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フェリシアは元から怒りが持続するタイプではない。そもそもからして、怒る事も少ないくらいだ。だからこそ、かつて社交界にてグレンとの仲を好き勝手言われていた時も、悲しみこそすれ腹を立てる事は無く、本来の自分を取り戻してからはどちらかというとわくわくとしてしまう。「本当にこんなことを言ってくる人がいるんだ! すごい! 小説みたい!!」と後でこっそりはしゃいでみては、グレンは元より親友のミッシェルに呆れられてしまう。
最近はグレンの過保護っぷりがひどいので、彼の耳にはあまりいれない様にしてはいるが。
ともあれ、そんなフェリシアであるからして、珍しく怒りを覚えたもののそれを表に出すタイミングを失ってしまえば、それを持続させるのは難しい。あげく、自身よりも周囲が怒りをあらわにしていては、むしろそれを諫め宥める立場へと回ってしまう。
つまりはもう現時点でフェリシアはグレンに対して怒ってなどいなかった。あの瞬間こそ心配のあまり頭に血が上りもしたが、普段の彼の性格を考えればそれもそうかと一応の納得はしてしまうし、今後それを改善してもらえばいいだけだの事だ。
だが、クローディアとオリアーナがこれに異を唱える。それではだめだ、甘すぎる、とフェリシアにもっと厳しく接しなさいと詰め寄った。
「こういうところからきちんと手綱を握っていかないと、男性はすぐに自由気ままに動いてしまうわよフェリシア」
「心配かけたくないというグレン様のお気持ちは立派だと思うけれど、それでも今回のことはひどいわ。それに心配かけたくない、と言えばどんなことだって隠していいと思うのもよくないし」
敬愛している女性陣からそう強く言われてしまえば、なるほどそれもそうかとフェリシアも頷いた。なので、とりあえずはグレンに対して「具合が悪いのを黙っていたことに怒っています」という態度を示す様に――怒っているフリをしてみせている。
「あの時は本当に怒ってましたけど、今はもう怒ってないですからね? 次からはちゃんと教えてもらえたらいいなって、それだけです。つ、次も内緒にされたらその時こそものすごく、猛烈に怒りますけど!」
姉代わりの二人に言い含められたこと、あとやっぱりちょっと反省してください、という気持ちを込めて怒っている態度は示す。しかしこれはあくまでフリであるので気に病まないでほしいと、フェリシアはグレンをベッドに押し込んだ時にそう宣言した。グレンと喧嘩をしたいわけではないのだ。これで仲が拗れたりしては耐えられないと、だから誤解されないように正直に全てを話した。
声が出ない以外はグレンは健康である、とはいえ病人は病人だ。フェリシアは甲斐甲斐しく世話をしている。食事をベッドまで運んだり、薬の用意をしたり、帰宅して気が緩んだのか少しだけ熱を出したグレンの額を冷やしたりと、それはもうつきっきりの看護っぷりだ。他の者が代わりを申し出ても、大丈夫だとそれを断る。さすがにグレンが無理にでも「大丈夫だから」と口を開きかけたが、その前にフェリシアはきっぱりと言い切った。
「私がやりたいんです――だってグレン様のお世話だなんて今までそんなことできる機会なかったし! むしろ私がお世話されてばっかりだったのでそのご恩を返す時って言うかなんて言うか旦那様のお世話をする妻って感じで憧れてたのがやっと……」
そして最早恒例となったフェリシアの「ああああああ」という叫びと、赤裸々な愛妻からの告白にグレンが真っ赤になって固まり、せめて二人っきりの時にやってやくれませんかねえというカーティスの虚無感が屋敷を満たすという事態を経て、今に至っている。
「グレン様、お茶の用意ができましたよ」
一応頑張って眉間に皺を寄せて過ごす様にしているが、それでも口を開けばつい笑顔が溢れてしまう。声が出なくともグレンはニコリと笑みを浮かべて唇の動きで礼を言ってくれるし、大好きな彼と一緒にいられるのだからフェリシアも喜びが滲み出てしまう。
クローディア達に言われた事と、あとなによりも病人の前なのだからあまり嬉しそうな態度はよくない。なのでここ数日でフェリシアはすっかり唇を噛み締める癖ができてしまった。そんな妻の様子にグレンは苦笑する。軽く口を付けた紅茶のカップをベッドサイドのローテーブルに置くと、代わりにそこにあった紙の束を手に取りスラスラと文字を書く。
【あまり唇を噛んでいると血が滲むよ】
声を出せないグレンとの会話をどうするか。その解決方法としてフェリシアは手紙でのやり取りを思いついた。便箋なら自分の机の中にまだたくさんあるからと、色々な種類の便箋を小さな板に挟んでグレンへ手渡し、それ以来ずっと活用している。
「でも……こうでもしないとつい顔がですね……」
【俺もフェリシアと一緒にいられるのが嬉しい。こんな状態だけど】
「ですね……グレン様と一緒にいられるのは本当に嬉しいけど早く元気になってほしいです……けどもうちょっと続いてもいいかなとか……思っちゃってすみません! グレン様は大事なお仕事たくさんあるので迅速に回復してもらわないとですね!」
うん、と頷くフェリシアにグレンはすまなそうな表情を浮かべる。基本フェリシアが最優先のグレンであるが、それでも彼の立場上それができない事が多々ある。それらを捨ててまで自分を優先して欲しいだなんてフェリシアも思わないし、むしろそんなグレンであればフェリシアは恩義は感じても彼を好きになりはしなかっただろう。
「なによりも騎士として毅然とされてるグレン様が大好きですから」
そう言って笑えば、グレンは少しばかり照れた様に笑いながら手元にペンを走らせる。
【俺もいつでも笑顔を浮かべているフェリシアが大好きだよ】
「……またそうやって文字でまで甘いことを……!」
常日頃から愛情を口にしているグレンは、その手段が文字に変わっても同じであった。むしろ文字だからこそ威力が凄まじい。フェリシアは「もう!」とこればかりは照れからの怒りでグレンの手元から紙を奪い取った。
「そういえば今日はまだお昼寝されてないですから、今からちょっとお休みしてください!
そもそもグレン様が熱を出したのも日頃の疲れが溜まってたからだそうじゃないですか。しっかり睡眠を取るのも回復への近道ですよ!」
医者に言われた事を思い出しながらフェリシアはグレンの身体をベッドへ押し込む。シーツを肩までかけ、寝かしつける様に胸元をポンポンと数回叩く。グレンはされるがまま大人しく瞳を閉じるが、すぐにまたフェリシアを見つめる。
「グレン様?」
どうかしたのかとフェリシアは声をかけるが、彼の視線が自分の手元に注がれているのに気付くと途端に顔を赤らめた。
グレンの書いた紙を二つに折りたたみ、封筒へと入れているのが不思議なのだろう。しかもその封筒はわりと膨れている。
もしかして、と視線で問われフェリシアは「はい」とか細い声で頷いた。なぜ、とまたしても無言の問いが飛んでくる。それはそうだろう、だってグレンが書いた文字などどれもたいしたものではない。世話をしてくれるフェリシアへ対する礼の言葉や、それに付随してのささやかな愛情を綴っただけのものだ。だからそれらを大事に取っているフェリシアの行動の意味が分からないのだろう。
「グレン様とこうやって手紙のやり取りみたいなことしたの初めてだからですね……つい、こう、記念に……」
フェリシアにしてみればちょっとした恋文のやり取りの様で、書いてある中身がなんであれ捨てる気になど到底なれない。どれも大事な一枚で、一旦封筒に入れて部屋に持ち帰っては机の引き出しに保管しているのだ。
こっそりやっていたつもりだったのにバレてしまった、恥ずかしい!!
フェリシアはグレンに背を向けて盛大に身悶える。なので、俺のフェリシアが可愛すぎて辛い、とグレンがベッドの中で同じ様に悶えているのに気付くことはなかった。




