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フェリシアの逃走速度は前回の比ではない。もしかしなくても過去最高かもしれない。普通の貴族のご子息であれば到底追いつくなど不可能な程だ。しかしグレンはそうではない。第二王子の専属護衛で、王宮内でもトップの実力を持つ騎士様が、初めから逃がす気など毛頭無く追いかける。
そんなわけで過去最速で逃げたフェリシアであるが、これまた過去最速で捕獲された。
夫婦の寝室に二人揃ってベッドの上に座りこんでいる、という現状。しかしそこに艶やかな空気は微塵もない。互いに呼吸が荒いのは完全にただの全力疾走による後遺症だ。
「――フェリシア」
先に呼吸を整えたグレンが愛しい妻の名を呼ぶ。両手はフェリシアのそれとしっかり重なっており、逃走は許さないという強固な意志が宿っている。
「グレン様、あのですね、その、私の話を、聞いてください!」
こちらはまだ若干息の途切れたまま、それでもフェリシアはどうにかこうにか言葉を紡ぐ。とにもかくにも話をしたい、聞きたいのはグレンも同意なので、握った手に軽く力を込めてそれを返事の代わりにすれば、フェリシアは俯いたまま話を始める。
「アレはその、なんて言うか、違う……わけじゃないけど違うんですよそういうんじゃなくて、ってじゃあどういうのって話なんですけどそうじゃなくて! 子どもが欲しいってまずもってそれって我が儘じゃないし貴族関係無しに結婚したんだから血を残していくのって当然だしでもそれだけじゃなくて純粋にグレン様とちゃんと家族になりたいっていえ今でも充分家族ですよ! 家族なんですけど!!」
「フェリシア……」
ちょっと、と口を挟むグレンだが、フェリシアは止まらない。
「ただグレン様の子どもが見たいなって思ってそしたら生むのは私ってなるわけでそしたらストンってグレン様との子どもが欲しいなって思っただけでそれがスルッと口から出ちゃって」
「うん、フェリシア、あの」
「きっと男の子でも女の子でも可愛くて綺麗でかっこよくて強くて素敵な子どもだと思うんですだってグレン様の子どもですもん! 生むのが私ってところでもしかしたら多少……少し……ちょっぴり、欠片程度にうっかり者の血が入っちゃうかもですけどそれを差し引いてもですね、間違いなく素敵な子どもが……え、大丈夫ですよねもし万が一で子どもは別の女の人に生ませ」
「ない。それは絶対にない。俺が子どもを生んで欲しいと願うのは君だけだフェリシア!」
まだそんな事を言うのか、と瞬間的に頭に血が昇る。激情のままにこの場に押し倒して、その華奢な身体の、小さな腹の奥に膨れ上がるまで子種を注ぎ込んでやろうかと、グレンは距離を一気に詰めた。
が、しかし。
「私だって子どもを生みたいなって思うのはグレン様だけですからね!!」
見事なカウンター攻撃を喰らった。しかも真正面から。あげく本人は無自覚だろうに羞恥となぞの怒りにも似た感情で瞳を潤ませた上で顔を赤く染めている。つまりは可愛いが過ぎて、グレンは半身を寄せた状態でビシリと固まった。
「色々育児書とか読んだり、お子様をお持ちのご夫人方にお話聞いたりする度に子どもを持つのって大変だなって思うし、それを私ができるかなって不安になったりするんですけど、でもそれでもやっぱりグレン様の子どもは欲しいし生みたいし、その権利があるのは私以外は嫌だなって思うわけです!」
「……うん、そう……そうなんだ、け、ど……フェリシア……」
愛しさと、それを上回る羞恥でグレンは顔を上げる事ができない。不様な態度でいるのはどうなんだと我ながら思いはするが、しかしこの真っ赤に染まった顔を見せるよりかは幾分かマシなはずだ。というか、まずもってこの顔をフェリシアに見られるのが恥ずかしすぎて堪らない。
一方のフェリシアは混乱の極みすぎて最早何がなにやら状態だ。自分が今話をしている中身すら理解できていないだろう。だからこそ、グレンをさらに追い込んでいく。
「オリアーナ様じゃないですけど、私だってグレン様と一緒にいたいなっていう一番の我が儘をすでに叶えてもらっているので、これ以上我が儘っていうか、お願いごとってないんですけどね子どもが欲しいっていうのの他には!」
「俺も……そう、だ……けど本当にちょっと……お願いだからフェリシア、少しだけ待ってくれ……」
「もちろん今すぐ子どもが欲しいって話じゃないですから! オリアーナ様とフレドリック様のご結婚がまず一番ですもんね!」
「じゃなくて、そうじゃなくて、フェリシア」
「グレン様? 大丈夫ですか? なんだか耳まで真っ赤になってますけど!」
大丈夫ではない。瀕死の重傷もいいところだ。なのでせめて落ち着くまで黙っていて欲しいと、切にそう願うけれども、そんな希望を言葉にのせる前にフェリシアがトドメを刺しに来た。
「あの、でも、今はまだもう少しだけグレン様を一人占めしていたいですって言うのが正直な気持ち」
我慢、と言うかもう羞恥心の限界だった。なのでグレンは物理的にフェリシアの口を塞ぐ。ベッドの上で交わすには軽いけれど――しかしフェリシアを黙らせるには効果的だった。
ぶわ、とフェリシアが全身を朱に染める。口付けによる口封じ、である種吹き飛んでいた意識が現実に戻ったのだろう。これまでの己の発言を自覚して、溶けた蝋燭の様にぐにゃりとグレンにもたれ掛かる。
「……グレン様……おねがいですから……いままでのはなしはわすれてください……」
「無理だな……」
溶けたフェリシアを抱き締めたまま、グレン自身も溶けそうになっている。子どもが欲しいというのも、けれど彼女をまだ独占していたいというのも、全て言われてしまった。
「……フェリシアを一人占めしたまま子どもも持てたらいいのになあ」
しみじみと、そんなどうしようもない願望がポロリと零れると、ややあってフェリシアが腕の中で小さく笑う。
「それこそ我が儘じゃないですか?」
「そうかな?」
「そうですよ」
クスクスと笑い声まであがり、そうしてフェリシアはグレンの背中に手を回しながら顔を上げる。
「グレン様がそんな我が儘を言うなんてちょっとびっくりです」
「呆れた?」
「いいえ……っていうか、グレン様こそどうなんですか? 私に叶えて欲しい我が儘とかないんです?」
まさかそんな返しが来るとは思ってもみなかったので、グレンは軽く目を開いて驚く。
「グレン様だって普段我が儘とか仰らないじゃないですか。私だって……あ、なるほどこれが……」
話の途中で何事か気付いたのか、フェリシアは一人で納得し始めた。
「フェリシア? どうした?」
「フレドリック様が、オリアーナ様に我が儘を言って欲しいって思うのが、なんとなくわかった……ような、気がします」
「ああ……そうだな、うん、俺も今わかった気がする」
あそこまで酷くはないけれど、それでも、多少なりとも共感はできる。グレンとフェリシアは互いに笑い合いながら額をコツリと合わせた。
「子どもが欲しいというのは同じ望みだな」
「でも今は一人占めしていたいというのも同じですね」
「あと俺はフェリシアに我が儘も言って欲しいというのがある」
「それは私も同じですよ」
「それじゃあお言葉に甘えて一つ言ってもいいだろうか」
「あ、待ってくださいねなんだか私が言いたい我が儘と同じ気がしますよ」
「だったら同時に言ってみようか」
「これで違ったらちょっと恥ずかしいですね」
「でも俺も同じだと思うな」
フフ、と二人の小さな笑い声が重なる。
そして――
「これからも、ずっと、隣にいて、幸せでいてください」
見事重なった二人の我が儘は、これから先もずっと叶え続けられた。