙一枚に触れた。紙がわずかに動き、二人は同時に半歩ずつ、違う方向へ抜けた。抜けた先で、矢野が石突きで刃の根を抑え、沖田が柄で喉を押す。押すのは、切らないためだ。切らずに済む回数が増えるほど、嗜虐の舌は退屈を覚え、理の声は静かに喜ぶ。喜びは、刃を鈍らせる。鈍い刃が、今は良い。

 山の衆の輪が、わずかに緩む。

 緩みは、空気に出る。湿りが薄くなる。薄さは、波の高鳴りに似て、入江の喉の奥で低くうなった。海が、戦を嗤う。嗤いに乗るな。彼らの骨は、それを知っている。

 矢野は、斜め前の岩の上に、瞬間の逃げ道を見た。黒い道。雨の夜に沖田が置いた白い小石の経路が、今は目に見えぬまま地形の陰影に残り、その陰影が列の切れ目を誘う。彼は背でそれを示す。示し方は、呼吸の拍の変化。吸い終わる前に吐きはじめる。沖田は即座に理解した。

「先に抜ける。――十、八、六」

 矢野の言葉は、数であり、方向であり、礼である。

「四、二」

 沖田が数を終え、二人は同時に右へ回った。輪舞の円が、一瞬、楕円に歪み、その長軸が黒い道の入口へ向かう。そこへ短槍の男が躍り込み、穂先が白い喉元へ伸びた。

 嗜虐の舌が笑う。

 沖田は、刃を半寸だけ下げ、喉の前で穂先を受け、火花も血も出さずに角度をずらした。ずらした穂先は、後ろの男の肩へ流れ、その男は驚きに目を見開き、しかし刺さりはしない。刺さらぬよう、矢野の槍の柄が静かに受けている。二人の間で、刺すべき刃は刺さることを忘れ、刺さらぬことで自壊する。自壊の音は、湿りに向かぬ。向かぬ音は、戦を短くする。

「押せ」

 矢野が低く言った。

 押すのは、刃ではない。空気だ。二人が同時に半歩前へ押す。背の紙がきしむ。きしみが、山の衆の膝へ伝わる。膝は、湿りの上で礼をし、わずかに折れる。その折れの間に、二人は黒い道の起点を跨いだ。起点を越えれば、輪舞は移動する。移動する輪舞は、道の形を刻む。刻まれた形は、追手にとって、足場であり、罠でもある。

 山の衆の中に、一人だけ笑った者がいた。

 笑いは短く、刃の端に乗り、刃が閃いて、矢野の耳の際を風が斜めに抜けた。髪が一筋だけ切れ、肌が冷える。痛みはない。ないが、血は薄く出て、耳の内側へ熱を置いた。熱は、判断を鋭くする。矢野は、笑った者の眼を見た。眼は、殺しに慣れている。慣れている者に対しては、礼を多くする。彼は、槍を半柄に戻し、相手の足の踏みしろを奪い、倒す代わりに座らせ、視界を奪い、呼吸の拍を乱し、刃の先端に「無駄」を与えた。無駄は、嗜虐の天敵だ。嗜虐は、無駄に飽きる。

「引け」

 誰かが、小さく言った。敵の側の声だ。

 輪が、後ろへ半足退いた。退いた輪は、崩れる直前に強くなる。最後の強さが、最後の刃を呼ぶ。呼ばれた刃は、正しく、彼らの背へ向かってきた。

 沖田は、背を離さない。

 矢野も、離さない。

 背の紙一枚が、湿りを含んで重くなり、二人の間の芯を強くする。芯の強さに合わせて、輪舞が回転を速める。速く回る輪は、中心の狂いを許さない。狂いがないほど、刃は鈍り、鈍るほど、生還線が太くなる。

 海が、鳴った。

 波の背が、鳥居の脚を叩いた音。

 その一撃が、太鼓の一打に似て、朝の空気の底へ沈んだ。

「いま」

 矢野の声は、風より低く、骨より速い。

 沖田は、返事をしなかった。しない返事が、一番速い。

 二人は、黒い道へ飛び込んだ。

 道は、雨の夜にできて、晴れの朝に見えない。見えないが、存在する。岩の角の向き、草の倒れ方、土の硬さ、湿りの重心――それらが、地図の余白のように示す「通ってよい」を、沖田は、指先ではなく背中で読み、矢野は、護符の紙のエッジで読んだ。読む速度は、刃の速度を上回る。刃は、読まれるものに追いつかない。

 背後で、鉤縄が鳴った。

 岩角にかかり、綱が張り、追手が道を塞ぐ。塞がれた入口を、二人は使わない。使わないのが、道を長生きさせる。彼らは斜面を斜めに降り、松の根を踏み、濡れた苔を避け、石と石の間の見えぬ隙間へ足を落とし、同時に半身を捻って、狭い岩間をすれ違う二本の矢のように、互いを傷つけずに通った。

 追手のひとりが、焦れた。

 焦りは、刃の友であり、敵でもある。

 男は、短槍の穂先に自らの焦りを載せ、距離を潰し、踏み込み、足を滑らせた。滑りは、礼だ。湿りは、戦場の唯一の公平。公平は、時に美しい。男の膝が土へ落ちる瞬間、矢野の石突きが彼の槍の根を押さえ、沖田の刃の腹が男の喉元に触れ、切らずに押した。押されることで、人は生かされる。生かされることで、人は屈辱を覚える。屈辱は、朝に溶ける。

 岩の陰を抜けると、空が広がった。

 海は近い。波は高鳴り、鳥居の朱は、また内側の光を吸い込んで、外へ色を返す準備をしている。浜には、倒れた舟板が一枚。節に塩が残り、古い血の匂いが薄い。沖田は、その板の節を指で弾いた。鳴らない。鳴らない音が、道の正しさを保証する。彼は矢野を見た。見たというより、背の皮膚で確認した。

 山の衆は、追うのをやめない。

 海の衆が、別の角度から現れる。舟板の陰、濡れた砂の上、白い波の端。鎖と重りを持った手、短い鉤を二つ持つ手、網を巻いた肩。海の者の足は、泥に向かない。向かないが、砂には速い。速いものは、刃を呼ぶ。二人は、輪舞をやめない。輪舞は、敵味方の線を消す所作だ。消えるからこそ、礼が通る。

 網が投げられた。

 重りが先に飛び、綱が空中で円を描き、光のない朝の空に、薄い輪を置く。輪は、落ちる前から罠の形をしている。矢野は、半歩だけ遅れて踏み込み、石突きで輪の下縁を持ち上げ、沖田の肩越しに返した。返された輪が、投げた男の膝を絡め、男は前のめりに砂へ落ちる。落ちた男の背へ、沖田は刃を置かなかった。置かず、砂を掴んでその頬へ少しだけ擦り付けた。砂の痛みは、人を目覚めさせる。起きた者は、次に刃を取らない。

 鎖が唸り、鉤が砂を掻く。

 沖田は、鎖の軌道の外側へ移り、矢野は内側へ入る。内と外の交錯。背中の紙がきしむ。きしみは、中心の正しさを告げる。鎖の手は、動きが正確だ。正確な手には、ほんのわずかの乱れが致命になる。沖田は、鎖の重りが最下点を過ぎる一刹那、刃の背でその重りを打った。打つというほど強くない。触れた。触れられた鉄は驚き、わずかに軌道を外し、砂へ突き、砂が鉄を飲んで、鎖の意志を奪った。

「退け」

 海の衆の誰かが叫び、声に従って二歩下がる。

 そこへ、山の衆の槍が重なった。互いの合図が混線する瞬間。混線は、刃の友だ。彼らの輪が勝手に崩れる。崩れる輪の外で、沖田と矢野は、背を合わせたまま、ゆっくりと角度を変え、黒い道の次の刻みへ、身体を滑らせていく。

 沖田は、矢野の間合いを一度で理解した。

 彼の槍は、突くためにあるのではない。道を指すためにある。指された道は、常に背のほうにある。背のほうにある道を、刃で守る。その役割は、噛み合う。噛み合ってしまえば、嗜虐の舌はやることを減らされる。減らされた舌は、飽きた、と告げる。

 飽きるのは、今に限って、良い兆候だ。

 海風が、二人の髪を逆向きに撫でた。

 同時に、鳥居の根元で波が立ち、飛沫が頬の傷に塩を置いた。痛みは、礼だ。生きていることへの短い礼。礼が通った瞬間、二人は足を前へ。

 生還線が、視界の端に現れた。

 岩と岩のあいだ、松の根の間隙、濡れた砂の色の濃い部分が一本に繋がる。そこを渡れば、追手は遅れる。遅れた追手は、別の入口を探して、勝手に時間を浪費する。

 最後の刃が、背へ来た。

 気配が、骨へ触れ、皮膚が警鐘を鳴らす。鐘の音は小さい。小さいほうが速い。矢野が前へ、沖田が後ろへ。二人の背の紙が、裂けぬ程度に強く張り合い、紙の緊張が刃の角度を変えさせる。沖田は振り返らず、柄を短く返し、刃を抜かず、柄頭で相手の口元を打った。歯が鳴る。鳴るが、折れない。折られた者は、次に祟る。祟らせないための鈍い打ち。

「行け」

 矢野の声が、風を割った。

 彼らは、走らない。

 走れば、音が増える。音が増えれば、黒い道が薄れる。薄れた道は、朝には消える。消えれば、次はない。二人は、歩幅を揃え、呼吸を計り、海の音を背に、鳥居の朱を横目に置いたまま、岩の陰から陰へ、影の梯子を上った。

 追手は、追わないことを選んだ。

 選ぶというのは、敗北ではない。賢い敗退だ。山の衆の隊長が短く指を振り、海の衆の長が顎で波を示す。波は高く、潮は変わり、鳥居の根元で渦が二度、同じ場所に生まれた。渦は吉兆ではない。戦には向かない縁起。

「祟り返す」

 誰かが小さく言い、その言葉を風が、礼として持っていった。

 岩陰を抜けた先に、小さな古い小径があった。

 木札が一つ、濡れて重く、しかし地面へよく噛んでいる。矢野が先に足を置き、沖田が後に続く。背中の紙は、いつのまにか乾きはじめ、きしみが消えた。消えた分だけ、二人は別々の身体に戻る。戻りながら、なお、同じ拍で歩く。

「借りを、ひとつ」

 矢野が、息と同じ速さで言った。

「返すのは、ここではありません」

 沖田が、笑って答えた。飄々と、しかし笑いの端に、わずかな疲れが混じる。疲れは、礼だ。礼は、戦のあいだしか通らない。

 小径は、海から離れ、山の腹へ巻き上がる。

 樹の根が段になり、苔が滑り、鳥の声がまだ戻らない。二人は言葉を使わず、足の置き場と、枝の払われ方と、風の曲がる角度だけで、互いの居場所を確かめあった。確かめるたび、輪舞の型が、身体に残ったまま形を変える。回る代わりに、揺れる。揺れる代わりに、息が合う。

 背後で、太鼓が一打、遠くで鳴った気がした。

 実際には、波が岩を叩いたのだろう。だが、意味は同じだ。道が空いた。

 沖田は、立ち止まり、鳥居の見えない空へ、片手を上げた。

「道を、貰います」

 小さく言って、肩の力を抜く。嗜虐の舌がまた眠り、理の声が静かに頷いた。

 小径の先に、廃れた寺の影が見えた。

 瓦は落ち、柱は細り、しかし、雨を凌ぐ程度の屋根は残っている。矢野は、その影へ視線を送り、沖田はわざと視線を外した。意図を合わせないまま合う。

「名を隠す宿」

 矢野が、声にせずに言い、沖田が、声にせずに答える。二人の間には、もう「敵味方」の線はない。線を消したのは、刃ではなく、礼だった。

 もう一度だけ、追手の気配が波のように寄せた。

 寄せて、引いた。

 引いた波は、砂に白い縁を残し、鳥居の朱へ静かに触れた。朱は、何も言わなかった。言わないものほど、長く効く。

 沖田は、背中の紙を指で撫で、目に見えないそれを、そっと剥いだ。剥がれた紙は、風に乗り、どこへも行かずに、その場で消えた。

「ここでは死なせない」

 矢野の言葉が、骨に残ったまま、道の湿りを軽くする。

「お前の死は、ここじゃ似合わない」

 かつての夜の囁きが、別の形で返された。返された言葉は、約束ではない。型だ。背中合わせの輪舞の“型”。

 型は、次の場面のために、いま、身体の深いところへしまわれた。

 風が、海の匂いを少し軽くし、山の匂いを少し濃くした。

 鳥居の見えない場所で、二人は同時に肩を落とし、同じ拍で息を吐いた。吐いた息は、白くならない。白くならない呼気だけが、今の季節に正しい。

「行こう」

 矢野が言い、沖田が頷く。

 背中の紙は、もう要らない。

 だが、背中の感覚は、消えなかった。

 消えぬまま、二人は廃寺の陰へ入り、短い静けさを選んだ。選ぶという行為は、戦の続きに必要な唯一の贅沢だ。

 砂の上には、輪舞の跡が、何も残っていなかった。

 残らぬものだけが、祟りにならず、恩寵になりうる。

 追手は、海と山の境で立ち止まり、互いに一度だけ目を合わせ、何も言わずに散った。散るという報せが、風の中でほどけ、鳥居の朱へ届き、朱は内側の光をわずかに強くした。

 勝者なき勝利の余白に、背中合わせの輪舞の“型”が、見えない墨で記された。

 記すな。けれど、忘れるな。

 その掟だけが、潮の音に紛れて、長く、薄く、残った。

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第十二話 名を隠す宿


 海沿いの荒れ寺は、潮に洗われた木の匂いと、古い灯心油の酸い匂いを同じだけ抱いていた。

 山門はとうに外され、柱だけが骨のように立って、風の通り道を作っている。鐘楼は傾き、梵鐘は別の寺へ売られたのか、縄だけが梁からぶら下がり、縄の撚り目に白い塩が結晶していた。大きな本堂は半分を板で囲い、そこを宿に改めたらしい。朱の剥げた欄間に、粗末な簾と藁の寝具、歪んだ火鉢に小さな火。寺だった頃の名は、どこにも見当たらない。名を剥がされた建物は、たいてい静かだ。静かさは、祓いより効く。

 矢野蓮は、入口の板戸を肩で押し、湿った空気をいったん外へ追い出してから入った。

 沖田静が、後に続く。白装束は黒い外套の下で色を見せず、濡れた裾だけが床板に小さな水紋を作った。板は海の塩を吸い、足音を柔らげる。火は弱く、灰に半ば沈んだ炭が、ときおり鳴る。鍛えの甘い鉄を軽く叩いたような、乾いた音。音は、戦の余韻に似ていた。

 宿の主は老いた尼だった。

 頭は剃らず、白い髪を布で後ろに束ね、粗末な法衣の袖を肘まで捲り上げている。目は海の色を少し残して、よく眠れない夜の色も少し混ぜていた。尼は二人を見ると、名を問わず、手で火のそばを示した。

「名帳はない。金は、前に」

 矢野が懐から銭を出す。尼は数えず、手のひらで重さだけ確かめ、柱の隙に滑らせた。滑らせるというのは、祈りの一種だ。目に見えぬところへ重さを移すことで、この場に名を置かぬ処し方が成立する。

 火のそばで、二人は武具を外す順を互いに観た。

 矢野は槍を壁に立てかけ、石突きに布を巻いて音を殺した。脛当ての紐をほどく手は無駄がない。沖田は刀を膝に置き、鞘の口に指を触れてから、半刻だけ遠くを見る癖を出した。刃を眠らせる前の、小さな礼だ。礼に礼は要らない。要らない沈黙が、火の上に薄く張る。

 尼が湯を運んだ。

 茗荷と塩の匂いがほんの少し。茶ではない。草を湯に通しただけのものだ。矢野は両手で碗を受け取り、沖田の前へ置く。沖田は飄々と笑い、碗の縁に口をつけず、湯気だけ吸った。熱の形を測るみたいに、薄い煙を舌で追って、目を細める。

 尼は眉を動かさず、火へ新しい炭を足す。

 最初の言葉は、矢野から出た。

「名を、聞いておきたい」

 矢野の口の中は、塩の味がまだ薄く残っている。鳥居の脚の飛沫が乾き、唇の端に白い粉となっていた。名を問う声は、祈りではない。構えだ。構えの良し悪しは、最初の一言に現れる。

 沖田は、火を覗きこみ、炭の角の崩れ具合を見てから、答えた。

「沖田、静」

 短く。名の後に、何も置かない。呼吸ひとつ分だけ、わざと空白を残し、そこへ微笑を置いた。

「ただ、名はたびたび変わる」

 矢野の眉がわずかに動く。

「変えるのか」

「変わる」

 飄々と、言い直さない。能動も受動も捨て、事実の側へ身を置く。

「名は、他人が呼ぶ音です。他人が変えれば、変わります。私は耳がよくて。呼ばれた音をそのまま、今夜の名にするんです」

「今夜の名、か」

「今夜の名。明日の名は、あれば明日また聞けばいい」

 理の声がそう言わせ、嗜虐の舌が退屈そうに欠伸をした。

 矢野は頷き、小さな間を挟んで、自分の名を出した。

「矢野、蓮」

 それだけ。姓と名の間に、薄い刃物のような沈黙を挟む。「蓮」という音の涼しさが、この荒れ寺の湿り気に似合わないほど清澄に響く。名は場に水脈を作る。作った水脈に、火がわずかに反応して音を立てた。

 沖田は、その音へ目線だけを投げ、口の端を少し上げた。

「蓮。水を吸っても折れない草の名です。あなたには似合う」

「似合う、か」

 矢野は自らの掌を見た。掌の小さな擦過は、今日の砂州の名残だ。皮膚の地形が、名の音を受け入れる場所を探す。

 矢野は懐から護符を取り出した。

 老女から受けた、小さな紙片。潮除けの細い藁を巻き、結び目がひとつ。紙には見えない墨が走っている。火にかざせば、墨は立つのかもしれないが、彼はそれをしない。護符は、火の試しを嫌う。

「これを、返す」

 矢野は、紙を沖田の前へ差し出した。指先は震えない。震えないが、力が入っていない。返し方の礼を選んでいる。

 沖田は、受け取りの礼を取らなかった。掌を出す代わりに、護符と矢野の手ごと、そっと押し戻した。

「持っていてください。あなたには似合う」

「お前にこそ、必要だ」

「私には、名の代わりにできるものが幾つかある。紙より古く、紙より薄く、紙より燃えにくいものが」

「何だ」

「骨に書いた掟です」

 沖田は飄々と笑い、火の上で軽く手を振った。火花がひとつ、灰の上で弾けて消える。

「記すな。けれど、忘れるな」

 その音律だけが、護符のかわりに場へ置かれた。

 会話は、ここから手合わせになった。

 矢野は姿勢を変えず、血の匂いの薄い呼気を保ったまま、問いを敵の懐へ打ち込むように出した。

「なぜ、俺を殺さなかった」

 火の上をすべる刃。刃先を出さず、相手の間合いだけ測る問いだ。

 沖田は、すぐには受けない。受けず、火鉢の灰を指で崩し、崩れた灰の温度で間合いをずらした。

「ここでは、似合いませんでしたから」

「似合わない、とは、何の尺度だ」

「死ぬ場所の品格、というやつですね。死はどこでも同じ色になるようでいて、やはり場との相性がある。鳥居の脚は、祓いの色が強すぎます。そこであなたを斬れば、死は祓いに食われる。祓いに食われた死は、早く薄まる。薄まる死が私は嫌いです」

 矢野は目を細めた。

「俺は、死に薄まってほしい者を、薄まらせたくて戦ってきた」

「それも、倫理です。私のは、嗜好に近い」

 沖田は嗜虐の舌を指で押さえるように、唇の端を軽く噛んだ。

「ですが、嗜好の理を、ずっと鞘で囲っています。そこが、あなたには見えにくいところでしょうね」

「見えにくい、が、見えないわけではない」

 矢野の言葉が、刃の背で打つ一撃のように静かに落ちた。

 沈黙が、火の上で形になる。

 言葉を重ねれば、意志は磨耗する。磨耗は鈍さと同義だが、鈍い刃ほど深く入る場所もある。二人は、沈黙の輪郭を拡げたり狭めたりしながら、互いの呼吸を測った。

 沖田は、刃を出さない手で机上の湯碗を半寸ずらす。矢野は、それを視線で追わず、火の音をひとつ数える。手合わせの初合は、互いの「見ない」を確認するところから始まる。

 尼が、さらに炭を足した。

「夜分、騒がしゅうしてはならぬ」

 言いながら、尼は二人の刃を見もせず、足の向きを見た。宿の主は、刃を見ない。足の向きだけで客の結末を見分ける。

 沖田が尼へ一礼する。飄々として、畳の目をなぞるようなうやうやしさ。尼は礼を受けず、火へ視線を落とした。火は礼を吸う。

 矢野が、もうひとつ踏み込んだ。

「お前のいう品格は、俺の側に立つのか。お前自身の側に立つのか」

 刃を捻る問いだ。

 沖田は、刃の角度を変えず、答えをずらした。

「品格は、残される者の側に立ちます。死ぬ当人にとっては、どうでもいいんです。死んだものは、死後の礼に加わりません」

「残される者に、俺も入るのか」

「入ります」

「敵でも」

「今夜の名簿では、敵味方という欄が消えていましたから」

 沖田の口調に笑いが混ざる。

「名簿はいつも、濡れてにじみます。にじんだ行は拾い読みするのにちょうどいい。あなたの行は、墨がよく滲みます」

「悪筆か」

「長生きする筆です」

 矢野が、湯をひと口含んだ。

 苦くはない。塩気も薄い。草の香りが舌の端を撫で、眠りの前の静けさを作る。静けさは罠になりうる。罠の真ん中で、彼は護符を懐に戻した。戻す位置は胸の左。心臓の前。

 沖田が、その動作を視線の角で拾った。拾って、どこへも置かない。拾った重みを、ただ骨に預ける。

「返さないんですね」

「返さない」

「返さなかったことは、のちに祟ります」

「祟るなら、俺が受ける。受けるべきだ」

 矢野の声は、火の高さと同じだった。

 火が、いっとき高くなり、すぐに低くなった。

 外で、海が息を吸い、吐いた。潮の音の拍に、誰かの足音がひとつ乗る。板戸の外の敷石が、微かに軋む。山の湿りと海の湿りが交互に来る。吉川の影と小早川の影。

 尼は、火箸を握り直し、灰を静かに均した。均し方が祈りに似ている。

 矢野と沖田は、同時に顔を上げなかった。上げないのは、最初の礼だ。礼を先に交わす者ほど、刃は鈍る。

 沖田が、手合わせの最後の問いを出した。

「今夜の名で、呼びますか」

「呼ぶなら、どう呼べばいい」

「静、と。字は要りません。音だけでいい」

「静」

 矢野の声が、火の上で一度だけ揺れた。音の重さが、場の柱に記録される。名を呼ぶことが、契りにならないよう、呼び方の拍をあえて崩す。崩し方は、刃の角度と同じだけ難しい。

 沖田は、嗜虐の舌を唇の裏で折りたたみ、理の声を骨の奥で頷かせた。

「蓮」

 短く返す。呼ばれた名の音が、矢野の胸の紙と護符の紙の間を滑った。

 板戸の外の影が、ひとつ増えた。

 砂利が小さく弾け、息を殺す音が、海の吸う拍と少しずれた。ずれは、()れた者のしるしだ。影は、名を持たない。名を持たぬ足音は、近くまで来る。

 尼が、火箸を置いた。

「灯を、消そうか」

 問いではない。確認でもない。合図だ。

 矢野は、沖田を見ずに頷いた。沖田は、尼を見ずに頷いた。

 火は、音を立てずに消えた。

 灰の中に埋めた炭が、まだ赤く生きている。赤は外へ出ない。出ない赤は、一番長く温かい。温かさは、場を守る。暗闇は、目よりも先に耳の形を変える。人の呼吸が、海の拍へ自然に合わせられていく。

 外の足音が、板戸の前で止まった。

 誰かが、指で戸の板目をなぞる。節の位置を確かめている。節の多い板は乾きやすい。乾いた板は、音をよく通す。

 矢野は、帯のところへ手をやり、槍に触らず、空を握った。握るというより、握らないために指を揃える。握らない手は、言葉を持つ手だ。

 闇の中で、会話が続いた。

 声は、板戸の向こうへ漏れない。洩らさないよう、骨で制御する。

「俺は、今日、ひとりを救った」

 矢野が言う。見張りの男のことだ。

「救ったものは、のちの夜に祟るかもしれませんよ」

「祟られてよい」

「なら、私はあなたに借りを増やしたことになります」

「借りは、借りを呼ぶ」

「借りを返す場は、ここではないと」

「ここじゃ似合わない」

 二人の言葉は、刃の打ち合いの代わりに、火の残り香の上で交差した。交差の角度は、今朝の輪舞と同じだった。背中合わせに立てば、言葉は敵味方の線を消す。

 外から、低い声がした。

「開けよ。祓いに来た」

 祓い、という言葉を使う者は、祓いを信じていない。祓いを名乗ることで、人は祟りの形を自らに写す。写された形は、刃に似る。

 尼は答えない。尼の無言は祈りだ。祈りは、ほとんどの場合、時間を稼ぐ。

 矢野が、沖田に顔を寄せずに言った。

「ここで、死なせない」

 返された言葉は、骨まで響く。

 沖田は、笑わずに頷いた。

「ここで、死にません」

 嗜虐の舌が、暗闇の中で短く笑い、理の声が「では」と囁く。

 板戸の隙から、塩の匂いが強く入った。

 潮が、少し満ちに向いたのだ。海の拍が変わると、人の拍も変わる。変化の瞬間に動く者が勝つ。勝ち負けという語を使うなら、今夜はそれに近い。

 矢野は、床板の節の位置を右足の指で確かめ、音の出にくいところへ重心を移した。槍はまだ取らない。

 沖田は、刀の柄に手を置き、鞘の口の角度を半寸だけ斜めにして、抜かずに撃つ準備をした。抜かずに撃つ。会話は続いている。相手は聞こえない。聞かせない。聞かせない会話こそ、戦の中心に近い。

「静」

 暗闇で、矢野が呼んだ。

「蓮」

 沖田が返した。

 それだけの音が、二人の位置を世界に仮留めする。仮留めは、抹消の反対の技だ。名を記すのではない。今この拍だけ、ここにいると、互いの骨に印を押す。

 板戸の外で、鉤縄が低く鳴った。

 山の影。

 同時に、砂の擦れる音がした。

 海の影。

 二つの影が、交互に息を合わせようとして、わずかにずれた。ずれは、隙だ。隙の幅は、紙一枚。背中の紙一枚。

 矢野と沖田は、同時に立った。

 灯は消えている。

 火は生きている。

 声は使わない。

 背中の紙一枚を、湿りがすり合わせ、きしみは起きない。起きないことが、ここでの礼だ。

 尼が、火の灰を指で撫でた。

「名は、置かぬこと」

 それが、この宿の掟だった。

 掟は、場に巣を作る。巣は、外から見えない。見えない巣ほど強い。

 沖田の唇が、暗闇でわずかに動き、矢野の肩の筋が、わずかに緩んだ。緩みは、走る前の合図ではない。斬る前でもない。言葉を畳む合図だ。畳まれた言葉は、刃の下に敷かれ、衝撃を吸う。吸った分だけ、生が延びる。

 板戸に、軽い打音。

 節と節の間を確かめる指先の、礼儀正しい合図だ。

 矢野は、槍を取らず、空気を押した。

 沖田は、刃を抜かず、柄で受けた。

 会話は、ここでいったん終わった。

 終わったというより、次の場面へ引き出される形で畳まれた。畳まれたものは、長く残る。残るものだけが、祟りにならず、恩寵へ変わる。

 外で海が、鳥居の見えない場所で一度だけ高く鳴った。

 太鼓の一打に似ていた。

 道が、空きかけている。

 空く前に、影が入ってくる。

 二人は、その狭間の拍で、灯のない廊を滑るように進み、板戸の内側に位置を取った。

 背中合わせの輪舞の“型”が、暗闇でしか見えない文字となって、廃寺の梁に薄く記された。

 記すな。けれど、忘れるな。

 荒れ寺は、名を隠す宿として、その文字を知らぬふりをした。

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第四章 潮の向こうへ(結) ― 消えるための生


第十三話 夜舟


 荒れ寺の板戸が、指先の温度だけで内へ押された。

 矢野蓮は戸口の暗がりから外の湿りを一口吸い、塩の重さを舌で量ってから、背で戸を戻した。灯はすでに落としてある。灰の下で赤く息をする炭が、底光りのように残っている。尼は何も問わず、柱の影に退いた。名を置かぬ宿は、見送る眼も名を持たない。

 沖田静が、黒い外套の裾を持ち上げ、濡れた板の上で音を作らないように姿勢を低くした。白装束は夜の色の内側に畳まれ、刃は鞘の口を半寸だけ斜めに向けてある。抜かずに撃つ構えだ。

「潮が変わる」

 矢野が囁く。声というより、骨で叩いた合図。

「海の道に乗るなら、今の拍だ」

 尼が火箸を灰に差し入れ、炭をひとつ、やや離れた場所へ寄せた。赤い脈動が弱くなり、部屋の輪郭がほどける。

「南の崖の下、舟を一つ。持ち主は口が少ない。潮の癖を知っている。銭はすでに受け取った」

 それだけ言って、尼は再び影へ戻った。言葉の重さは、祈りの重さと同じだけで足りる。

 廊下で風が向きを変え、鳥居の見えない夜が臭いを入れ替えた。山の湿りが海に押され、藻の腐れと縄の塩が前へ出る。遠く、崖の上で松明が一つ、また一つ、星の代わりに灯った。星は少ない夜だった。雲が薄いが、光は海面に降りず、空のどこかで躊躇している。

 矢野は槍を肩から下ろさず、石突きに巻いた布を確かめた。沖田は刀の柄に手を置いて、軽く親指の腹で鞘の口を撫でる。指先に、湿った木の冷たさが移り、嗜虐の舌が目を覚まそうとするのを、理の声が「まだだ」と押し戻した。

「行こう」

 矢野は尼に目をやらずに言い、沖田は飄々と微笑み、畳にひとつ礼を置いた。名を隠す宿は、何も覚えず、何も忘れない。そういう場所だけが、背中の紙一枚を乾かしてくれる。

 寺の外は、藁葺きの影が塩気を吸って膨らんでいた。小径は海へ向かって傾き、足の下で砂と細かな貝殻が、声を持たない音で均された。

「右へ二つ、左へ一つ。次に踏む段は、苔です」

 沖田が低く言い、矢野は言葉の前に足を置いた。背中合わせの輪舞で覚えた拍が、夜の小径に移植され、呼吸の数だけ二人の身体の中心を合わせる。海の音が手前に寄り、崖の下で餌を待つ泡が、闇の底で白く眠っている。

 崖の陰に、舟はあった。

 舷は低く、艫は丸く、板の節に乾ききらない塩が薄く残っている。縄は新しくはないが、撚り目の癖がよく、結びが崩れにくい。櫂は三本。一本は軽く、一本は重い。もう一本は、予備なのか、柄の中央に滑り止めの刻みが浅く刻まれていた。舟の側に、影が立った。

「遅かった」

 声は、潮の癖を語ったあの漁師のものだった。髭は以前より薄く、眼はさらに海に似ている。

「丑寅には少し早いが、南へ回る蛇の潮が口を開けている。北へ抜ければ渦の根。そこへ落ちると、祟りに背を掴まれる」

 祟りという語が、彼の口では潮の名と同じ音に聞こえた。名前は通り道だ。通り道に誤りはない。

 矢野が銭袋を差し出す。漁師は受け取らず、手で舟の舷を叩いた。

「櫂は二本で足りる。軽いほうを前、重いほうを後ろ。予備は、投げるために使え」

「投げる?」

 矢野が眉を上げると、漁師は短く頷いた。

「追手の舟の鼻先に、あるいは焚き松明の根に。火は海を怖れぬふりをするが、木の足を奪われれば、たちまち泳げなくなる」

 沖田が、飄々と笑って礼を置いた。

「よく、海の理を知っている」

「海は知っている者にだけ、道を貸す。貸した道を勝手に変えると、すぐ取り上げる」

 漁師は沖田の声から血の匂いを嗅ぎ取ったらしく、少し顎を引いた。

「白い布を流したのは、お前か」

 問いではない。海が答えを知っている問いだ。

 沖田は笑いを深くもし薄くもしない程度に、声の裏を穏やかにした。

「海は、よく薄める」

 漁師は頷き、舟べりに手を置いた掌を一度だけ返した。海の側へ見せる礼だ。

 舟を水へ押すとき、矢野が肩で重みを受け、沖田が舳先の傾きを指で整えた。舳先は風に向けるのではなく、風の肩へ置く。正面から受ければ喧嘩になる。肩で受ければ話になる。海は話を好む。

「背中を預けるのは」

 舟が浮く瞬間、沖田が低く言った。

「世界で二人にしか許しません」

 矢野の手が櫂の柄を掴む前に、言葉は舟底に落ち、板の節に吸われた。

「……もう一人は」

 矢野が問おうとする。問いは最後まで形にならない。

「昔、いたはずの誰かです」

 沖田の声は、波の呼吸と同じ高さで揺れた。誰かの輪郭が、霧の向こうでいったん浮かび、すぐに海霧に紛れた。

 矢野は前の軽い櫂を取り、沖田は後ろの重い櫂を手にした。舟はまだ岸の湿りを脚に持ち、波の最初の段に乗るのをためらっている。漁師が足で舟べりを軽く蹴った。何も言わない合図だ。

「呼吸」

 矢野が言い、吸う。沖田が、吐く。二人の胸が、波の拍へ近づいていく。舟の腹が海の喉元に触れ、海が一拍だけ咳をする。咳が止むと、舟は知らぬ間に外へ出る。出てから振り向いても遅い。遅さが、今夜は味方だ。

 最初の矢は、音を持たずに降りた。

 崖の上で松明が増え、影が二、三、縁に立つ。火は夜よりも自分自身を照らし、矢を持つ腕の角度を海へ教える。矢は風の肩に乗ろうとして、湿りに重さを奪われ、舟の背に詰め物のように打ち当たり、板を鳴らした。鳴った音は鳥の足跡の長さほどもなく、沖田は刃を抜かず、柄で矢の根を叩いて水へ落とした。

「味方は、一番恐ろしい」

 飄々と呟く。のろいでも祝詞でもない、癖になった真実。

 矢野は返事をせず、櫂を水に入れ、押す。押すというより、滑らせる。水は押されるのを嫌う。嫌いな動きは戻ってくる。滑らせれば、行かせてくれる。

 崖上の影が位置を変え、矢の角度が変わった。次は、舳先の左右、狭い間を狙ってくる。

 沖田は、刃の背を舳先の横木に当て、木の震えで風の癖を読む。弾くときの角度は、矢を返さずに落とす角度。殺し切らない——彼の刃は、そのために鈍く研がれている。最初の矢を水へ返し、二の矢を柄で払い、三の矢の羽根を指で摘まみ、羽根を一枚だけ抜いた。バランスを失った矢は、水面に腹を打ち、音を残さないまま沈む。

「海は、血よりも速く薄まる」

 沖田は自嘲のように言い、矢野は目を細めた。

「薄まるものは、祟りになりにくい」

 返す言葉は、舟の腹へ小さく吸い込まれ、波の裏側で意味だけが残る。

 追手の舟が、北の崖の影から滑り出た。

 海の衆の舟だ。舳先に短い帆柱を立て、帆の代わりに濡れた布を張り、鉤を二つ持った男が舷に腰をかけ、鎖を巻いた腕が光を拾う。二艘。間隔は狭く、互いの影を踏む。影を踏む癖は、夜舟に向かない。向かないのに、迫る。迫ることが、仕事なのだ。

 矢野は櫂を深く入れすぎず、浅すぎず、水を掴んだまま手前へ引かず、舟の重みを水へ預ける角度にだけ保った。舟は肩で風を受け、筋を変えず、蛇の潮へ自らを落とす。

「右、わずかに浅い。白泡が立つ前に左へ」

 沖田が言う。目ではなく、背中で見ている。

 矢野は櫂の先を半寸だけ外へ、舳先の向きに触れず、舟底の傾きだけを変えた。舟は命令に従ったふりをして、実際には彼らの腹の下で自分の都合の良いほうへ流れた。海はいつも、そうする。

 矢がまた降りる。

 今度は、火の根から外れている。崖上の者たちは風を失い、勘に頼り、勘は夜に裏切られる。沖田は、降りてくる筋だけを読み、刃で線を引くように払った。音が出ない。出ない音が、矢野の背の筋に通う。背の紙は、今夜は要らない。紙の替わりに、海の湿りが二人を貼り付ける。

 追手の舟が距離を詰めた。

 男のひとりが鉤を振り上げ、縄が蛇のように空へ走る。空は、奪われやすい。矢野は軽い櫂を左手から右手へ持ち替え、予備の櫂を肩で払って立ち上がり、舟の縁まで二歩で出た。

「今だ」

 漁師の声が、どこからか風に乗って届いた。

 矢野は予備の櫂を投げた。投げるというより、置く。水の上の、敵の舟の鼻先の、松明の足もとへ。櫂は、飛沫一つ立てずに、ほとんど音を持たずに、必要な位置へ落ちた。焚き火の足を叩かれ、火は自尊心に傷を負い、炎の形を一瞬だけ失って、煙を吐いた。その煙が矢の目を曇らせ、鉤の軌道が半寸ずれた。

 ずれの一瞬に、沖田は鞘の角で鉤縄の根を叩き、縄を板の節に噛ませた。縄は切れない。切れば、男は祟る。噛ませるだけだ。噛まされた縄を見て、男が一瞬だけ驚く。驚きは礼だ。礼の間に、矢野の櫂が水を掴み、舟は半身で潮の肩を抜け、蛇の潮の背へ滑り込んだ。

 矢のない瞬間が、ごく短く来た。

 星が一つ、遅れて落ち、黒い海の向こうで沈んだ。星は、何も照らさない。照らさない光が、夜舟の道標だ。

「静」

 矢野が、名前だけ呼んだ。

「蓮」

 沖田が、音だけ返した。

 背中の紙は無いが、名の音が二人の位置を仮留めする。仮留めは、抹消の反対にある唯一の技だ。

 海が、いったん静かになり、すぐに速度を上げた。

 潮の蛇は、南へ身体をくねらせ、岩の根を舐め、砂の上に浅い筋を刻む。舟の腹が筋を読み、矢野の肋骨がそれを写す。沖田は後ろで重い櫂をわずかに持ち上げ、舟の尻に当たる水の肩を撫でる。撫でられた水は、自分の方向を選び、舟を少し速くした。

 追手の一艘が、無理に角度を変えた。無理は、海に嫌われる。舟は舳先を波に取られ、鉤を持った男がバランスを崩し、鎖が腕から滑り落ちかける。落ちる前に、沖田が刀の背で鎖を軽く打った。鎖は驚き、砂に落ちず、男の肩に返って、彼自身の動きを縛った。縛られた者は、次に祟りに変わるだろう。今夜は、それでよかった。

 崖の上から、太鼓の一打に似た音が落ちた。

 波が鳥居の脚を叩いた音だ。

「道が空きました」

 沖田が微笑む。微笑みは嗜虐に向かず、理の側から出る。

 矢野は櫂を深く入れず、その音だけを舳先の向きに変換し、蛇の潮の背から次の筋へ舟を渡した。潮は二枚重ねになっていて、一枚目は早く、二枚目は柔らかい。柔らかいほうへ落ちると、追手は速度を失う。速度を失った刃は、鈍く、美しい。

 沖田が、ふと息をついた。

「背中を預けるのは、二人だけだと言ったな」

 矢野が問う。海に聞かせない声の高さ。

「はい」

「そのもう一人は、今も生きているのか」

「夜には、いる。朝には、いない」

 沖田は、笑いにも泣きにも似ない声で言って、櫂の柄を握る手の力を一瞬だけ抜いた。

「海は、よく薄めますから」

 同じ言葉が、別の意味で落ちた。矢野は、それを拾わない。拾わないことで、礼とした。

 追手のもう一艘が、諦めずに距離を詰めてくる。

 矢はもう正確ではなく、鉤も軌道を失っているが、人は形を続けることで自分自身を支える。支えられている間に逃げるのが、夜舟の作法だ。

「右へ細い筋、左は浅い」

 沖田の声に、矢野の腕が、櫂の先が、舳先の向きが、同じ拍で短く応じた。舟は為すべきことだけを為し、余計な音を出さず、星の影の下を滑る。

 崖の上の火が、風に煽られて一つ消えた。

 消えた光は、追手の目をしばらく甘やかしていたから、消えると彼らの足場を奪う。足場を失った者は、声を荒げる。荒げられた声は、海へも山へも届かず、自分たちの耳を叩く。叩かれた耳で矢を引いても、弦が涙と汗の塩で湿っている。湿った弦は、音を忘れる。

 舟の鼻先が、鳥居の朱の影を斜めに掠めた。

 朱は夜の色を飲み込み、海の底から古い光を返す。鳥居を門に見立てるのは、人の幻想だ。実際は、潮が通る場所に木が立っているだけ。木は見ていない。見ていないものほど、よく憶える。

 矢野は護符の手触りを懐で確かめた。紙は湿りを吸って柔らかくなり、結び目は固く、墨の筋は見えないままそこにある。見えない文字が、今この拍の舟底に真っ直ぐな線を引く。

「記すな。けれど、忘れるな」

 誰の声でもない言葉が、海の咳払いに混じって、二人の肋骨の内側へ滑った。

 追手の矢は、もう届かない。

 代わりに、海鳥が一羽、遅れて彼らの上を横切った。白い腹が、星を借りずに光る。夜の底で見える白は、記録に残りにくい。残りにくいものほど、長く残る。沖田は白い影を眼の端で追い、指先で柄を撫でる。嗜虐の舌は眠り、理の声が静かに起きている。

 漁師の舟は、もう見えない。

 見えないが、潮の癖だけが背中に残っている。蛇の潮は南へ身体をくゆらせ、その尻尾で舟の尻を押す。押された重みは、矢野の肩に薄く移り、沖田の掌の皮膚に広がる。二人の呼吸が、波の呼吸と同じ数になる。吸えば、海が吐く。吐けば、海が吸う。海と対等に息をする場所は、戦場では少ない。夜舟は、そのわずかな対等の一つだった。

 遠くで、別の太鼓が鳴った。

 実際には、岩が波を二度続けて叩いただけだ。だが意味は同じだ。道はこの先で二つに裂け、どちらも正しい。南へ逃げれば、追手は北で待つ。北へ戻れば、祟りは南で息を吹き返す。

「どちらでも構いません」

 沖田が言う。

「今夜の名簿には、出入りの欄がない」

 矢野は櫂を緩めず、舳先をほんのわずか南へ寄せた。寄せた先に、海の陰の薄いところがあった。そこは、潮が人の意志を試さない場所。意志が海と同じ速さで動ける間は、人は生きる。

 矢野は後ろを見なかった。見ないことで、礼を立てる。

「あなたの背中は、軽い」

 沖田が飄々と、半ば冗談のように言う。冗談は骨に残らず、皮膚に残る。

「持ち物が少ないからな」

 矢野は櫂を滑らせたまま返す。

「借りものも少ない」

「借りは増えた」

「借りは返す。ここではないが」

「ここじゃ似合わない」

 二人の言葉が、刃の代わりに夜の(おもて)をすべった。面は傷つかず、かすかな擦過の痕だけが残る。擦過は、朝には消える。消えた痕が、骨にだけ残る。

 海は、二人を選んだわけではない。

 道が開いているときに、そこにいた者の舟底を持ち上げただけだ。それでも、その持ち上げが恩寵に見える夜がある。祟りと恩寵は、いつもどこかで撚り合わされ、ほどけそうでほどけない縄になって梁から垂れている。今夜、その下を二人はもう一度素通りした。

 沖田が、懐から白い布の切れを取り出した。

 鳥居の下で矢野が拾い、懐に仕舞ったものとは別の、裾から裂いた小さな布。彼はそれを指先で細く撚り、風上へ放った。布はすぐ濡れて重くなり、舟の後ろで波に揉まれ、星のない夜に小さな白を一度だけ置いた。

「死んだことにする布です」

 沖田が言う。言いながら、自分でもその言葉が少しだけ自分に似合わないことを知っていた。

「死んだことにした者ほど、よく生きる」

 矢野が返す。

「記すな。けれど、忘れるな」

 彼は護符の上から布の位置を確かめ、紙の下で二つの質感が重なるのを感じた。重なれば、ほどけやすい。ほどけやすいものは、長く続く。

 追手の灯は、もう背後で小さくなった。

 崖の上の松明は湿りに疲れ、火の世話をする手が眠気を覚え、海はその間に彼らを海の外へ押した。外といっても、海の外は海だ。島の外は、別の島。だが、鳥居が見えなくなるだけで、人は息を変える。変えた息の数だけ、夜は彼らのものに近づく。

 矢野は櫂を緩め、沖田は櫂を少し深く入れて、舟の方向を一定に保った。舟は滑る。滑るとき、人はよく喋る。喋らない二人は、息だけで会話を続ける。

 吸う。

 吐く。

 吸う。

 吐く。

 拍が合う。拍の合い方が、輪舞のときとは違う。背中は触れていないが、海が背中の紙の役を果たす。紙は濡れて破れやすい。破れやすいものだけが、夜舟にふさわしい。

「お前は、朝になれば、どこへ消える」

 矢野が、櫂の音の合間に問う。

「消える先は、いつも同じです。名のない場所」

 沖田が笑う。笑いは柔らかく、嗜虐の舌は折りたたまれ、理の声だけが薄く響く。

「ですが、今夜は、あなたのいる場所へ消えます」

 その言葉は、骨に簡単に入った。入って、痛まなかった。痛まない言葉だけが、長く残る。

 彼方で、海が重心を移した。

 潮の蛇が尾を巻き、別の蛇が口を開ける。そこは、漁師が「祟りに背を掴まれる」と言った場所の縁だ。縁は、刃の縁に似て、触れれば切れるが、切り口は美しい。

「ここで、背中を」

 矢野の声が、自然に低くなった。

「預けてもらう」

「預けます」

 沖田は、背中を見せずに言った。背を見せずに背を預けるのは、奇妙な作法だ。だが、今夜は海が背の紙だから、背中合わせは要らない。二人は、それぞれ前を向いたまま、同じ方向へ身体の芯を回した。

 舟は、縁を踏まずに縁を渡った。

 渡るというより、縁の上にしばらく浮かんで、重みを海へ返した。返された重みは、矢野の肩から抜け、沖田の掌から抜け、息の深さだけが増した。

「生きにくい夜だ」

 沖田が言う。

「生きやすい夜だ」

 矢野が言う。

 答えは両方正しい。夜は、祟りと恩寵の撚り合わせだ。ほどけそうでほどけず、ほどけたと見せかけて別の結び目を作る。

 遠く、陸のほうから犬の吠える声がした。

 吠え声は潮に削がれ、意味を失い、音だけが残った。意味を失った音は、海の子守唄に似る。舟はその子守唄にうっかり身を委ねそうになり、矢野が肩で起こし、沖田が柄で起こした。眠るのは朝だ。眠らぬまま、夜を抜けるのが夜舟の礼儀だ。

 星は少ないままだったが、海の色がわずかに緩んだ。

 東ではない。東はまだ暗い。南のほうの雲の肌理が粗くなり、風が湿りを運ぶのをやめ、代わりに塩の匂いを薄めた。薄まった塩は、血の匂いを思い出させない。思い出さない夜は、人にやさしい。

 矢野は櫂を抜き、水をの上でひと呼吸分だけ櫂先を休ませた。沖田は重い櫂を肩にかけ、舟の尻を海へ預けた。舟は滑るのをやめず、しかし速さを求めず、ただ、夜と同じ速さで動いた。

「お前に背を預けた」

 矢野が言う。

「あなたに背を預けた」

 沖田が言う。

 反復は祈りではない。記録でもない。背中合わせの輪舞の型が、今夜は海の上で別の形になっただけだ。

 鳥居はもう見えない。

 見えない朱の代わりに、黒い線が海と空の境を曖昧にする。境が曖昧になると、人は自分の輪郭を少し失い、その失われ方が、救いに似る。

「名は、呼びません」

 沖田が言う。

「呼ばれなくても、覚えている」

 矢野が言う。

 記すな。けれど、忘れるな。

 海は、その掟を一度だけ咳払いで肯いた。

 やがて、舟は小さな入り江の影を拾った。

 崩れかけの岩の裂け目が、潮で抉られ、奥に浅い池のような静けさを抱いている。波が外で暴れても、ここは怒らない。怒らない場所は、約束をしない。約束のない静けさは、逃げる者のためにある。

「入る」

 矢野が言い、沖田が頷いた。櫂の先が水の皮膚を撫で、舟は影の中へ消えた。消えるというのは、抹消の真似だが、今夜のこれは、生の選び方だった。

 舟底が砂を軽く擦った。

 音は出ない。出ない音だけが、長く残る。

 矢野は舟から降り、沖田に手を差し出さず、自分の足場だけ確かめた。沖田は手を借りずに立ち上がり、外套の裾を絞り、刃の鞘を指で叩いた。刃は眠っている。嗜虐の舌も眠っている。理の声だけが薄く起きて、海のほうを振り向かずに頷いた。

「ここから先は、また別の道だ」

 矢野が言う。

「陸の黒い道は、海の黒い道より狭い」

 沖田が笑う。

「狭いぶん、静かだ」

「静かなほうが、よく生き残る」

 二人は舟を岩陰に引き上げ、櫂を舳先の裏へ伏せ、縄の結び目に砂をかけた。漁師の舟は、朝になるまでこの影で息をする。息をする舟には、名が要らない。名を持たぬものだけが、のちに噂になる。

 夜はまだ終わらない。

 だが、夜の中に別の色が混じった。疲れの色ではない。薄い、解けかけの黒。そこへ足を入れると、足首の骨が軽くなる。軽くなるのは、危険の合図でもあるが、今夜は贈り物のようにも感じられた。

「行こう」

 矢野が言い、沖田が頷いた。

 背中の紙はない。ないが、海と塩と風とが、その役を取り合って、二人の間を同じ速さで満たしている。

 夜舟の跡は、朝には消える。

 消えるものだけが、祟りにならず、恩寵へ変わる。

 鳥居の見えない海の上で、彼らは一度だけ振り向かず、一度だけ足を止めず、同じ方向へ肩を並べて入っていった。波が寄せ、白い泡が足首にほどけ、海に融ける。

 記すな。けれど、忘れるな。

 夜はその言葉を、舟の板の節に、岩の影の湿りに、二人の骨の奥に、薄く、長く、置いていった。

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第十四話 島の声、名を呼ばぬ神


 舟が波に押し出されるようにして、浅瀬に着いたのは黄昏が迫る刻だった。

 空は灰色の雲に覆われ、海は墨を溶かしたように濃く沈んでいた。風はさほど強くはないのに、雨粒だけが斜めに走り、視界を削いでゆく。

 沖田が先に舟を降りた。足首まで沈む砂を踏みしめると、じんわりと冷えが骨へ伝わる。矢野も遅れて足を浸した。舟は彼らを置き去りにするように揺れ、波に弄ばれている。

 周囲を見回しても、人影はなかった。焚き火の跡も、漁の網も、漂着した木片すら見えない。荒涼とした砂浜は、ただ波の縁取りだけを繰り返している。

「無人島……か」

 矢野の声は雨音に飲み込まれそうだった。

 沖田は答えず、ただ視線を海に投げていた。白い波頭が砕け、刹那に散る飛沫を、目だけで追っている。何かを待つようでもあり、何も求めていないようでもあった。

 雨はしだいに強まり、衣が肌に張りついた。体温を奪われる危険を思い、矢野は「雨を避けられる場所を探そう」と声をかけた。沖田は頷き、足を進める。

 二人は岩の裂け目に、洞窟のような空間を見つけた。奥は暗く、潮の匂いがこもっている。人が長く滞在できるほど広くはないが、雨をしのぐには十分だった。

 狭い岩窟に入り込むと、外の雨音は遠のき、代わりに水滴の落ちる音が響いた。一定の間隔で滴り落ちるそれは、時を刻む鼓動のようでもあった。

 矢野は濡れた袖を絞りながら、思い出していた。あの老女の言葉――。

「名を呼ばれぬ島、か……」

 かつて港町で出会った老婆は、火のそばで語ってくれた。

 人には名があり、名を呼ばれることで縛られる。だが、この世には「名を呼ばれぬ者」を祀る島があるのだと。そこでは名を問わず、名を捨てた者だけが神に迎えられる、と。

 掠れた声が耳の奥に残っている。

「名を持つがゆえに、人は望まずとも家や血に縛られる。名を呼ばれぬ神は、誰のためにも生き、誰のためにも死ねる。だが、その魂は帰る場所を得ぬのだよ」

 矢野は掌の冷えを吐息で温めながら、沖田に向いた。

「なあ……ここがそういう島なのかもしれないな。名を呼ばれぬ者の行き着く場所」

 沖田はしばらく黙っていた。濡れた髪が頬に張りつき、伏せた目元を隠している。やがて掌を擦り合わせながら、低い声を落とした。

「名があると、人はそこへ縛られます。血筋でも、家でも、過去でも。……私は、縛られたくない」

 言葉は淡々としていたが、その奥に深い凪の気配があった。底知れぬ静けさに、矢野は胸の奥を掴まれる思いがした。

 長い沈黙が続いたのち、沖田はかすかに口角を動かした。

「……ただ」

 矢野は顔を上げる。

「あなたが呼ぶなら――縛られてもいい」

 一瞬、沖田自身が驚いたように瞼を震わせた。吐き出した言葉が、己をも焼いたのだろう。

 矢野は返答を飲み込んだ。言葉を添えることが正しいのか、それとも沈黙こそが赦しなのか。洞窟の入口で雨が幕を引き、二人を外界から切り離していた。

     ※

 雨脚がいくらか細くなったころ、海の向こうから低い響きがやって来た。

 ひとつ、だけ。腹の底に沈む太鼓の一打だった。

 矢野は顔を上げ、洞窟の入口へ歩み寄った。潮風が濡れた頬を撫で、塩の匂いと共に夜の気配が忍び込む。沖田は立ち上がらず、膝を抱えたまま眼だけを海に向けている。その横顔に灯るのは、炎のない火のような微笑だった。

「……道が空いた」

 彼は独り言のように言った。

 矢野は胸の内で合点がいった。潮は満ちと引きの狭間にあり、入り組んだ岩礁のあいだに短い通い路が生じる。昔、港の若い水主が教えてくれた。夜の漁師は、波より低い音で合図する、と。大声は風に裂け、灯りは敵に見える。だが太鼓の一打は、岩と岩のあいだで合う者だけに届く。

「合図は、まだ生きてる」

 矢野が呟くと、沖田はかすかに頷いた。

「息で数えろ。二十、そして十。――“二”は南、“一”は北だ」

 矢野は息を整え、胸の内でゆっくりと数えた。空気は湿り、闇はやわらかい膜のように肌へ貼りつく。二十を越え、十を折り返すあいだ、太鼓は沈黙したままだった。打つべき時にのみ打つ。それは、かつて二人が編んだ“音の言葉”の作法そのものだった。

 あの夜の記憶が、雨の匂いに混じって甦る。

 土塀に囲まれた廃寺、月は雲に隠れ、声の代わりに石段を指で叩いて互いの在処を伝え合った。打数と間で、危険の有無、方向、人数を分けて伝達する。呼べば縛る。ゆえに名は使わない。名の代わりに、音だけを並べる。

 ――名がないからこそ、誰の耳にも正しく届かない、二人だけの言葉。

「“二十と十”……南、そして北」

 矢野は繰り返した。

 沖田は立ち上がると、濡れた衣の裾を絞った。

「潮の背骨が南から北へ通りました。あの岬の影――きっと岩礁が隠れている。見えない背の上を、ゆっくり渡る」

 彼は洞窟の奥へ一瞥を投げた。暗がりの中に、黒ずんだ祠のようなものがあった。風化した石片と、貝殻を重ねて造られた粗末な台座。紙垂はない。名もない。

 ただ、誰かが長い間ここに手を合わせてきた、そう思わせる気配だけがあった。

「――名を呼ばぬ神」

 矢野の口の内で、老女の言葉が形になった。

 沖田は祠の前に立ち、手を合わせるでもなく、しかし背筋を少しだけ伸ばした。敬意とも、距離ともつかない姿勢で、しばし無言を守る。

 矢野は彼の横顔を見た。頬に貼りついた髪が、わずかな風にほどけてゆく。光のない場所で、彼の顔は極端に若くも、極端に古くも見える。生まれおちる前と、消え去った後のあいだ――そのどこにでも立てるような顔だ。

「名を呼ばれないなら、ここで祈る言葉は、どこへ届くんだろうな」

 矢野が問うと、沖田は目を伏せた。

「届かないから、自由なんです」

「自由は、帰れないことと同じか?」

「帰れないから、縛られない。縛られないから、迷える。……迷えるうちは、まだ生きています」

 洞窟の天井から、ひとしずくが石へ落ちた。間を置いて、またひとつ。整った拍は、耳の底で太鼓に混じってゆく。外の一打と、内の滴。世界はふたつの音で出来ているように思えた。

 太鼓がふたたび一度だけ鳴った。先ほどより近い。

 沖田は踵を返し、洞窟の口へ向かった。

「行きましょう」

「夜に漕ぐのは危ない」

「昼のほうが危ない。目は嘘をつきますが、音は嘘をつきません」

 ふたりは洞窟を出た。雨は細くなり、雲の切れ間から月の縁がのぞく。砂の上には彼らの足跡だけがあり、波が寄せるたびに輪郭が崩れていく。浜の端には、風に倒れた小さな祠があった。こちらも名を記す札はなく、白い布切れが一枚、濡れて石に貼りついている。

 矢野はそれを剥がし、掌にのせた。布は潮で重く、指の痕がそのまま形になった。

「持っていくんですか」

「置いていけば、誰のものでもないまま朽ちる。持っていけば、俺のものになる」

「どちらがいいんです?」

「……どちらでも、いいはずがないな」

 彼は布を祠に戻した。指先が震えていたのは寒さのせいか、それとも。

 沖田は舟のもとへ向かう途中で立ち止まり、海を見た。夜の海は濃い墨のように静まり、沖のほうで白い筋が一本、ゆるやかに滑っている。潮の背骨――彼の言う通い路が、月の薄明に一瞬だけ浮かび上がったのだ。

「矢野」

 呼ばれて、矢野は足を止めた。

 沖田は、何も続けなかった。名を呼ばない呼び方。呼ばなくても届く距離。

 矢野は頷き、舟の舷を押し出した。

 水に触れた舟は、最初の一呼吸だけ重く、次の一呼吸で軽かった。潮の背に乗ったのだと知れる。

 櫂を握る矢野の手に、沖田の手がそっと触れた。

「音で行きます。目は捨てて」

「合図は、昔のままか」

「昔より、少しだけ、短く」

 沖田は舟の先へ移り、櫂の柄を指で叩いた。

 トン。

 静かな一打。岩礁の位置を告げる“無”の符。続けて、息を吐く。

 はあ――。

 長さで「遠さ」を、切れで「深さ」を。ふたりの間だけで意味を持つ、誰の名も使わない言葉が、闇の内で張り渡される。

 矢野は櫂を立て、音のに合わせて舟を滑らせた。目は役に立たない。黒い水の上で、黒い岩が黒い影を伸ばす。だが音は嘘をつかない。

 トン。

 はあ――。

 舟は岩の脇をかすめ、泡の音をひと筋残して通り抜けた。

 ふと、浜のほうで別の音がした。

 鳥の声かと思ったが、違う。短い、低い、二度。

 矢野は身を強ばらせた。合図の体系に照らせば、それは「見られている」に等しい。

 沖田は振り向かなかった。舟首の先、見えない道の先だけを視ている。

「構うな」

 短く言い捨て、彼は櫂をまた叩いた。

 トン。

 矢野は歯を食いしばった。背中の皮膚が夜気にひやりとする。見るな、呼ぶな、名を与えるな――そうすれば、島は通してくれる。老女の話の文脈が、今ようやく肌の上で確かになってゆく。

 名がないものは、こちらのものにならない。こちらのものにならないものは、恨みにも、救いにも変わらない。

 それは残酷で、同時に優しい。

 舟はさらに沖へ出た。

 太鼓が、三度目の一打を打った。今度は遠く、背を押すような位置から。

 沖田は「よし」とだけ言った。

 矢野は櫂を引き、潮の背の上で舟を軽く跳ねさせた。夜の海は、不思議と静かだった。風はあるのに、波が荒れない。どこかで、見えない手が水の皺を撫でているようだった。

「あなたが呼ぶなら、縛られてもいい」

 洞窟での沖田の言葉が、今さらのように胸へ戻ってきた。

 矢野は、その言葉の余韻を噛みしめる。名を呼ぶとは、縛ること。縛るとは、帰る場所をつくること。帰る場所は、ときに檻にもなる。

 それでも――。

 それでも、ひとつだけ、彼のために用意しておきたい檻がある。名ではない。音でもない。たぶん、手だ。

 誰にも見えないところで握る、目印のない手。

 沖田がふいに振り返った。

「矢野」

 また、名を呼ばない呼び方で呼ぶ。

 矢野もまた、名を呼ばない返事で応えた。

「ああ」

 ふたりの声は、波頭にも風にも捕まらず、舟の内側だけで完結した。

 太鼓はもう鳴らなかった。必要なだけ鳴って、必要がなくなれば黙る。

 闇はただ闇で、海はただ海だった。だが、ふたりの胸の内では、名のない神が静かに頷いたように思えた。通れ、と。

 そして、帰るな、と。

 いつのまにか、雨はやんでいた。雲は千切れ、月の縁が太くなった。岩礁の群れが、薄い墨の下絵のように浮かび、遥か先に黒い島影が見える。

 沖田はそこでようやく笑った。

「道は、空の下にありましたね」

「空の下で、海の背だ」

「名よりも短い言葉です」

「名よりも、忘れにくい」

 矢野は櫂を握り直し、舟の鼻先を島影へ向けた。

 夜は更けてゆくが、闇は薄くなっている。ふたりの間に流れる言葉は、名を持たず、しかし確かな輪郭を帯びていた。

 呼ばれぬものは、いつか消える。

 けれど、呼ばれぬものだけが、渡ってゆける道がある。

 その夜、彼らは誰の名も呼ばず、誰にも名を与えなかった。

 ただ音と息を交わし、ひとつの舟を、ひとつの背骨の上で運んだ。

 名を呼ばぬ神は、沈黙の祠で眠っている。祠の前に残された白い布は、やがて乾き、また濡れ、また乾くだろう。

 それでも、布は布のままだ。

 名を持たないまま、誰かの祈りの形だけを帯びて。

     ※

 夜明けの気配とともに、舟は再び小さな入り江へ滑り込んだ。外海よりは穏やかで、波は砂にやさしく寄せては返していた。二人は舟を浜に引き上げ、濡れた衣の裾を絞る。

 夜を越えた海の湿り気は、骨の奥にまで沁み込んでいたが、矢野は心地よい疲労を感じていた。舟の揺れのあいだ、彼らは言葉を交わさず、ただ音で合図をした。それでも十分に通じていた。むしろ、名を呼ばない沈黙こそが確かなものとして、心を結び直したように思えた。

 沖田は砂の上に腰を下ろし、夜明け前の薄光を見つめていた。

「ここは……人が住んだ跡がある」

 そう呟いて、彼は指先で砂を払った。そこには崩れかけた石段の名残が覗いていた。苔むした岩が列をなし、浜から森へと続いている。

 矢野は石段を上り始めた。木々の間に踏み慣らされた道がかすかに残っている。人が去って久しいにせよ、ここに“何か”があったのは確かだ。

 森は湿っていた。夜の雨が葉に溜まり、歩くたびに滴が肩へ落ちる。鳥の声はなく、虫の鳴きも聞こえない。まるで時が途絶えた場所に足を踏み入れたかのようだった。

 やがて二人は、広場のような開けた場所に出た。中央には石を積み上げた台座があり、その上に、風化しかけた祠があった。屋根は崩れ、柱は傾き、祠の内にはただ、白い石が一つ置かれているだけだった。

「……これが、名を呼ばれぬ祠か」

 矢野が呟くと、沖田は無言で頷いた。

 近づいてみると、その白い石には刻印も銘もなかった。祀る者の名も、祀られる者の名も、どこにも記されていない。ただ風雨に削られ、角が丸くなった石塊にすぎない。

 矢野はふと、老女の言葉を思い出した。

「名を呼ばれぬ神は、誰のためにも生き、誰のためにも死ねる。だが、帰る場所を持たぬ」

 ここに祀られた石は、その象徴だった。

 名を持たぬゆえに、誰も独占できない。誰のものにもならない。だからこそ、祈る者は“自分だけの祈り”を映せる。

「帰る場所がない、というのは……赦しでもあるのかもしれん」

 矢野は独りごちた。

 沖田は祠を見下ろし、唇を結んでいた。しばし沈黙があったのち、静かな声が落ちた。 「私は――帰りたくないんだ。名を持つ場所に」

 矢野は振り返った。

「家にか。血にか」

「すべてです。……生まれた名も、背負わされた名も、剣で刻まれた名も」

 言葉は淡々としていた。だが、そこに漂うのは孤独ではなかった。むしろ沖田の声は、祠に向けられているように響いた。まるで名を持たぬ石に、自らの思いを託すように。

 矢野は息を呑んだ。

「だが――お前は俺に、『呼ばれるなら縛られてもいい』と言ったな」

 沖田は一瞬、瞳を揺らした。だが次の瞬間には微笑を浮かべ、肩をすくめてみせた。

「あれは……口を滑らせただけです」

「本当にそうか?」

「ええ。私は縛られたくない」

 その声に、矢野は追及をやめた。

 それ以上は、彼自身の傷に踏み込むことになる。祠の石にすら名を刻まぬこの場所で、彼の心を縛るようなことをしてはならない――そう感じた。

 広場には、潮風が森を抜けて届いていた。遠くで波が岩を叩く音がする。だが、不思議とその音は祠に届かず、石の周囲は静寂に守られているかのようだった。

「矢野」

 沖田が名を呼ばずに呼んだ。

 矢野はただ頷いた。

 それだけで、十分に伝わる。名を呼ばないことが、この島では祈りの形だった。

     ※

 森の奥で静寂に包まれていた広場を後にし、二人は再び石段を降りていった。空は淡く明るみはじめ、夜明けが近いことを告げていた。潮の匂いが濃くなり、風がわずかに強まっている。

 浜へ戻る途中、矢野は振り返った。木々の合間に小さく祠の影が覗いている。そこには誰の名もなく、ただ白い石がひとつ置かれているだけだ。その石を見ていると、不思議と胸の奥に安堵と痛みが同時に広がった。

「――矢野」

 沖田が低く呼びかけた。名を呼ばぬ声で。

 矢野は頷き、歩を早める。だがそのとき、遠くから太鼓の音が再び響いた。

 一打、低く。

 間を置いて、さらに一打。

 矢野は立ち止まり、耳を澄ました。

「合図か……?」

「いえ、これは――呼び戻す音です」

 沖田の目は細められ、表情にはわずかな笑みがあった。

「呼び戻す?」

「人を、島へ縛りつけるための音です。海に出た者を、再び戻させる太鼓。名を呼ばない代わりに、音で引き寄せる」

 矢野は背筋に冷たいものを感じた。夜の舟を導いた太鼓が、今度は彼らを島へ縛りつけようとしている――そう思わせる響きだった。

「……まるで、この島そのものが生きているみたいだ」

「生きていますよ」沖田は淡々と言った。「名を呼ばれぬ神は、音でしか存在を示しません。だからこそ、音に応えるかどうかは、私たち次第なんです」

 太鼓の音が再び鳴った。

 その瞬間、矢野は沖田の横顔を盗み見た。彼は薄い笑みを浮かべながらも、どこかで迷っているように見えた。呼び戻されたいのか、振り切りたいのか。矢野には判別できなかった。

「縛られたくないんだろう?」

 矢野が言うと、沖田は目を細め、口元に短い影を走らせた。

「……ええ。しかし、不思議なものです。縛られることを恐れているのに、誰かに縛ってほしいと思う瞬間がある」

 矢野の胸が痛んだ。洞窟での言葉――「あなたが呼ぶなら縛られてもいい」――が、夜明けの風に重なって甦る。

 太鼓はなおも続いていた。打つ間隔は一定で、しかし確かに近づいている。まるで足音のように。

 矢野は息を呑み、沖田を見た。

「行くか、それとも戻るか」

 沖田は少しの間、目を閉じた。瞼の奥に光を閉じ込め、風の音と太鼓の響きを聞き分けている。

 やがて彼は目を開き、淡く笑った。

「行きましょう。縛られない道を選びます」

 二人は浜へ出た。夜明けの海は淡い青に染まりつつあり、潮の背骨はまだ残っているように見えた。舟を押し出すと、太鼓の音はひときわ強く響き、波間を震わせた。

 矢野は振り返った。島影が薄明の中に沈み、その中心に祠の白い石がかすかに光った気がした。

 名を呼ばれぬ神が、彼らを見送っている。呼び戻そうとしながら、同時に許している――そんな気配があった。

「……縛られるのも、解き放たれるのも、同じ神の仕業かもしれん」

 矢野の言葉に、沖田は「そうですね」と短く答えた。

 舟は潮の背を再び滑り出した。太鼓の音はやがて遠ざかり、風と波の音に溶けていった。

     ※

 舟は潮の背を滑るように進んでいた。東の空が白み、夜の名残はゆっくりと剥がれていく。水面はまだ暗いが、波の縁にわずかな光が宿り、銀の筋を描いていた。

 矢野は櫂を握りしめながら、その光を追った。舟を導くのは目ではなく、あの夜に交わした音の言葉――短い打音と息の合図だった。だが今は、太鼓の響きも、洞窟の滴もなく、ただ二人の心音だけが同じ拍を刻んでいる。

「……静かだな」

 矢野が呟くと、沖田は頷いた。

「名を呼ばぬ神は、もう沈黙したようです」

「沈黙は、赦しか?」

「赦しでもあり、忘却でもあります」

 風が髪を揺らした。沖田は前を見据えたまま、微かに笑った。

「忘れられるのは悪いことじゃない。名が残らないなら、私は自由でいられる」

 矢野は口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。自由とは、本当に救いなのか。名を持たぬまま、帰る場所もなく漂い続けること――それは赦しなのか、それとも孤独の果てなのか。

 沈黙の中で、ふと沖田が言った。

「でも……あなただけは、私を忘れないでしょう?」

 矢野は驚いて沖田を見た。

「それは――縛ってほしいと言っているのと同じだぞ」

「そうかもしれません」

 沖田は視線を逸らさず、淡々と続けた。

「あなたが呼ぶなら、私は縛られてもいい。縛られるのが檻でも、檻の中にあなたがいるなら、それは赦しです」

 矢野は胸の奥が熱くなるのを感じた。だがその熱を言葉にすることはできなかった。ただ櫂を強く握りしめ、舟を進めた。

 潮の背が途切れる前に、沖の向こうに新しい島影が見えた。そこはまだ遠く、朝霧に覆われている。だが確かに道は続いている。

 振り返れば、祠のあった島はすでに薄靄の向こうに消えかけていた。太鼓の音も、白い石も、名を呼ばぬ神の気配も、すべて海に溶けていく。

 矢野は心の内でその島に祈った。

 ――どうか、この名を呼ばぬ者に赦しを。

 ――どうか、この縛られた心を赦しとして受け取ってほしい。

 波が舟を押した。朝の風が背を撫でた。

 二人は言葉を交わさず、ただ前を見据えた。

 名を呼ばぬ神は、もう彼らを呼び戻さない。

 けれど、その沈黙は決して拒絶ではなく、彼らが選んだ道を承認するような、柔らかな余韻だった。

 やがて東の空に陽が昇り、海は光を取り戻した。

 二人の舟は、光の道を渡るようにして進んでいった。

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