付喪憑き
梵鐘の音が響くたび、私は叔母を思い出す。
叔母が梵鐘になった日だ。
その頃の私はまだ十になったばかりで、手に持たされた鐘つき棒の感触がとにかく嫌だった。笑顔を取り繕っていた私を叔母は申し訳無さそうにはにかんで頭を撫でる。
その感触は冷たかった。夏の終わりのまだ蒸し暑い夕方の中で叔母の手だけはごつごつ固くて冷たくて、そのざらざらしたのが頭に乗ってずっしり重かった。
その時の叔母の体はまだ人の形をしていた。でも既に肌の色は真っ青だった。緑青色の金属、青銅の性質。冷たく硬いかたちが、人の形に押し込められていた。
叔母はもう人間らしいところを、かたち以外残していなかった。
叔母は鐘つき堂の中心に立って、その真っ青で硬い金属質になった手を伸ばした。しゅるるっ、と叔母の手はあっという間に指も形も失って両腕までひっついて丸い穴ぼこを象って鐘楼にひっつく。ぐらりと叔母の体が中に浮く。
叔母はぐらりぐらり揺れる。そのすらりとした体が徐々に寸胴に膨らんでいく。来ていた服が滲んだ模様のように肌の上で溶けて青色に染まっていく。冷たい金属の感触が徐々に叔母から人の形すら奪い去る。
まるで粘土が独りでに蠢くようだった。
……た……ぃて
青色の人の形をした粘土から、小さく叔母の声が聞こえた。叔母は頭を真上に向けていて、その首も体が歪んで埋まりはじめているせいか、とても聞こえにくい声だった。私は耳をすませた。
た……て、た──ぃ、て……た、た──い、て。
叩いて。
叔母の言ってることに気がついて、鐘つき棒を握る手が汗でビシャビシャになっていることにも気がついて、息を呑んで少し止まって、次につぶやく叔母の声がはっきり聞き取れてしまうより先に鐘つき棒を叔母に打ち付けた。
ごぁあぁん、と歪んだ金属の響きに混じって言葉にならない叔母の歪んだ声がした。悲鳴ではない。苦痛でもない。ただ漏れ出したとしか言いようのない音。そう音だ。声じゃない。ただ空いていた口だった穴から響いただけの音だった。
ごあぁぁあぁん。ごぁおぁん。ごぉぉぉおあおん。
眼の前で人の形に歪んでいた金属の塊が徐々に丸く平たく整っていく。いつしかスカートのようにぽっかり空いてた『うろ』が、薄く蒼く丸く正しく広がった。その空洞は上へと持ち上がり叔母の形を押しつぶし、扁平な金属で曲線を描く形に変えていく。
ごぁあああん、ごぉぁおおおぁん。ごおおおおぉぉおん。
途中から目を伏せていた。ただ乱暴に、音が小さくなって、叔母の声が聞こえてしまわないように祈って叩いた。叔母のことは好きだった。嫌いなんかじゃなかった。
それでも聞きたくなかった。八つ当たりみたいに叩いた。
ごおぉおおおおん。ごおおおおおん。ごおおおおん。
音はどんどんブレなくなってキレイに響く。歪な感じも余計な声も聞こえなくなる。
私はそっと目を開けた。
年季のいった鐘楼に合わせたように、やや古ぼけた鐘が、ぉぉぉぉん、と叩いた響きをわずかに残しながら、あった。どこにも叔母だったものはなかった。いや、これが叔母だったものだった。
私がその梵鐘にピタリと触れると、じっと冷たい金属の感触と共に、僅かな音も手に吸い込まれて、止まった。
みぃぃ、みぃぃとあたりの蝉の声が耳に入るようになるまで、私はしばらく大きな梵鐘を触っていたのを思い出す。
もちろん梵鐘は動かなかった。
思惟に浮かんだ記憶を思い浮かべて、ちょっと滲んだ手汗を身にまとう衣で拭いてしまう。寺から離れた小さな小屋の中で、私はその梵鐘の音を聞いている。朝のお勤めの時間だろう。結局私の『仕事』は夜通しになってしまった。軽く伸びをしながら、鐘の音を聞く。梵鐘を叩いているのは父だろう。
父は梵鐘になった自分の妹のことを覚えていない。いや、妹がいたということも覚えていない。
叔母は『付喪憑き』としてその人生を終えたから。
世の中に悪霊だとか怪異だとか、そういうものがある。ないことになっているが、ある。現代では多少減ったそうだが、ある。
そして寺院や神社には、悪しき諸々を祓う隠れた仕事がある。しかし如何せん人は弱くて脆い。そのままでは悪霊や怪異のエサでしかない。だから、必要に迫られた、ろくでもない『工夫』に満ちあふれている。
所によっては獣を神と崇めてその身を捧げ、人と獣の間の子のようになっていたり、所によっては幾重にも継いだ神具で人の体を乗り継いでは、元の魂を力に焚べたりしているそうだ。
我が家の分派は、神の力を借りることで霊能を得るものだった。ただ、神に近づくためには得てして伝説やら血筋やら供物やらが不可欠となる。そんなのは数が限られ高価であって、うちのような田舎の神仏習合の神社仏閣には高嶺の花である。
故に分派が用いるのは、神でありながら最も身近であり、最も人が力を借りやすい存在。『付喪神』である。
人々が使った物に宿る神。怪異に寄れてはいるものの、それでも『神』は『神』である。何より、その根本は人が使う道具。『神』となろうと、人が使えない道理はない。
そんな『付喪神』を呼び寄せて、穢れのない赤ん坊に宿す。こうして、霊能力を十分身につけた哀れな巫女を安定的に生み出せる、というからくりだ。『付喪憑き』と呼ばれるやり方。
それが叔母で、そして私である。
『付喪憑き』は基本、特定の状況に置かれない限り他の手法よりは安定的で、簡便だ。霊能力を身に着けさせるためには結構メジャーらしい。田舎住まいのせいか、私は叔母以外に同業を見たこともないけど。
しかしリターンにはリスクがある。簡便かつ簡易に力を得られる『代わりに、』がある。一つに、『付喪神』として身に宿す儀式では、何の物品から成った付喪神を宿されたかが判らない。ただ付喪神である一柱を呼び寄せるだけで、はっきり何々の神をとは選べない。
そしてもう一つ。
付喪憑きという人間が、人間であるにもかかわらず、その物品として生物から『扱われた』場合、身に宿した付喪神は、急速に、宿主の存在を犯し尽くす。人としての在り方は飲み込まれ、その物としての在り方に上書きされる。
端的に、付喪憑きは預かり知らぬ条件を気付かずにでも満たしてしまえば、人の身が『破ける』ように、一気に、人ではなくなってしまう。
耐えられるのはよくて数度。酷ければ一度『破れた』だけで、身も心も、人としての運命も、一気にその『物品』に取って替わられる。人であったという痕跡は、同じ付喪憑きか高位の霊能者でもなければ認識できない。過去に人であったという歴史はかき消え、代わりに物としての来歴が『あった』ことにされる。
我が家には霊能力の宿るような高貴な血筋はない。故に、付喪憑きの私以外に、叔母が『破れた』のを認識できた家族はない。中途半端に『破れて』いても、肌が青銅色に染まっても、人の体温が残ってなくても、周囲は何も認識できない。それが当然だとしかわからない。
叔母はそうして、人としての存在も運命も全てすげ換えられて、最後には我が家に代々継がれていた梵鐘という存在と成り果てた。
だから、父が梵鐘を鳴らすのは単なる勤行の一動作でしかなくて、それに何か感慨を感じている私のほうが間違ってる。だって他の誰も何も気にすることなんてないんだから。
残った眠気で中途半端に回る頭を振ってリセットする。『仕事』で悪いものを祓った人形に札を数枚貼りつけて、私は小屋から外に出た。
もう夏らしい日差しは徐々に弱まっていて、だいぶ涼し気な朝の風がふるりと巫女服を心地よく揺らす。もうすぐ秋が来る。私は明日の準備をしてから寝直そうと、鐘の音を背に家の方へと戻っていった。
そうして、最後の夏休みが終わる。
田舎の学校なんてのはただでさえ人も少ないもので、結局代わり映えもなく、中学3年の私は、両手で数えきる同級生と軽い挨拶を交わすだけだ。それが夏休み明けであっても、大した変化は存在しない。
同級生との仲はどちらかと言えば険悪。目立って嫌われてはいないが、関係は良くはない。『付喪憑き』としての性質上、人との関わりは最小限に留めたほうがいいから。
大体は、16才。
平均的な『付喪憑き』がまともに活動できる年齢だそうだ。大抵は、人との関わりが増えれば増える程『破れ』やすくなり、自然とその『耐用年数』は少なくなる。それでもコスパの良い方らしいから笑えない。
叔母はその点、二十歳を超えて仕事を続けていた例外に近い存在だ。比較的使われにくい『鐘』という付喪神を憑けていたこともあるらしいけど、それより、多少破けても、それでもなお、人としての生活を続ける者が稀のこと、らしい。
一度『破け』て、多少は人らしさが残っても、結局は全部『破ける』ことを望む物は少なくない、らしい。
結局、どれもこれも伝聞ばかりだ。私はその時が来たらどうするだろう?
そんなことを考えながら、ぼんやりと窓辺から曇り空を見つめて居たとき。
「明渡、明渡明輝。よろしく」
聞き覚えのない刺々しい声音に顔を黒板の方に向け直すと太陽があった。
原色に近い赤色で染め上げられた真っ赤な髪はおよそ校則というものを焚書するが如きもので、少なくともこんな田舎でとんと見る機会のない奇抜なファッション。鋭い目は田舎育ちの淀んだ空気を威嚇せんと中空を睨み、苦笑いする教師を横目に同級生は最大限の警戒とでもひそひそ話をくり広げていた。気弱な教師も目ざといもので、そんな少女らの様子への配慮配意と言わんとばかりに、その真っ赤に燃える太陽を、呆然としたままの私の隣の席に差し向けた。
「……よろしく?」
「あ、はい。物部です。どうも」
すとんと座った彼女の声に、頭を下げて返事を返す。その鋭い目が一瞬緩んだように見えたが、たぶん気の所為だろうと思うくらいには、その態度は硬直的で、緊張していて、それでいてはっきりと、田舎住まいなど受け入れてなるものかという拒絶の風体を成していた。
全方位に攻撃的な彼女が他のクラスメイトと仲良くなどなれるはずもない。一日経たずに転校生は面白いくらい浮いていた。転校生にとっては望む所かもしれないけど、私は気が滅入ってた。
できる限り平穏に学校生活を過ごしたいのだ。トラブルがあればあるほどに、自分が自分でいられる可能性は減っていくから。
ほら、こうして。
「……私が、ですか」
「うん、ちょっと様子とか見てくれたらさ、いいなあって」
気弱な教師が私に頼むのはつまるところ転校生がクラスに馴染めるようにという配慮してくれということだそう。無茶言っているのも判らないのか、それとも体裁だけは保ちたいのか。
後は頼むよと適当に言い放つ教師の後ろ姿に聞こえないように舌打ちをした。
「へぇ、意外」
職員室の前の廊下、私は真後ろに転校生が立っていたことに気付かなかった。ぎくりとした表情で転校生の顔を伺う。
「ぇ、あ、えっと」
「いいよ何にも気にしなくて。寧ろちょっと興味湧いたかも」
色々教えてくんない?と眩しい微笑で笑う転校生に、私は小さく頷くことしかできなかった。
田舎町の噂話は何時の時代も最大の娯楽。転校生のような話題は瞬く間に広がっていた。
明渡家は一応はこの田舎町では大きい方の地主であるが、嫁いでいたはずの娘が離縁を契機に連れ戻ったのが転校生であるようだった。しかして育ちは都会の中心、その趣味趣向はたっぷりと最先端らしい、というようだった。
私はその辺りの文化に疎く、彼女からは散々に「田舎の権化」だと笑われた。
「スマホも持ってないって、あのクラスの奴らでも持ってたじゃんか」
「私、使わない、から……」
「使う使わないじゃなくってさぁ。必須でしょ? もっと楽しめることをさ」
放課後に転校生を連れ歩きながら、私は何をやってるんだろうと自問する。面倒を見ろと言われたが、するかどうかは私の自由。どうせ先生との付き合いもそう長くない。
だとすればなぜか。押しに弱いということは否定できない。真っ先に浮いた転校生にも選択肢はないんだろう。
「……うーん。一応、パソコンはあるから、メールはできる」
「メールて、ジジイかよ。ダルすぎる」
はっ、と呆れて笑う転校生は手元のスマホを構えて、時折写真を撮っている。だいたいは景色、時々自分、稀に私まで撮ろうとする。田舎の景色のどこがいいのかと思うけど、転校生なりの選択基準があるようだった。
「ん~。やっぱバズらんか。由布はさ、何か良いとこ知らない?」
軽い言葉でそう問いかける転校生の目は笑っていない。
態度も行動もテレビなんかの向こうにいる輝かしい若者という風体なのに、それがいざ目の前に来るとギラついた熱意とでも呼ぶべき圧にのけぞりそうになる。
問われるがまま、心当たりになりそうなことを適当に言う。近場の大きなダム、小さな古墳の後、廃墟になった温泉街なんかの話。転校生は私の告げた場所をメモでもしてるのか、しきりにスマホの上で指を滑らせてはうんうんと唸っていた。
私はため息をつく。
「こんな田舎、大したもの、ないのに」
「ないと困るんだ、私が」
転校生のその言葉は、私の独り言に返事を返すというよりも、彼女自身に言い聞かせるようだった。
そうして、私は時折転校生に連れ歩かれては適当な場所を案内させられた。ダムのカードやら博物館の資料やら、そんなのが人の気を惹くとは思えない。なにせ私の唯一知る都会の人間たる転校生自身が眉をひそめてつまらなそうで、それでも写真を取るものだから、何が彼女を追い立てるのか、そんな疑問を抱いてしまった。
それが良くなかったのだろう。今まで他人と保っていた距離を、詰め寄られたにも関わらず、それを拒むことをしなかった。
ここまで詰め寄られたのは、悲しいことに生まれて初めてだったから。
秋が深まっては山の紅葉が美しく、それこそ転校生があちこちを回って絶妙な場所を探し回っていた頃のこと。とはいえ転校生も田舎の地理を頭に詰め込み終えたのか、私を呼ばずとも独りであちこちを飛んで回ることが増えた。呼ばれなければ無理に付いていく理由もなく、その日も私は普通に自宅へ直帰して、『仕事』を軽く片付けながら御神木の紅葉を眺めるくらいしかすることはなかった。
だから、神社の境内で泣いている転校生を見たときは驚いた。
「ここ、物部んちだったん?」
「ま、まぁ。というか、家の話して……なかった、ね」
「ネットで、御神木が紅葉で有名って聞いてさぁ」
部屋に通してからも彼女は、泣いた理由は言わなかった。私も訊くことはしなかった。当たり障りのない話をして、私の部屋のがらんどうさに呆れるような話をした。
椅子も勉強机に一つしかなく、ちゃぶ台もないから壁に二人でもたれるように並ぶしかない。
「離れに住んでるって実質一人暮らしみたいなもんなのに、勉強机と教科書だけってさ、マジでつまらんくない?」
「そう、かなぁ」
からからとやせ我慢みたいな笑い方をする転校生に、私も愛想笑いを返す。中身のないキャッチボール。しかし、それも少しずつ、テンポが緩み、それから淀んで沈んでく。
転校生が手元のスマホの振動を、まるで虫でも触ったかのような嫌悪をにじませながら見る。
「……今日、泊まっていいってさ」
「え、私は別に、いいけど……うん、たぶん、父さんも、いいって言うと思うけど」
人生で一度も他人を泊めたことなどない。しかし空き部屋もある。寝具だってどこかに眠ってるだろうと、混乱した頭で記憶を辿っていたときだった。
「ねぇ」
転校生の声が、今までより近い。
「え、何?」
びくりと声を上ずらせて、転校生のほうを向く。涙に赤くなった目が私を見つめていた。乱れた髪の毛。息を吐く青っぽい唇が動いて声を作る。
「少しいい?」
欠落した問に、私が答えるより先、だった。
ぎゅう、っと。転校生が、私を抱きしめた。
それだけだった。
それだけのはずだった。
それだけのはずだった、のに。
転校生の手が触れて私の背中に回った瞬間まで、私の理性は十分に働いた。理由を何となく察し、私はそれを無理に妨げるつもりもなかった。彼女のことを触れられたくないまで嫌いじゃないし、慰めるためならそれくらい、やっていいことだと思ってたから。やられたことはないけど、それは普通のことだから。愛情のあることだろうから。
でもなんでこんなに私は他人事のように考えてるんだ? どうして、と疑念を抱くまでもなく答えは脳裏に浮かび上がった。いざ抱きしめられる瞬間。私は、今まで、少なくとも物心がついてから、一度も、誰からも、抱きしめられたことなど無いことを思い出した。
嫌な予感がした。
温かい手が私の背に触れて、それから引き寄せられるがまま、転校生の細い身体を我が身に埋もれさせるように、暖かく包み込むように、私は彼女に被せられた。
音はなかった。
ただ、『破けた』。
抱きしめられた瞬間に心の内側から圧倒的な幸福感がまるで張り裂けるように膨らんでいく。尋常ではない幸せを確信し、胸の奥にとどまっていたはずのなにかがまろび出る。むく、ぶくぶくっ、と泡立つように身体の内側から物になった幸せが溢れ出して思考が焼け付いて全身がびんと張り詰めた。
幸せすぎて、正しすぎて、転校生を突き飛ばした後になって、私はそれが間違いだったんじゃないかと思ったくらいだった。嫌な予感がしてなければ、きっと突き飛ばすこともしなかった。
リズムがおかしくなった心臓がばくばくと鳴って、尋常じゃない様子になった私の顔を、転校生は凄く真っ青な顔をして、ごめん、と呟きながら見ていた。
「ぁ、いや、こっち、こそ、ごめ、ごめん。その」
呂律がうまく回らない。何かが決定的に違っていた。それを把握するよりも先に、転校生は、いたたまれなくなって、それから一言も喋らなかった。準備していた隣の空き部屋に、あっという間に去ってしまった。
夜が更けて、自分の部屋の中で考える。
非道いことをした。わかっていた。彼女のせいじゃない。悪くない。人肌が恋しいくらいに傷ついた彼女をさらに傷つけていた。
でも、私にもわかってしまった。
私は、『破けて』しまったと。
数多の付喪憑きがそうだったように、人で居られなく、成るときが来たのだと。
翌日、私は結局一睡もできないまま、夜を明かした。
服を脱ぎ、鏡を見る。強張って青ざめた表情の他、変わった様子は、一見するならどこにもない。
でも、肌に指を沿わせて判る。傍目には人らしい皮膚に見えるのに、触って返ってくるのは、布地のようなざらついた感触。まじまじと見れば、染め物で染められた布のように見えるんだろう。
その触った指を摑む。ぐにりとした肉っぽい感触の底に、あるはずの骨の硬い感触が感じられない。骨はある。あるが、芯のある、柔らかい、別のものになっている。
少し力を込めれば、ぐにゃりと、容易く反対側にも折れ曲がる。痛くない。
「……綿だ」
『破れ』た瞬間に判った。
『付喪憑き』は、己に宿るものが何の付喪神であるかを知ることはできないし、知るべきでもない。付喪神の根幹から目を逸らし、その『神』であるという周縁に溢れる力だけで、人にとって十分だから。
下手に名前を知ってしまえば、魂に埋め込まれた繋がりは不可逆なものとなる。理解してしまえば、『付喪神』も、言ってしまえば『我慢が効かなくな』りやすい。
ただ力を貸すよりは、本懐を果たしたいに決まってる。
百年の年月を掛けて曲がりになりにも神性を得た存在に、その物として使われたいと思われてしまえばそれで終わり。たかが十年と少しばかりの宿主など、たちまちに物へと変じてしまう。
だから、その物を知ってはいけないし、物として扱われてもいけない。そのあふれかえる喜びは人の形を容易く破り捨ててしまうから。
逆に言うなら、『破れ』てしまったなら、中を改めることは容易い。
まだ朝焼けに暗い室内の窓際、床に敷かれた一対の家具。人が寝るときに体温が失われるのを妨げるための、布の袋に綿を敷き詰めた道具。
布団。たぶん掛け布団のほう。それが私に宿された付喪神だった。
布団として、人に抱きしめられ、人を抱くこと。それがこの世あらゆる全てのことより素晴らしい幸福であると確信させられた瞬間、私は人としての境界を失った。
後は、物へと転げ落ちていくだけ。叔母が釣鐘になったように。
翌朝、転校生は隣の空き部屋から出るや否や、私に淡々と謝罪した。
「急に泊めてもらってごめん。もう、帰るから」
言うや否や、すぐさま帰ろうとする転校生を慌てて引き止めた。せめて途中まで見送ると。転校生の顔色は暗いままで、私自身も、良い表情は作れなかった。むしろ、ここで声をかけられる自分に驚いた。
まだ自分が人のままだと思いたかったから、人らしいことをしたがっただけかもしれない。むしろ、初めて己を『使って貰えた』存在を、大切にしたいと考えていたのかもしれない。
もう、どちらなのかも自信がない。
秋の朝の寒々しい空気。逃げるように外を出た転校生を追いかけるから、上着も着ずに着いていったのに、寒いということまではわかっても、肌をさすような痛い冷たさが、判らない。感じられないことを、感じる。
「……」
転校生は振り返らない。普段なら必ず弄り回すスマホにも触れない。ただ、まっすぐに最寄りのバス停まで歩いて行く。
私はその少し後ろを付いていく。何を言えばいいのかわからないし、考えるだけの余裕もない。何で私はここにいるんだろう。わからない。
朝の田舎道などろくな人通りもない。遠くに見える色味の良い紅葉すらノイズが増えて苛立ちに変わる。
今、私はちゃんと歩けているか。目はまだ物を見れているのか。そんなことにすら自信がないのに、どうして私は転校生を気にする余裕があるんだろうか。それとも、余裕がないからこそ彼女に追いすがってるのか。
「その」
私の声に、転校生が足を止める。
「……」
「ごめん、ちょっと、あの、少し、えっと」
口にした言葉を紬ぐ舌の動きすらぎこちない。まだ湿り気のある肉らしいところが残っているから喋れているだけ。偶然呼吸が続けられているだけ。
「昨日、その、ごめん、ね? ちょっと、私、だめで」
たどたどしい声になっている自分の声を自分の耳で聞いて、これは今までの自分なんだろうかと自問しては自答することもできず、頭がぐるぐると回っている。不安になって自分で自分の手に触れて、服でも触ったような感触がして、何度だって息が詰まりそうだ。息をする必要だって、今の私に残ってるんだろうか。どうせきっとなくなるのに。
転校生が振り向いた。ぎこちない笑み。
「……大丈夫。気にしてないから」
秋風にかき消えそうな声量で、転校生が続ける。
「うん、大丈夫。こっちこそ、急に抱きついたりしてさ、ヘンだったし」
笑い顔を造って返事をした転校生に、それで安心なんて出来ていいはずがないと知りながら、私は安心したかったんだ。荷物を一つでも降ろしたかった。
「わ、わかった。じゃ、また、うん、今度」
「うん、じゃあね」
そう告げて、彼女と別れることになった私は、改めて彼女の後ろ姿を見た。整えきれていない赤い髪の毛と、縒れた制服と、軽々しそうな学生カバン。
もう一度、声を掛けておくべきなんじゃないかと思いながら、私は結局そうしなかった。
もしかして、八つ当たりだろうか。彼女は何も知らなかったのに。私にとっての一線を超えさせたことなんて、知る由もないのに。自分のなかに、そんな怒りでも残ってたのか。
それすら、もう少し、考えさせてほしかった。
私が『破け』てから一月が経った。紅葉は冬のからっ風に負けて地に落ち、薪や灯油の焼ける冬の香りが鼻をつく。学校でも、受験の準備に勤しむ学生たちのピリ付いた雰囲気が漂っている。私は受験をする予定もないから、今まで以上に重ねて浮いていた。
転校生とも、あの事故の後から疎遠になった。全く会話がないではない。ただ、他のクラスメイトよりは多い程度。会話の中身も雑談の域を出ることはない。
私といえば、あれからぼんやりとクラスメイトの様子を眺めるだけで、何をするでもなく、呆然と時間を過ごしていた。『先』の定まってしまったところで、自分の変化をはっきりと理解していったこともあった。
布地に似た肌は、食べ物をこぼしたときに染みが残る。風呂で落とせて本当に良かった。身体の柔らかさは常人を上回るが、無理に曲げようとしなければ、今のところ、人らしい動きに遜色はない。
そう、幸い、今まで通りの生活を送ることは難しくなかった。『破れ』、己に憑いた存在を認識した以上、私の変容は不可逆だ。でも、恐れていたよりは、思ったよりは、時間があるのかもしれない。少なくとも、学校を卒業するまで、他人と付き合いのある頃までは、人と同じように暮すことは簡単なのかもしれないと。
多少『破け』た後になっても付喪憑きとして仕事を重ね、それなりの準備を整えてから、然るべく終わらせる。叔母が確かにそうした有り様を、私が唯一知る『進路』とでも呼ぶべきものを、なんとなく自分に重ねて見つめていた。おそらくは、私の思い描ける最良の行き先。どうせ、他には碌でもない未知しか残ってないだろう。
心残りは、転校生のこと。
『破け』たあのとき。焦りと恐怖と憤りがぐちゃぐちゃになっていた瞬間。私は私のことしか考えられなかった。転校生と改めて距離を縮めるようなことは、結局人付き合いなどしてこなかった私には、人でなくなっていくことしかできない私には、解きようのない難題だった。
転校生にとって、私はいったいどんな存在なんだろう。この田舎でこそ彼女は私以外との付き合いはないように見える。でも、彼女の手元のスマホから繋がっている人はいくらでもいるんじゃないだろうか。私がどれだけ気を回したところで、大した意味だってないだろうに。
それに、もう一度彼女を抱きとめることなんて、私には──
しかし、私が思い描いてた甘っちょろくて惨めな『進路』さえ薄氷の上にあったのだと気付かされたのは、足元の氷が割れてからのこと。
その日は雨が降った翌日。冬休みを直前に控えた休日で、長々と降っていた雨が丁度止んだ頃の真昼。
雲がかかった太陽からの日差しも久々に暖かく、私は神社の拝殿を掃除し終えてから、軒先に腰掛けてぼんやりと日向ぼっこをしていた。
寒さは然程感じ取れないのに、太陽の陽光は心地よい。暖かさが身体の芯まで突き抜けるような感触がして、意識も薄らいで心地よさに身を任せてしまいたくなる。
冬でもなければ普通の人でも心地よいうたた寝に落ちるだろうそれを、寒さの分別が判らなくなった私は存分に味わった。近くに巣でもあるだろう野良猫が珍しく近くに寄って来て、軽く撫でて笑みがこぼれたのも束の間だった。
猫がそのまま私の膝に乗り上げて、座り込む。
ぶぁんと、心が弾けた。
鈍く響いた音が一気に身体を伝わってばちんと内側から弾けて一気に膨らむ。綿が、布地を飛び破り膨らんで勢いが私の人のかたちすら飛び越そうとする寸前に、急速に膨張した幸福に飛び跳ねた私の身体から猫が飛び退き、すんでの所で、『破け』るのは止まった。
猫が威嚇するように鳴く声を横目に、私は呆然と己を見つめていた。
また『破け』た。
猫が布団に乗るだけで?
人が使う道具は、その対象が家禽であろうと構うものではない、ということ? 使い道さえ合っているなら。猫が布団に乗って寝ることだってあるから。そうか。それで。はは、と笑おうとして、笑うことができないことに気がついた。
呼吸の仕方が、わからなくなっていた。
二度目の変化は著しかった。肌の布地はその生地の目すら判るほどで、爪でも立てたなら容易くほつれてしまうだろう。立って歩けるのが不思議なほど身体は柔らかく無力で、油断すると身体が折れて頭と背中がくっつくほどだ。人の形をした縫いぐるみとでも言った方が、まだ正しい表現になるんじゃないか。
風呂に入ろうとしてシャワーを浴びた瞬間に身体の綿が水を急激に吸い取っていくものだから、慌てて蛇口を閉めてから風呂場を出るまでに数時間もかかった。自分を絞り上げて出てくる水を眺めながら、もう二度と風呂には入れないだろうと悟る。これからはドライクリーニング? もちろん、笑うことはできなかった。
食べ物も飲み物も全く欲しいと感じられない。口に水を入れても口元を超えてお腹の綿が濡れるだけ。どうしてまだ自分が動けているかも理解できない。眠りにつくこともできず、部屋の隅で敷布団を見つめる。『末路』を眼の前にしてみて、いっそのこと、全部すぐにでも終わってしまえばいいのにと衝動に駆られる。
叔母が、最後にああして私に任せた理由。なんとなしに察してはいたことを、身をもって深く実感する。
もう、逆に、人ごっこをするほうが、滑稽で、辛くて、仕方がなかったんだろうと。
学校に行くのは体調が悪いという理由で辞めた。どうせすぐに冬休みだったが、年が明けても学校に出たいとは思えなかった。破ける恐怖よりも先に、そもそも人らしい生活が無理だろ、という冷静な判断のほうが強かった。
巫女服を身にまとい、任されている仕事をこなす。今の私にできるのはそれくらいしかないし、気を紛らわしていたかった。
霊能にかかわる仕事はスムーズに進んだ。今までよりも遥かに容易く付喪神の力を扱える分、お祓いなんか力技でこなすことができるから。とはいえ、星が潰える寸前に一際輝くようなもの。嬉しい悲しいよりも、取り敢えず出来るうちにやっておかなければという責任感が大きかった。今のところ、我が家でこの仕事を継げる人間は誰もいないからだ。
家族はもちろん、誰も私の異常を悟れない。私の分の食事を用意しなくなったことにも、私が一言も喋らなくなったことも、違和感すら感じていない。それが今まで通りのことで、これからも変わらないことになっているから。もちろん、変わるけど、彼らの中では何も変わらない。最期には、私という家族は最初からいなかったことになり、ただ一枚の布団があるだけのことになるだけだ。
一応今後のこともあるから、その手の組織たる本庁に指定の文書を送付する。本庁にいる他の霊能者であれば、私が『破け』て変わった運命を適切に察知できる。だから、彼らに向けてメッセージを送るのだ。『私はもうそろそろ使い物にならなくなりそうです』、なんて感じのことが書かれた手紙。家の前あるポストに投げ入れる。ため息すらつけないもので、代わりに空を仰ぎ見る。
雪が舞っていた。
寒さ痛さはもうわからない。手のひらに小雪が乗り、そしてじんわりと布地に染みを作る。軽く握りしめて、濡れるより先に家に戻ろうと思ったときに、遠くから駆け寄ってくる人影を目にした。
あまり見ない顔。この辺りに住んでいるなら、見知らぬ人を見る機会がない。どこか垢抜けた服装をしたそのご婦人が誰であるかは、話を聞いてすぐに判った。
彼女はあの転校生の母で、転校生が行方不明であるらしい。
聞き込みをしてきた彼女の母親は、心配というよりも不機嫌そうに愚痴を零した。すでに警察などにも相談しているそうだが、それでまた迷惑をとひどく不満そうだった。あの馬鹿娘が、言うことも聞かない娘がと、ぺちゃくちゃ余計な情報を挟みながらも、同年代のように見えた私にも話しかけることにしたらしい。
「まあ、あれと仲良くしてる子なんていないでしょうけど」
なんてあけすけに言うものだったから、私は苦笑いだけを帰して何も返事をしなかった。というか、今の私には口を使って喋るだなんて人らしい機能は残っていない。布地の身体は空気がたやすく抜けてしまうから。肺のあたりに空気を込めて音を出すなんてことはできない。けれども、話を聞くだけ聞いているだけで皆なにやら納得していく。転校生の母親もまた、勝手に自己満足をしてまた別の所へと去っていった。
私といえば、部屋に戻ることもなく呆然と空を見て、もうすぐ暗くなるだろうことを理解しながら、彼女の行く先を少しばかり考えてみた。
心当たりなんて大したものはない。ただ、彼女に伝えていた場所のうちのいくつか。もしこの雪降る最中に訪れているとするなら、それは碌でも無い、まさしく──。
もしかして、死ぬつもりなんだろうか、と、思考をよぎった。
彼女に伝えた『映え』るだかなんだかの話の一つ。神社からさらに山奥に至った辺りにあるかつて栄えた温泉地。未だに一つか二つの民宿は残っているものの、だいたいの建物はとっくに人の手を離れ、一つ奥道に逸れればうらびれた廃墟が立ち並ぶ。雪が舞って点々と白く塗られた建物は、死体に化粧でもしているようだ。
年に一度くらい、担い手の居なくなった社の手入れなんかで訪れることもあって、多少は見知った道である。そのせいか、あるいは霊能の力量が人の域を超えたがためか。
雪に蓋をされきる前の、点々と残る足跡が見えた。
ちょうど崖の上、景色なんかは絶好だろうに、僻地がためか客足が伸びず潰れたホテル。その入口のドアの前に、雪を僅かに掻いた後があった。
ドアは容易く開き、淀んだ黴臭い空気に眉を潜める。今の私は黴びるだろうか? 黴びるだろうなと思いながら、周囲を改める。汚れと柄で足跡はつかめない。ただ、おそらくはここにいるだろう。私が、このホテルを転校生に教えたからだ。
何で、こんなホテルの話をしちゃったんだろうな。客室から見える崖の上からの景色はたしかに良い。加えて雪が振り始めた今頃なんかはグラデーションも豊かでそれはそれは綺麗だろう。でも、不安定そうな転校生に伝えるにはリスキーに過ぎた。聞かれるがままにしたって、考えて返答すべきだったろう。
でも、人寂しさが口を滑らせた。
だとすれば、この行為は責任感のため? それだけだろうか?
人の気配を感じる方向へと足を進める。ホテルの中は薄暗く、廃墟の湿った空気が布地に染み渡る。霊感ゆえに中途半端に優れた直感と、人らしさを失って弱まった五感とが、結果として悪く作用した。
間違いなく、この方向にいるという直感ゆえに確信のまま足を進め、それでいて足元の暗さをきちんと図れていなかった。
すっ、と足が空を切った。
床の底が抜けている。ふわりと身体が重力に従った。
多少は軽くなったと言えどそれなりの重みの残る身体は、すとんと地面の穴の中に落ちていく。
ぼすん、と音を立てて埃を舞い散らせながら、私は床下の部屋に落ちていた。明かりらしいものもない暗闇。開け放たれた天井からちょっとだけ光が差し込むだけ。
柔らかい身体ゆえに怪我は全くなかったが、思ったよりも高い。別の出口を探さなければ、と見回してみて、気がつく。
己が落ちた場所にわずかにへばりつく湿り気、を、よく見てみればその赤が布地に少し染み付いていた。その赤が私の落ちた場所から点々と部屋の奥、ちょうど壁沿いにまで進みんでいる。
「……由布……奇遇、じゃん」
壁に背をもたれ、足を異常な方向に捻じ曲げた転校生がそこに居た。
「あぁ、これ? なんか折れちゃって、っ……」
私の視線に、転校生は折れた足を動かそうとして、痛みに表情を歪める。無理しないで、と言おうとして声は出せない。
「血もすぐ止まったし、後はスマホが生きてりゃよかったんだけど」
彼女が差し出したスマートフォンは、本体が歪んで折れ曲がり、明らかに壊れていた。
「どうすっかね? 出口っぽい所、何か塞がってるしさぁ」
彼女が首で示した先には、溶接でもされたようなドアが一つだけ。部屋の内部は配管などが張り巡らされ、小窓の一つも空いてない。私の独力では、おそらくここから外に出ることは不可能だ。
彼女のスマートフォンが壊れる寸前に、場所さえわかっていればいつか救けは来るかもしれない。でも、それがいつかは不明だ。私は携帯など持っていないし、霊能であっても遠距離にSOSを送る術は、少なくとも私にはない。
そして、夜はどんどん更けていき、室内の寒さは容赦なく転校生の体力を奪っていく。
「……ごめん、来てもらってあれだけど、かなりヤバいよな」
なのに、どうしてそんな申し訳ない顔をするんだろう。正直な所、私は大して問題ない。物を食べることはやめてるし、寒さも全く感じない。黴が生えるとか染みが増えるとか、そんなことは、彼女の陥っている危険と比べたら、比べられないほど軽い、それこそ軽いこと。
そう、軽いんだ。私のほうが。
「……あたしさ、中学出たら家出てくつもりなんだ」
痛みか、寒さか。どこか朦朧としたふうに、彼女が口をつく。
「もしかして、あいつに会った? 親父に浮気されて田舎に逃げ帰ったから、もっかい都会に戻ろうとするあたしが嫌なんだよ。戻ってきて面倒見てくれた隣のジジイの一人息子とお見合いしろって……知るかよ……私は、私が……とにかく、どんなツテ使ったってさ……」
折れ曲がったスマートフォンを撫でて、うつらうつらと眠りかけている。
「だから……色々……手伝ってくれて、助かってんだ、由布」
この寒さの中で、眠ってしまえば命に関わるだろう。多少、彼女を温めることができたとしても、その上で助かるかもわからない。
私はそっと転校生の傍に近づく。表情は虚ろで、弱りきっている。でも、死ぬつもりなんてない彼女は、生きようとしている。彼女が、彼女のために生き延びたいと思っている。
彼女の言葉に、言葉で返すことはできない。
今の私に、彼女のためにできることは一つだけだ。
「……」
近づいた私に、彼女の口角が僅かに上がった。それで、十分だと思った。
彼女の身体を覆うように、出来得る限り彼女の熱を逃さないように、私は彼女に抱きついた。
ぶわ、と内側の綿が膨れ上がる。今度は際限なく、目的が満たされるまで、喜びとともに、身体が人の形を失う。運命が崩れる。
今まで身にまとっていた巫女服が、その色合いと形を変えていく。今まで私が着ていた衣服という布の運命が、私を覆うために適した来歴へと捻じ曲げられる。赤と白の色合いが入り混じったかと思うと、徐々に淡い花がらの模様へと変わりながら、私を覆い囲んでいく。私の身体の外にまで変化が生じた時点で、運命の閾値は超えた。もう、人を辞めるまで止まらない。
覆われていく私の身体も、あっという間に凹凸を失う。手も足も膨れ上がる綿に押し上げられるように指先、手や足の長さ、そうした境目を次第に失い、膨らんで、ぶくぶくぶく、と長方形の形へと整えられる。
髪の毛が溶ける。顔が溶ける。目口も鼻も布地の色合いに、僅かな模様に溶け、更に無地の色へと取って代わられる。頭の形もすぐに四角い身体に縫い込まれ、その痕跡を見つけることすらできなくなる。
膨らんでいくことに喜びしかない。身体も心も喜びに打ち直されていく。布地の中が綿でぱんぱんに膨れ上がる。それだけだ。それ以外、何も残ることはない。
「え……? 由布……あれ……?」
混乱する彼女には、眼の前で起きている運命の書き換えを理解することはできない。意識が朦朧としているのが幸いだ。そんな彼女を温めるがためだけの存在へ、私は置き換えられていく。
かつては巫女服であった、今や白と赤の布団カバーとなった布の中で、軽く、柔らかな形が、もぞもぞと僅かな蠢きを残しながら、単純な、心地よい綿へと打ち直されていく。四角く整形された形はしっかりと彼女を覆い尽くし、その僅かに残る熱をしっかり逃さない。
「……ん……」
困惑する彼女も、徐々に暖かな熱に安心させられ、ゆっくりと寝息を立て始める。そんな彼女のゆっくりとした呼吸の動きだけが、私を動かせる全てになる。
一枚の掛け布団である私に、他にできることは、もう何もなかった。
夜が明けた頃合いに、彼女は無事発見された。警察などからこっぴどく叱られたそうだが、幸いにも、数ヶ月程度の入院で足は回復した。
受験シーズン渦中の負傷ではあったが、受験を無理矢理にこなしては都会の高校に特待生入学を果たし、かなり強引に一人暮らしを勝ち取ったらしい。
詳しいことは知る由もない。彼女が時折漏らす言葉と現状から推測することしか出来ないのだから。
ただの掛け布団となった私は、結局の所捨てられてしまってもしょうがないと思ってた。しかしどうやら、布団としての私は彼女の持ち物であったそうだ。
結果、彼女は掛け布団を持って温泉街の廃墟に行った狂人になってしまった。その狂気は加速し、なんと布団を名前で呼ぶ。ライナスの毛布でもそこまではしないだろ。
今日という夜も、私を使ってベッドの上でゆっくりと独り言を始める。
「由布……今日はさ……」
もちろんそれは、私が異常な場所で変化を終えたからだ。運命の書き換わり方がねじれにねじれた結果、中途半端な形で彼女の内側に残ってしまった。もう転校生は私というクラスメイトのことを覚えてなんかない。話をしたことも記憶していない。でも、それでも彼女に与えてきた何かは、彼女のなかに残っていて、その整合性を保つため、イカれた感性を担う羽目になってしまった。
彼女の中で、私は単なる布団のくせに、彼女の独り言を受け持つ存在であり、彼女の心の支えとなってるようだ。何がどうなればそうなるのかわからない。でも、実際の所、そうなんだろう。
彼女に覆い被さりながら、布団としての喜びに心がゆっくりと染まっていく。役割を果たしている喜びに満ちあふれてる。いつか、その喜び以外の何もかもを捨て去って、他に何もない、ただの寝具となる日が来るだろう。人らしい考えなんかを保っている方がおかしいんだから。
「それで……」
でも、彼女に名前で呼ばれるたびに、彼女から話しかけられるたびに、その喜びの静寂から呼び戻される。自分が布団でなかったことを思い出させられてしまう。それがどこか歯がゆく、それでいて、嫌という訳でもない。
そうして話を聞くうちに、徐々に独り言が途切れ途切れになり、いつしかすやすやと健やかな寝息がたてられる。そうなれば、私もまた静かに役割を果たす喜びに浸るのだ。
つまるところ、彼女が私との友達ごっこを辞めるまでは、それまでは、せめて話を聞くくらいは、できていたい、と思う。無論、彼女には何も伝わってもないけど。でも、
「……」
静かに眠る彼女が、せめて良い夢を見れますように。
そうして布団は少女の熱を包み込む。