あなたの代わり
今日も今日とてグレンの帰宅は深夜に及ぶ。愛妻の成分が枯渇しきっている。いい加減禁断症状が出そうだと、グレンはふらふらと妻――フェリシアの眠る部屋の前へ立つ。すでに寝ているだろうが、一応はと軽くノックをすれば人が動く気配がする。うわ、と小さな悲鳴が扉の向こうから聞こえ、思わず返事を待たずに開けそうになる。
が、その寸前でグレンの目の前に光が差した。
実際は暗い部屋の中からであるので、光が差し込むのは廊下から室内へであるが、少なくともグレンの目にはそう見えた。つまりは愛しい妻の満面の笑みが眩しくてたまらない。
「グレン様おかえりな」
言葉を待たずに力任せに抱きしめてしまう。フェリシアはたまらず「ぐぅ」とうめき声を上げるが、グレンは力をかすかに緩める程度だ。
「ただいまフェリシア。起こしてしまってすまない」
「いえ、寝ようかなどうしようかなってベッドの上でゴロゴロしていただけなので、寝る前にグレン様とお会いできて嬉しいです」
フェリシアもグレンの背中に両腕を回して抱きしめ返す。
「そうか……だったらフェリシア、少しだけ話をしないか? せっかく君と会えたから、短くてもいいから触れ合う時間が欲しい」
至近距離から直球でグレンの「甘え」が飛んでくる。フェリシアは悲鳴をあげそうになるのを必死に堪えながら頷いた。
「でもグレン様は明日も早いんじゃないですか?」
「昼頃までゆっくり休めとの、殿下のお達しがあるから大丈夫だよ」
グレンが忙しいという事は、その護衛の対象であるフレドリックも忙しいという事だ。婚約者であったオリアーナと、ようやく結婚式を終えたばかりの蜜月期間。で、あったはずがなぜだかとても忙しい。視察に行ったり来られたり、オリアーナと二人で参加はしていても、二人それぞれが忙しくしている。結果、悲しいほどに共に過ごす時間がとれない。それに付き合わされる形のグレンも同じで、なんとか無理矢理調整をつけて明日の昼までの時間をもぎ取ったのだ。
グレンの答えにフェリシアは顔を輝かせる。お茶でも淹れますね、とグレンの腕を引いて部屋の中へ誘いソファへ座らせると、フェリシアは鼻歌でも歌いそうなくらいご機嫌に茶器を広げる。
「お茶でも飲もうかなって準備はしてみたんですけど、なんだかもういいかなってもなっちゃって。お湯が冷めちゃう前でよかったです」
最近のお気に入りの茶葉はミッシェルがお薦めしてくれたものだ。安眠の効果があるので、眠る前に時々飲むようにしている。仕事で疲れ切ったグレンにもこれはよく効くはずだ。
そんな自信を持ってグレンの前へとティーカップを置いたところでフェリシアは固まる。
ありがとう、と微笑むグレンの隣には、座った彼と同じ高さの大きな犬のぬいぐるみがあった。中身が綿であるから、どうしても背がクタリとしてしまい、若干の差はあれど、ほぼ同じ背丈の犬、の、ぬいぐるみ。黒くてつやつやとした毛並みに、澄んだ青空と同じ色の瞳は、まあまあ乙女思考が強ければ何を差しているかは分かるだろう。
いや、それよりも、その犬が身につけている衣類が明確に答えを出している。
「これは……俺の?」
グレーのガウンはグレンの物だ。それをうまい具合に着こなし、何冊も積み上げられた本の上に鎮座まします犬の言わんとするところとは。
「――俺の代わり?」
筒抜けである。グレンは少しばかり照れくさそうに笑っているが、思考回路がバレバレのフェリシアはそれどころではない。ひああああああ、とグレンの前に膝をついたまま両手で顔を覆って丸くなる。
「フェリシア」
そんなフェリシアの体を容赦なく引き起こし、グレンは自分の膝の上にヒョイと座らせた。
「聞いてくださいグレン様」
「是非とも聞かせてほしいフェリシア」
「ちがうんですそうじゃないんですこれにはわけがあってですね」
両手で顔を覆ったままフェリシアの言い訳は始まる。
「ポリーが……ポリーが天才的閃きを発揮してくれたんです」
連日グレンの帰りが遅い事に、どうしたってフェリシアは寂しさを感じてしまう。心配だってするし、一人で眠るベッドの上を意味もなく転がる日々が続いていた。けれど、それを日中表に出す事はなかった。実際日中はポリーにマリア、カーティスほか屋敷の面々がいるので寂しくはなかったし、ミッシェルが遊びに来てくれたりもするので本当に平気だったのだ。
ところがポリーが突然一念発起する。
「こうすれば少しはさみしくなくなりますよ!」
元気な声と満面の笑みで、ずいぶんと大きな犬のぬいぐるみをフェリシアの前へと持ってきたのだ。
実はずっと前から作り始めていたというそのぬいぐるみ。
「ほんとうはグレン様に似せて作ろうとしてたんですけど、わたしのお裁縫技術だとまだそこまでは無理で、でも代わりに犬は! 上手に!! できました!」
「そうね! わたしこんなに大きなぬいぐるみは作れないもの! ポリーったらすごいわ!!」
ポリーのテンションにつられてフェリシアの声も弾んでしまう。いやでも待って、それよりもなによりもこれって
「グレン様の代わり?」
「はい、いつもグレン様のお帰りが遅くて、フェリシア様しょんぼりなさっているので、少しでもお慰めになればと思って」
ポリーに気づかれてしまう程に自分はしょんぼりしているのかとか、犬のぬいぐるみで慰めにってどうやって? とフェリシアはどこから突っ込んだらいいのか分からない。そんなフェリシアをよそにポリーはてきばきと準備を進める。本棚から適当に本を取り出してソファに重ね、その上に犬のぬいぐるみを座らせる。
「ソファに座ったグレン様って、これくらいの高さでしょうか?」
「もう少し高いかも?」
「わあ、さすがフェリシア様! じゃあわたしが本を積むので、そこで高さの確認をお願いしますね!」
謎の勢いにのまれてしまった。気づけばポリーと二人で細かく高さの調整をし、それが終われば仕上げとばかりにグレンの上着を羽織らせた。
「これでグレン様っぽくなりました!」
よくわからないけれど、しかし小さなメイドの心意気はよくわかった、と、思う。フェリシアもすっかり楽しんでしまったし、言われて見るとたしかにグレンに見えなくもない。そんな気がする。
こうして、グレンの姿に似せたと言い張る犬のぬいぐるみは、フェリシアの部屋のソファに常駐するようになった。
「グレン様とお会いできなくて寂しかったのはあるんですけど……ポリーの発想が可愛すぎるし、ポリーが作ってくれたこのぬいぐるみも可愛いし、グレン様の服を着せたらかっこいいしで楽しくなって……」
「うん……ポリーもこの犬もフェリシアも全部が可愛すぎてつらい」
可愛いイキモノがこぞってグレンの心臓を直撃してくる。人間はこんなにもときめきで死にそうになるのかと、息も絶え絶えだ。はあああ、と長く深いため息しか出てこない。
「なんだか……よくわからないけどごめんなさいグレン様」
彼の中から何かしらがゴリゴリと削られているのを察し、フェリシアはひとまず謝罪の言葉を口にする。グレンは「うん」とだけ答え、抱きしめる腕に力を込めた。
「なにかが奪われていく感じはするけど、それは嫌ではないし、少なくとも溜まりに溜まった疲れは全部吹き飛んだよ」
ありがとう、とフェリシアのこめかにみ軽く口づけ、グレンはそのまま立ち上がった。突然の事にフェリシアは短い悲鳴をあげ、グレンの首にしがみつく。軽く体が揺れるが、それは数歩の距離で止まる。降ろされたのはベッドの上で、グレンも隣に横になる。
「グレン様もここでお休みになるんですか?」
「駄目かな?」
「だめじゃないです! ないですよ! けど、だったらわたしのベッドより」
「夫婦のベッドだとこのまま君を朝まで眠らせてあげられないけど」
「寝ましょうぐっすり寝ましょう今すぐ寝ましょうねグレン様!」
フェリシアはグレンの頭を胸元に引き寄せぎゅうぎゅうと抱きしめる。これでは逆効果もいいところであるが、精神的疲労は癒えても肉体的疲労の残っていたグレンには珍しく効果があった。トクトクと響く心音にあっという間に睡魔が訪れ、少しして穏やかな寝息が聞こえてくる。フェリシアはほんの少しだけ腕の力を弱めると、瞼を閉じたグレンの額に掠めるように口づけた。
「おやすみなさいグレン様――良い夢を」