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かくれんぼの次は――

作者: 印堂宗光

 たびたび、見る夢がある。

 多分、小学生くらいだとおもう。

 見覚えのない神社。その境内にわたしはいる。

 気分が高揚している。ちょっとした冒険気分。そうでしょうね。今のわたしを知る人は信じないでしょうけど、子どもの頃は病弱だったらしい。らしいというのは記憶が曖昧で実感がないから。じぶんからどれくらい弱ってたかなんて親に訊くのもおかしいからそういうものだったとおもうことにしている。

 神社は寂れている。

 鳥居の朱色は色褪せて、ところどころが剥げかかっている。石灯籠はヒビがはいっている。手水舎の水は枯れている。拝殿は廃墟みたい。

 鬱蒼と樹々が生い茂る裏手にわたしは回る。

 なぜか、そこにぽっかりと空いた穴がある。

 わたしは躊躇いもせずに穴にはいる。地下へ進む。

 なんだか嫌な予感に襲われるけど、少女のわたしは楽しげだ。

 内部はご都合主義の映画のように明るい。

 左右にいろんな部屋がある。

 窓があるから室内がはっきりと見てとれる。

 奇妙な世界だった。

 手足が異様に長い人(?)たちがいる。蜘蛛のように這いつくばっている。そこらで普通に見かけるような平凡な顔が違和感を際だたせている。

 溶け崩れている人もいる。

 二足歩行の狼や虎がいる。

 家族なのかな? 談笑してるみたい。

 その住人たちが、

「こんにちは」

 と、挨拶する。

「こんにちは」

 わたしもつられて挨拶する。

「気をつけるんだよ。お嬢ちゃんは――」

 後ろのほうはノイズがはしって聞きとれない。

 どれくらい歩いたのだろう。

 いつの間にか人気は途絶えている。

 眼前に大きな扉がある。

 小さな手が触れるとそれは勝手に開いて……。


 わたしは目が覚める。

 い草の清澄な香りが鼻孔をくすぐる。

 畳にお布団を敷いて寝るのもたまにはいいものよね。

 都会では聞いたことのない鳥の鳴き声がする。

 なんだか、うめき声みたい。

 どんな鳥か確認しようと窓を見たけど、逃げられた後だった。

 わたしは着替えると部屋をでる。普段は、出かけるギリギリまでパジャマですごすことにしているんだけど、郷に入れば郷に従えというやつよ。

 階下からお味噌の匂いが漂ってくる。

「あら、早いのね」

 割烹着姿のおばあちゃんが野菜をリズミカルに切りながらいう。

 わたしは食卓に並んでいる品々を一瞥した。

 焼き魚に付け合わせの野菜と納豆に味噌汁という定番の朝ご飯です。漬け物がないのは医者に止められているからとのこと。成人病を患っているのに大盛りが売りのラーメン屋に通い続ける人がいるなかで、医者のいいつけをまもってなん十年と続いた食習慣をバッサリ断てたのだから凄い。長生きできる人は心根がしっかりしてる。ファミレスのドリンクバーで、つい、コーヒーを三杯も四杯もおかわりしてお腹をさする貧乏性のわたしは無理みたいね。

「もうちょっと待って。すぐ終わるから」

「急がなくていいよ」

 わたしは苦笑する。

 夢のせいで目がさめただけで食欲はなかった。それに、朝は食べないことが多い。

「ねえ、この近所に神社はあったっけ?」

 包丁とまな板の接触する音が途絶えた。

「どうしたの、藪から棒に」

 普段のわたしはアドリブに弱くて、嘘をつくとしどろもどろになるが、ここにくると決めた日から受け答えは考えてきてたのですらすらということができた。

「心境の変化っていうやつなのかな」

 わたしは冷蔵庫を開けるとプラスチックのピッチャーを取りだして茶色の液体をコップに注ぐとひと口飲む。香ばしい香りが鼻孔を突き抜ける。

 ヤカンで作る麦茶は水出しのそれと較べて風味が強かった。

「これもなにかの縁と神社やお寺にお願いするようになって」

「やだ、もう、マリッジブルー?」

 おばあちゃんが笑う。

「だったら、きてない」

「それもそうね」

「ただの散歩ついで。なにか目標があったほうがやる気がでるじゃない」

「近くにはないわね」

「残念ね」

「自然に触れるのもいいけど、暗くなる前に帰ってくるのよ」

 おばあちゃんは笑顔でいう。だけど、声音はわずかに震えていた。


 結婚の報告は建前でわたしの目的は別にあった。

 わたしは確認のためにこの限界集落二歩手前のN村にきた。

 きっかけは半年前に遡る。

 二年ごしの付き合いにそろそろ結婚を意識しだした頃だった。

 わたしはとある美容室にはいった。

 電車の乗り換え時間を待ってたら、なんか無性に髪が切りたくていてもたってもいられずに目についた美容院に飛びこんだ。変よね。普段のわたしはネットで調べてから決める――石橋を叩いて渡るタイプだから結婚に浮かれていたのだとおもう。

 そこに珍しい苗字の女性がいた。

 わたしにとっては懐かしい苗字でもあった。

「もしかして――○○さんはN村出身の人?」

 普段のわたしだったら積極的に話しかけるなんてことはまずないんだけど、ほら、そこは浮かれてたから。

「わかります?」

 その子が驚いてわたしを見る。

「おじいちゃんとおばあちゃんが住んでるから」

 その名字は全国で六軒しかないレアでN村に密集している。

 共通の趣味があると年が離れていてもすんなりと打ち解けるように、共通の話題を持つわたしたちはすぐに親しくなった。

 村をでて一年というから都会の孤独に人恋しかったのかもしれない。

「たまに電話すると、もどってこいだから嫌になる」

 居酒屋で中ジョッキを飲み干したあたりから彼女は愚痴をいいだす。

「結婚して家業のレタス農家を継げだって。で、その相手が佐藤さんとこの次男坊。笑っちゃうでしょう。昔はあいつはノートの一冊も使わずに小学校を卒業したって下に見てたのに、親戚がコネで無理やり役場にねじこんだら有力株だって。一応、知りあいに確認したら、後ろ楯がいなかったらとっくに首になってるって。絶対に結婚するなって逆に念を押されたわ」

「ひどい話ね」

「まったくよ」

 田舎のしがらみで娘を生け贄にしようとするなんて最低と憤る。それから、ほろ酔い加減のわたしを見てしみじみという。

「よかった。虚弱体質は治ったみたいね」

「どうして、それを?」

 田舎を侮っちゃ駄目よ、と彼女は笑う。

「転地療法っていうんだっけ? 都会のお嬢さんが夏休みにくるとなればそこここで噂になるわ」

「しらなかった」

「病気で家にいるんだからしりようがないし、いくら、プライバシーってなに? 美味しいの? レベルの人でも病人には遠慮する」

「そっか」

「そんな子が、まさか、迷子になるとはおもわなかったけど」

「――?」

「あれ、覚えてないの?」

「うん」

「当時は大騒ぎだったんだから。体力のない子どもがそう遠くに行くはずがないから神隠しにあったんじゃないかっていう人もいたくらい」

 田舎は迷信深い人が多いから、そういうと彼女は通りがかった店員にビールをおかわりする。

 

 さっきもいったがわたしに迷子の記憶はない。

 田舎にいたのは小学二年の夏休み。昔の殺人事件の時効より前のことなんだから覚えていなくたっておかしくない。三年間、机をならべた中学の同級生の半分以上が忘却の彼方。みんなもそんなもんじゃないの。

 だけど、その事実をしらないのは変。絶対に変よ。

 昔のちょっとした失敗ですら――運動会の徒競走でゴール手前で転んだとか――昨日のことのように話すおしゃべりな両親がこれだけ言及しないなんて不自然。恥の多い人生だから、迷子は二回や三回じゃすまない。その話題になった時にこんなこともあったって引きあいにだしてよさそうなものを。

 おかしい。

 池に石を投げた時にできる波紋みたいにわたしのなかで疑念が広がる。

 だけど、両親に訊くのは躊躇われた。

 それこそ、昔の殺人事件の時効より長い期間、隠し通してきた人たちが、ちょっとやそっと訊いたくらいで話してくれるとは、到底、おもえない。

 それで、気がついたのだけどよく見る夢と関わりがあったりして。

 夢というフィルターを通しているから荒唐無稽だけど、子どもの頃で、人気のない寂れた神社――N村の可能性はある。

 そこで、わたしは動くことにした。

 今年の汚れは今年のうちにじゃないけど、幸せな家庭を迎える前に後顧の憂いは断っておきたかった。そこまで大事じゃないか。でも、定期的に配偶者が変な夢を見て脂汗を浮かべる状況ってよくないとおもう。後ろめたさから悪夢を見てるなんて勘ぐられたら夫婦生活がギクシャクするじゃない。


 欅の木の中心でアブラゼミが愛を叫んでいる。

 膝が笑っている。

 わたしは持参したペットボトルのお茶に口をつける。生ぬるくなったそれは、冷蔵庫からとりだしたばかりのより美味しく感じる。喉がカラカラに渇いていた。

 全部、飲みほしたいところを、帰りを考えて我慢する。

 首に巻いた冷却タオルはとうに意味をなさなくなっていた。

 乗り換えの五分が煩わしい者に山の隘路は厳しいものがあった。

 標高五百メートル弱の小さな山の頂にいる。

 目の前に神社がある。

 この村の唯一の神社。歩いて一時間近くかかったから近所に神社がないといったおばあちゃんの発言は嘘じゃない。ま、足腰の丈夫な地元民ならもっと短縮できるのかもしれないけど。

 夢にでてくる神社よりこざっぱりとしている。

 でも、ハズレと決めつけるのは早計。

 十年ほど前に改修したことは調べがついている。

 ま、美容院の彼女から聞いたんだけど。もの心ついた時には村を飛びだすことを決意していたおませさんだから郷土愛は薄い。神社について得られた情報はほとんどなかった。

 まって、郷土愛は……関係ないか。

 祝日だろうと平日だろうと祭りとあればねじり鉢巻きキリリと締めてお神輿を担ぐ――当て字にめっぽう強いお兄さんたちだってルビがなきゃ祭神が読めなくて普通だし。

 樹脂製の鳥居をくぐった次の刹那、背筋を氷が這った。

 神域がそうさせたのか、心因性かはわからない。

 そこそこのマンションをふた棟が手一杯の小さな神社だった。

 注連しめ縄を張った古木が見あたらないところから察するに、山そのものがご神体ーー神奈備なのかもしれない。

 石橋を叩いて渡るタイプだから神社について軽く調べてきてる。

 特に感慨はない。

 おぞましいとか、神々しいとか、そういう感覚はなかった。

 ただ、ただ、ひたぶるにシャワーを浴びてベタつく汗とおさらばしたかった。

 デジャブみたいなことがあればと期待したんだけどハズレかな。

 とりあえず、神社にきたんだからお参りする。

 小銭で宝くじの一等や病気の快癒や縁結びや、丑の時――午前二時に五徳を逆に被って気にいらない相手の調伏を願うほど厚かましくはないので挨拶にきましたとだけ心でいう。うん、わたしって謙虚だ。

 一礼して踵を返すと女の子と目があった。

 大きなくすのきの下にいる。

 おかっぱ頭に緋色が目に鮮やかな着物を着ている。

 わたしは市松人形を連想した。

 でも、いつの間に?

 参拝時間は三十秒たらず。後からきたとしたらわたしの影を追いかけて、わたしが手をあわせるやいなや楠まで駆けたことになる。雪駄で走れば足音でそうとわかるはずなのになにも聞こえなかった。

 市松人形似の女の子がわたしに近づく。

「こんにちは」

 薄気味悪さを隠してわたしは笑顔を浮かべる。

「こんにちは」

 女の子が挨拶する。上目遣いでわたしを見る。妙に黒目の大きい瞳だ。

「見つけた」

「――?」

「じゃ、返すね」

 少女がなにかを投げる仕草をした途端、わたしは膝から崩れ落ちた。

 ひゅうひゅうという虎落笛もがりぶえの音は狭まった気道を抜けるわたしの息だ。

 久しぶりの感覚。

 わたしはすべておもいだした。


 やはり、ここであっていた。

 夏休みだから、当然、夏祭りがある。

 病弱なわたしは家で留守番をしていた。田舎の祭りにかける熱量は都会の比ではない。今だからわかるけど、祭りに特別な意図もあるんだとおもう。心配して誰か彼か様子を見にきたけど、祭りが佳境にはいると手が離せなくなったのでしょうね。少女があらわれたのは、酸味の強いカルピス片手にバラエティ番組を意味もわからず眺めて時間を潰していた時だった。

「お外は賑やかなのに、なんで、おうちにひとりでいるの?」

「わたし、体が弱いから」

 田舎のことで玄関に鍵はかけてないし、村の人たちは勝手しったる他人の家とあがりこむから、わたしと同じくらいの年齢の女の子がいても違和感はなかった。

「じゃ、わたしが治してあげようか」

 今のわたしだったら、

「うるさい、オカルトかぶれのブス。どうせ宗教の勧誘でしょう。髭面の縄文人みたいな教祖の風呂の残り湯にお金を払うくらいなら、池袋で薄い本をいっぱい買って腐ったほうがはるかにましよ」

 甘くないチョコレートと学園祭の悪ノリの延長芸風情で才能タレントでございますとふんぞり返って未成年に手をだす輩の次に宗教――とりわけ、カルトは嫌いだと公言して憚らない、両親が篤信家で日曜朝のアニメを観せてもらえなかった知人に感化されてこれくらいはいってる、というか、実際に駅前で絡んできた笑顔が嘘っぽい勧誘にいったことがある。蛮勇じゃないわ。見た目が悪くて気だても悪い、でも、なぜか、わたしには親切な幼馴染みの柔道の段持ちがいっしょだったし、目と鼻の先に交番がある。虎の威を借る狐。大いに結構。数の暴力に個人で太刀打ちできるわけないんだから、使えるものは親でも使わないと。

 ええと、なんの話をしてたんだっけ?

 そうそう、市松人形似の少女に甘言を弄されたのだった。

 体調が悪い癖に悠長だなという指摘はやめてね。それをいう人は神と丈夫に産んでくれた母親に感謝することね。体調が悪いと、思考が千路に乱れるのもあるけど、現実逃避で雑念がよく浮かぶのよ。

「そんなことできるの?」

 その時のわたしはまだ穢れをしらない無垢な美少女だったから否定しない。

 それと、なんとなくだけど彼女ならできそうな気がした。

「任せて」

 小さな手がわたしの背中に触れる。

 かわいらしい声。聞きとれないけど、節からして祝詞だとおもう。

 嘘みたいに体のだるさが消失した。

「じゃ、お祭りに行こう?」

 でも、とわたしは逡巡する。

「治ったから遊びたいといっても、信じてもらえなくて連れ戻されそう」

「それもそうね」

 少女は頷く。

「じゃ、ふたりっきりで遊ぼう」

 わたしたちは手を繋いで家をでた。


 神社で遊んだ。いつの間にかそこにいた。初めての健康な状態にわたしは舞いあがっていた。どれくらいいたのだろう。満月にやや欠けた月が見守っている。さすがに、これはマズイとおもったわたしはかくれんぼを中断して山を降りた。ひとりで夜道を歩いたわけだけど怖くはなかった。なぜか、夜目が利いたし、要所要所で夢にでてきた奇妙な人たち(?)が迷わないように指差しで案内してくれた。

 麓は大騒ぎになっていた。

 わたしはこっぴどく叱られた。

 わたしは体調がよかったから散歩してたと嘘をついた。少女のことは黙っていた。怒られたらかわいそうとおもった――ううん、違う、なんかいってはいけないような気がした。

 本能で理解してたんだとおもう。

 宗教嫌いの知人の受け売りだけど、神秘体験はみだりに語るものじゃない。だから、夏になると湧くオカルトアイドルは嘘っぱちだ。本物に会えば? 遭えば? 畏敬の念が生まれる。口外できない。

 下手にしゃべって人智を超えた存在の不興を買ったら元も子もない。

「あんなのは容姿と歌で勝負できない二流がそれらしく騙ってるだけ」

 そう、神秘的体験を契機にカルトから脱却した知人が締め括る。


 わたしは意識が遠のくのをなんとか踏みとどまる。

 こんなところで死ぬわけにはいかなかった。

 まだ、結婚式をあげてない。

 今、死んだら、ウエディングドレスを着るためにしてきた食事制限とジム通いが無駄になる。

 どうせ死ぬなら炭水化物を――メロンパンを食べたかったと悔やむんじゃなくて、メロンパンが美味しゅうございました、と感謝して死にたい。

 未練は、当然、ある。

 したいことは山ほどある。

 まだ、食べてないものも多い。

 なんとかして窮地を脱しないと。

 わたしは考える。

 情に訴えるのは……無理っぽい。人が苦しんでいるのを茫洋と眺めている。わたしが路上で干からびているミミズを見てもなんの感慨も浮かばないのと同じで、下等な人の生き死になどどうでもよさそう。

 怒鳴る。足掻く。いよいよとなったら、邦画のホラーの登場人物みたいにじっと殺られるのは癪だから悪態ついてペットボトルを投げるけど、まだ、その時ではない。

 考える。

 少女がわたしに会いにきた理由を。わたしの病魔を一時的に奪ってまでしたかったことを。

 駄目もとでいってみることにした。

「ねえ、もっと遊ぼう」

 黒目が大きい瞳に初めて感情らしきものが宿った。

 それは好奇の光であった。

 わたしは薄れゆく意識のなかで、

「なにして遊ぼう。かくれんぼは飽きたから違うのがいい」

 どれにしよう、と悩む可憐な声を聞いた。

 気がつくと村のバス停にいた。錆だらけのベンチに座っている。

 少し離れた位置から猫がじっと見ている。黒猫だ。わたしのことを気にかけてくれたのかな。どういうわけか、昔から猫に好かれる性質で猫好きのやっかみを集めている。挨拶すると、猫は小さく鳴いてヨタヨタと去っていった。

「助かったの、かな」

 体調がすこぶるいいということはそういうことだとおもう。

 そうであってほしかった。

 わたしは額に吹いた玉の汗を拭うとたちあがる。

 ベンチの軋む音が意義を唱えているみたいで不快だった。


 五年が経った。

 わたしは一児の母になった。

 順調だ。

 トラブルらしいトラブルは、降ってわいた夫の転勤でハネムーン旅行が流れたことと、ひと段落して仕切り直しとおもったら妊娠が発覚したこと。逆算するとN村にくる前後に授かってたみたい。不思議なんだけどおもいあたる節はない。だけど、夫は覚えていた。別人かとおもうくらい情熱的に迫った夜があったらしい。子どもが生まれるまで托卵されたんじゃないかって一抹の不安があったって苦笑された。似てるから納得したというけど、陰でDNA鑑定したのかも。事情が事情だから、そうだとしても裏切られた感はない。

 災難とおもえば災難だけど、不幸中の幸いとおもえなくもない。お腹が目立つ前に挙式をあげることができてなによりだった。授かり婚というおためごかしが通用しない相手はいる。できちゃった婚と見る人は多い。口さがない人は、物事の順番がわかってない、バースコントロールもまともにできないダメ夫婦と見なす。夫はお堅い仕事をしているのでそうとらえる上司は多い。ぽっこりお腹でキャンドルに火をつけてまわったら出世に響いたはずだ。それをもってあからさまに冷遇することはないだろうけど、同僚がドングリの背比べ状態なら瑕瑾きずのあるほうを後回しにする。

 後は順調だ。

 わたしも家族も風邪らしい風邪をひくこともなく元気に生きている。

 人の家のゴミ袋を開けてあら探しをする町内会の嫌われ者は、スクーターが切な気な声をだすのと同様、八十キロ超の重みに耐えかねた両足の抗議で、他人の生活に干渉する余力を失っている。より、性格が悪くなったと聞くけど、関わりたくないと迂回する相手に追いつけないから実害はないらしい。

 わたしもなん度か嫌みをいわれたからいい気味だとおもう。

 ただ、わたしと目があうと、巨体を右に左に揺らして逃げようとするのはわからない。わたしに嫌がらせした直後に支障をきたしたから祟られたとでもおもったのかな。自堕落な生活が原因で、そんなの偶然でしかないのに。嫌ね、なんでも他人のせいにする人は。脳まで太ってるんじゃないかしら。

 嫌な人は勝手に堕ちていったから、ご近所さんはいい人ばかり。

 夫は顧客に恵まれて仕事が楽しいらしい。

 砂時計の青い砂がすべて落ちるのを確認するとわたしは電子レンジ不可のカップにハーブティーを注ぐ。うん、ローズヒップのいい香り。

 夫の給料がいいから、爪に火を点す生活をする必要がない。

 仕事はたまに友人の経営するお店を手伝うくらい。あ、フリマアプリの儲けもあるか。趣味で作ったアクセサリーを売っている。申告が必要になるていどには人気がある。

 美容室の彼女とは交流が続いている。

 彼女は夫の後輩と交際している。わたしが仲をとりもった。まだ、清い仲で手が触れるくらいでドギマギしてるらしい。純情は三分の一より多かったみたい。――わかりにくかったかな。最近、古いアニメに嵌まってて、つい、使ってみたくなっちゃった。もちろん、役場の次男坊より好物件はいうまでもない。

 絵にかいたような幸せってこういうことをいうのね。

「ママ」

 かわいらしい声にわたしは振り向く。

「どうしたの? 眠れないの?」

 理由は忘れたけど、幼稚園が休園で娘はうちにいる。

 わたしに似て美人さんです。街をいっしょに歩いててスカウトされたことは二度や三度じゃきかない。両親は鳶が鷹を生んだと驚いている。

「じゃ、ママが絵本を読もうか?」

 お昼寝の時間。

 わたしはガッツリ寝ちゃいたい派で、短い仮眠はかえってストレスが溜まるけど、寝る子は育つというし、ここは慣習に従ったほうがいいよね。

「お昼寝つまらない」

 娘が首を横に振る。

「別の遊びがしたい」

「――別の?」

「そう、別の」

 娘がいう。

「楽しかったけど、ママゴト飽きちゃった」

 黒目の大きい瞳が好奇に輝いていた。

まずは、読んでいただけたことにありがとうございます。

淡々と流れるような、ほんのり怖い味付けを意識しました。

みなさんもそう感じていただけたのでしたら幸いです。


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― 新着の感想 ―
[一言] おままごとに飽きちゃったの? 困ったなぁ。 お医者さんごっととか ……スプラッタな予感しかしない。 お店やさんごっごとか ……24時間営業になりそう。 しりとりは? 「ん」がついたら運の尽き…
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