恋花火
カラン コロン……
電車を降り下駄の音を響かせながら、地上階へと続くエスカレーターへと急ぐ。
年に一度だけ袖を通す浴衣の着付けに今年もまた思いのほか時間がかかってしまった。
今年の浴衣は三年ぶりに仕立てたもので、殊に肌に馴染まない。しかし、白地に赤い椿の柄の糊のきいたそれを黄色の帯と赤い帯留めで締め、黒い籠バッグを持って待ち合わせ場所へと向かう心は浮き立つ。
地下のホームから駅の中央改札口へ出ると途端にムッとした熱気を感じた。
今夜も湿度が高く、熱帯夜の予報だ。
キョロキョロと辺りを伺っていると
「果帆」
背後から声をかけられた。
「響哉」
そこには一年ぶりに会う懐かしい彼が立っていた。
そう一年ぶり。
一年ぶりだけど……。
「何、まじまじ見てんの」
「だ、だって、響哉。浴衣初めてじゃない。どういう風の吹き回し?」
「別に。まあ毎年、果帆は浴衣だし。俺も一度着てみっかなあと」
そう言って顔を背け、斜め上方に視線を遣る響哉。
青い市松風の模様浴衣を七宝柄の濃紺地の帯で締め、小振りの帯掛けポーチを提げている。足下は太くて黒い鼻緒の下駄。
初めての浴衣姿にしてはなかなか粋で、様になっている。響哉は元々の男ぶりを二割増し上げている。
「ねえ、響哉」
「何」
私の浴衣姿は響哉の目にはどう映っているの?
「うん、ううん……。何でもない」
「変なヤツだな。行くか」
「うん」
新しい浴衣なのに。
嘘でも似合ってるとか何とか一言言って欲しい。
そんな口には出せないわだかまりを飲み込んだまま、私の溜息は夏の夜の蒸した熱気にかき消され、私達は並んで歩き出した。
私と響哉は幼馴染み。
家は離れているけれど母親同士が仲が良く、小さい頃は夏休みになると地元で一番大きな夏祭りに連れて行ってもらって、花火大会の打ち上げ花火を一緒に見た。
夜店のりんご飴を囓り、金魚すくいをして……。
夏休みで一番楽しい想い出。
それは、小学六年・十二歳の夏祭りのことだった。
夜空に打ち上がる花火を見ながら、響哉が言った。
『中学生になっても、大人になっても二人で一緒にこの花火を見に来よう』
その時、響哉はぎゅっと私の右手を握ってくれた。
暗い夜空には大輪の花火がパッと咲いては散った。
その光景も響哉の汗ばんだ掌の熱も私は忘れない。
その時の響哉の言葉通り、私達は中学に上がり、高校生になってからも、約束通り二人で毎年一緒に花火を見に行った。
高校卒業後、響哉は東京のIT企業に就職し、郷里を離れた。私は地元に残って県庁で働いている。
でも、地元の夏祭りの花火大会が開催されるお盆の時期に必ず響哉は帰ってくる。
そして、二人で夏祭りに行き、花火を見る。
それは、ずっと続いている私と響哉の約束。
「晩飯、今年も屋台でいいの?」
「勿論! 夏祭りの醍醐味はなんたって屋台の食べ歩きでしょ」
「果帆は昔からほんと屋台好きだよなあ」
「屋台の味は特別よ」
「屋台って不衛生だし、ぼったくりじゃん」
「そんな野暮なこと言わないの。それに、響哉だって屋台好きでしょ」
「まあな。屋台で食べる食べ物って何かしら美味いよな」
私達は手を繋ぐことはしないのに、会話のキャッチボールだけは滑らかで。
そんな私達は、周りにはどう映っているだろう。
「あの店。あそこでまず腹ごしらえしよう」
そう言って、響哉はテントを張った広い屋台を見つけると、店頭に張り出してある品書きを見上げた。
「果帆、何にする?」
「私は広島焼きと烏龍茶。響哉は焼きそばとビールでしょ? それから、たこ焼きと焼き鳥を半分こね」
「わかった。……おやっさん。広島焼きと焼きそばとたこ焼き、焼き鳥盛り合わせ一つずつに、缶ビールと烏龍茶」
「あいよ。ちょっと待ってや」
目の前で広島焼きと焼きそばがジュージューと音を立てて焼き上げられ、ソースの香ばしい匂いが辺りに立ちこめる。たこ焼きと焼き鳥はできあがっている物が軽く火を通されてパックに詰められた。
烏龍茶と缶ビールと一緒に注文した品を二人で受け取ると、私達は赤い布が敷かれた長椅子に並んで腰掛けた。
「はい、これ」
私は財布から千円札を二枚取り出して響哉に渡す。
「割り勘にしなくてもいいよ。これくらい俺が出すって毎年言ってるだろ」
そう言って、響哉は私が差し出す代金を受け取らない。
「じゃあ、食後のかき氷。私が奢る」
「俺、まだイカ焼き食うぞ」
「私もフランクフルト食べようかなあ」
「果帆はやっぱ色気より食い気だな。太るぞ」
「ひどい!」
そんな他愛ない会話を交わしながら、烏龍茶のペットボトルと缶ビールで乾杯した。
熱々の広島焼きに舌鼓を打つ。たこ焼きは少し冷めていたけれど、私は青のりも気にせずに爪楊枝でひょいと口に頬張った。
ああ。
今年の夏もまたこうやって響哉の隣に座って、屋台のたこ焼きを半分こ。
その何気ないありふれた光景に、私はそこはかとない幸せを感じる。
中三の時、両親が離婚した響哉の実家の事情は複雑で、響哉は逃げるように東京に出て行ってから、ほとんど実家には寄りつかない。お正月すら帰ってこない。
響哉に逢えるのは、十二の歳に約束したこの夏祭りの夜だけ……。
屋台を出た後、人混みの中、花火会場へと向かい花火が始まるのを待った。
蒸し蒸しした温い空気が首筋にまとわりつく。
お囃子の笛太鼓の音が遠くから聞こえてくる。
屋台での饒舌さが嘘のように、響哉は黙って私の隣に立っている。
その時。
ドーン……!!
大きな音がして、私は空を仰いだ。
夜空には大きな紫色の打ち上げ花火が上がった。
それは、スーッと星が尾を引きながら放射状に飛び散って、菊花の紋を描き出す。
ドーン……! ドーン……!!
牡丹、冠、万華鏡……球状に大きく飛び散る花火は特に華やかで目を奪う。
そうかと思うと、上空から柳の枝が垂れ下がるように光が落ちてきたり、パンパン!と大きな音を出しながら強い光と共に火の粉が舞う。
次から次へと赤や青、オレンジの大輪の花火がぱっと咲いては散って、夜空を飾る。
毎年、見ている光景だけど、その華やかさに目が釘付けになる。
「ねえ、響哉。綺麗だよね」
そう語りかけた私に
「果帆の方が綺麗だよ」
と、響哉は呟いた。
びっくりして隣で立ったまま空を見上げている響哉を見つめた。
その横顔は、あの十二の夏祭りの夜を彷彿とさせ、私は響哉の本気を見た。
響哉の黒髪がさらりと夜風に吹かれ、揺れた。
初めての浴衣姿の響哉は、改めて目を引いた。
私から目を逸らし、響哉は瞳を閉じる。
ざらりとした鈍い感覚の時間が流れる。
「俺……」
ああ。
言わないで……!
私は絶望的に確信めいた予感を感じていた。
響哉は……。
きっと……。
「俺、結婚するんだ」
響哉は言った。
「もうこっちには帰ってこない。来年の夏、俺はここにはいない」
響哉はそう言うと、再びまっすぐと空を見上げた。
その瞳はもはや私を見つめてはいなかった。
響哉が私から離れていく。
私はきゅっと唇を噛んだ。
響哉が好き。
響哉が好き。
言葉にならない叫びを心の中で呟きながら、私は胸に当てた手をぎゅっと握る。
それは幼かったあの日、響哉が握ってくれた掌。
もう決して触れてはもらえない掌、髪の毛、唇。
いつだって私達は臆病だった。
離れていることを言い訳に、積極的な接触を避けてきた。
でも私は、響哉に逢いたかった。
毎日でも、毎晩でも、逢いたくて逢いたくて。
一瞬も離れたくないと心はうわずるのに、それを伝える術を知らなかった。
ドーン……! ドーン……!!
空には変わらず、次から次へと花火が三つ、四つと咲いては散っていく。
行かないで。
私の側にいて……。
最後の花火が夜空に消えるまでは。
あなたの隣で花火を見上げさせて。
あなたの心に私を綺麗に咲かせて。
この恋の炎が切なさに消えるまで。
ドーーーン…………!!
一際大きく、それは見事な三尺玉の牡丹花火が、暗い夜空を美しい紅に飾って散るのを私は、響哉の隣でただ見上げている。
辺りの人いきれ。蒸した空気。熱帯夜。
去年とも一昨年とも同じ今年の夏。
幼かったあの十二の夏からずっと続いてきた夏。
けれど、それはもう二度と巡ってはこない……。
冷たい涙が頬を伝って、流れ星のように落ちてゆく。
私の心の中へと消えない想い出として、いつまでも。