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名もなき剣に、雪が降る ― 厳島影譚  作者: しげみち みり


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名もなき剣に、雪が降る ― 厳島影譚

まえがき+目次


■まえがき

 歴史の頁には、記されぬ者たちがいる。

 戦の勝者や名を残した将に隠れて、ただ血と潮にまみれ、影のように消えていった者たち。その存在は、噂や風聞のかたちで人の記憶をかすめ、やがては誰の口にも上らなくなる。

 本書に綴られるのは、弘治元年(1555年)、厳島の戦において「存在しなかった」とされた一人の剣士と、敵陣に立ちながら彼を“生かす”選択をした若き指揮官の物語である。

 血を愛し、殺戮に悦びを覚える残虐さを抱えながらも、どこか飄々とした知性を併せ持つ白装束の剣――沖田静。

 そして、兵を生かすため己を削り、最後まで「名を残さぬ生」を選んだ矢野蓮。

 彼らは敵味方として出会い、刃を交え、奇妙な停刀の瞬間を共有する。殺し合うべき二人が、やがては背を預け、そして共に歴史の表舞台から姿を消していく――その過程は、史実の片隅に生まれた虚構の裂け目でありながら、確かに「人と人との孤独な共鳴」を伝えている。

 名を記されぬ者の物語は、いつも静かに、波音に紛れて消えてゆく。だが、ここに描かれる二人の“孤”は、潮騒とともに確かに響き合い、今もどこかで息づいているのかもしれない。



■目次


まえがき・目次


第一章 潮騒の予兆(起) ― 厳島へ、血と潮の匂い

 第一話 潮目に立つ

 第二話 朱の鳥居、黒い道

 第三話 雨幕の中の名もなき声

 第四話 島の心臓みなもと


第二章 嵐の刃(承) ― 出会いと不可思議な停刀

 第五話 潮闇の潜入

 第六話 朱と白の初対峙

 第七話 火の橋、雨の梯子

 第八話 潮が反転する刻


第三章 勝者なき勝利(転) ― 抹消、追跡、共闘

 第九話 勝利の影、存在しなかった者

 第十話 祟りと恩寵

 第十一話 追手、島影より

 第十二話 名を隠す宿


第四章 潮の向こうへ(結) ― 消えるための生

 第十三話 夜舟

 第十四話 島の声、名を呼ばぬ神

 第十五話 白い布の行方

 第十六話 潮のそと


巻末資料・年表・あとがき

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第一章 潮騒の予兆(起)—厳島へ、血と潮の匂い


第一話 潮目に立つ


 瀬戸の潮は、荒れていた。

 日が傾き、宵闇が海面から立ちのぼるように濃くなると、波は朱の鳥居に打ちつけ、濡れた柱をきしませた。音は呻きに似ていた。神域の喉の奥で、誰かが息をひそめている気配がする。雨は横殴りに落ち、砂混じりの水飛沫が頬に当たってはすぐに冷えた。

 木々は潮を吸って黒く光り、湿った土は靴底を離れようとせず、草葉に溜まった水が重みで順に落ちて、見えない時刻を刻んだ。だれもが声を抑え、焚き火の火がひと息で消えぬよう、掌で覆っていた。

 噂は、火の上を渡る煙より早く広がる。

 毛利の兵の間で、小声の名が育っていた。白装束の影。人ならぬ身で、闇の裂け目を通り抜ける者。味方をも怯えさせる、異形の斬り手。

 白は夜を拒む色であるはずだった。だが雨に濡れれば、白は光を吸い、闇の一部になった。濡れた布は肌の上で重く、雨粒を弾かず、そのまま飲み込んでいく。ときおり稲光が雲の腹で転がり、鳥居の朱が刃のように浮かんでは、また波に沈んだ。

 沖田静は、そこに立っていた。

 雨の温度を見分けるように、まぶたを静かに閉じ、すぐに開いた。海は、血を薄める。薄められた血は、雨の真似をする。彼は波の動きを見ていた。割れては寄せる白の縁。舌に塩の粒を感じながら、肺の奥でゆっくりと息を育てた。

「海に流れる血を見ると、生を思い出す」

 言葉は、独白の形をしていた。聞いた者はなく、雨に紛れて自分の耳にだけ届く。ひと呼吸ごとに足元の砂が沈み、踵がゆっくりと空気へ戻る。彼は膝の傍らに広げた地図を、雨から庇うように肘で押さえた。

 墨はもう滲んでいる。だが道筋は滲まぬ。

 斥候が記した見張り台と、社殿裏の物見の位置、潮汐の刻の書き込み、風向の矢印。紙の上の風景の、隙と隙を彼は指先でつないだ。濡れた指の腹に砂がひと粒くっつき、それを払わずに、白い小石を三つ取り出す。

 小石は、夜半に開く黒い道の印だった。

 鳥居の影から、社殿の裏手へ。そこから山の斜面をかすめ、雨で鈍る草の音に紛れて入江へ降りる。俯いた敵兵の視界の下端は、闇が重くなると狭まる。その狭まりと、風の裏になる瞬間とが重なる時刻を捉えて、彼は石を置いた。

「この島は、死がよく似合う」

 刀紐を締め直す手は、丁寧だった。結び目の形に、癖がある。片方をわずかに長く残し、切先の重みがそこへ寄るようにする。歩くときに音が消える。走るときに布が鳴らない。癖は習慣となり、習慣は身体の一部となる。

 笑っているのか、分からない顔をして、彼は立ち上がった。笑えば、不気味だと言われる笑いになるのを知っている。だから大抵は、笑わない。笑わないことが、人を安心させないと知っていても。

 雨は、止まない。止まないほうがいい、と彼は思う。止まない雨は、匂いと音を厚くして、気配を別の層に押し込める。押し込められた気配の間を、人はすり抜けられる。

     ※

 同じ頃、陶晴賢の陣でも、雨がものを言わせていた。

 矢野蓮は、灯の小さな明かりの下で、濡れた紙に掌を置いていた。紙は布より弱い。布は血にも雨にも耐えるが、紙は広げただけで破れる。破ける紙の端を指で押さえながら、彼は数を数えた。供給、干し飯、矢羽の残り、脚の遅い兵の名。

 撤退は恥ではない。撤退は、道である。

 彼はそう考えていた。だが、そう口に出すことの難しさも知っていた。軍議の席で、彼は静かに言った。潮が引く刻、雨が弱まる刻、視界が戻る刻。それは敵にとっても同じ刻であること。疲れた兵は勝機に足を取られること。退く路を残しておかねば、勝ちに見せかけた負けに飲み込まれること。

 笑う者がいた。

「弱気を吐くな」「潮が味方する」

 誰かは茶化し、誰かは怒った。怒りは自分の恐れを隠すために最も都合のいい形をしている。彼は諍いを避けた。言い返せば、誰かの面子を折る。それでは兵が萎える。萎えた兵は、命を落とす。

 彼はただ、頷かなかった。頷かないことで、言葉を止めた。会議が散ってから、彼は小さな木札をいくつも用意させた。木札には簡単な刻印を入れ、自然の倒木や岩の陰に紛れるよう加工させる。雨に濡れても文字が流れぬよう、煤で焼き、油で拭いた。

 それは撤退の標だった。

 夜半にしか見えない標。そこをたどれば、海へ抜けられる。余計な叫び声も、狼煙も、旗も要らない。兵の足は、疲れたときにこそ間違える。間違える足を、標で支える。誰かが倒れても、標が残っていれば、次の誰かが道を拾える。

 矢野は、手を動かし続けた。手を動かし続けることで、考えが固まる。固まった考えは、ときに硬くなる。だが硬さが要る夜もあった。雨は肩から落ち、袖を重くした。火は紙の端を焦がすぎりぎりのところで止まり、湿気のせいで、消えずに続いている。

 彼は歩く。歩くことで、兵の顔を見た。顔は、敵より雄弁だ。顔は、兵糧より正確に飢えを語る。

 彼は負傷兵に近づき、袖をまくって傷口を見た。布で押さえ、指で血の縁に触れ、呼吸の浅さを耳で測った。道具がなくても、手はあればよい。手は、まだ裏切らない。

「ここで死ぬな」

 彼はそれしか言わない。言葉は少ないほど力を持つことを、知っている。

 雨脚が強くなり、潮の音が重くなった。

 波と波の間に、別の足音が紛れ込む。矢野は立ち止まり、耳を済ませた。足音は波と同じ律動で近づき、消える。戻る。また消える。まるで海が歩いている。

 幻聴ではない。体が先に判断し、心がそれに追いつく。体は、雨の中で育つ。矢野は自分の呼吸を細くし、気配の重さを測った。重さは海のほうへ傾いている。わずかに。だが確かに。

     ※

 島は、息をしていた。

 息をする島の境目に、二つの孤が立っている。片方は、死が似合うと言い、片方は、ここで死なせないと言う。二つの言葉は、聞こえぬまま、同じ潮目で交差する。交差は刃のように薄く、しかしそこにだけ道が開くことがある。

 沖田は地図を畳んだ。畳んでから、もう一度広げ、石の位置をずらした。風が一瞬、逆に吹いたのだ。雨の粒の傾きが変わる。匂いの層が動く。海の塩が強くなった。こういう夜は、いつもより獣が沈む。沈んだ獣の代わりに、人の動きが浮く。

 彼は斥候に目をやった。斥候の少年は、それだけで体を強張らせる。強張った体は音を立てる。音は夜に似合わない。少年は背を丸め、おもむろに皮の筒を抱え直した。中には、油紙に包まれた火口と、細い綱。彼らは火を使わない。火は敵を集める。火は味方の目を奪う。この夜は、音と匂いだけで十分に足りる。

「お眠りなさい」

 沖田は少年に言った。

「眠れない」

「目を閉じなさい。目を閉じて、雨の音だけを聞くといい。雨はやがて、何も言わなくなります」

 少年は従い、濡れた袖で顔を拭った。雨は、すぐにまた同じ顔をつくった。

 沖田はひとり、鳥居の影の近くへ歩いた。鳥居は、海に立つ門だ。門は、人を出入りさせるためにある。ここでは、人よりも、匂いと声が出入りしている。門の柱に額を寄せ、耳で木の湿りを測る。木は海を吸って膨らんでいる。膨らんだ木は割れにくい。焼けづらい。火矢が舐めても、すぐには燃えない。準備はまだ要る。

「死が似合う」

 彼は低く繰り返した。言葉は、雨に沈み、波に押され、砂に消える。言葉が消える間に、彼は生き延び方を数えた。彼にとって、生は数だった。斬る数、斬らぬ数、歩幅の数、呼吸の数。数を足すとき、人は思想を持たずに済む。思想がない者は、斬られても痛まず、斬っても痛まない。

 矢野は、木札のひとつを自ら打った。

 人に任せるほうが早い。だが、最初の一つは、自分の手でやる。木の感触は、夜明けになっても手に残る。残った感触が、あとで判断を助ける。木は湿って重い。鉄の釘は冷たい。冷たさは、迷いを吸う。

 彼は部下を集め、短く言った。

「潮が変わる刻に、退く準備を終えろ。旗は使うな。声を張り上げるな。標を見つけた者が先導しろ」

「勝ち目は、捨てるのですか」

 若い兵が言った。声は怒りの形をしていた。怒りの中身は、恐れだ。

「勝ち目を捨てるのではない。死に目を捨てる」

 彼は答え、若い兵の肩に手を置いた。肩は熱かった。恐れは熱を帯びる。熱は、手に伝わって冷める。

 彼は負傷兵の列へ戻った。うずくまった男の隣に膝をつき、包帯を巻き直し、泥を拭った。手のひらが血を吸う。血は熱い。熱いものを持てば、冷静さが戻る。

 彼は彼自身の体温を下げ、目を澄ませた。目は、夜の中で仕事をし、心のほうをあとから連れてくる。

 雨は、まだ止まない。

 止まない雨の向こうで、鳥居の影が細く揺れた。沖田の白は、暗い水面に反射し、見えない線を引く。その線は、海の道と重なっていた。潮が開ける刻、海は歩ける。歩ける海は、道のように静かで、道よりも深い。

 さざ波の向こうで、誰かが笑ったように聞こえた。矢野は、その笑いを風の癖だと片づけ、同時に、笑った者の位置を計算した。笑いは、驚きよりも遠くまで届く。無造作に発せられた音は力が弱い。弱い音ほど、波に揺られて長く残る。

 誰かが近づいている。

 矢野は、短く笛を鳴らしそうになって、それをやめた。音は、味方を集める。同時に、敵も寄せる。寄ってくるものが同じなら、鳴らす意味がない。彼は背を向け、別の路を歩くふりをして、木陰に身を沈めた。

 湿った葉の匂いは、血の匂いに似ている。

 似ている匂いを嗅ぎ分けるには、時間がいる。時間が要るとき、人は死ぬ。死ぬ前に、標を見つければよい。目に見えるものが一つ増えるだけで、足は迷いを離れる。迷いを離れた足の裏は軽くなり、軽い足は、遠くへ行ける。

 矢野は、遠くへ行かせたいのだ。

 兵を。名も顔も覚えきれぬ多くの者を。自分の掌からこぼれ落ちる砂を、すべて拾うことはできない。それでも、拾おうとしている手の形を、人に見せることはできる。その形を見た者だけが、生き延びて、次の誰かの掌を見つけるのだ、と彼は信じた。

 夜がさらに深くなった。

 雨粒は小さく、数は多く、音は柔らかくなった。柔らかい音が重なると、耳は重くなる。重くなった耳は、遠い音を聴く。遠い音は、近い足音よりも大きい。大きいのに、目には見えない。見えないものの側に、道が開く。

 沖田は、耳を澄ませて歩いた。歩いているようでいて、ほとんど動かない。動かないことで動く方法を、彼の体は知っていた。背中の筋肉が、雨を受けて緩む。緩んだ筋は、刃を走らせるときに初めて固まる。固まるのは短く、またすぐにほどける。ほどけるときに、刃の記憶が皮膚に残る。残った記憶が、次の刃を助ける。

 彼は立ち止まり、掌をひらいた。雨の粒は、皮膚に触れる寸前にひとつ小さくなり、触れた途端に形を失う。形を失うものは、美しい。形がないものは、斬れない。斬れないものの中に、刃を休ませる。休ませた刃は、よく動く。

 背後で、斥候の少年が小さなくしゃみをした。止められないものは、止めなくてよい。止めたふりをすると、さらに大きくなる。彼は何も言わないで、少年から視線を外した。外した視線は、鳥居の根元に落ちた。濡れた木の根は、暗い蛇のように見える。その下を、蟻ほどの光が這い、消えた。

 矢野は、その光の消える位置を見た。見たことに気づかれないよう、目を動かさずに見た。光は、灯の真似をする虫ではない。火口の残り火だ。火は、雨に負けるが、人の意志には負けない。意志は、雨より長い。長いものは、短いものの形を借りる。借りた形のほうが、目につかない。

 彼は唇を噛んだ。そのまま、ひとりの兵を呼び、耳元で囁いた。

「標の二本目を打て。いまから、音を消せ」

 兵は頷き、泥を蹴って走った。走る音は雨の音に飲まれ、返ってこない。返ってこない音は、不安を呼ぶ。不安は、すぐに呼吸の数を増やす。数が増えた呼吸は、冷たくなる。冷たくなった呼吸は、長くなる。長い呼吸は、夜を渡る。

 沖田は、彼方の這うような気配に気づいた。気づいて、笑わなかった。笑うのは、まだ早い。早く笑えば、後が短くなる。短いものは鋭い。鋭いものは折れやすい。折れる刃は、嫌いではない。だが今夜、折れてよいのは、自分の刃ではない。

 雨の間から、鹿の鳴く声がした。声は短く、乾いていた。鹿は、この雨を嫌う。嫌うものは、隠れる。隠れたものは、道を空ける。空いた道は、黒い。黒い道には、足音が似合う。波と同じ拍で、近づいては消える足音。

 矢野は、振り返らなかった。振り返ると、誰かの視線に捕まる。捕まれば、こちらが捕まえようとしていたものが、逃げる。逃げるものは美しいが、今夜は、美しいものに見とれている暇はない。彼はただ、誰かの肩を叩いた。叩いた肩が震え、震えが彼の掌を上ってきた。震えは、若さの形をしている。

「ここで死なせない」

 彼は静かに言い、次の標の位置を目で示した。

 沖田は、鳥居の脚に指を這わせた。木の目は濡れて広がり、そこに溜まった水が揺れて、鏡になっている。鏡の中の自分は、白さを持たず、暗い布の塊に見える。自分の顔は、形にならない。形にならない顔は、世に残らない。残らぬものは、軽い。軽いものは、速い。

 彼は地図をしまい、紐を肩にかけ、腰を落とした。膝の角度は、習い続けた者の角度をしている。踵の下の砂の沈み具合で、次の一歩の深さが決まる。深い一歩は、長い間合いを作り、長い間合いは、刃を鈍く見せる。鈍く見える刃は、よく通る。

 彼は、夜を待っていた。夜はとっくに来ているのに、なお待っていた。夜の核がこちらへ寄ってくるまで。夜の核は、雨が細くなって音が寄り添ったとき、鳥居の沈黙のちょうど真ん中に現れる。そこに、黒い道の最初の入口が開く。

 矢野は、標の列の最初から、最後までを歩いた。歩くたびに、泥が新しい形をつくる。形は、水を受けて、すぐに崩れる。崩れた跡は、誰かの目印になる。目印が増えれば、夜は薄くなる。薄くなった夜に、刃の影が濃くなる。濃くなった影は、目でなく皮膚で見る。皮膚で見たものは、忘れない。

 兵たちは、彼の背中を見ていた。背中は顔より正直だ。背中は、隠そうとしても隠せない。背中に、言葉は宿らない。宿らないところにこそ、信が残る。彼は、背で言った。退く準備をしてから、前へ出ろ。死に場所ではなく、生き延びる場所を探せ。探す手は、いつでも足もとから始まる、と。

 雨が、ひときわ強くなった。音が、島を覆った。

 その音の底で、足音がひとつ、消えた。

 同じ拍で、別の足音が、生まれた。

 沖田は、その生まれた足音の位置を踏み、何も置かず、何も拾わず、そのまままたひとつ、消した。消すことに意味はない。ただ、意味のない作業で体を温める。温まった体は、余計な考えを手放す。考えは少ないほど、正確になる。

 彼は、低く息を吐いた。吐息は、すぐに雨になった。雨は、息の形を知らない。知らないから、等しく降る。等しく降るものの中で、差をつくるのは、手の感覚だけだ。

 矢野は、夜の向こうに、遠い灯りを見た。灯りは、狼煙ではない。漁師の舟でもない。島の背で光るものは、たいてい、祈りの跡だ。祈りの跡は、濡れるほど、よく光る。祈りの光は、戦の光より温い。温い光の近くで人は、死ににくい。

 彼は、祈りに頼るつもりはない。だが、祈りを道具にすることを厭わない。道具は、意図から離れれば離れるほど、役に立つ。彼は、布を一枚懐に入れた。古い護符だ。昼間、道で出会った老女が、押しつけるように渡してきた。

 ここでは、名は呼ばれぬよ。老女はそう言った。名は呼ばれぬが、手は触れる。触れた手の感触は、名より長く残る。

「ここで死なせない」

 矢野は、もう一度、言った。言葉の重みは、繰り返されるたびに少しずつ変わる。最初は誓いの形をしていたものが、次には命令の形をとり、やがて祈りに似る。祈りは、声に出すと弱くなるから、本来は胸の中だけで済ませるべきだ。だが彼はあえて、声にした。声にせねば、届かぬ者がいるからだ。

 夜は、ようやく、彼らにとっての夜になった。

 鳥居の根元から、黒い道の入り口が静かに開き、波は引くでも寄せるでもなく、ただそこに留まった。留まった波は、鏡になる。鏡に映った白は、線になった。線は、手の甲の血管に似ている。似ているものは、体が先に思い出す。思い出した体は、勝手に動く。

 沖田は、一度だけ、目を閉じた。

 閉じた瞬間、闇は彼の内側にも降りてきて、過去の足音を短く呼んだ。呼ばれた足音は、すぐに遠のいた。遠のくものは、追ってはならない。追えば、こちらが遠くなる。遠くなれば、刃は鈍る。鈍った刃は、人を救うふりをする。救うふりは、救いより人を傷つける。

 彼は、目を開け、雨を見た。

 雨は、刃の上でだけ、形を保つ。刃は、形を保つものを好む。好むものを、よく切る。よく切る刃は、たまに、よく切らない。よく切らないことが、よく切ることより難しい夜がある。その夜のひとつが、今夜であると、彼は感じていた。

 矢野は、標の数を心の中で数え、数え終えたところで、深く呼吸をした。呼吸には数がある。数の合わない呼吸は、敵を呼ぶ。敵は、呼ばれなくとも来る。だからこそ、こちらは数を合わせて待つ。待つことは、弱さではない。待つことは、攻めである。攻めは、刃だけの名前ではない。

 ふいに、風が変わった。

 雨脚が斜めから縦に変わり、鳥居の朱が海に揺れて、いつもより赤く見えた。赤いものを見て、人は早足になる。早足になった心を、彼らは、各々の仕方で押しとどめた。

 沖田は、刀紐を結び目から一度ほどいた。ほどいて、結び直す。その間、刃は鞘の中で眠ったままだ。眠っている刃を、眠らせておく力が、彼にはあった。斬る者の大半は、斬らぬ力を持たない。持たぬ者は、早く斬って、早く死ぬ。

 矢野は、指先を火にかざした。指先の皺は、濡れて膨らみ、白くなっていた。白は、弱さを語らない。白は、隠す。隠すことは、弱さのもう一つの名だ。弱さがなければ、人は生きようとしない。生きようとする意志は、弱さのなかに眠っている。

 どこかで、誰かが足を止めた。

 止めた足の音は、動く足よりも大きい。止まることは、そこに在るという合図だからだ。合図に気づく者だけが、夜を越える。気づかぬ者は、夜を過ぎても、朝に追いつけない。

 沖田は、その合図を、水の向こうから拾った。拾って、懐にしまい、もう一度、鳥居を見た。鳥居の足元に、波がひとつ、やさしく寄せた。やさしさは、ひとの油断を生む。油断は、刃を鈍らせる。鈍らせないために、彼は自分の舌の裏を噛んだ。鉄の味がした。鉄は安心を連れてくる。

 矢野は、泥に膝をついた。膝の湿りは、骨まで届き、骨は冷えて、思考を澄ませる。澄んだ思考は、余分なものを削る。削ったあとの余白に、祈りが入り込む。祈りは、彼が望んでいないところからやって来て、彼が望んでいる形に一度もならない。それでも、祈りの匂いは、兵の背を押す。

 夜の核が、ふたりのあいだにいよいよ近づいた。

 足音は波と同じ拍で、近づいては消え、またどこからともなく現れた。現れては消えるものは、刃に似合う。刃は、はっきりとしないものを好む。はっきりしているものは、もう割れているからだ。

 沖田は、初めて、口の端で笑った。笑いは短く、つくられたものではなかった。

「――さて」

 言葉は、誰にも聞こえなかった。

 矢野は、最後の標を自ら打った。打って、掌を泥で拭った。拭った掌に、老女の護符が湿って張りついていた。彼はそれを剥がさなかった。剥がせば、布は泥を吸う。泥を吸った護符は重くなり、重さは、道を指す。指し示された道は、誰かが踏む。踏まれた道は、次の誰かの命になる。

 潮の音が、ふいに軽くなった。

 軽い音の裏側で、重い静けさがひとつ生まれた。生まれた静けさは、島の心臓に似ていた。心臓の音は、戦の音に似ていない。だが、心臓がなければ、戦の音はどこにも響かない。

 沖田は、最初の一歩を踏み出した。

 矢野は、最初のひとりを送り出した。

 ふたつの孤は、まだ互いを知らない。

 だが、おたがいの影は、すでに相手のほうへ伸びている。

 その影の上を、雨粒が無数に叩き、消え、叩き、消え、やがて叩くことをやめた。

 夜は、息をひそめた。

 鳥居は、わずかに揺れて、動かないふりをした。

 海は、内側でだけ荒れた。

 明けない夜はないと、人は言う。

 だが、明ける夜を選ぶことは、人にはできない。選べるのは、夜のなかで、どちらの影に立つかだけだ。

 沖田は、死が似合う場所を選んだ。

 矢野は、死が似合わぬ場所を選んだ。

 選ばれたふたつの場所は、思いのほか、近かった。

 近くて、まだ遠かった。

 雨は、それでも、降り続いた。

 雨は、いい。すべてを同じに見せてくれる。

 同じに見えるものの中で、違いをつくるのは、いつだって、ひとの手と、ひとの呼吸だ。

 呼吸を揃えよ、と、誰も言わなかった。

 それでも、潮と潮のあいだで、ふたりの呼吸は、やがて、ほとんど同じ数を数えはじめた。

 遠く、太鼓は鳴らなかった。

 鳴らぬ太鼓のかわりに、島の心臓が、ひとつ、ふたつ、と鳴った。

 その拍に合わせて、白い影と、若い指揮官の影が、まだ交わらぬまま、同じ夜へ入っていった。

 雨は、降りやまない。

 そのほうがいい。

 雨は、ひとを平等に濡らす。平等に濡れた夜にだけ、あの黒い道は口を開ける。

 鳥居の下、波は低く呼吸し、海は、やさしいふりをした。

 やさしさを疑う者たちは、まだ互いの名を知らない。名は、呼ばれないほうが、長く残る。呼ばれぬ名が、これから二人のあいだで、どんな音になるのかを、夜だけが知っていた。

 彼らは、それぞれの足場から、同じ闇へ足を伸ばした。

 刃はまだ抜かれぬまま、しかし、抜かれたときよりも鋭い気配で。

 それが、潮目に立つ、ということだった。

 そして、潮は変わる。

 音のないところで。

 誰の許しもなく。

 夜は、ほんの少しだけ、彼らのほうへ傾いた。

 その傾きを、どちらも知らないまま、受け取った。

 受け取ったものは、やがて、返さねばならない。夜はそういう仕組みだ。

 まだ、何もはじまっていない。

 だが、はじまっていないものほど、はっきりと、終わりの形をしている。

 終わりの形は、白い布の端のように、雨に濡れていた。

 矢野は、布を懐に押し込み、掌で押さえ、立ち上がる。

 沖田は、白の重みを肩で受け、その重みを、まるで羽織っていないかのように軽く見せて、歩きだす。

 潮の匂いは、血の匂いに似ている。

 似ていないのは、残り方だけだ。潮は残り、血は消える。

 それでも、どちらも雨には勝てない。雨は、その夜、すべてに勝っていた。

 勝ったものは、語らない。

 語らないもののあとを、物語がゆっくりと追いかける。

 追いついたとき、そこには、すでに刃が、ひと筋、置かれているだろう。

 その刃を握る手の片方は、白。片方は、泥。

 夜は、それを見て、また、何も言わない。

 ただ、潮が、鳴る。

 あるいは、鳴らないふりをする。

 どちらでも、かまわない。

 ふたりは、同じ闇へ向かって、歩きだしていた。

 それが、今夜のすべてであり、すべての始まりだった。

3 / 18


第二話 朱の鳥居、黒い道


 瀬戸の雨は、夜を濃くするために生まれたもののように降り続いていた。朱の鳥居は波を被り、柱の木目に沿って黒い筋が伸び、海と空の境いがほどけた。灯は風に揉まれて小さくなり、息をひそめた者たちの顔の位置だけが、うっすらと白く浮かび上がる。神域は祈りのためにあるのか、それとも戦のためにあるのか、誰もが口にしないまま、その矛盾だけが雨粒の数に等しく、島の上に降り積もった。

 僧は、濡れた衣を指で絞っていた。寺は海へ向かって傾斜する細道の終わりにあり、瓦は潮を吸って重く、堂の戸には海藻の匂いが染みついている。僧は、合掌してから掌をほどき、ゆっくりと声を出した。

「穢れと祓いは、背中合わせのものです」

 雨に押し潰されないように、言葉の骨にすこし力を込める。「祓いは穢れを抱いてしか立たない。穢れがなければ、それは祓いと呼ばれぬ。ただの空です。戦は穢れを増やす。だからこそ、人は祓いを欲しがる。祓いを求める声が強いほど、戦の音は大きくなる」

 社家は、神職の衣の裾を持ち上げて、ぬかるみを渡った。社殿の榊は雨に折れ、紙垂はぺたりと木肌に張りついている。火を守るための屋根は低く、そこに集まった兵の背が煙を裂いた。社家は口角に苦さを宿し、あたりの顔を一巡させた。

「神は人を選びはしない。けれど、人は神を言い訳に選ぶ。自分の刃で切り捨てるより、神の名の下に切るほうが、楽だから」

 言い終えて、彼は肩をすくめた。「あなたがたの勝利は、神の御用ではない。あなたがたの都合です。神域は、誰の都合にもならないのに」

 漁師は、浜の端で網を広げ、何度目かの雨に諦めたように膝をついた。指の節は潮で膨らみ、爪は黒く、塩が乾けば白く粉を吹く。彼は鳥居の脚を見上げ、声をひそめた。

「丑寅の刻に、海は道を開ける」

 呟きは風にさらわれ、戻ってこない。「潮の癖は人の癖によく似とる。毎日違うようで、要所は同じだ。この島の腹ん中には、誰にも見えん溝がある。雨が叩けば叩くほど、そこだけ静かになる刻がある」

 沖田静は、漁師の手の甲をじっと見た。皺の奥に溜まった塩の白さ、その白に混じる血の古い線。眼差しは飄々としているのに、その奥で何かを数えている気配が手に取るように分かる。

「溝の口は、どこから開くのでしょう」

 漁師は首を振った。「口やら、目やらの言い方はせんが……鳥居の影から社殿裏へな、雨が幕になって、音が消える筋が出る。緩む風がひとつ、山から降りてくる。そいで――」

「海は道を開けます」

 沖田が言葉を継ぐと、漁師はうなずいて、袖で顔を拭った。袖はすぐにまた濡れ、同じ顔を作る。

 白い小石を、沖田は掌に受けた。濡れた白は、夜の中で色を持たない。持たないものは、よく道になる。砂は重く、水脈は浅く、足音は雨に溶ける。彼はそれらを一つずつ視線で撫で、地図の上に小石を置いていった。鳥居の脚の影から、社殿裏の斜面へ。斜面から、山の心臓を避けて、海へ向かう細い筋へ。地図の紙は既に端からふやけているが、筋は滲まない。筋は、頭の中に刻まれる。

 同行の斥候は、近づくのをためらった。白装束の背が、雨の幕の中で、なぜか濡れていないように見える瞬間がある。そう見える瞬間は、だいたい、誰かの呼吸が変わる瞬間だ。斥候は無意識に息を止め、それから胸が痛くなるほど一度に吸った。沖田は顔を上げず、手首だけを傾けた。動作は小さいのに、命令ははっきりしていた。彼の命令は、言葉ではなく重心で出る。重心の移動は、戦場で最も早い言語だった。

 飄々と笑う気配が、彼の頬の端にだけ滲んだ。彼が笑う時、それは雨粒が石に跳ねる一瞬に似る。音は立たず、水だけが形を換えて、すぐに消える。斥候は、その笑いに寒気を覚えた。笑いは脅しではない。脅しならば、楽に耐えられる。彼の笑いは、出来の良い刃物が麻の繊維を撫でて、何も音を立てないのと同じだった。

 油紙を解く音が、ささやきよりも静かにしたたった。短刀が露わになる。刃は灯りを拾わず、雨粒だけを受け止める。沖田は躊躇いなく左の手の甲に刃先をあてた。皮膚が開く。開いたものの間から、赤が出る。その赤は、雨よりも重く、雨よりも遅い。

 斥候は息を呑んだ。

「何を――」

 問いは最後まで出なかった。沖田が手を傾けると、血は指先からひとつ、ふたつ、と落ちた。落ちる速さで、風の向きと温度を測っている。滴は縦に落ちるときは風が眠っている。斜めにほどけるときは、山から降りる息が強い。途中で形が崩れれば、雨脚が変わる。血は、よく気象を語る。

「異常だ」誰かが喉の奥でつぶやいた。違う、異常ではない、と別の誰かが目の奥で言い直す。戦はすでに、人を正常から遠く連れてきている。ここにあるのは異常ではなく、ただの方法だった。

 沖田は血を雨に溶かし、短刀の刃を親指で拭った。刃に残った赤は、すぐに湯気になって消えた。指の腹には、ほんの少し鉄の味が残る。味は好まない。好まないものは、記憶に長く残る。長く残るものは、夜の眼に重しになる。重くなった眼は、刃を軽くする。

 彼は斥候に向き直り、手首でつくる三つの符丁を続けた。社殿の裏に回り込む者、崖の上から音だけで見張る者、潮の道を先に確かめる者。口は開かない。開かなくても、伝わる。伝わらない時だけ、死人が出る。死人の出ない命令は、いつでも短い。

 矢野蓮は、対岸に狼煙の準備をさせていた。濡れた薪は火を嫌う。嫌いを宥めるように、布で拭き、油を薄く刷き、乾いた藁を芯にして、火種を抱かせる。火は生き物だ。息を合わせなければ、起き上がってくれない。

 吹いた瞬間に、風がそれを裂いた。煙はひとかたまりにならず、空の低いところでちぎれ、雨の縞に混じって見えなくなる。狼煙は合図にならない。合図にならないものは、嘘よりも悪い。嘘はまだ、誰かに届く。届かない煙は、ただの湿気だ。

 矢野は顎を引き、命じた。「やめろ」

 煙の残骸が鼻腔を刺し、胸がわずかにきしんだ。彼は咳を堪え、周囲を見た。誰もが空ばかり見ている。空を見ている間は、足もとが崩れる。彼はそれを嫌った。

「標を打て。小さく、目立たなく、しかし迷いようのないところに」

 命令は短い。短さの中に意図を収めるのは、刃の鞘に剣を返すときに似る。音を立てずに、ぴたりと収めること。そのためには、刃が自分の幅を知っている必要がある。自分の幅を知らない者が戦を指揮すると、すべての音が外へこぼれる。こぼれた音は、敵の腹に落ちて肥やしになる。

「臆病だ」背後で誰かが言った。音程は低く、濡れた木のようだった。「潮が引けば勝てる。夜明けまで耐えれば――」

 言いさした声に、彼は振り返らなかった。振り返ると、言葉が顔を得てしまう。顔にした言葉は、抜きにくい棘になる。

 彼はただ肩の泥を払った。泥の重さはほんのわずかだが、払い落とす手の気配を人は見る。見たものの中に、言葉にならない判断が沈む。判断は沈んでこそ、根になる。根のない声は、翌朝には忘れる。忘れられないのは、肩を払う仕草の方だ。

 標の木札は、煤で焼かれ、油で拭かれている。雨に強い。強いものは目立ちにくい。目立つものは弱い。彼は、弱いものから遠ざけるために強さを選ぶ。強さとは、見えにくさの別名だ。

 小径に、木札は一つずつ、目に見えない線でつながれていった。濡れた石の表情、崖の苔の濃淡、杉の根の張り方、水の溜まりやすいくぼみ。それらがすべて符号になり、兵の足はやがて、その符号を「読む」ようになる。読み間違いを正すのは、人の声ではなく、前の者の足跡だ。

 矢野は、兵の目を確かめて回った。心が崩れない者の目は、決まって小さい光を宿している。大きな光は、風と雨で簡単にもみ消される。小さい光は、布の隙間で生き延びる。

 彼は負傷者のそばに膝をつき、包帯を解き、泥を落とし、再び巻き直した。手の動きは簡潔で、迷いがなかった。迷いはにおいになる。においはすぐに群れに広がる。群れのにおいが変われば、戦は負ける。負けを遠ざけるのは、匂いの管理だ。匂いを洗うのは、雨にしかできない。だから彼は雨が嫌いではなかった。

 沖田は、漁師から借りた骨針で、小石に微かな傷をつけた。傷は、よく見なければ見えない。見えない印ほど、裏切らない。彼は石をひとつ、鳥居の根もとへ投げた。音はしない。音がしないのに、そこに新しい重さが生まれる。重さは地形を下へ引き、下へ引かれた水はためらい、ためらいは音を薄くする。音が薄い場所は、生きて帰る人間の味方をする。

「あなたたちは、そこを通りなさい」

 声は出していない。目だけが言った。斥候たちは頷き、足の指の間に泥を挟みながら、道の口の位置を体に覚え込ませた。

 彼は、飄々とした笑みを包み直すように、顎に指を当てた。夜は良い。夜は、人の輪郭を甘やかす。甘やかされた輪郭の隙間に、刃を通す。通した刃は、骨の間で止まることを覚える。止まることのできる刃だけが、抜きやすい。抜きやすい刃だけが、次を許される。

「穢れは背中合わせじゃと、僧が言った」

 漁師がぼそりと言った。沖田は頷いた。

「背中を合わせて立つ者は、よく生きます。正面よりも」

「お武家の言い草には聞こえんな」

「刃物は、どちらにも刃がありますから」

 それ以上、彼はなにも言わなかった。言葉の刃は、すぐに鈍る。鈍った言葉ほど、人を深く傷つける。彼は、口を閉じる術をよく知っている。

 矢野の耳に、縁に引っかかった鈴のような音が届いた。海鳴りの裾に、金属の小さな触れ合いが混じる。斥候の誰かが、刃の柄を掴み直したのだ。雨で冷えた金は、音を高くする。

 彼は振り返らず、胸の前で指を二本立て、下げた。その合図は、息を深くするという意味だった。兵は理解した。理解する集団は、それだけで歩きやすい。

 狼煙が不発に終わっても、合図は別にある。太鼓一打の代わりに、彼は小石を道に置いた。置いた位置は誰の目にも映らない。だが、足の裏は覚える。覚えられた石は、やがて「踏まずに避ける」という動作になり、その動作は集団の歩幅の合奏を生む。合奏が始まれば、音は密になる。密の音は、雨に勝つ。雨に勝つ音だけが、夜を渡れる。

「臆病者」陰で笑いが漏れた。

 彼は笑いに対して、なんの動作も与えなかった。動作を与えないものは、すぐに形を失う。形のないものは、夜明けにまぎれて消える。消えたものは、今夜のために働く。笑いは、今夜のために消えてくれればいい。

 彼は肩の泥を、もう一度払った。

 沖田は、社殿の裏へ回り込む道の端に膝をついた。苔が水を含んで、やわらかくなっている。やわらかい土は音を飲む。飲まれ過ぎると、足が沈む。沈むほどではない、ぎりぎりの柔らかさを、彼は指の腹で確かめた。指は、血の匂いが抜けたばかりで、雨に濡れている。

「その石を置いてはなりません」

 彼は、斥候が腰帯から取り出しかけた石を軽く手の甲で押し戻した。置けば安心する。安心すると、そこに人の癖が残る。残った癖は、すぐに敵の癖に拾われる。彼は癖を残さない。代わりに、癖が残る余地を増やす。その余地の中で、刃はよく曲がる。曲がる刃は、折れにくい。

 僧は祈祷の声を弱め、雨の音に紛れさせた。祈りは、人の耳のためではない。島の心臓のためにある。心臓は、戦の音に疲れやすい。疲れた心臓に、祈りは静けさを渡す。静けさは刹那のものでよい。刹那が揺れるあいだに、誰かの刃と誰かの呼吸が入れ替わる。その入れ替え一つで、夜は別の夜になる。

 彼は、自分の掌の冷たさに驚いた。祈りは、掌の温度から始まる。掌が冷たいとき、祈りは長くなる。長い祈りは、戦には向かない。だから短くした。短さは、戦の中にあって、唯一の慈悲だ。

 社家は、榊の枝を差し替えながら、目を細めた。戦が神を説くとき、神はいつも黙る。黙る神の代わりに、雨が語る。雨は公平だ。公平であることは、残酷であることの別名でもある。

「誰であれ、朱の門をくぐるなら、名を置いて行け」

 自分に向けて言って、結び目をきゅっと締めた。名は、神域で重い。重いものは沈む。沈んだ名は、戦に使われない。それでいい、と彼は思う。名の代わりに、足が動けば。

 漁師は、網を畳み、沖田に目で合図した。「いま、風が眠った」

 沖田は手の甲を軽く振って、血の跡がもう消えていることを確かめ、白い小石をひとつ、親指で弾いた。石は草の際に落ち、雨に洗われながらも、そこだけ色が薄くなったように見える。見える者だけに見える。それでいい。見えない者は、そういう夜には死ぬ。死なないための夜の知恵は、見える者の目を通して群れに降りてくる。

 矢野は、標を打つ音を極力薄くするために、木槌に布を巻いた。何かを隠すために布を使うとき、布は言葉になる。布言葉は、兵の背中へ染み込む。

「ここで死ぬな」

 言葉はもう、合図であり、命令であり、祈りだった。彼の声は湿って、重く、しかし澄んでいる。澄んだ声は短く長く、兵の骨の中に届く。骨に届く声は、忘れられない。忘れられないものだけが、夜を越える。

 斥候のひとりが、沖田の傍で小さく口を開いた。「手の傷は、痛まないのですか」

 沖田は答えなかった。答えないことで、言葉の形が変わる。少年は、問うた自分の声の震えを恥じ、それを今度は歩幅に変えた。歩幅の均し方で、臆病は消える。臆病が消えたとき、人は驕る。驕りの手前で、彼は笑った。

「痛むときは、斬りません」

 それが、ようやくの答えだった。少年は驚いた。痛むときにこそ斬るのが彼のような者だと、勝手に思っていたからだ。

「斬るときは、誰の痛みも似ていますから」

 沖田は肩をすくめ、雨へ頬を向けた。雨は答えない。答えないものは、味方だ。

 矢野の背後で、兵がまた囁いた。「臆病だ」

 別の兵が、低く返した。「臆病がなきゃ、明日まで生きられねえ」

 矢野は振り返らず、右肩の泥を払った。肩の動きは静謐で、雨の筋と同じ速さをしていた。動作を真似した者が、一人、ふたり。群れは、仕草を模倣する。模倣が始まれば、同じ恐れが、同じ方向へ流れていく。恐れの流れを統べるのが、指揮だった。彼はそれをよく知っている。

 雨脚が再び変わる。山から降りる風が細り、海から上がる息が広がる。鳥居の脚の影がわずかに伸び、その先に黒い筋が立つ。

「口が開いた」

 漁師の声に、沖田は首を上げる。白い小石はすでに道の首飾りのように点々と置かれ、誰の目にも見えぬまま、重みだけが島の皮膚の下を移動する。彼は斥候を分け、ひとりを山の上へ、ひとりを入江の端へ、ひとりを鳥居の足もとへ。

 合図はない。合図は、呼吸ですでに交わされている。呼吸は嘘をつかない。嘘をつくのは、口だ。口は今夜、硬く閉じられているべきものだった。

 僧は灯をひとつ消し、もうひとつだけ残した。人は闇が深すぎると、足もとを見ない。闇に慣れているはずの者も、深さの質が変わると途端に盲になる。盲にさせてはいけない。彼は、残した灯の位置を、祈りの文句の節と合わせた。節は、兵の歩幅に合うように緩やかに、短く、繰り返した。

「背中合わせ、背中合わせ」

 声は雨にほどけ、骨に入る。

 社家は、祓串をひと度ふり、雨の幕を払う真似をしてみせた。兵たちは笑わない。笑わないことで、儀礼は形になる。形になった儀礼は、雨と同じく、公平であり、残酷だ。門の前に立つ者は、名を置いてから足を踏み入れろ。置き忘れた名を背にし、置き捨てた名を胸に秘めよ。彼の手首は、戦を知っている者の手首をしていた。神職もまた、戦を知る。知るだけで、使わない。それが彼らの役目だ。

 矢野は、標の最後の一本を打ち終え、掌を擦った。皮膚が擦れ、熱が出る。熱はいっとき、寒さをだます。だまされた体は、数歩ぶんの勇気を貯める。勇気など、数歩分でよい。数十歩ぶんの勇気は、すぐに人を殺す。

 彼は、兵たちに小さく告げた。「夜半、道が開く。開けば引く。引くことは恥ではない。引くために、いま前へ出る」

 声は呟きに近く、しかし一人残らず耳に入った。耳に入ったものは、骨へ下り、足へ降り、地へ触れる。触れた地は、濡れていたが、冷たくはなかった。

 沖田は、雨の重なりで音の薄まる箇所を踏み、石と石の間に空気の隙を作った。空気は刃より鋭い。鋭さは、知られてはならない。知られぬところで働く刃ほど、長く使える。

 斥候が震えた。震えに気づいて、沖田は目を細めた。震えは悪くない。震えは体の覚醒だ。覚醒だけが、死を遠ざける。死は遠ざかるふりをして、いつでも一歩先に立っている。

「戻りなさい。いまは、そこまで」

 彼は小さく指を振った。斥候はすぐに下がる。すぐに下がる者だけが、深く入れる。入れる者だけが、戻れる。戻れる道があるときに、人は大胆な歩幅を選べる。大胆は、死の反対側だ。

 夜の縁で、朱の鳥居がさらに深く海に沈んだように見えた。その色は、血の色に似ていながら、血の匂いを持たなかった。持たない赤は、記憶だけに残る。記憶に残った赤は、戦より長い。

 矢野は、その赤に目をやり、老女から押しつけられた護符の存在を胸の上に意識した。名を呼ばれぬ島。名を呼ばれぬ者が生きるための、薄い紙切れ。薄いものほど、折り目が強い。折り目に沿って、明日の道が開く。

 漁師は、網を抱えながら笑った。笑いは歯の隙間から波のようにこぼれた。「この雨じゃ、魚も寝とる。起きとるのは、人の欲と、お侍の刃だけだ」

 沖田は軽く顎を上げた。「欲は古い。刃は新しい。古いものは、押す。新しいものは、切る。押されて切られるのが、人の夜です」

 漁師は肩をすくめた。「あんたはよう喋るのか、喋らんのか、どっちや」

「雨が答えます」

 それは答えの形をして、答えではなかった。

 僧は、最後の祈りを胸の中だけで唱え、唇は動かさなかった。祈りの最後は、いつも言葉を捨てるところにある。言葉を捨てたあとに残るのは、湿った呼吸だ。呼吸が揃えば、見知らぬ者同士でも、背中を合わせられる。背中が触れれば、穢れと祓いの背中合わせは、現実のものになる。

 雨は、祈りの言葉に、何も返さない。それが救いだった。

 社家は、社殿の屋根に落ちる雨の音の数を数えた。(なら)しの悪い音は、棟のどこかが痛んでいる印だ。痛みは見ないふりをすると、すぐに崩落に変わる。変わってからでは遅い。戦も同じだ。彼は棟木の位置を記憶の中で少しずつずらし、そこに(かく)すべき名を置いた。名は呼ばれない。その代わりに、守られる。守られた名は、雨の翌日に芽吹く。芽吹きは早いほど、柔らかい。柔らかいものだけが、切っ先をやり過ごす。

 矢野は、狼煙の藁を湿らせたまま、火を落とした。諦めるという動作もまた、指揮だった。諦めの仕草は、群れに伝わると、余分な期待を取り去る。期待のない者は、余計な死に方をしない。

 彼は、肩の泥を払った。あの仕草を、まただ、と心のどこかで自分に向けて笑った。笑いは内側のものだ。内側でだけ、彼は自分を笑う。笑いは刃を鈍らせる。それでいい。鈍らせた刃を鞘に戻し、鞘ごと前へ運ぶ。鞘が砕けぬうちは、まだ切らなくていい。

 沖田は、手の甲を開いて、傷が薄く塞がっているのを確かめた。痛みはない。痛みがないのに、あの赤は、まだ爪の間に残っている。残っているものは、戦の最中には役に立たない。役に立たない記憶は、夜の終わりにだけ、静かに意味を持つ。

 二つの石の間に、彼は小さく息を落とした。落とした息が霧になって、雨に紛れる。紛れたものは、見つかりにくい。見つからないものの脇を通って、刃は進む。

 島の呼吸は、ようやく整いかけていた。海はしずかに息を吐き、鳥居はわずかに首を傾け、社殿の礎石は沈黙の意志で雨を受け止める。僧の祈り、社家の苦い視線、漁師の潮の癖が、一枚の薄い皮膜のように島を覆った。その皮膜の裏側で、二人の影が別々に動いている。

 片方は白。片方は泥。白は濡れ、泥は乾く。乾いた泥は軽い。軽くなった泥は、すぐにまた濡れる。濡れた白は重い。重いものだけが、夜に沈む。沈んだものだけが、夜の底を歩ける。

 矢野は、標の一つに指先を触れ、木目のざらつきで場所を覚えた。覚えた指は、明日になっても嘘をつかない。目は、嘘をつく。見えたものを都合よく並べ替える。指はしない。

「ここで死ぬな」

 彼は、また言った。声は小さい。だが小さい声ほど、近くの者の内側に深く入る。入った声は、長くそこに留まる。留まったものだけが、人を動かす。

 沖田は、白い小石の列が地図から現実へ移っていくのを、冷ややかな満足で見守った。満足は滅びの端に似ている。満足が長く続くと、刃の背が柔くなる。柔い背は、跳ね返りを受け止められない。受け止められない者から、先に死ぬ。

 彼は満足を短く息で殺し、かわりに笑いをわずかに残した。飄々とした笑いは、自分を軽くする。軽い者ほど、深いところへ入れる。深いところでは、音が遅くなる。遅くなった音を、人は恐れない。恐れぬ者から、先に斬る。

 雨は、相変わらず、粒の形を絶えず変えながら降り続いていた。僧の言葉は雨に和らげられ、社家の苦い顔は雨で磨かれ、漁師の指は雨に馴れ、沖田の刃は雨で滑らかになった。矢野の標は、雨で重くなり、逆にしっかり地に噛みついた。

 この島では、雨がすべての仲立ちをする。神と人、戦と祈り、穢れと祓い、白と泥、生と死。雨はすべてを同じ温度にし、同じ湿りにする。そこから各々が、わずかな差で己の道を選ぶ。選んだ差の小ささだけが、明日の生を分ける。

 朱の鳥居は、ふと、門ではなく刃に見えた。刃が海に刺さっている。柄は空に消え、誰の手にも握られていない。誰の手にも握られていない刃ほど、よく人を斬る。斬られぬためには、刃の影の位置を覚えねばならない。影の位置は、潮の癖に従う。潮は、丑寅の刻に道を開ける。道が開いたとき、鳥居は門に戻る。

 その変わり目を、沖田は知っている。矢野もまた、別の方法で知っている。

 矢野の背に、また誰かの視線が刺さった。臆病、という言葉は、もはや口にされなかったが、視線の端に残っている。視線は、声よりも長く残る。彼はそれを背で受け、背で払った。背で受けるものは、背で払う。背で払えないものは、胸へ置く。胸へ置いたものは、いつか言葉になって出る。今夜はまだ、その時ではない。

 彼は、泥を払う手の形を整え、歩き出した。

 沖田は、石列の最後のひとつを、鳥居の脚の陰に置いた。置いた瞬間、雨脚がわずかに変わった。変わったことを彼は指の甲で受け取り、その指の古い傷を舐めた。鉄の味は、もうしなかった。代わりに、海の味がした。海の味は、空の味と似ている。空の味は、夜の味と同じだ。

「この島は、死がよく似合う」

 彼は、誰にも聞こえないように繰り返した。繰り返すことで、意味は薄れる。薄れた意味は、形だけ残る。形だけ残った言葉ほど、よく人を動かす。

 僧は雨の幕の向こうに、白装束の背を見た。祈りはそこへ向けられていない。祈りは、誰にも向けられない。向けない祈りだけが、夜に効く。

 社家は、朱の柱の足もとで、名を置き去りにする者たちの靴音を聞いた。名は呼ばれぬ。呼ばれぬとき、名は生きる。

 漁師は、潮の癖をもう一度だけ胸でなぞり、黙った。黙ることほど確かな言葉はない。

 矢野は、標に沿って歩き、最後に自分の足跡に自分の足を重ねた。重ねるという行為は、未来を一度だけ過去に預けることだ。預けたものは、戻ってくる。戻ってきたものだけが、今夜の味方だ。

 彼は護符の位置を確かめ、息を細くした。「ここで死なせない」

 声は短く、静かで、遠くまで行かない。遠くまで行かない声は、近くの者を深く掴む。

 黒い道は、まだ完全には開かない。開かない時刻の準備は、開いた時刻の十倍難しい。十倍難しいことを退屈にやる者だけが、刃を抜いたときに短く済ませられる。短い斬撃ほど、後味がない。後味のない斬撃は、戦を長引かせない。

 沖田は、指の第二関節まで泥に沈め、そこからゆっくり引き上げた。泥の重さが褪せ、指が軽くなる。軽くなった指を、彼は鞘の上に置いた。鞘はまだ、開かない。開かないまま、夜は深みに入る。深みは、二人の間で同じ暗さを持った。

 雨は、過不足なく降りつづけた。

 朱の鳥居は、刃と門のあいだで揺れ、黒い道は、開く直前の沈黙を重ねる。

 僧の祈り、社家の苦み、漁師の癖。

 そして、白と泥。

 それらはすべて、同じ夜に収まっている。夜の器は広く、誰の名も刻まない。刻まれない器にだけ、救いがある。救いはいつも、もっとも薄いところにある。薄いところでこそ、刃はよく走る。

 やがて、丑寅の刻は来る。海は道を開ける。開いた道を、誰が最初に踏むのか、雨だけが知っている。

 息をひとつ。

 雨の音に紛れて、誰にも届かない合図が、それでも確かに、島のあちこちで交わされた。

 夜は、彼らの方へ、もう少し傾いた。

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第三話 雨幕の中の名もなき声


 雨は、島を長い布で包むように降り続いていた。

 濡れた葉は、息をひそめる兵たちの頭上でぎらりともせず、ただ重さを増やし、その重さがときおり耐え切れなくなっては、溜めた滴をまとめて落とした。滴は土に吸われ、土はさらに深く沈み、沈んだ分だけ音が薄くなる。音の薄くなった夜は、噂を早く育てた。

「首がない」

 誰ともなく、言葉が生まれた。

「白装束が来た。見張りの首を持っていった」

 濡れた口々で、同じ文が反復された。言葉は形を変え、数を増やし、雨脚のように重なり合って、陣の端から端へ滑った。誰も確かめていない。だが確かめる前から、身体はその噂に合わせて震える。震えは、実在を与える。実在のないところに、恐怖は最も確かな家を建てる。

 矢野蓮は、その家の土台を蹴るように歩いた。

 ぬかるみは靴底を離さず、泥の紐で足首を結びつけてくる。息を細く保ったまま、彼は見張り線の切れ目を順々に辿った。噂が先に走った場所では、目が大きく、口が小さい。目に水が溜まり、口は結ばれる。結ばれた口が、噂を増やす。増えた噂は、見張り線を内側からほどく。ほどけた糸は、雨に似て見分けがつかない。

「首がないんだ、本当に」

 若い兵が言った。声は幼く、濡れた薪のように鳴った。

「見たのか」

 矢野は問うた。口は静かだが、目は濡れていない。

 兵は瞬きを繰り返した。「……聞いた。皆が言ってる」

「皆が言うなら、ここに首が一つくらい転がっているはずだ」

 矢野は泥を見た。泥は、形を取りやすい。転がったものの痕跡を、容易に残す。だが、ない。転がった首の重さも、弾んだ跡も、血の筋も。あるのは、踏み荒らされた草と、雨で流れた足跡の渦だけだった。

 彼は、噂の先にいるものを探すように目を上げた。

 闇は、雨の幕でひたすら均されている。均された闇の端で、低く長い呻きが、樹間を渡った。人の息か、雨の鳴きか。線を引けば、どちらにも見える曖昧な音だ。だが、耳が、それを知っている。耳は、戦の夜の声を覚えている。

 矢野は音へ向かった。若い兵を二人、肩で制して残す。残すことで、彼一人の歩みは軽くなる。軽い歩みは泥に深く沈まず、深く沈まぬ足音は、夜の底へ不要の皺を立てない。

 呻きは、近づくほど細くなった。

 そこにいたのは、首を持たれた死骸ではなく、首のある生者だった。

 男は仰向けなのか俯せなのか判断のつかない姿勢で、草と泥に半ば埋まり、両の足首のあたりで不自然に土が波打っている。手近な露草が半分ちぎれ、切り口が白かった。矢野は膝をついた。泥が膝に吸い付く。膝の重さが、骨へまっすぐ降りた。骨は冷える。冷えは思考を澄ませる。

 指を差し入れ、ふくらはぎに触れた。

 生温い。力が逃げている。足首の腱の上に指を滑らせると、そこだけ、何もいない。あるべき張りがない。触れた指が、その欠落の形を記憶として引き取った。

「息はある。首もある。足だけが、ない」

 彼は低く言った。足首の腱は、刃で切られている。切断は浅く、しかし正確だ。刃は骨を嫌っている。骨に触れていない。触れれば音が出る。音が出れば夜が乱れる。夜を乱さぬための刃。戦いの刃ではなく、用途の刃。

「首はないと言ったが、ここに声が残っている」

 矢野は、付き従ってきた兵に向かって、静かに告げた。

 若い兵が息を飲んだ。「斬られて……いない?」

「殺せるのに、殺していない」

 言葉の重さが、一瞬だけ雨音と同じ重さになった。雨は、彼の声を薄めなかった。薄める必要もなかった。声の骨が自立している。

 矢野は男の顔の泥を拭った。瞼は震え、眼球は曇り、呼吸は浅い。意識は薄いが、恐怖だけが体に残っている。恐怖は、筋肉と同じように、縮みと弛みで語る。縮んだ筋肉を、彼は掌で押し延ばした。掌は温かい。温かさは、刃ではない。刃でないものに触れられるとき、人は生きる方向を思い出す。

「担げ。足は吊るすな。擦ると血が戻らない。……このまま置けば、声は夜明けまで続く。それが、敵の狙いだ」

 若い兵がもう一度、息を飲む音がした。

「狙い?」

「見張り線は声で繋がっている。声が恐怖の形を取れば、繋がりは自分でほどける。ほどければ、道が空く」

「白装束の噂は、嘘ですか」

「噂は、刃より早く走る。刃の代わりに走るのが、今夜の仕事だ」

 矢野は、担架の手配を命じた。担架は濡れ、布は泥を吸って重くなる。重さを嫌うな。重いものを動かすとき、人は呼吸を揃える。揃った呼吸は、恐れを遅らせる。遅れれば、勝ちでも負けでもないところへ、いちど戻れる。

 呻きは、別の場所からも湧いた。

 次の、次の、その次。

 同じ高さから、同じ淡さで、雨にまぎれ、音は繰り返された。誰かが低く吐き捨てた。「……囮だ」

 矢野は頷いた。「囮は、助けられるときにだけ囮の役目を終える」

 囮を見捨てれば、囮はずっと声を出し続ける。声は人を食う。食われた者は夜明けに倒れる。倒れた者は、道の真ん中で眠る。眠る者を避けながら、道は狭くなる。狭い道は、刃に向いている。

 矢野は、囮である負傷兵を順に拾わせた。拾うたび、見張り線の足もとはわずかに軽くなり、同時にどこかが薄くなる。薄さは音で補った。彼は低く合図を出し、太鼓ではなく、喉の奥の拍で小隊を動かした。雨がそれを隠す。隠すことで、始まるものがある。

     ※

 同じ時刻。

 白装束は、雨の縁でただ立っていた。

 沖田静。

 彼は、鳴り続ける呻きを背に受けて、海のほうを見ていた。鳥居は輪郭を持たず、朱は水に薄められて、白に近づきつつある。白は、夜の底で初めて濃くなる。濃くなる白は、闇を塗りつぶすのではない。輪郭だけを奪う。輪郭のないものは、刃の前で躊躇う。躊躇いは、斬らずに済むときにだけ、美しい。

 彼は自分の指の背で、雨を掬った。掬った水は、血の匂いをいくらか含んでいる。含んでいるが、喉は渇かない。嗜虐の舌は、水では濡れない。濡れない舌は、言葉を持たない。言葉を持たない者は、目で命令する。目は、今、遠くの火を数えていた。火は少なく、雨が残した湿りのほうが勝っている。

 呻きは、彼の足跡のうしろで途切れず続いた。

 足首の腱は、刃に正直だった。刃は、躊躇わない角度を覚えている。角度は、骨の位置を外している。外したからこそ、声が残る。声は、彼の仕事の半分だった。半分は静けさに費やす。静けさは、彼の仕事のもう半分。

「殺せるのに、殺さないのは、何のためだ」

 雨が、そう問うふりをして落ちてくる。彼は笑った。飄々と、雨に混じって笑い、肩でそれを受け止めた。

「ため、というのは、いつも後から生まれる」

 彼は、誰に向けるでもなく答えた。答えは自分の耳にだけ届いた。届いた声は、雨が薄めた。薄くなった声が、また刃を軽くする。

 置かれた呻きは、迷いを増やす。迷いは、正しさの反対ではない。正しさの前段階にある。前段階が長いほど、人は死ににくい。だが、群れの前段階は、短くされがちだ。短くされた群れは、刃の長さを誤る。

 彼は、切らずに済む選択を、一度だけ選んだ。選んだという感覚は、薄い。薄さが、今夜の彼を支える。

「首は、取らない」

 彼は、誰にも聞かれない声で言って、近くの男の瞼をそっと閉じた。閉じるとき、指先が震えた。震えは、彼の中で昔から生きている冬の名残だ。冬は、血を早く冷やす。冷やされた血は、雨と混じりやすい。混じりやすいものは、夜に長く残る。

     ※

 矢野は、拾い上げた負傷兵を、濡れた布の上に寝かせた。布は木の根に渡してあり、泥に沈ませない工夫が施されている。工夫は、目立たないほど役に立つ。目立つ工夫は、敵のためにある。

「水を少し。口を開かせすぎるな。咳き込む」

 命令は短く、手は長かった。手の動きは、兵の眼を落ち着かせる。眼が落ち着けば、噂は遅くなる。遅くなった噂は、やがて消える。消えないのは、声だ。

 すぐ傍で、別の呻きが、雨と同じ速度で繰り返された。矢野は目を閉じ、耳の中だけで、その繰り返しの間隔を数えた。間隔は、ほぼ等間。等間は、作為だ。作為は、敵の息だ。「声を封じるな」

 部下が戸惑いを見せかけたところで、矢野は先に言った。

「口を塞げば、恐怖は胸の中で育つ。育った恐怖は、言葉より早い」

「しかし、敵の策なら」

「策は、こちらの生かし方で崩せる」

 矢野は、負傷兵の額に掌を置いた。「この声は、まだ人の声だ。人の声であるうちは、こちらの側に置ける」

 人の声でなくなる瞬間が、戦にはある。呻きが獣の鳴きに変わる刻。変わった瞬間、見張り線は自壊する。矢野は、その境目がまだ遠いと見た。遠さを見抜く目は、焦りを中和する。中和された焦りだけが、刃に勝てる。

 雨は、等しく降った。

 等しさの残酷さを、社家は言葉にしなかった。僧は祈りの節回しで雨の拍をひとつずらし、漁師は潮の癖を胸で撫でたまま、網を濡らすのをやめた。島全体が、小さく息を合わせ直している。夜はその息を、いったん、認める。

 噂は、鎮まらないふりを続けていた。

「白装束が首を持っていった」

 口にされるたび、言葉は薄くなり、薄くなるたびに、恐怖は形を変えた。首という像が、雨の中でぼやけ、かわりに声だけが、鋭さを増した。

 矢野は、噂の薄まりと、声の濃さの反比例を見ていた。見ることで、秤の傾きがわずかに戻る。戻った秤に、人の重さを乗せ直せば、戦はすぐには転ばない。

 沖田は、鳥居の陰で立ち止まり、刃を鞘から一寸だけ抜いた。抜いた刃は、雨を受け、雨だけを映した。人影は映らない。映らない鏡ほど、よく使える。

 遠く、人の動きがひとつ、気配の層を破って現れた。破り方がいい。破ることで風を呼ばず、呼ばぬことで雨を乱さない。乱さない動きは、彼の内側にある何かと似ていた。

 彼は、刃を揺らし、すぐに戻した。戻すとき、鞘鳴りをさせない。させてはならない。鳴った音は、夜の合図になる。合図は、今はまだ要らない。要るのは、礼だけだ。

 礼法は、刃の世界にもある。

 殺せる距離で、殺さないときにだけ使う礼。

 刃をわずかに下げる。顔は向けない。正面に立たない。雨の幕に半分身を隠し、半分を見せる。見せる半分は、鞘の口と、濡れた肩。肩が力みで張っていないことを、遠くからでも分かるように。

 矢野は、その礼を、遠望した。

 雨の筋が、白を縦に裂き、裂かれながらも、白は濃度を保っている。濃すぎず、薄すぎない。人を煽らず、侮らせない。その中庸の立ち方が、彼の胸の奥に、短く、鋭い疼きを残した。

 敵が、礼を持っている。

 礼は、戦の中で最も贅沢なものだ。贅沢なものを手放さないために、人は斬る。斬らないで、礼を保つ者がいる。そこに、何かがある。

「隊長」

 背後で、兵が声を低くした。「見ますか」

「見るな」

 矢野は言った。「目は、欲を連れてくる。欲は、雨より早い」

「なら、どうします」

「礼には、礼で返す」

 彼は、ほんのわずかに、槍先を下げた。下げる動作は、小さすぎて、背の者には分からない。分かるのは、礼を送った側だけだ。礼は、送られて半分、返されて半分で完成する。完成した礼は、言葉にならず、それでも夜の空気をわずかに変える。

 沖田は、遠くで槍がわずかに下がるのを見た。

 見たことに、笑いも驚きも与えなかった。動作に、返礼を与えた。返礼は、正面を向かないこと。向けば、刃になる。今は、刃ではない。

 彼は、背を返すと、足元の呻きへ近づいた。呻きは、まだ人の声だ。人の声であるうちは、彼はその口に布を押し当てたりしない。布で塞ぐことは、刃で斬ることより、はるかに重い。重いことは、昼にやればよい。夜は、軽くあるべきだ。

 目を開けたままの男のまぶたを、彼はまた閉じた。閉じるとき、雨が睫毛を重くして、指にまとわりついた。

「生きるほうに、寄れ」

 小さく、誰にともなく言って、彼は立った。立ちながら、斥候たちの震えが遠くで減っているのを感じた。減り方には波がある。波は、礼の後で静まりやすい。礼の意味は、いつもあとから分かる。分かる者だけが、明日まで残る。

 矢野は、担架が途切れず運ばれていくのを確かめた。運ぶたび、見張り線のどこかが透ける。透けた穴を埋めるのは、位置ではなく、呼吸だ。

「呼吸を合わせろ。合わせないと、誰かの背中が背中でなくなる」

 彼は、自分の声が小さいのを知っている。小さい声は、近くにだけ効く。近くに効いたものは、二番目の者が真似て、三番目の者に届く。届いた合図だけが、夜を長くする。長くなった夜の端で、道は静かに開いていく。

 噂を抱え込んだ兵が、震えを隠すために笑った。

 笑いは、濡れた焚き木に似ている。火になりそうで、ならない。煙ばかり出して、周りの眼を痛める。矢野は笑いに背を向けた。背を向けるのは、無視ではない。背で受け、背で流す。流された笑いは、足元の泥に吸われる。

「臆病だ」

 遠くで、またその言葉が生まれそうになった。彼は、肩の泥を払った。払うたび、同じ形の仕草が、兵の目に刻まれる。刻まれた形だけが、夜明けの手前で人を繋ぎ止める。

 沖田は、雨の層をずらすように位置を換えた。

 ずらし方は、刃の角度と同じでよい。角度が深ければ、雨は肩から背へ、背から地へ、まっすぐ落ちる。浅ければ、頬を滑って口に入る。口に入ると、舌が雨を数える。数えた雨は、刃の重さを変える。

「雨が、良い」

 呟くと、舌が鉄の味を思い出し、次に、海の味を呼んだ。海は、懐かしい。懐かしさは、彼を遠くへ連れていく。遠くへ行ってはならない。今夜は、近いところで終わらせる。終わらせるために、殺さない。殺さないで、終わる夜がある。

 彼の仕事は、半分が傷口で、半分が空気だった。

 傷口に残った声が、雨とともに繰り返される。繰り返されることで、陣の内側にある余白がざわめき、余白がざわめくと、誰かが穴を埋めようとして歩く。歩いた足が、空いた筋に触れる。筋は、黒い道の起点だ。

 彼の白は、その起点を、遠くから、濡れた肩で引き寄せていた。

 矢野は、拾い終えた負傷兵を見届け、見張りの位置を少しずつずらした。ずらし方は、敵に似せた。敵のずらし方を真似るのは、礼に対する礼の続きのようなものだ。真似られた敵は、初めて、こちらを「在る」と見る。見られることは、隙だ。だが、今は、その隙が要る。隙がない夜は、刃が鈍る。鈍った刃は、無差別になる。無差別は、敗北よりも遠いところにある。

 雨は、相変わらず、すべてを同じ形に濡らした。

 残酷な公平さが、島を覆っている。

 僧は祈りを短く切り、社家は榊の葉を換え、漁師は網を肩にかけ直し、矢野は標を一つ撫でた。

 沖田は、瞼を閉じた男の額から泥を拭い、指先を雨に晒した。晒された指は、すぐに冷える。冷えた指は、刃を握ると温かい。温かいものを握れば、余計なことを考えない。考えないときにだけ、斬らずに済む。

 誰かが、遠くで太鼓を叩こうとして、やめた。

 やめたことが、島の空気に小さな凹みを作った。凹みはすぐに雨で満たされたが、満たされる前に、ふたりの影だけが、その形をなぞった。なぞられた形は、次の刻に、合図になる。合図は、言葉でないときに最もよく働く。

 矢野は、もう一度だけ遠くを見た。

 白は、正面を向かない。向かないことで、こちらを見ている。見ていることが、見える。見えることが、礼だ。

 槍先は、まだ下がったまま。彼はそれを、さらにわずかに傾けた。傾きは、重さに似る。重さは、雨のほうへ渡す。渡した重さだけ、こちらは軽くなる。軽くなったぶん、兵の背が少しだけ伸びた。伸びた背の分だけ、噂は縮む。

 沖田は、礼の返礼の返礼を、しなかった。

 返しすぎれば、それは打ち合いになる。打ち合いは、まだ先でいい。今は、噂と声だけで、陣の内側を緩ませる。緩みきった頃に、刃は軽くなり、軽くなった刃は、少しの力で済む。少ない力だけが、次を許す。

 彼は自分の息の数を数え、数の中に、矢野の息の数を薄く混ぜた。混ぜたことを、おそらく相手は知らない。知られないまま、呼吸だけが、雨の中で並んだ。

「首はない」と言った声は、雨の下で形を失い、「声がある」に変わりつつあった。

 変わった言葉は、兵の胸の中で、違う重さを持つ。重さの違いが、足の運びを変える。足の運びが変われば、道は別の道になる。別の道は、まだ見えていないが、見えていなくても、足はそこへ行ける。標があるからだ。

 矢野は、標の一本に軽く触れ、掌のざらつきを覚え直した。覚え直した記憶が、雨の冷たさで固定される。固定されたものだけが、夜明けの手前で使える。

 呻きの一つが、やがて途切れた。

 途切れる前に、矢野は布を添え、息の道を確かめた。助かるかどうかは、夜のほうが決める。ただ、助かる側に重さを少し傾けることは、人にもできる。傾けられた分だけ、噂はまた薄まる。薄まった噂の代わりに、兵たちの眼の中で、別の像が育ち始めている。

「殺せるのに、殺していない」

 それは恐怖よりも先に来る尊敬ではない。敵への驚きだ。驚きは、憎しみと並んで人を覚醒させる。覚醒した群れは、逃げない。逃げないとき、敗北は、まだ先にある。

 沖田は、最後に一度だけ、雨の中で刃の重さを測った。

 重さは、血ではなく、声で測れる夜だった。

「ここじゃ、似合わない」

 誰の死にも、そう言える夜だと、彼は思った。思ったことが、飄々とした笑みに変わり、その笑みがすぐに雨に消えた。消えた笑いは、周囲の震えをひとつずつ減らす。減らした震えの分だけ、黒い道は静かに濃くなった。

 矢野は、遠望した白の影の、わずかな肩の傾きと、刃の下がりを、胸の内で繰り返し再生した。再生するという行為は、理解のふりをして、理解ではない。ただ、目の前で起きたことを、骨に移す。骨に移したものは、忘れない。忘れないものが、次の判断を短くする。

「ここで死なせない」

 彼は、声に出さずに言った。声にすれば、雨に負ける。負けない言葉は、骨の中にだけある。骨の中の言葉は、槍先の角度に移る。角度は、礼をなぞったまま、夜の縁で静かに止まった。

 雨は、なお降り続いた。

 噂も、なお続いた。だが、その中身は、静かに置換されていた。

 首なき白装束、という像は、雨の中で輪郭を失い、かわりに「声を残す刃」という形を取りつつある。形を持った噂は、やがて、策として読み解かれる。読み解かれた策は、敗北の芽を摘む。摘まれた芽の根は、しかし残る。根がある限り、夜は何度でも伸びる。伸びる夜に、道は重なる。

 その道の先に、まだ交わらない二つの影が、同じ雨の層の下で、同じ拍を数えていた。

 礼は、言葉にならないまま、確かに交わされ、礼の上に、まだ名のない約束が、うすく置かれた。

 名を呼ばれぬ島の、雨の夜。

 声は、誰のものでもない音になって、しずかに陣の内側を満たしていく。

 夜は、ほんのわずか、彼らのほうへ傾いた。

 傾きは、雨に覆われて見えなかったが、足はそれを感じ取っていた。足が感じ取ったものに、頭が追いつくのは、いつも少し後だった。後から追いつく理解が、戦を長くする。長くなった戦の端で、黒い道は、ようやく、うすく口を開き始めた。

 その口へ、先に誰が足を入れるのか。

 雨だけが、知っていた。

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第四話 島の心臓みなもと


 島を包む雨は、夜の言葉をやわらかく噛み砕き、音の端だけをこちらへ渡してくる。社殿の屋根を叩く気配が、山の斜面で鈍くなり、入江では低い鼓動に変わる。湿りは骨にまで降り、刃の重さを少しだけ軽くした。人が集まる場所には、いつも火より先に息の密度が生まれる。今宵、毛利方の天幕の下で、息はひとつの図形に集まり、まだ名も持たぬ震えとして揺れていた。

 地図はもう湿りきっていた。滲みの中に書き足した線は、指でなぞれば消える。それでも、消えない筋がある。誰かの胸の奥に刻まれて、紙が破れても残る筋。沖田静は、濡れた手で紙の四隅を押さえ、白い小石を三つ、雨に濡れながら置いた。社殿の背の斜面にひとつ、そこから山道に沿ってひとつ、入江の喉にひとつ。三角ができた。

「ここが島の心臓です」

 飄々と、彼は言った。声は低く、雨に負けないほどの重さを持っているのに、どこか軽やかで、夜の端へするりと抜けていく。「社殿の背の斜面は、祈りのために人が踏み均した古い道。雨で音が消える。山道は風の向きを変える。入江は潮の息で膨らんだり痩せたりする。三つは別のようで、夜半にひとつの拍で動く。そこを抑えれば、伝令は切れる。切れたところから戦は崩れる」

 濡れた袖を絞りながら耳を傾けていた将のひとりが、口を開いた。年は上、腰は重い。重さは戦の場では信用だが、今夜のような夜には躊躇に変わる。「社殿へ近づくは穢れだ。祟りが立つ。兵が怖じる」

「怖じるのは、いいことです」

 沖田は笑った。笑っているのに、相手を逆なでする色がない。「怖じる兵は、足音を消します。足音の消えた列は、夜の刃に向いている。祟りは、済んだあとで受けましょう。今は息を合わせるだけです」

 別の将が、地図の上の小石を指で弾きたそうにして、思いとどまった。「伝令が切れても、奴らは目で動く」

「目は雨で濁る。耳は恐怖で鈍る。足は泥で重くなる。三つが重なると、人は見えないものに従い始める。見えないものは、こちらで用意できる」

「何を用意する」

「静けさを」

 たしかに笑った。飄々と、まるで今から酒を温める話でも始めるような、ひとの力を抜く笑いだった。「斬るより先に、静けさで包む。伝令が切れた先、斜面と山道と入江の喉元の間。そこに、音の薄い域がひとつできるはずです。人は薄い音に安心して、油断して、立ち止まる」

 立ち止まったものを、殺すのか、と誰かが問うた。問うた声の先には、血の匂いを好まぬ者の影があった。

「殺せるのに、殺さないこともできます」

 沖田は小石をひとつ、指の腹で押し、紙の上でほんの一分だけずらした。紙は擦れて破け、破れ目の繊維が雨水を吸って白く立った。「今夜、私は首を集めに来たわけではありません。声を集めるのです。声は、斬らなくても増える。増えた声を、相手は恐れて自分でほどく。そのほどけ目に、私たちの道は通ります」

 将のひとりが息を鋭く吸い、吐く間を誤って咳に変えた。咳はすぐに雨に飲まれた。誰かが、彼の笑いの奥に潜むものに気づいて、目を逸らした。嗜虐のきらめきが、刃よりも薄く、しかし確かにそこにあった。血に惹かれる心と、血を避ける理。二つを同じ掌に乗せ、重さを比べる癖が彼にはある。

「……失敗したらどうする」

 最大の躊躇は、いつも最後に口を開く。濡れた顎鬚の将が、唇の端に海の塩を白く浮かべたまま言った。「道が開かねば、ここで潰れる」

「失敗しても、私だけが死ねば良い構図です」

 沖田は、肩をすくめるように軽く笑って、皆の視線を受けた。雨音がひとしきり強まって、帳の天幕を打った。「斜面と山道と入江の三角は、夜が私に与えた耳の届く範囲にあります。見失ったら、私が消えるだけです。あなたがたは、標に沿って退けばいい。退く標は、もう誰かが打っている」

「誰か」とは誰だ、と問わない者たちの沈黙が、天幕の内側に溜まった。矢野の名は、ここでは呼ばれない。呼ばれぬものは、長く働く。沖田は、皆の沈黙を(うなず)きで受けて、白い小石に指を置いた。指の関節に古い傷が眠っている。眠っている傷は、今夜は目を覚まさない。

「丑寅の刻、潮が開く。風は山から降りる。鳥居の朱は薄くなる。音は、ひとつ減る」

 彼の言葉は、一種の祈りに似ていた。祈りの先に神は置かない。置かれたのは、潮と風と音の癖。人が嘘をついても、癖は嘘をつかない。嘘をつかぬものにだけ、刃を預けられる。彼は自分の刃を、夜の癖に預けるつもりでいた。

「お前は、祟りを怖れぬのか」と、また誰かが言った。

「祟りは、書きつけるものです」

「何に」

「記録に」

 笑いは、ほんの短く、雨に溶けた。将たちの顔には、納得と嫌悪の混じった色が交互に走った。人は祟りを恐れるふりをして、じつは記録を恐れる。名前が記されること、その重さと軽さ。沖田は、己の名が書かれない未来を、とうに見ていた。名を呼ばれぬ場所でだけ、生き延びられる者がいる。そういう種族が、夜にはいる。

 天幕の外で、潮の鳴りがわずかにおさまった。雨は弱くならない。弱くならないことが、逆に夜を薄くする。薄くなった夜の端で、人の躊躇いがひとつ、音もなく折れた。折れたものの代わりに、各人の胸に小さな硬さが生まれる。硬さは、命令よりも長い。

「よろしい」

 年長の将が、ようやく言った。声は疲れているが、退く方向ではない。「その三角、心臓とやら、叩け。伝令が切れ、敵がほどけるなら、そこから崩せ」

「崩すのは、雨です」

 沖田は、白い小石をもう一度押さえ、指先で雨を弾いた。弾いた水滴は、刃の上でだけ形を保つ。「我々は、ただ呼吸を合わせる」

 その時、天幕の端で斥候が身を屈め、合図の気配だけを置いて引いた。遠くの砂地で、低い呻きがひとつ途切れ、別の場所でまた始まった。噂はまだ生きている。白装束が首を持った、という噂。首のない死体は見つからず、声だけが増えていく。声は刃の代わりに働く。噂は刃の鞘だ。鞘の中で刃は錆びない。

 沖田は小石を拾い上げ、今度は懐に収めた。小石の冷たさが骨へ降りる。骨は冷たいほうが、折れにくい。「では、たしなみに行ってきます」

 飄々と、その言葉を置いて、彼は天幕の外へ出た。雨が肩に落ちる。白は濡れて重い。重い衣は、刃よりも先に彼の体を沈め、音を薄くする。薄い音が、今夜の彼の味方だ。

 道の向こうで、誰かが小さく笑い、誰かが小さく沈黙した。その二つが重なったところに、戦の核は生まれる。核は熱を持つ。熱は、雨で隠される。隠された熱だけが、夜を渡る。

 同じ夜、別の道。古い石畳が、山の腹を斜めに走っていた。木の根が石の隙から指を出し、落ち葉の下には湿気を含んだ黒い土が眠っている。人はいつからここを歩いているのか分からない。道の中央がわずかに凹み、雨が細い川を作っていた。矢野蓮は、その凹みの水を跨ぎながら、上へ向かった。

 背に担ぎ上げられた負傷兵の息が浅く、揺れるたびに呻きが漏れる。呻きは雨に似て、やがて雨にまぎれ、最後には雨になった。矢野は、担ぎ手たちの肩と肩の間に指を置き、歩幅を合わせさせた。合わせた歩幅は、声より早く群れに伝わる。伝わった歩幅の合奏が、見張り線の空気を一度だけ綺麗にした。綺麗にされた空気は、すぐに汚れる。汚れても、整えられた記憶だけは残る。

 古道の曲がりで、彼女は立っていた。背が曲がっているのか、夜がそう見せるのか、判断がつかない。薄い藍の布を頭にかぶり、足袋は泥を吸って重く、手の甲に張り出した骨は雨を受けて青白い。老女は、矢野を待つでもなく、ただそこにあった。道の一部のように。

「ここは神さまの島」

 会釈もなく、老女は言った。声は雨よりも古かった。古いものほど、重さを持たずに降りてくる。「死んでも名を呼ばれぬ」

 矢野は、軽く頭を下げた。名を呼ばれぬ、という言葉は、この島の空気のどこにでも触れている。天幕の内でも、鳥居の下でも、泥の上でも。彼の胸の中で、その言葉は、昼間から何度も反芻されて、骨に触れ始めていた。

 老女は、懐から小さなものを取り出した。濡れた紙に布を巻いた、掌の皮ほどの大きさ。結び目は藁で、節が二つ。潮除けの護符だった。老女の指がそれを持つと、薄い紙が雨を吸って色を変えた。矢野は、掌を差し出した。受け取りながら、掌の皺が護符の湿りを吸うのを感じた。吸った湿りは、掌の奥で祈りに変わる。

「これで、潮が道を塞いでも、足が迷わん」

 老女は、言葉より先に、彼の胸の前に護符を押しつけた。押される力は弱いが、抗えない種類の重さを持っていた。「名を呼ばん島で、名を置くな。置けば、どこにも届かん」

「ありがとうございます」

 矢野の声は、礼よりも低く出た。低いところに落ちた声は、長く残る。彼は護符を懐に入れ、布の内側で指を離さなかった。離さぬ指は、心の中で握ったまま、別のものを掴んでいる。兵の命、退く道、夜の秩序。掴むものが多いほど、握った手は軽く動かねばならない。

「おまえさん、誰の子や」

 老女は、矢野の目を見るようで見ないまま、問うた。名の代わりに血の筋を問うたのだ。矢野は答えなかった。名は呼ばれぬ、と彼女が言ったばかりだ。呼ばれぬ名を、わざわざ自分で呼び起こす意味はない。老女は、答えがないのを責めなかった。責めぬことこそ、問いの真意だ。

「誰でもない子で、ええ」

 老女は、雨を見た。「誰でもないまま、背負うもんは、誰より(かさ)なる。誰でもない名は、道に残らんでな。ええ道じゃ」

 彼女はそう言うと、矢野の肩の泥を、指先で軽く払った。払われた泥が、雨の川に混じって流れていった。肩を払われるという行為が、どこか別の記憶と重なった。矢野は、さっき払った自分の肩の泥の重さを、遅れて思い返した。あの仕草が群れに伝わるのを、彼自身が見ていたのだ。老女は、それを見透かしていたのか、いないのか。どちらでもよかった。

 護符の藁は柔らかく、紙は硬いところと柔いところが交互にあった。雨水を吸って、冷たさが骨へ降りる。骨は冷え、心は澄む。澄んだところに、島の言葉が沈んだ。「名を呼ばれぬ」という響き。呼ばれない名は、誰かの掌で温まるまで、ただの沈黙だ。掌がそれを抱えたとき、沈黙は道標になる。

「ここで死ぬな」

 矢野は、護符を押さえたまま、担ぎ手たちに振り返らずに言った。声は小さい。小さい声ほど、近くの者へ深く届く。老女は、頷きもせず、否もせず、ただ雨の来た方を見た。雨はいつでも同じ方角から来る。違うのは、受ける側の膝の角度だ。膝の角度は、今夜、同じ方向へ揃いつつあった。

 老女は踵を返し、古道の影へ溶けていった。影に溶ける者は、名を呼ばれない。呼ばれないから、祟りにも恩にも触れない。彼女の背が消えるまで、矢野はそこに立っていた。消えたあと、護符の位置を少し上げた。心臓の上へ。心臓の拍は、雨よりもゆっくりで、しかし確かにそこにあった。

 山道の上から、潮の鳴りがひとつ変わった。丑寅の刻へ向けて、海は息を吸い、鳥居の朱は雨に滲んで薄れた。薄れた朱の向こうで、白い影が一度だけ、肩を傾けたように見えた。見間違いかもしれない。見間違いでよい。見間違いの中に、礼の気配が眠っていることがある。

 矢野は、標の位置を二つだけ修正した。修正は、名を呼ばれないままに行われるべきものだ。名を呼ぶと、修正は命令に変わる。命令になった瞬間、それは誰かの顔に縫い付けられる。顔に縫い付いたものは、夜に重い。重いものを多くぶら下げて夜を渡る者は、途中で沈む。

 入江のほうから、舟板の軋む音が聞こえた。漁師が潮を読むために板を蹴るのだろう。蹴られた板は、水に触れて、舌打ちのような小さな音を返す。舌打ちが三つ、間を置いて二つ、また一つ。沖田が言った「静けさの域」の輪郭が、音の欠落として現れ始めていた。

 天幕の下へ戻る途中、沖田は、雨の中で刃を一度だけ抜いた。刃の腹が、鳥居の朱の残りを薄く抱いた。抱いたまま、何も映さない。映らないことが、今夜は礼だった。濡れた手の甲の傷はもう閉じて、皮膚は少し白くなっていた。白は雨の色ではない。白は、名のない色だ。名のない色は、夜に長くいる。

「静殿」

 背後で、誰かが呼んだ。静、と。名を呼ばれたが、彼は振り返らなかった。名を呼ばれぬ島で、名は呼ばれたふりだけをすべきだ。ふりの中に、存在は隠れる。隠れた存在は、祟りに届かない。それでよい。祟りは、あとからまとめて受け取ればいい。今は、音の薄い場所へ、音の薄い足で入る。

 天幕の縁に、年長の将がまだ立っていた。濡れた顎鬚は雨を飽きて、静かに垂れている。彼は沖田の横顔を見、言う。「死ぬ気でいると、兵は怖れる」

「死なない気でいると、兵は死にます」

 沖田は、飄々と答えた。軽口の形だが、軽口の骨は硬い。「私は死ぬ気ではない。死んでも構わぬだけです」

 将は、鼻で笑うふりをして、笑わなかった。笑えば、祟りが寄る。笑わなければ、雨だけが寄る。「たしかに、祟りは記録に残る」

「記録は、雨に弱い」

 沖田は、天幕から外へ出て、夜を見た。夜は、彼のほうへ少しだけ傾いていた。傾いた夜は、彼を信じているわけではない。信じないまま、足場を貸す。足場がある間に、三角の心臓へ指を差し入れる。そこは、島の皮膚の最も薄いところだ。薄い皮膚ほど、刃は冷たさをよく覚える。

 矢野は、護符の紐が濡れて肌に張りつく感触で、夜の動きを測った。張りつく軽さが変わるとき、風の向きが変わる。風が変われば、狼煙は裂ける。裂けた狼煙のかわりに、彼は指で地面を撫でた。泥の縁が、予想よりも浅い。浅いところに、足を置く。浅いところに置かれた足は、次の一歩を深くしない。深くしない一歩は、長く続く。

 老女の言葉が、遅れて胸の中で重くなった。「名を呼ばれぬ」。呼ばれないことは、不在の肯定ではない。匿名の赦しだ。赦しは、戦に似合わない。似合わないものを胸に抱えて、なお刃を持つとき、人はようやく戦から半歩退くことができる。半歩退いた者だけが、全員の背を見られる。背を見る者だけが、背を守る。

 入江の向こう、島の心臓が、雨の膜越しにふくらんで見えた。社殿の背の斜面は、祈りの昇降で磨かれ、山道は獣の足で柔らかく、喉のような入江は潮を甘やかせていた。三つは、今、同じ速度で呼吸している。呼吸が合うとき、人は道を誤らない。誤らないときにだけ、奇襲は奇襲でなくなる。ただの歩行になる。歩くだけで、戦は崩れる。

 沖田は、白い小石を、地図ではなく地面に置いた。置いて、爪の先で軽く弾いた。石は泥に沈み、音は出ない。音が出ないところでこそ、心臓の拍は大きくなる。彼は、斜面の入口に耳を当てるように、肩を寄せて立ち、雨の向こうで一度だけ小さく頷いた。

「行こう」

 声は誰にも届かず、彼自身の骨にだけ入った。骨に入った合図は、足へ伝わる。足が一歩、夜へ沈む。沈んだ夜が、反対側から持ち上がる。持ち上がった夜の下で、三角の心臓が露わになる。

 矢野は、護符の結び目に指を当て、結びの硬さを確かめた。硬さは、ほどけるためにある。ほどけない結びは、祝言には似合っても、戦には向かない。向いているのは、ほどくことを前提に締めた結びだ。締め方が甘いのではない。ほどき方を先に知っている締め方。彼は、結びの位置を少しずらし、呼吸に合わせた。

 島は、深いところで、心臓の音をひとつ打った。雨は厚さを変えない。変えないまま、音を薄くする。薄くなった音の間に、人の息と刃の重さが滑り込む。滑り込んだものは、もう呼ばれない。名を呼ばれぬまま、彼らは心臓へ指を延ばす。

 その夜の、核は、祟りを忘れたふりをしていた。忘れたふりの中に、記録の影がうすく差している。やがて、誰かが言うだろう。あの夜、三角の心臓を押さえた白い影がいた、と。だが、名は呼ばれない。呼ばれぬほうが、長く残る。残ったものは、雨が洗い続ける。

「ここでは、死なせない」

 矢野は、声にせずに言った。彼の声は骨に沈み、骨は、標の木札のざらつきと同じ場所で鳴った。木札は濡れて重く、重さで地へ噛む。噛んだ場所は、明け方になっても動かない。動かないものがある限り、人はそこへ戻れる。戻ることを前提に進む。進むことを前提に退く。

「この島は、死がよく似合う」

 沖田は、声に出した。出した声は雨に薄められ、意味が骨だけになった。骨だけの意味は、刃より長い。長い意味を携えたまま、彼は三角の心臓へ、軽い足取りで、しかしためらいなく沈んでいった。白は重い。重い白ほど、夜に向いている。向いているものは、祟りを恐れない。恐れないふりをして、記録を恐れる。恐れの形が、彼の笑いの端で一度だけ光り、また消えた。

 雨は、島の上で丁寧に降り続けた。社殿の背の斜面、山道、入江。三つの拍が、同じ間で重なり合い、心臓の皮膚がうすく震えた。震えの上で、人の足が音を落とし、見えない合図が往復し、礼が言葉にならぬまま繰り返される。祈りは短い。命令も短い。長いのは、雨だけだ。

 その長さが、奇襲の核を覆っていた。覆われるものほど、よく働く。働きの終わりに、祟りは来る。来たとき、名は呼ばれない。呼ばれないまま、誰かの掌が護符の紙を温め、誰かの刃が濡れた鞘を開き、誰かの肩から泥が払われる。その一連が、はじまる前に、夜はもう少しだけ彼らのほうへ傾いた。傾いた夜の下で、心臓は、静かに、確かに、ここにあった。

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第二章 嵐の刃(承) ― 出会いと不可思議な停刀


第五話 潮闇の潜入 


 丑寅の刻。

 雨は刃の目を細くするためだけに降っているように思えた。粒は小さく、数は多い。風が山から降りてきて、社殿の背をなで、入江の口でよどみ、音を重ねながら、ついには音そのものを潰してしまう。灯は濡れた手で覆われ、声は胸の内で折りたたまれ、足は自分の重さを忘れはじめている。夜は、島の上に、もう一枚、薄い皮膜を重ねた。

 沖田静は、白装束の上に黒の雨合羽を重ねた。黒は濡れて光を吸い、白は内側で沈む。二つの色は境を失い、泥と血と雨が、同じ濃さの同じ温度になった。紐の結び目は片側だけをわずかに長く、歩幅の深さに合わせて布の鳴りを殺す。靴の底に通した細い麻の繊維が、水を吸って重くなり、しかしその重さが、足音の角を舐め取る。刃は鞘に眠ったまま、掌の血の匂いだけをゆるやかに吸い続けていた。

 彼は立ち止まり、雨に耳を澄ました。

 呼吸の列。

 兵の寝返り。

 火口にかぶせた鉢のへりを、雨粒がたたく鈍い音。

 遠くで鹿が短く鳴き、それがいま夜の中にいないことを確かめるための合図のように一度だけ跳ねた。

 音は多いのに、薄い。薄い音は、数えやすい。数えられる音だけが、刃の味方だ。彼は数えた。息が三で、寝返りが二で、鉢の音が不規則で、それでも巡回の足の重さが五の間で繰り返される。五の間の端に、斥候長の歩みがある。歩幅は静かだが、間合いを誤っている。誤りは、雨に似せて隠される。隠されたものほど、刃にかかりやすい。

 黒い道は、鳥居の根から社殿裏へ、その斜面をかすめ、獣道のような山道を舐め、入江の喉元に向かって伸びている。昼間に置いた白い小石は、もう雨に洗われて見えない。それでいい。見えないものを、体は覚えている。彼は体の中の小石を踏み、肩を少し前に寄せ、雨合羽の裾を膝に巻きつけるようにして、闇の膜へ身体を滑らせた。

 最初の見張りは、声を飼っていた。

 寝ぼけた声、退屈の声、恐怖に火の粉を足すための無意味なおしゃべり。

 彼は、声の静脈を指で押さえるように、足の角度をひとつ変え、土の柔らかさを膝で量り、斜めに踏み出した。草の先端に雨が一つ、二つ、三つ。三で、彼は息を止め、四で、刃の重さを掌に移し、五で、刃の先を鞘から一寸だけ出した。出した刃は、音を吸い、雨粒を二つ飲み、三つ目の粒を、唇で受けた。鉄の味は、もう遠い。遠い味は、今夜の邪魔をしない。

 見張りの横顔が、雨の膜の向こうに現れては消えた。彼は、横顔の呼吸の谷間を数え、その谷間に、体を滑り込ませた。刃はまだ眠っている。眠っている刃で、彼は見張りの足首に触れ、腱のあるべき線を指の腹でなぞった。なぞりきらぬ寸前に、角度を知っている刃が、眠りのふりをやめた。音は出なかった。出ない代わりに、男の息が一度だけ、大きく吸われ、そこで止まった。止まった息は、声になる。声は、陣の内側へ伝令より早く忍び込む。

 彼は男を置いた。

 置いたというより、夜の底に戻した。

 戻されたものは、夜の別の奥行きを引き連れてくる。奥行きが増えると、斥候の目は手前に寄り、手前に寄った目は、前だけを見る。前だけを見る陣は、横から崩れる。

 黒い道は、斜面の曲がりでいったん細くなる。雨で滑る土の、わずかに盛り上がった場所。そこに、人の気配がひとつ、腰を据えていた。斥候長だ。全身の筋が雨に慣れていて、怠けていない。怠けない筋は、刃を跳ね返す。跳ね返された刃は、別の角度を覚える。角度は、彼の骨の中で季節のように入れ替わる。

 斥候長の横顔は、火のない夜なのに、薄く明かりを持っていた。目は濡れ、唇は引き結ばれ、耳は風の向きに正直だ。正直な耳は、こちらの息を一度だけ拾った。拾って、拾わなかったふりをした。良い耳だ。良い耳は、音の薄い場所を嫌う。嫌う者ほど、そこに座る。座ったままの者は、最短で死ぬ。

 沖田は、刃を一寸、二寸。

 そこまで出して、いったん目を閉じた。

 癖だ。致命の直前に、一拍だけ目を閉じる。閉じた目の裏で、切らずに済むかを確かめる。確かめる手は、嗜虐の底で小さく震える。震えは、理性の刃を揺らす。揺れた刃は、抜かないという選択をひとつ、増やす。増やした選択のうち、今夜いくつを使えるか。雨が答えないとき、彼は自分の舌で答えを持つ。

 切らずに済むか。

 斥候長の背後の草の揺れ、裏手の小石の転がる音、遠くの呻き、手前の巡回の足。

 彼は、目を開けた。

 刀は、眠りをやめ、骨の生きている場所だけを、丁寧に撫でた。斥候長の喉に触れなかった。触れれば、音が出る。音は好きだが、夜は音を嫌う。脇の下から肋骨の間、刃は、雨の筋を真似る。真似された雨だけが、血を薄める。

 人の体がひとつ、静かにほどけた。

 ほどけるものは、埋葬の方へ傾く。

 彼は、刃を拭かず、男の瞼をそっと閉じた。閉じる指先は、刃よりも静かだ。埋葬の手。残虐の直後に現れる、その手のために、彼はいつも刃を持っているのかもしれない。刃は埋葬の前段階だ。埋葬は、刃の余白だ。余白がなければ、殺しは長持ちしない。長持ちしないものは、夜の仕事に向かない。

 斥候長の肩から、重みが雨に渡された。渡された重みの欠落に、周囲の空気がわずかに浮く。浮いた空気へ、人は油断という名の砂を撒く。砂は、足を滑らせる。滑った足の音が、今夜の地図にひとつ、印を付けた。

 彼は立ち上がり、黒い雨を肩で受けた。肩は濡れて重いが、内側は乾いていた。乾いたところには、昔覚えた数の板がまだ残っている。呼吸、歩幅、雨脚、刃の角度。数の板を指先で弾くと、音は出ないが、夜の厚さが指に伝わる。厚さが薄くなったとき、そこが「通り」だ。通りを、人より先に刃が歩く。

 別の見張りが、うっすらとこちらに顔を向けた。おそらく、見えていない。見えないのに、体は先に覚える。覚えた体は、まず不自然に硬くなる。不自然は、刃に似合う。彼は、合羽の裾を指で押さえ、泥の上に膝を置き、膝の圧で水を押しのけ、押しのけた水の音が草の音と重なる瞬間を待った。重なったところで、刃はまた眠るふりをやめた。眠りをやめるたび、彼は目を閉じる。閉じた一拍の間に、切らずに済むかが過ぎる。過ぎたものは、雨に戻る。雨になったものは、夜に長くいる。

 入江の喉で、空気が低く鳴った。潮が、道を開ける合図だ。

 彼は黒い道の縁に体を滑らせ、社殿の背を舐めて、山道の陰に入った。斥候長を失った見張り線は、枝の根元を切られた木のように、上から順に静かに傾く。倒れた音は出ない。出ないのに、空気の傾きだけで、そこに倒れたことがわかる。わかる者だけが、そこを通る。通る者は、呼吸を持ち寄る。呼吸は、雨に勝つ唯一の音だ。

 山道の曲がりで、古い太鼓が雨に濡れていた。皮は湿り、枠は黴の匂いを吸って重く、叩けば、音は出ないに等しい。等しくなった音に、意味は宿りやすい。意味を持たない音は、夜を壊す。意味を持つ音は、夜を生かす。彼は掌をひらりと返し、太鼓の皮に、爪の根で、ほんの一拍、触れた。音とも呼べないほどの浅い震えが、湿った土の中へ降りた。降りた震えは、雨の筋に紛れ、入江の喉をくぐり、島の心臓の皮膚に触れ、そこで、消えない。

 その一拍は、矢野蓮の耳に入った。

 彼は、太鼓のそばにいなかった。彼の手は、太鼓の縁を掴もうとして、掴まなかった。雨は音を殺す。今鳴らせば、混乱だけが島を走る。彼はそれを知っていたから、鳴らさなかった。鳴らさないという意志は、群れには見えない。見えないものは、すぐに疑われる。疑いの重さを受けながら、彼は巡回を続けた。少数の兵を連れ、負傷者のところへ戻り、口を開けすぎないように水を含ませ、呼吸を合わせさせ、標の位置をさりげなく指差し、声より先に手で合図した。

「隊長、太鼓を――」

 部下が言いかけ、彼は首を振った。

「いま鳴らせば、島じゅうが『いま』になる。『いま』が増えれば、道は消える」

「では、いつ」

「いつでもない。鳴らさないことも、合図になる」

 彼は視線を雨の向こうへ送り、掌を胸に当てた。護符がそこに湿り、紙の角が肌に貼りついて、拍に合わせて微かに擦れた。擦れる音は、彼だけに聞こえた。

 遠く、耳の奥の皮膚をくすぐるほどの浅い震えが、彼の骨へ降りた。太鼓のそれとも、土のそれともつかない。けれど、意味だけが先に到着していた。道が、ひとつ、開いた。

 彼は、太鼓へ手を伸ばすふりをしてやめた。「鳴らすな」

 部下は不安に揺れた。「合図がなければ、皆……」

「合図は、雨に紛れる」

 彼は、兵の肩を軽く叩いた。叩くものは、骨だ。骨に合図を残せ。骨の中の合図は、雨に負けない。

 巡回の途上、彼は若い兵の目を見た。目は、噂の名残を抱えていた。首の噂は、声に置換され、いまや「声の刃」という像に変わった。刃は見えないほうが、深く刺さる。刺さったものを抜くのは、言葉ではない。動作だ。彼は、水を渡し、布を巻き、指で標をなぞり、泥を払う。泥を払う仕草は、自分でもうつくしいと思うほど、静謐だった。うつくしさは、雨に似て、人を油断させる。油断で、呼吸がほどける。ほどけた呼吸だけが、夜を渡る。

 また一人、彼は抱き起こした。足首の腱が断たれている。沖田の仕事だ、と矢野は言わなかった。言わずに、手でそれを覚え、指に残った欠落の形を、胸の内側に置いた。置いた欠落は、怒りではなかった。怒りで動かない。怒りで動く者は、夜の地図を破る。破れた地図は、午前にしか使えない。今はまだ夜だ。

「ここで死ぬな」

 彼は、負傷兵の耳に落とした。声は小さく、耳の内側で広がるように。負傷兵の眼は濁っていたが、濁りの底で、紙のような光がひとつ揺れた。揺れは短く、しかし確かだった。確かなものは、夜に長くいる。

 沖田は、斥候長の懐に手を入れた。紙片、細い紐、乾いた梅、火口の欠片。どれも重みを持たない。持たないものは、夜を通過する。通過するものだけが、役に立つ。彼は紙片を水で湿らせ、口の中で軽く噛んだ。味はない。味のない紙は、祈りに似ている。祈りは、刃に従属しない。従属しないものは、安心だ。安心をひとつだけ持ち、彼はまた動いた。

 斥候の一人が、こちらに向かって、気配の層を乱すことなく歩いてくる。良い歩きだ。良い歩きの者は、死ぬのが遅い。遅いものからは、詩が採れる。彼は一拍、目を閉じた。切らずに済むか。済むなら、それがよい。済まないなら、刃をよく磨く。磨くのは、埋葬のためだ。

 刃は眠りをやめず、彼は肩だけをずらして、相手の視界から自分の輪郭を抜いた。輪郭を持たない者は、見えても見えない。見えないものの脇を、人は通る。通らせて、彼は背を向けた。背を見せることもまた、刃だ。背を見せて、見せない。矢のような雨が、背の白を打った。白は、内側で黒と溶けている。色はもう意味を持たない。

 入江の口に、唇のような波が立ち、低く閉じたり開いたりしていた。潮は道を開け、すぐに閉じる。開いているあいだに、彼は足を差し入れた。差し入れた足は、泥ではなく水に沈んだ。水は、泥よりも静かだ。静けさの中に、鳥居の残響が長く漂っている。朱の残響は、目ではなく皮膚で受ける。皮膚に残った朱は、祟りの真似をする。真似だけで十分だ。祟りを呼ぶより、真似を連れて歩け。

 矢野は、入江を遠望した。波は口を開けたり閉じたりし、岸の影は濃かった。濃い影は、人の恐怖を呼ぶ。恐怖は、集団を縮める。縮んだ集団は、ひと塊の石になる。石は、押したら動く。押す前に、砂を払え。彼は、兵の肩の泥を払った。払うたび、呼吸の数がそろった。数の揃いは歌に似て、歌は太鼓の代わりに夜をつなぐ。

 太鼓のことを、彼はまだ考えていた。

 鳴らすという行為は、力を集める。集めた力は、同時に、散る準備を始める。散らすために鳴らす太鼓がある。今は、鳴らさないことで散らさない。散らさないために、彼は巡回の軌跡を重ね合わせ、小さな渦をいくつも作った。渦の中心に、負傷兵、標、水。渦の縁に、恐怖。恐怖は渦の外で回る。外を回るものは、酔う。酔った恐怖は、舌を噛む。噛んだ舌の味は、雨に薄められる。

 黒い道の末端で、沖田は、息を一度、殺した。殺した息は、刃の重さに置き換わる。刃の重さは、いま夜の重さと等しい。等しいものは、音を生まない。音を生まない刃だけが、黒い道の底まで沈める。沈んだ刃は、そこから軽く戻る。戻るとき、刃の背で雨を撫でた。撫でられた雨は、しばらく音にならない。音にならないあいだに、伝令が切れる。

 斥候長の所在は、もう彼の胸の小石に移っていた。小石は、呼吸に合わせて軽く跳ね、跳ねるたびに、島の心臓の膜を内側から軽く叩いた。叩かれた膜は、雨をより細かくした。細かい雨は、刃の目をさらに細くする。細い目は、よく見える。見えすぎると、人は切りすぎる。切りすぎる前に、目を閉じる。閉じる一拍。彼は、それを捨てなかった。

 矢野は、標の列を再確認し、老女の護符を指で押し、指先の皺に湿気を吸わせた。吸わせるという行為は、受け入れの形をしているが、実は調整だ。調整という言葉を、彼は口にしない。口にした途端、兵は命令を待つ。命令より先に、手を待て。手の動きが合えば、命令は要らない。要らないものが増えるほど、夜は静かになる。

 太鼓は鳴らない。

 しかし、鳴らないという事実が、島のどこかで鳴っていた。

 兵の背に、濡れた布の重さが均等に落ちている。均等は、戦において、稀だ。稀な均等は、いつも誰かが見えないところで重りを配っている兆しだ。彼は、その重りの配り方に、遠い礼を感じた。礼の気配は、刃よりも長く残る。

 沖田は、入江の喉の岩陰で、ひとりの影がこちらに背を向けているのを見た。斥候長とは別の、若い守り。背が、まだ自分の重さに慣れていない。慣れない背ほど、刃は避ける。避けるために、彼は、刃をしまった。しまって、石を拾い、石を水に落とした。音は、雨に紛れ、波の口でひとつ弾んだ。弾みが伝令の列を乱し、乱された列は、斜面の細道で自分を疑う。疑いは、よい。疑いは、刃の味方だ。

 彼は、若い背が、自分に気づかないまま通り過ぎるのを待った。通り過ぎたあと、彼は、その背中に向かって、ごく小さく、掌で空気を押した。押された空気は、彼の指の長さだけ、相手の骨に触れた。骨は、触れられると、なぜだか生き延びる方向へ傾く。傾いた骨のうしろで、彼はまた別の音を拾う。音は薄い。薄いほど、意味が深い。

 矢野は、兵の耳に口を近づけた。

「ここで死ぬな」

 言葉はもう幾度も繰り返されているのに、古びない。古びないのは、雨が新しくしているからだ。新しくされた言葉は、骨の中で音を変える。変わった音が、太鼓のかわりになる。太鼓は鳴らない。鳴らないことが、彼の中で、確かな合図になりつつあった。

 島の心臓は、薄く、しかし確かに震えていた。震えの上で、刃と呼吸が交差し、礼が言葉にならぬまま繰り返され、埋葬の手が、時おりだけ現れては消えた。消えるものほど、深く残る。深く残るものがある限り、夜は崩れない。崩れない夜の底で、黒い道は、さらに深くなる。深い道を、彼は踏み、彼も踏む。踏まれた道は、誰のものでもない。

 斥候長の死は、誰にも知られず、しかしつぎの刻に、島はそれをはっきり覚えた。覚えたから、息をひとつ、変えた。息が変われば、雨の粒の角度が変わる。角度が変われば、刃の眠りは浅くなる。浅くなった眠りのふちで、沖田は目を閉じた。閉じて、また開けた。開けた途端に、彼は自分の嗜虐が、夜の底で微笑んでいるのに気づいた。微笑みを、彼は短く殺した。殺したのち、軽く笑った。笑いは、雨に消える。

 矢野は、太鼓の縁に触れずに、太鼓の重さを思った。鳴らせば、雨が集まる。雨が集まれば、音は死ぬ。音が死ねば、合図は生きる。生きた合図は、誰のものでもない。誰のものでもない合図だけが、敵と味方のあいだで同じ意味になる。彼は、その同じ意味を、遠くの白に向けて、まだ言葉にもならない礼として返した。返された礼は、雨で磨かれ、骨で受け取られ、夜にしまわれた。

 丑寅の刻は過ぎつつあったが、雨はやまず、黒い道はむしろ静かさを増した。増した静けさは、刃より鋭かった。鋭い静けさの中で、沖田は斥候長の瞼を閉じた指の感触を、掌の内側で何度も確かめた。埋葬の手は、彼を人に戻す。戻された人は、また刃を持つ。持ち直した刃は、前よりも静かだ。静かな刃だけが、雨に勝つ。

「道が、ひとつ、空いた」

 彼は、誰に向けるでもなく言った。雨が、その言葉を薄くして、海へ渡した。海は聞かない。聞かないかわりに、彼の足の裏を軽くした。軽くなった足で、彼はまた一歩、黒へ入った。

 矢野は、護符を指で押し、紙のしわの位置を移した。移したことで、胸の拍に微かなずれが生じ、そのずれが、骨の中で太鼓の代わりに一打、鳴った。鳴らないはずの太鼓が、鳴った。鳴ったという事実は、誰にも届かない。届かない合図は、彼だけを動かす。彼は動いた。動いて、巡回の軌跡を重ね、渦の中心をひとつずらした。ずれた中心に、水と布と標が移る。移るたび、恐怖は渦の外側へ押し出される。

 雨は、彼らの上に公平に降っていた。

 公平さは、残酷だ。

 だが残酷さの中で、人は礼を覚える。礼は、刃を鈍らせる。鈍った刃は、切らないで済む選択を増やす。増えた選択の中で、人ははじめて、殺しの美学と理性の共存という、夜の芸を身につける。芸は、戦に似合わない。似合わないものが、今夜は生き延びた。

 鳥居の朱は、ほとんど水に溶けて、痕跡だけを残していた。痕跡は、祟りにも記録にもならない。ならないから、長く残る。長く残るものほど、雨はよく洗う。洗いながら、夜は、もう少しだけ彼らの方へ傾いた。

 合図は、いまだに鳴らない。

 鳴らないという合図のもとで、白と泥のふたつの影は、同じ潮闇の下、同じ拍を数えていた。

 殺せるのに、殺さない一拍。

 鳴らせるのに、鳴らさない一拍。

 ふたつの一拍が、島の心臓の膜のうえで、はじめて重なった。

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