3
その後もいやという程にオリアーナについての惚気話を聞かされたグレンは、いい加減自分も疲労困憊だと諸々の雑務を一旦置いて自宅へと戻った。そうすれば愛しい妻と可愛い小メイドが出迎えてくれ、そこで一気に色んな疲れが吹き飛んでいく。
急な帰宅にもフェリシアは大喜びで向かえてくれ、いそいそとグレンの為に紅茶まで用意してくれる。ソファにゆったりと腰をかけたままその姿を眺め、グレンもようやく気持ちが落ち着いていく。
「そう言えばグレン様、フレドリック様に少しだけお願い……お小言……注意? していただきたいことがあるんですけど」
「……うん? なんだろう?」
というか、むしろ、どれ、とグレンの脳内にフレドリックの様々な所業が駆け巡る。フェリシアに何かした、わけではないのは誰よりもグレンがよく知っている。彼の傍に常にいるのは自分であるし、フレドリックの視線はオリアーナにしか向いていない。だから、フェリシアがそう口にすると言う事は、即ちそれはオリアーナからフレドリックへの、という事だ。 本人の口からではなく周囲から、というのは良くない兆候ではないか、とグレンはソファから身を起こし居住まいを正す。遠回しに、オリアーナが距離を取りたがっているとしたらどうするべきかと、そんな不安ともつかない思いが駆け巡る中、フェリシアはクスクスと小さく笑いながら言葉を続ける。
「フレドリック様が、オリアーナ様に我が儘を言ってほしい、という我が儘を仰ってるのはグレン様もご存知です?」
「ああ、今日も散々聞かされたよ」
思わず苦笑を漏らすと、それに重なるようにフェリシアも笑みを深めた。
「フレドリック様のお側にいられるという一番の我が儘が叶えられているから、これ以上の我が儘なんて浮かばないのにって困ってらっしゃいました」
「それは……ぜひ、王子本人に伝えてもらえると助かる。とても、本当に、心底助かるんだが」
「私もそうお伝えしたんですけど、恥ずかしくて無理って真っ赤になっておられて」
とても可愛かったんです、とフェリシアは笑うが、グレンはどうにかしてその無理を押し通せないものかと思考を巡らす。これを聞かせる事ができるかどうかで、今のフレドリックのあのふわっふわとした脳を落ち着かせられるかもしれないのだから必死だ。
「グレン様?」
急に黙り込み、あげく軽く眉間に皺まで寄せて考え込むグレンにフェリシアは不思議そうに声を掛ける。
「あ……いや、うん、なんでもない、大丈夫だ」
グレンはひとまず頭の隅にそれらを追いやった。せっかくの妻との憩いの時間なのだから、まずはそれに専念したい。
「そう言えば……フェリシア、君はないのか?」
「なにがですか?」
「俺に、叶えて欲しい我が儘とかないのかなと」
ふと浮かんだのはフレドリックに言われた言葉だ。思わず、といった態で口からスルリと漏れてしまったのに内心ビクリとしたものの、フェリシアは「ええー?」と困った様な、それでいて少し嬉しそうな顔をして考える素振りを見せる。
フェリシアもオリアーナと同じくらい我が儘だなんて口にした事はない。それは美徳ではあるけれど、たしかに少しくらいは言って欲しい、甘えて欲しい、と思ってしまう。正直フレドリックにどうこう言えた立場ではないな、とグレンが自嘲の笑みを浮かべるのと、フェリシアが「あ」と何事か浮かべたのは同時で。
「――子どもが欲しいです!」
そしてもたらされた言葉の威力たるや。
互いに見つめ合ったまましばし固まる。和やかだったはずの空気は異様に張り詰め、吐く息さえも凍り付きそうな程の緊張感が室内を満たす。
一触即発。まさに、そんな空気の中、フェリシアが手にしていたままのティースプーンがカチャンとカップの中に落ちた。それが、合図。
「ぁ……ああーッッ!!」
悲鳴と共に扉が大きく両側に開く。それと同時にフェリシアが部屋から飛び出した。
「フェリシアーッ!!」
次いで屋敷に絶叫が木霊する。フェリシアにほぼ遅れる事なくグレンも部屋から飛び出し、そうして結婚生活三年目にして二度目の、屋敷全体を使っての鬼ごっこが始まった。