表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

恋色スペクトルと不感症な僕の選択

作者: マグロサメ

 星宮輝(ほしみや ひかる)の目には、世界が少しだけカラフルに映る。いや、正確には、人の感情、特に恋愛に関するそれが、オーラのような色とりどりの光──輝が内心「恋色スペクトル」と呼んでいるもの──として視認できるのだ。


 キラキラと輝く桜色は、芽生えたばかりの淡い恋心。燃えるような真紅は、抑えきれない情熱。静かに揺らめく空色は、届かぬ想いを秘めた切なさ。そんなスペクトルが、ここ陽乃芽(ひのめ)高校の生徒たちの頭上を、まるで意思を持った生き物のように漂っている。


「お、田中、今日こそ佐藤に告る気満々だな。頭上のピンクが昨日より3割増しで明滅してる」


 昼休み、中庭が見える窓際の席で購買のパンを齧りながら、輝はクラスメイトの頭上に灯る鮮やかなスペクトルを面白がるように眺めていた。その隣では、幼馴染の月島詩織(つきしま しおり)が、参考書から顔を上げ、呆れたような、それでいてどこか構ってほしそうな視線を輝に送る。


「ちょっとヒカル、また人のことジロジロ見て。自分の課題は終わったの?」


 詩織の言葉には、いつものように微量の棘が含まれている。彼女の頭上には、輝に対する複雑な感情を示す、淡い桜色と、イライラが混じったようなチリチリとした小さな赤い火花が混ざり合ったスペクトルが浮かんでいた。それは輝にとって見慣れた光景で、「またいつものやつか」と特に気にも留めない。


「あー、数学のやつだろ? 後で写させてくれよ、詩織様」


「もう! 少しは自分でやりなさいよね!」


 詩織の頬が微かに赤らみ、頭上の桜色がほんの一瞬だけ濃くなったのを、輝は見逃さなかったが、その意味を深く考えることはない。彼女の胸中では「この朴念仁! いつになったら気づくのよ!」という無言の叫びが渦巻いているのだが、輝の恋愛アンテナは、自分に向けられたものに関しては驚くほど受信感度が悪い。自称「恋愛不感症」。それが星宮輝だった。他人の恋模様は手に取るようにわかるのに、自分のこととなると、まるで分厚いフィルターがかかったように何も感じないし、見えもしないのだ。


 そんな輝の、ある意味で平穏だった日常に、ほんの小さな、しかし無視できない異変が生じ始めたのは、秋風が校庭の銀杏を黄色く染め始めた頃だった。


 昨日まで鮮やかな恋のスペクトルを放っていたカップルの頭上から、ある日突然、その輝きが嘘のように消え失せ、くすんだ灰色のもやが漂っているのを目撃した。告白を決意し、燃えるような赤いスペクトルをほとばしらせていた生徒が、ターゲットの目前でその光をフッと霧散させ、呆然と立ち尽くす場面も一度や二度ではなかった。


「なんだ……? また消えたぞ……」


 初めは個別の失恋や心変わりの類だろうと高を括っていた輝だったが、その現象が日に日に頻度を増していくにつれ、彼の胸にこれまで感じたことのない種類のざわめきが広がっていった。それは、まるで世界から色彩が少しずつ奪われていくような、漠然とした、しかし確かな不安感だった。


 詩織は、そんな輝の些細な変化を敏感に感じ取っていた。いつもは他人の恋愛模様をどこか面白そうに、あるいは達観したように眺めている輝が、最近は眉間に皺を寄せ、何かを探るように周囲を見渡すことが増えた。


「ヒカル、最近どうしたの? なんか、ぼーっとしてること多くない?」


 放課後の教室で、学園祭のクラス企画の話し合いが紛糾している中、一人窓の外を眺めていた輝に、詩織がそっと声をかけた。彼女の頭上には、純粋な心配を示す優しい水色のスペクトルが揺らめいている。


「……いや、なんでもない」


 輝は曖昧に答え、詩織から視線を逸らした。自分のこの特殊な視界のことは、誰にも話したことはない。話したところで信じてもらえるとも思えなかったし、何より、面倒なことになるのは避けたかった。


 詩織は何か言いたげだったが、輝の硬い表情を見て、それ以上追及することはなかった。ただ、彼女の胸には、小さな不安の蕾が芽生えていた。ヒカルが何か、自分にも言えないような悩みを抱えているのではないか、と。その不安は、彼女のスペクトルに、淡い影を落としていた。


 輝が感じていた異変は、やがて学園全体を覆う不穏な現象として、生徒たちの間でも囁かれるようになった。誰が名付けたか、「恋冷めパンデミック」。カップルが理由もなく次々と破局し、告白はことごとく失敗に終わり、校内には以前のような華やいだ雰囲気が嘘のように消え失せていた。輝の視界に映る恋色スペクトルは日増しにその輝きを失い、代わりに、どんよりとした生命力のない灰色のオーラが、生徒たちの頭上を幽霊のように覆い始める。


 楽しみにしていた学園祭の準備も、その影響を色濃く受けていた。クラスの出し物であるメイド喫茶の準備は、実行委員たちの間で些細な意見の食い違いから言い争いが頻発し、企画は遅々として進まない。かつては恋の相談で賑わっていた教室の隅も、今は重苦しい沈黙に支配されている。


「どうなってんだ、一体……」


 輝は自分の能力で原因を突き止めようと、これまで以上に注意深く周囲を観察した。しかし、見えるのはスペクトルが消滅していく「結果」だけで、その背後にあるメカニズムや、ましてや意図など、皆目見当もつかなかった。自分の無力さに、輝は珍しく焦燥感を募らせる。いつもはどこか他人事だった世界の出来事が、今は自分の問題として重くのしかかっていた。


 詩織は、そんな輝のいつもと違う様子を、誰よりも気にかけていた。輝が一人で何かを抱え込んでいるのは明らかだったが、彼が頑なに口を閉ざす以上、踏み込むこともできない。彼女にできるのは、せめて輝の傍にいて、少しでも彼の気分が晴れるようにと努めることだけだった。


「ヒカル、これ、昨日焼いたクッキー。よかったら、だけど……」


 ある日の放課後、詩織は小さな袋に入った手作りのクッキーを、少し照れたように輝に差し出した。彼女の頭上には、期待と不安が入り混じったような、淡いピンクと水色の混色のスペクトルが揺れている。


「お、サンキュ。助かる」


 輝は素直に受け取り、早速一枚口に放り込んだ。サクサクとした食感と優しい甘さが口の中に広がる。


(月島、意外と女子力高いんだな……いや、昔から料理は得意だったか)


 輝の思考はそんなところで止まってしまう。詩織の胸の内で、「ヒカルが美味しいって言ってくれるといいな」「少しは元気になってくれるといいな」という健気な願いが渦巻いていることなど、今の彼には想像もつかなかった。


 学園祭のメイド喫茶の準備も、詩織は輝を元気づけたい一心で、いつも以上に積極的に参加していた。デザイン案をまとめたり、シフト表を作成したり、クラスメイトたちを鼓舞したりと、八面六臂の活躍を見せる。しかし、輝の反応は芳しくない。それどころか、輝は詩織が甲斐甲斐しく動き回る姿を見るたび、


(月島、そんなにメイド喫茶が楽しみだったのか……? それが今のこの雰囲気で上手くいかなくて、それで落ち込んでるのか……? こいつ、意外とそういうイベントごと、気にするタイプだったんだな……)


 と、またしても百八十度異なる解釈をしてしまうのだった。彼の心に浮かぶのは、詩織に対する「可哀想なやつ」という同情に近い感情であり、彼女の真意とは悲しいほどにすれ違っていた。詩織の頭上のスペクトルが、時折寂しげな濃い青色を帯びることに、輝は気づいていながらも、その理由を正しく理解することはできなかった。


 輝は、一人で「恋冷めパンデミック」の調査を続けていた。スペクトルが消える瞬間の状況、場所、関わっている人物。断片的な情報を繋ぎ合わせ、何か法則性がないかを探る。そんな中、彼は一つの奇妙な共通点に気づいた。現象が起こる直前、必ずと言っていいほど、生徒たちが旧校舎の使われていない美術準備室の周辺に立ち寄っている、という事実だった。


「美術準備室……? あそこはもう何年も使われていないはずだが……」


 輝の胸に、一筋の光が差し込んだような気がした。


 意を決して足を踏み入れた旧校舎の美術準備室は、埃っぽく、絵の具の匂いが微かに残っているだけで、人の気配はなかった。しかし、部屋の中央にイーゼルに立てかけられた一枚のデッサンが、異様な存在感を放っていた。それは、泣き出しそうな、それでいてどこか虚無的な表情を浮かべた少女の自画像だった。そして、その絵から、輝の目には、全てを飲み込むような、底なしの絶望を示すどす黒いスペクトルが、まるで生きているかのように渦を巻いて立ち昇っているのが見えた。


「これだ……!」


 輝は直感した。この絵こそが、「恋冷めパンデミック」の発生源なのだ、と。


 その絵を描いたのは、一つ上の美術部の先輩だと、後で知ることになる。彼女は最近、恋人に手酷く振られ、その絶望と悲しみを全てこの絵に叩きつけたのだという。彼女の強すぎるネガティブな感情が、無意識のうちに周囲の「恋する気持ち」を打ち消し、その力を奪う、一種の「呪い」のようなものを発していたのだ。彼女自身の頭上にもまた、絵と同じ、全てを拒絶するような真っ黒なスペクトルが渦巻いていた。


 原因は突き止めた。しかし、どうすればこの呪いを解けるというのか。輝は途方に暮れた。自分のポジティブな感情をぶつける? しかし、自他ともに認める恋愛不感症の自分に、そんな芸当ができるとは到底思えなかった。輝の心は、珍しく弱気な色を帯び始めていた。それは、今まで感じたことのない無力感だった。


 学園祭を明日に控えた放課後。クラスのメイド喫茶の最終準備が行われている教室は、依然として重苦しい空気に包まれていた。そんな中、メイド長として皆を引っ張ってきた詩織が、ついに堪えきれないといった様子で、手にした装飾用のリボンを床に叩きつけた。


「もう無理だよ……こんな雰囲気じゃ、誰も楽しめるわけないし、私も……ヒカルだって、きっとこんなの、つまんないでしょ……」


 詩織の声は震え、その瞳には涙が浮かんでいた。彼女の頭上のスペクトルは、深い悲しみを示す濃紺と、諦めを表す灰色が混ざり合い、今にも消え入りそうにか弱く揺らめいている。しかし、その絶望的な色の奥底に、輝は確かに見たのだ。ほんの僅か、しかしダイヤモンドの原石のように確かな輝きを放つ、薄桃色のスペクトルを。それは、輝への、そしてこの状況を何とかしてほしいという、切実な、最後の期待の色だった。


 ズキン、と。


 輝の胸が、これまで経験したことのない種類の鋭い痛み方をした。それは、他人のスペクトルを見て感じる同情や憐憫とは全く異なる、もっと直接的で、強烈な感情の波だった。


(これが……俺の感情……? 月島が悲しんでるのが、こんなに……嫌なのか? あいつが笑ってないと、こんなに胸が苦しくなるのか……?)


 初めて自分の中に芽生えた、名前のつけられない熱い感情に、輝は戸惑い、そして突き動かされた。


「待ってろ、月島!」


 輝は訳も分からぬまま、しかし確かな衝動に突き動かされ、教室を飛び出した。目指すは、旧校舎の美術準備室。


 扉を蹴破るように開けると、そこには昨日と同じように、呪いの絵と、その前に力なく座り込んでいる美術部の先輩がいた。先輩の頭上の黒いスペクトルは、昨日よりもさらに濃く、深く、周囲の光すら吸い込んでいるように見える。


 輝は、半ばパニックになりながらも、自分の能力のことを先輩に打ち明けた。


「俺には……人の恋してる気持ちが、色で見えるんです! オーラとか、スペクトルとか、そういうのが! そして、あなたの絵からは、ものすごく黒くて、みんなの恋を消しちゃう力が出てるんです!」


 先輩は虚ろな目で輝を見つめるだけで、何の反応も示さない。言葉だけでは、彼女の深い絶望を打ち破ることはできないのだと、輝は悟った。


 時間がない。詩織のあの悲しい顔が、脳裏に焼き付いて離れない。


 追い詰められた輝は、もうどうにでもなれ、と半ばヤケクソだった。彼は踵を返し、再び自分の教室へと全力で駆けた。息を切らし、汗だくになりながら教室の扉を開けると、そこにはまだ、泣きそうな顔で立ち尽くす詩織と、心配そうに見守るクラスメイトたちがいた。


 輝は、詩織の前に仁王立ちになった。


「月島っ!」


 大声に、詩織がびくりと肩を震わせる。


「俺……! 俺、お前がいないと、なんか調子狂うんだよ! お前がメイド服着てないと、学園祭、全然張り合いないし! お前がそうやって悲しい顔してると、なんか、俺も全然面白くねーんだ! だから……っ! 俺のために、笑えっつーの! 学園祭、成功させようぜ!」


 それは告白と呼ぶにはあまりにも不器用で、支離滅裂で、自己中心的とも言える叫びだった。しかし、その言葉には、輝の剥き出しの、嘘偽りのない本物の感情が込められていた。


 その瞬間。


 輝の頭上に、まるで内側から弾けるように、鮮やかで力強い、太陽のようなオレンジ色の恋色スペクトルが、パッと花火のように咲き誇った。それは、彼が生まれて初めて自分自身に灯した、紛れもない「恋」の色だった。


 輝の心からの叫びと、その眩いオレンジ色のスペクトルは、まるで浄化の光のように、美術準備室にいた先輩の心にも届いた。彼女の頭上を覆っていた真っ黒なオーラに、少しずつ亀裂が入り、やがて堰を切ったように涙が溢れ出す。涙と共に、黒いオーラは霧散し、そこには疲弊しながらも、どこか憑き物が落ちたような、穏やかな表情の先輩がいた。呪いの絵からも、禍々しい気配は消え失せていた。


 教室では、詩織が突然の出来事に顔を真っ赤にして固まっていた。しかし、輝の言葉と、初めて見る彼の頭上の鮮やかで温かいオレンジ色のスペクトルに、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じていた。彼女の頭上にもまた、輝への確かな想いを示す、輝くようなピンクゴールドのスペクトルが、これまで以上に力強く、そして幸せそうに輝き始めた。


「ヒカルの……ばか……」


 涙声でそう呟く詩織の瞳は、もう悲しみではなく、照れと喜びで潤んでいた。


 二人の強く、そして純粋なポジティブなオーラは共鳴し、瞬く間に学園全体に広がっていた「恋冷めパンデミック」を霧散させた。生徒たちの頭上に、次々と色とりどりの恋色スペクトルが復活し、学園は以前にも増して活気と、そして甘酸っぱい恋愛ムードに満たされる。


 その後の学園祭は、言うまでもなく大成功を収めた。輝と詩織のクラスのメイド喫茶も大盛況で、ぎこちないながらも笑顔で接客する輝と、そんな彼を隣で嬉しそうに、そして時折からかうように見守る詩織の姿があった。二人の間には、まだ言葉にはなっていないけれど、新しい関係が確かに芽生えていた。


 後日、輝と詩織は、あの現象の本当の原因と、輝の能力のことは、二人だけの秘密にすることにした。


「それにしても、結局誰も、何であの時みんなの恋心が急に復活したのか、全然知らないんだよねー」


 屋上で二人きり、心地よい風に吹かれながら詩織がクスクスと笑う。


「まあ、結果オーライってやつだろ。深く追求するだけ野暮ってもんだ」


 輝は照れ隠しにそっぽを向きながら答えるが、その横顔はどこか誇らしげで、そして何よりも嬉しそうだった。


 神の視点からは、こう付け加える他ないだろう。──そして誰も、あの学園を覆った奇妙な恋愛不況の真の原因と、それを解決したのが、一人の恋愛不感症だった少年の、あまりにも不器用な愛の告白(のような何か)だったとは、知る由もなかった、と。


 ただ、その日を境に、星宮輝の瞳には、月島詩織の頭上に輝くピンクゴールドのスペクトルだけが、他の誰よりも鮮やかに、そして何よりも愛おしく映るようになったことだけは、紛れもない事実であった。彼の「恋愛不感症」は、詩織限定で、見事に治療されたようだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ