・3-33 第52話:「コドク:5」
・3-33 第52話:「コドク:5」
エドゥアルド・フォン・ノルトハーフェンは、貴族の家に生まれた。
嫡男として、順当に行けば領地を継承し、そこに生きる人々を統治するという使命を生まれながらに帯びて。
アルエット共和国の勢いの強さ、それから、平民たちとも交流したことで、政治は貴族だけで独占して良いモノではないと、今となっては理解しているつもりだったが、それでも少年は、生まれ持った自身の定めを誇りに思っている。
背負った[ノルトハーフェン]という家名には重い責任が伴っていたが、やりがいを、あらゆる困難を乗り越えて成し遂げる意味を感じられる使命だった。
公国に暮らす数百万の人々によりよい暮らしを約束し、その平穏を守るために。
だが、そのためには、自領のことだけを考えているわけにはいかなかった。
タウゼント帝国全体のことを意識しなければ、守りたいものを守ることができない。
だからこそ、エドゥアルドはいつの間にか、皇帝を志すまでになっていたのだ。
この国家に暮らす、四千万の人々。
優先するべきは、彼らだった。
文化も、言語も異なる、顔も知らない他国の人々のことではない。
身近な、そして、自身の執政下にある者たちこそ、大切にしなければならない。
もしも道理に反することだと言って、狡猾な策謀を巡らせることを拒否して、その結果、帝国が、そこに暮らす民衆が困難に陥るのだとしたら。
それはきっと、偽善になってしまうのに違いないと、エドゥアルドはそう思った。
この国に暮らし、少年代皇帝にその命運を握られている人々を傷つけないようにするために取れる、しかも有効な方法があったのにも関わらず、正義感や理想の方を優先して、結果として危険にさらすようなことになってしまったとしたら。
本末転倒と言う他はないだろう。
エドゥアルドにとっての目標とは、この国に暮らす人々の安寧を守るために良い政治をする、ということなのだから。
他国の人々のことを気にかけて、相争わせるなどという卑劣な策略を取らなければ、確かに正義感は満足させられるだろう。
しかしそれでは、最優先するべきだと考えていたものとは別のことを優先してしまった、ということになりかねない。
それに、ザミュエルザーチ王国とサーベト帝国とは、こちらがなにもしかけずとも争いになる可能性が、元から高かった。
両国とも文化、言語が異なっているために相互に親しみを感じることなどない様子だったし、海に出ることを目指して拡張政策を継続して来たザミュエルザーチ王国とサーベト帝国とは、度々戦火を交えてきた、不倶戴天の敵同士でもあったのだ。
わざわざこちらから教唆してやらずとも、弱体化した隙にできるだけ多くの領土をかすめ取ってやろうと、王国が今、まさに蠢動していたとしても、少しもおかしなことではなかった。
最初から高確率で起こる戦争であれば、こちらが積極的に利用したとしても、たいしたことではないのではないか。
むしろ、そうすることで自身の支配下にある人々をより確実に守ることができるというのならば、躊躇う必要などないはずなのだ。
ベッドに寝転んだエドゥアルドの脳裏に、見慣れたメイドの姿が浮かんでくる。
彼が治めている民衆とは、まさに、彼女に代表されるものだ。
代皇帝のもっとも身近なところにいる平民がルーシェであり、貴族の価値観から彼が脱却する最初のきっかけを与えてくれた存在でもある。
いつも懸命で、誠実な彼女の不幸と、見ず知らずの異国の誰かの不幸。
どちらを取り除くべきなのかは、深く考えてみるまでもなく答えを導き出すことができる。
いろいろな表情が浮かんでくる。
だがその中でふと、悲しそうな顔をしている少女の姿があらわれて、ズキリ、と代皇帝の胸の内に痛みが走った。
(そうか……。僕は、アイツに……、嫌われたく、なかったんだな)
エドゥアルドにとって、ルーシェたち帝国の民衆と、それ以外のどちらを優先するべきなのかは、自明のことであった。
だが、この策謀のことを知ったメイドは、きっと、喜ばない。
いくら自国の人々を守るためだとはいっても、それで他国の人々を利用し、争わせるなどというのは、やはり卑劣なことであるのに違いないし、そうやって誰かが傷つくことをルーシェが嬉しいと考えるはずがない。
エドゥアルドだって、感情だけで言えばそんなことはやりたくないと思っているほどなのだ。
———もしかすると、すっかり少年に幻滅して、心が離れて行ってしまうかもしれない。
代皇帝が迷っていたのは、結局は、その点であった。
嫌われたくない。
あの、見ているとほっとする朗らかな笑顔を、失いたくない。
だから、許しが欲しかったのだ。
彼女にヴィルヘルムの提案を話し、自身の思いを打ち明け、「どうか、こんなことをする僕を許して欲しい」と、そう確かめたかった。
実行に移すことはできなかった。
もしも拒絶されたらと思うと、恐ろしかったからだ。
エドゥアルドが選んだ結論は、沈黙、であった。
ルーシェに嫌われるような狡猾な陰謀を打ち明けることは決心がつかなかったし、こんな、政治の後ろ暗い所にメイドを巻き込みたくなかった。
多分、どこまでもついて来てくれと頼み込んだら、少女はなにも言わずについて来てくれるだろう。
少年が、どうかこんなことをする自分を許して、罪悪感に打ちひしがれそうな心を慰めて欲しいと願えば、彼女は黙って受け入れ、優しく抱擁してくれるだろう。
たとえそうすることを本心から喜んでいなくとも、そうしてくれると、そう思える。
だが、その心は、離れて行ってしまうだろう。
彼女の親愛を失いたくなかった。
だからエドゥアルドは、なにも告げないと決めた。
なにも知らなければ、ルーシェはこれまでとなにひとつ変わらず、甲斐甲斐しく接してくれるだろう。
少年のことを無邪気に、心の底から信頼し、一生懸命に尽くしてくれるだろう。
———もしも、すべてを打ち明けた上で、それでも自分のやることを肯定し、「エドゥアルドさまは、やるべきことをなさっているだけです」と断言してもらうことができたら、どんなにか気持ちが軽くなるだろうか。
そんなふうにも思いはしたが、やはり、嫌われてしまうかもという恐怖心はぬぐえず、エドゥアルドは沈黙するしかなかった。
「僕は……、エドゥアルド・フォン・ノルトハーフェン。それ以外の、誰でもないんだ」
ベッドの上で仰向けに寝転び、目の前に広がる暗がりを凝視しながら、少年はそう呟く。
そしてそのまま、孤独な心地で、眠りに落ちて行った。




